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攘夷から倒幕へ

公望(きんもち)が京の都に帰還してから、それからまもなくのことだった。


1862年…。その報告は京の都にも届いた。

「一大事にございます!長州藩の砲台が、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国の艦隊によって砲撃され、占領されました!」

「なんと…!西洋の列強の軍隊とは、それほどまでの強さなのか…!」


長州藩は下関沖を通りかかった外国船に砲撃。その報復として、4ヶ国の連合艦隊の攻撃を受け、砲台を占領されたという。

さらに薩摩藩も、列強の攻撃を受けたという報告があった。

先の生麦村でのイギリス人殺傷事件の報復だということだった。

これが「薩英戦争(さつえいせんそう)」という事件だった。

「薩摩の軍と、イギリスの軍艦4隻とが戦い、イギリスの最新鋭の大砲や、ガトリンク式と呼ばれる銃砲の前に、薩摩の軍勢はなすすべなく、鹿児島の町も三割ほどが焼けたとのこと。」

この頃世の中はいっそう激しく動いていた。薩摩、長州ともに、欧米列強の強さを思い知り、あらためて欧米列強への接近をはかり、とりわけ軍事力の強化をはかることにしたのだった。

一方、公望(きんもち)はというと、

「外国は強い。とりわけ軍事力は比べ物にならない。

もう今までの火縄銃や、旧式の大砲(おおづつ)では戦えない。」

公望(きんもち)はそうした世の中の移り変わりを見届けながら、

ただ見届けているだけではだめだ、いつか自分もそれに関わるような人間になりたいと思うようになっていた。


その一方で、外国の力を目の当たりにした、薩摩と長州。


薩摩や長州では、攘夷論に対する疑問も出てくるようになった。

尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、天皇を尊び、その一方で、外国を打ち払うという考えだったが、外国の軍事力の高さを思い知るや、攘夷論などという考えはとんでもない考え、今のこの国の力では外国と戦ったら日本は勝てない、と考えを改めるようになり、逆に外国の進んだ軍事力や、外国の文化、法律や制度などを、日本も取り入れるべきだ、という考えが広まるようになる。


薩摩や長州では外国人の専門家などを招き入れ、外国の軍隊はどのような武器を使用しているのかということを学ぶ。

「なるほど、この大砲の弾なのか。清国(しんこく)の大砲は敵艦に届かず、イギリス軍の大砲は楽々都市の真ん中まで届いていたという、そうか、それがこの砲弾か。

イギリスの軍艦はこの砲弾を使っていたのか。」

やはり軍艦と大砲の砲弾の差だと、あらためて思い知る。

軍艦や、大砲の砲弾だけでなく、鉄砲も、今や火縄銃ではなく、最新鋭の銃だった。

「火縄銃と違い、ひきがねを引くだけで弾が出る。

なるほど、これなら弾を込める時間も、弾を撃つまでの時間も、それほどかからない。

それに射程距離も、威力も違う。より殺傷力も高くなるというものか…。」



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