さようなら幕末、ようこそ明治(最終章) 怒濤の最終章!鶴ヶ城攻防戦!
この物語は、もしもこの時にこういうことになったらという、史実とは全く異なるフィクションとして書かれています。
そのことを理解したうえで、お読みください。
飯盛山で白虎隊隊士20人余りが自刃しようとしていたところに、公望が助けに入る。
「まてまてまてーい!」
新政府軍の一員でありながら、会津側の隊士や、その家族の命を次々と助けるという。
そしてこの白虎隊隊士20人も、20人全員が助けられた。
その白虎隊隊士の中に、飯沼貞吉という者がいた。
実際にはこの飯沼貞吉1人だけが助かるということになっていたのが、全員を助けることになった。
「かたじけない。一命もとりとめ、傷もない。
しかし、おぬしは新政府軍の者であろう?
新政府軍の者でありながら、そのようなことをしたのでは、おぬしの立場が危ういのではないか?公望とやら。」
「いや、それならそれで、そうなったのもまた運命。あとは気ままに生きるというのも、悪くはないというものじゃな。」
そこに西郷頼母と、その母、妻、娘たち、それと嫡男が現れる。飯盛山まではこの西郷頼母の案内でやってきたのだった。
「戦が終わるまでは、どこかで隠れておりましょうか。」
「いや、それがしから事情を説明する。」
西郷頼母はその後、会津藩の家老の職を捨て、家族とともに農民として、作物をつくりながら暮らしたという。
この時の白虎隊隊士20人もまた、武士の立場を捨てて、やはり農民や町人として過ごしたが、飯沼貞吉だけは逓信省の通信技師となり、日清戦争などにも従軍した。
そもそも、新政府軍の者が敵方の会津藩の隊士やその家族の命を救うなど、あり得ないことだった。むしろ、新政府軍は彼らの遺体を置き去りにし、手厚く埋葬したのは、会津の人々だったというから。
この会津戦争というのは、どことなくやりきれなさを感じる戦だったと、後に公望は語っている。
総司令官の板垣退助も、そんなやりきれなさを感じていた。なにゆえ自分が、このやりきれない戦の総司令官に任命されたのか…。
公望はその総司令官の板垣退助に、一連の事の成り行きを報告する。
「さようであったか…。」
次の瞬間、
「あー!わからぬ!わからぬ!
板垣退助殿!なにゆえ武家というのは、そのようなことを考えるのか!」「公望…。そなたは確か、公家であったな。」
公家の出身である公望にとっては、武家のしきたりというものは、わからないことが多かった。
「何よりわからぬのは、なにゆえ、この戦は負けるとわかっていても、降伏することなく、最後まで戦えとはやしたて、
生き恥をさらすなら腹を切って死ぬことを選ぶという、その考えじゃ。」
だが今は、そのようなことを聞いている暇はない。そう悟った公望は、
「今の状況を説明してくだされ。板垣殿。」
「わかりもうした。今の状況は、既に我が新政府軍は、会津の城下町まで占領し、残るは鶴ヶ城を攻め落とすのみ。」
「さようか…。松平容保はうまく講話に持ち込める負け方を考えておるのだろう…。
勝てる見込みのなくなった戦を、なにゆえ続けようというのか…。」
公望はようやく鶴ヶ城攻略の最前線に合流し、自ら銃を手に持ち、銃弾を撃った。
そこは今までに見たことのないような、銃弾と砲弾が飛び交う戦場。
新政府軍の勝ちは決まったかに見えたが、会津の軍は意外なほどの健闘を見せ、新政府軍はなかなか鶴ヶ城を落とせずにいた。
「今こそ、会津の底力を見せる時!」
会津の武士としての最後の意地か。
まさに銃弾と砲弾の雨あられ。今までこんな銃弾と砲弾が飛び交う光景は、見たことなかった。
新政府軍が砲弾を次々と撃つ。
ドーン!ドーン!ドーン!
ドガーン!ズガガーン!
鶴ヶ城の天守に着弾。炎と煙が立ち上る。
その昔、大阪冬の陣という戦で、徳川方が大阪城の天守に大砲を撃ち、見事天守に命中させたという話を聞いたが、あんなにたくさんの砲弾を浴びた天守は、この鶴ヶ城の天守が最初で最後ではないか、と思っていた。
そんな中、2人の人物を目にする。
1人目は、女だ。
女が銃を持ち、戦闘服に身を包み、指揮をとっている。
「15、16、17の少年たちも戦っておるのです!
我ら大人が、戦わずしてどうするのです!」
15、16、17の少年たちとは、白虎隊のことか。
その女の名は、山本八重子といった。のちの同志社大学の創立者となる、新島八重のこと。
公望だって、公望だって負けてないぞ!
なにしろ公望は、のちの立命館大学の創立者でもある。
「関関同立」の「同」と「立」の創立者同士が、この会津の鶴ヶ城攻防戦で、あいまみえた。
そしてもう1人は、恐ろしく強い、刀の使い手。
元新撰組副長の、土方歳三だ。あの容貌を見て、ひと目でわかった。
新政府軍の抜刀隊が数にものをいわせて攻めるが一歩も引かず、その刀の前にことごとく斬り捨てられていく。
新政府軍は、各地の方面軍や、江戸から東京に変わったばかりの総本部に、援軍を要請していた。
「今までに、見たことのない強敵と戦っている。死傷者が多い…。」
しかしやがて、多勢に無勢。ついに鶴ヶ城は陥落の時を迎えた。
会津藩主の松平容保は降伏し、流罪となる。
最後まで戦うことを主張した家老たちは、切腹して果てた。
「やったぞ!やったぞ!」
「明治新政府軍、ばんざーい!」
戦に勝ったことを喜ぶ新政府軍の者たち。
が、公望は、やはりやりきれなさを感じていた。
さらに、今後の明治新政府の行く末にも、不安を感じていた。
そもそも薩摩、長州、土佐、肥前に、朝廷の公家衆や、さらにそれに旧幕臣や、旧幕府側に与した諸藩の者たちも加わり、いわば寄せ集めのごった煮状態。
全く性格も意見も異なる者たちが、明治新政府という1つの船に乗り込み、船出を迎える。
「呉越同舟」といってもいい状況。
こんなことで、この先うまくいくのか?
必ずや意見の対立があるだろう。
お互いの意見の相違を理解しあうことなど、できるのか?
その後、戊辰戦争は、函館の五稜郭の戦いへ。
その後、土方歳三は生きていて、榎本武揚とともに降伏し、また河井継之助らとともに、土方歳三や榎本武揚も明治新政府の参与の1人になることが決定したという。
さてその頃、公望はというと、参与の1人として就任する要請があったが、今の自分にはその力量がないと、いったんは拒否した。
すると、岩倉具視と三条実美が説得しに来た。
三条実美は八月十八日の政変ではいったんは追放されていたが、この時には既に復帰していた。
そして岩倉と三条は、それぞれ公望に対して言い放つ。
「公望。おぬしこのわしが、『小僧能く見た!』と言ったことを、よもや忘れたわけではあるまいな。」
「岩倉殿…。」
「さよう、この言葉を言ったということは、それだけおぬしを見込んでいるということじゃ。
おぬしなら、参与でも、どんな要職でも、勤められると見込んでな。」
「三条殿…。」
岩倉と三条の粘り強い説得におされて、公望は参与に就任。
ところがまもなく、廃藩置県によって道府県が設置されたのを機に、公望は新潟県知事に就任することになる。
なんだか尻切れトンボのようだが、これが西園寺公望の、「幕末青春編」の幕切れだった…。
なにしろ、幕末の頃はまだ若輩者で、さほどの実績は残せていないからなあ…。




