表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

32/55

さようなら幕末、ようこそ明治(最終章) 怒濤の最終章!鶴ヶ城攻防戦!

この物語は、もしもこの時にこういうことになったらという、史実とは全く異なるフィクションとして書かれています。

そのことを理解したうえで、お読みください。


飯盛山で白虎隊隊士20人余りが自刃しようとしていたところに、公望が助けに入る。

「まてまてまてーい!」

新政府軍の一員でありながら、会津側の隊士や、その家族の命を次々と助けるという。

そしてこの白虎隊隊士20人も、20人全員が助けられた。

その白虎隊隊士の中に、飯沼貞吉という者がいた。

実際にはこの飯沼貞吉1人だけが助かるということになっていたのが、全員を助けることになった。

「かたじけない。一命もとりとめ、傷もない。

しかし、おぬしは新政府軍の者であろう?

新政府軍の者でありながら、そのようなことをしたのでは、おぬしの立場が危ういのではないか?公望とやら。」

「いや、それならそれで、そうなったのもまた運命。あとは気ままに生きるというのも、悪くはないというものじゃな。」

そこに西郷頼母と、その母、妻、娘たち、それと嫡男が現れる。飯盛山まではこの西郷頼母の案内でやってきたのだった。

「戦が終わるまでは、どこかで隠れておりましょうか。」

「いや、それがしから事情を説明する。」




西郷頼母はその後、会津藩の家老の職を捨て、家族とともに農民として、作物をつくりながら暮らしたという。


この時の白虎隊隊士20人もまた、武士の立場を捨てて、やはり農民や町人として過ごしたが、飯沼貞吉だけは逓信省の通信技師となり、日清戦争などにも従軍した。




そもそも、新政府軍の者が敵方の会津藩の隊士やその家族の命を救うなど、あり得ないことだった。むしろ、新政府軍は彼らの遺体を置き去りにし、手厚く埋葬したのは、会津の人々だったというから。


この会津戦争というのは、どことなくやりきれなさを感じる戦だったと、後に公望は語っている。


総司令官の板垣退助も、そんなやりきれなさを感じていた。なにゆえ自分が、このやりきれない戦の総司令官に任命されたのか…。


公望はその総司令官の板垣退助に、一連の事の成り行きを報告する。


「さようであったか…。」

次の瞬間、

「あー!わからぬ!わからぬ!

板垣退助殿!なにゆえ武家というのは、そのようなことを考えるのか!」「公望…。そなたは確か、公家であったな。」


公家の出身である公望にとっては、武家のしきたりというものは、わからないことが多かった。

「何よりわからぬのは、なにゆえ、この戦は負けるとわかっていても、降伏することなく、最後まで戦えとはやしたて、

生き恥をさらすなら腹を切って死ぬことを選ぶという、その考えじゃ。」


だが今は、そのようなことを聞いている暇はない。そう悟った公望は、

「今の状況を説明してくだされ。板垣殿。」

「わかりもうした。今の状況は、既に我が新政府軍は、会津の城下町まで占領し、残るは鶴ヶ城を攻め落とすのみ。」

「さようか…。松平容保はうまく講話に持ち込める負け方を考えておるのだろう…。

勝てる見込みのなくなった戦を、なにゆえ続けようというのか…。」




公望はようやく鶴ヶ城攻略の最前線に合流し、自ら銃を手に持ち、銃弾を撃った。

そこは今までに見たことのないような、銃弾と砲弾が飛び交う戦場。


新政府軍の勝ちは決まったかに見えたが、会津の軍は意外なほどの健闘を見せ、新政府軍はなかなか鶴ヶ城を落とせずにいた。

「今こそ、会津の底力を見せる時!」

会津の武士としての最後の意地か。


まさに銃弾と砲弾の雨あられ。今までこんな銃弾と砲弾が飛び交う光景は、見たことなかった。


新政府軍が砲弾を次々と撃つ。


ドーン!ドーン!ドーン!


ドガーン!ズガガーン!


鶴ヶ城の天守に着弾。炎と煙が立ち上る。

その昔、大阪冬の陣という戦で、徳川方が大阪城の天守に大砲を撃ち、見事天守に命中させたという話を聞いたが、あんなにたくさんの砲弾を浴びた天守は、この鶴ヶ城の天守が最初で最後ではないか、と思っていた。


そんな中、2人の人物を目にする。

1人目は、女だ。

女が銃を持ち、戦闘服に身を包み、指揮をとっている。

「15、16、17の少年たちも戦っておるのです!

我ら大人が、戦わずしてどうするのです!」

15、16、17の少年たちとは、白虎隊のことか。

その女の名は、山本八重子といった。のちの同志社大学の創立者となる、新島八重のこと。

公望だって、公望だって負けてないぞ!

なにしろ公望は、のちの立命館大学の創立者でもある。

「関関同立」の「同」と「立」の創立者同士が、この会津の鶴ヶ城攻防戦で、あいまみえた。


そしてもう1人は、恐ろしく強い、刀の使い手。

元新撰組副長の、土方歳三だ。あの容貌を見て、ひと目でわかった。

新政府軍の抜刀隊が数にものをいわせて攻めるが一歩も引かず、その刀の前にことごとく斬り捨てられていく。


新政府軍は、各地の方面軍や、江戸から東京に変わったばかりの総本部に、援軍を要請していた。

「今までに、見たことのない強敵と戦っている。死傷者が多い…。」




しかしやがて、多勢に無勢。ついに鶴ヶ城は陥落の時を迎えた。

会津藩主の松平容保は降伏し、流罪となる。

最後まで戦うことを主張した家老たちは、切腹して果てた。


「やったぞ!やったぞ!」

「明治新政府軍、ばんざーい!」

戦に勝ったことを喜ぶ新政府軍の者たち。

が、公望は、やはりやりきれなさを感じていた。

さらに、今後の明治新政府の行く末にも、不安を感じていた。


そもそも薩摩、長州、土佐、肥前に、朝廷の公家衆や、さらにそれに旧幕臣や、旧幕府側に与した諸藩の者たちも加わり、いわば寄せ集めのごった煮状態。


全く性格も意見も異なる者たちが、明治新政府という1つの船に乗り込み、船出を迎える。

「呉越同舟」といってもいい状況。

こんなことで、この先うまくいくのか?

必ずや意見の対立があるだろう。

お互いの意見の相違を理解しあうことなど、できるのか?


その後、戊辰戦争は、函館の五稜郭の戦いへ。


その後、土方歳三は生きていて、榎本武揚とともに降伏し、また河井継之助らとともに、土方歳三や榎本武揚も明治新政府の参与の1人になることが決定したという。


さてその頃、公望はというと、参与の1人として就任する要請があったが、今の自分にはその力量がないと、いったんは拒否した。

すると、岩倉具視と三条実美が説得しに来た。

三条実美は八月十八日の政変ではいったんは追放されていたが、この時には既に復帰していた。

そして岩倉と三条は、それぞれ公望に対して言い放つ。

「公望。おぬしこのわしが、『小僧能く見た!』と言ったことを、よもや忘れたわけではあるまいな。」

「岩倉殿…。」

「さよう、この言葉を言ったということは、それだけおぬしを見込んでいるということじゃ。

おぬしなら、参与でも、どんな要職でも、勤められると見込んでな。」

「三条殿…。」

岩倉と三条の粘り強い説得におされて、公望は参与に就任。

ところがまもなく、廃藩置県によって道府県が設置されたのを機に、公望は新潟県知事に就任することになる。


なんだか尻切れトンボのようだが、これが西園寺公望の、「幕末青春編」の幕切れだった…。


なにしろ、幕末の頃はまだ若輩者で、さほどの実績は残せていないからなあ…。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ