第1話 最後の元老、死す…。そして転生した先は、自らが生まれた日の朝…。
時は、1940年。昭和15年。まさにあの大東亜戦争の前夜の時代。
その部屋の窓から、一人の奇怪な老人が、落日を眺めていた。
その奇怪は老人こそ、幕末生まれの、幕末から明治、大正、昭和という長きにわたり、日本の政治を背後から動かす、元老として君臨し、幕末、明治、大正、昭和の、その間の世の中の移り変わりの全てを見届けてきた、最後の元老こと、
西園寺公望
(1849年~1940年)
だった。
だが、さしもの元老も、寄る年波にはかなわず、その老いは誰の目にも明らかだった。
いったいなぜ、このようなことになってしまったのだろう…。
このまま米英との戦争に突入することになってしまえば、この国は…。
思えば、幕末維新、明治以来、この大日本帝国は、常に欧米に追い付け追い越せとばかりに、富国強兵政策を、一貫して進めてきた。
日清、日露、第一次世界大戦にも勝った。
第一次世界大戦の戦勝国になった時には、講和会議の全権大使として、その講和会議とは名ばかりの、戦勝国による敗戦国に対する軍事裁判のようなシロモノを見に行くために、わざわざヨーロッパまで出向いたものだ。
あれから時は流れ、気がつけば、日本は軍国主義へと向かい、戦争への道を、歩んでいた。
血盟団事件で團琢磨が、五・一五事件で犬養毅が暗殺された。
ニ・ニ六事件では、高橋是清が暗殺された。
この年になって、自分と同時代を生きてきた人間たちが、相次いでこれらの事件の犠牲になるとは…。
五・一五事件の後、自らの推薦で、政党の総裁ではない、斉藤実を次期総理に任命したが、その斉藤実も、ニ・ニ六事件で暗殺されてしまう。
いったいこれから、この国はどうなっていってしまうのだろう…。
我々がこれまで歩んできた道のりは、本当に正しかったのだろうか…。
西園寺公望は、そのようなことを考えながら、病床のベッドの上にいた。
そこに、近衛文麿と、吉田茂と、それからもう1人は、幣原喜重郎が、お見舞いにやってきた。
そして、お見舞いついでに、何か極秘の話をしている様子だった。
「東条はアメリカとの交渉を打ち切り、早く戦争を始めるべきだと主張しているが、私は反対だ。交渉継続を要望する。」
「私も同意。それにだ、よりにもよって、あのナチスドイツと結託するなど…。正気の沙汰ではないぞ…。」
「いずれにしても、このままでは…。
幕末維新、明治以来、築き上げてきたものが、この愚かな戦争で、踏みにじられてしまうようなことになったら、忍びない…。」
実は西園寺公望も、内心は近衛、吉田、幣原と、同じことを考えてはいたが、既に御年90歳。
体を動かすことも、言葉を発することすらままならず、ただ彼らの話を、横目で聞いているだけだった。
それからまもなく、最後の元老、西園寺公望は、前述の3人のほか、子や孫やその家族、それと、山本五十六らに看取られて、御年90歳の大往生となったのだった。
そして、最後の元老、西園寺公望の訃報は、新聞でも、大きく伝えられた。
こうして、西園寺公望は、黄泉の国へと旅立つ…はずだった。
ところが、向かった先は、遠い過去の時代。
その途中に、誰かの意識が、自分の体内に入り込んでくるのを、公望も感じていた。
自分とは違う誰かの魂が…。どうやらそいつは、高柳京介とかいう、自分たちの生きてきた時代よりも、ずっと未来の時代の人物らしい。
そしてたどり着いた先は、見たこともない場所だった。
ここはいったい、どこなんだ…。
そして、そこでまたも気を失う。今度はどこへ移動するんだ?
高柳京介と西園寺公望の2つの魂は、またどこかへと向かっていく…。
そして、気がついたら、なぜか赤ん坊の姿になっていた。
そしてそこは、見たところ、高貴な公家の屋敷のようだ。
そして、こちらの時代に転生してきてから、一番最初に目にした人物たちは、どうやらこの公家の夫婦らしき人たちが、自らの父と母であるようだと、一目で悟った、赤ん坊の姿の、公望だった。
そして、父の名は、徳大寺公純、母の名は、末弘斐子というのだということも、すぐに悟った。
だとすれば、自分は一度死んだ後、再び自分が生まれたその日に、転生してきたということなのか…?
そして、その日付は、やっぱりそうだ。公望の生まれた日だった。
嘉永2年10月22日という日付だった。
西暦でいえば、1849年12月6日という日付だ。
当時はまだ日本にグレゴリオ暦と呼ばれる新暦がまだ導入されていなかったので、旧暦の日付を使っていた。
なお、今後は年月日の表記は、現在の新暦で行っていく。
「さて、この子の名前は、何とつけようか。」
「そうですねえ…。美丸というのは、いかがでしょうか?」
「美丸か…。まあ、そなたがその名前がよいというのであれば、その名前にしよう。
美丸!そなたの名前は、美丸じゃ!」
実際に西園寺公望の幼名は、美丸といったそうな。
もともとは徳大寺家に生まれた公望だったが、2歳の時に西園寺家に養子に出され、それから西園寺家で育てられることになったとか。
当時は、公家や、武家の家柄では、このような養子縁組は、珍しいことではなかったともいわれる。
やがて正式に、西園寺家の家督を継ぎ、あらためて公望と名乗ることになったという。
いや、ここでは、西園寺公望に転生した高柳京介が、その後の西園寺公望の人生を生きていくことになったという話。
これで、高柳京介はあらためて、西園寺公望という人物として、生きていくことになったのだった…。