さようなら幕末、ようこそ明治(2) 孝明帝崩御~睦仁即位~大政奉還~
ここに書かれてある「孝明天皇暗殺説」や、「薩長同盟」に関する説などは、あくまでも個人的な見解であり、必ずしも史実であるという保障はなく、これらの説をもとにしたフィクションとして書かれてあります。
明治天皇の父、孝明天皇は外国嫌いなことで知られ、外国の食文化、衣服、建築技術なども含めて、そのようなものは一切この日の本の国には持ち込むな、というように、極端に外国を毛嫌いするような考えだったという。
一方で、岩倉具視らは、むしろ積極的に外国の良いところ、外国文化を取り入れるべきだと主張。
孝明天皇と岩倉具視の間では、このような考え方の食い違いがあった。
孝明天皇の容態が思わしくないということで、岩倉具視はそのお見舞いに行ったのだが、その裏の目的は…。
「岩倉にございます。帝、お加減の方は?」
「岩倉か、見舞いと称して、何用じゃ。」
「帝、いよいよこの日本も、西洋の文化や制度を、積極的に取り入れていくべきかと。」「朕は西洋の文化や制度など受け入れる気はない。
西洋の食事も食わぬ。西洋の衣服も着ぬ。」
「西洋はすばらしい。西洋の食文化、服装、建築技術、もちろん、軍事力、鉄砲や大砲、軍艦の性能も含めてのう。」
「……。」
「おお、そうじゃ。ここに、西洋医学で使用されている、よく効く薬がございます。ぜひお試しあれ。」
「岩倉!その薬は…!」
それは西洋伝来の毒薬なのではないかと勘づいた孝明天皇。
よもや、直接飲ませるようなことはしなかっただろう。
気がつかれないように、日々の食事にでも少しずつ混ぜて、徐々に衰弱させていったという。
これは仮定ではあるが、もしこれが真実だとしたら、これが「孝明天皇暗殺説」の真実だという結論に至る。
それからまもなく、孝明天皇は崩御した。
14代将軍、家茂の死、孝明天皇の崩御によって、幕末の動乱はいよいよ最終段階を迎えるのだった。
「孝明天皇暗殺説」をはじめ、明治維新の真の黒幕と疑われている岩倉具視。そしてその岩倉具視の推挙によって、当時若輩ながら、明治新政府における地位を常に確保してきた、西園寺公望。
公望はこの説に関しては真っ向から否定した。
「岩倉殿がそのようなことを考えるはずがない。
岩倉殿はそれがしを推挙してくださったのだ。そのお方が、そのようなことをするはずがない。」
それよりも、和宮様が不憫だと言った。
何しろ短い間に、政略結婚とはいえ共に過ごした夫と、それに続いて兄をも、相次いで失ったのだからと。
この「孝明天皇暗殺説」もその1つだが、このところ歴史研究の分野においては、次々と新説が浮上している。
今まで習ってきた歴史はもはや過去のものになりつつある。
そして最近になって、この「薩長同盟」に関する新説が浮上している。
この「薩長同盟」に、坂本龍馬が関わったこと、どのように関わったかについても新説が浮上している。
もはや何が正しいのか、間違っているのか、わからなくなってくる。
この新説によると、薩摩と長州は、実は同盟を組むことにも、そもそも倒幕にも乗り気ではなかったとか。
だとしたら、その薩長を倒幕へと駆り立てたのは、誰なのか。
もしかしたら全ての黒幕は、実は岩倉具視ら、武力倒幕を積極的に主張していた公卿たち、ということなのかと考えるようになった。
そう、この公卿たちこそが、倒幕へと至る全ての物事を裏で操っていたと考えれば、筋が通る。
西郷隆盛も、桂小五郎=木戸孝允も、そして坂本龍馬も、裏で糸を引いている者たちがいるなどとは露知らず、突き動かされていたのではないか。
だいたいからして、長州は「禁門の変」に敗れた時に、薩摩を「薩賊」とまで呼んでいたのに、その両者が一時的に倒幕という名目で政権を奪取するという利害が一致したからといって手を組んだところで、一枚岩になどなれるはずもなく、実際に明治新政府を立ち上げた当初は、いろいろと方針の対立があったという。
幕末の動乱。全ては岩倉具視ら、公卿たちによって、仕組まれていたとする1つの説。
企画、立案は公卿たち。実行役は薩長土肥をはじめとする各藩の藩士たち。
あくまでも1つの説だが。
一方公望は、孝明天皇の崩御の後、大きな式典への出席が相次ぐことになる。
「まずは孝明帝の大喪の礼と、殯の儀。
それから睦仁親王の即位の儀。」
孝明天皇の大喪の礼と殯の儀にも、公望は参列した。
それから日にちもたたないうちに、今度は睦仁親王の即位の礼。
ついに睦仁が、明治天皇として即位することになった。そしてその後見人となったのは、岩倉具視だった。
「やはり岩倉殿が後見人となられるのか…。
岩倉殿が長年思い描いてきた国家像が、まもなく現実のものとなるのか…。」
「しっ…!公望、声が大きいぞ。」
そしてその知らせは幕府にも伝わる。15代将軍となった慶喜に進言したのは土佐藩主の山内豊信であった。
「やはり岩倉具視が、まだ年端のいかない、15歳の親王を、次の天皇としてかつぎ上げ、実権を掌握しようとしておられます。
そうなれば、我々は…。
そうなる前に、もはや最後の一手を打つしかありませんな。」
最後の一手…。それこそが、いったん政権を朝廷に返上するという、
「大政奉還」というものだった。
そして、その日は来た…。
慶応3年10月14日、徳川慶喜は二条城において、政権を朝廷に返上するべく、即位したばかりの明治天皇を前に、あいさつを行う。
世に言う大政奉還。この大政奉還の場にも、やはり公望は立ち会っていた。
「これっ、公望。落ち着かぬか。」
「すみません。されど本日は、いよいよ幕府が朝廷に、大政を奉還するという、大事な場にて…。」
そこへ、徳川慶喜が現れる。その正面には明治天皇。脇をかためるのは、公家衆。
「この徳川慶喜は、政権を朝廷に返上いたしまする。
大政を、奉還するべく、この二条城に馳せ参じました。」
これにより、徳川家康の代から265年間続いてきた徳川幕府は、15代将軍慶喜の代で、幕をおろすことになったのだった。またこれにより、鎌倉時代以来続いてきた武家政権もまた、幕をおろしたのだった。




