晩年の公望 孫の西園寺公一(さいおんじ・きんかず)と、曾孫(ひまご)の西園寺一晃(さいおんじ・かずてる)氏
こちらは昭和初期の、ある年のこと。最後の元老となっていた西園寺公望には、孫に西園寺公一という人物がいた。
西園寺公望
(1849年~1940年)
西園寺公一
(1906年~1993年)
また、西園寺公望が亡くなった昭和15年、西暦では1940年という年には、後に野球とサッカーの名選手となる人物たちが、その年に生まれている。
野球の世界のホームラン王となる王貞治と、
ブラジルのサッカーの王様となるペレは、
ともに西暦1940年の生まれ、また後に報道番組のキャスターとなる鳥越俊太郎も、西暦1940年の生まれ。
公望はリベラル派としても知られ、自由主義的な考えがあったとされるが、孫の公一も、そうした祖父の影響を受け、身分や肩書きにとらわれずに、自由な生き方がしたいという考えを持っていたという。
ある時、公一が、爵位を返上したいと言い出したところ、祖父の公望から、それは思い直すように言われたという。
放っておいても、爵位は公一のもとに舞い込む。それをあえて返上したいと言い出した。
「お爺様。この公一は、自由な政治活動を行いたい。
爵位などの身分や肩書きにとらわれないで、旧来の権威にもとらわれず、自由な生き方をして、そして革新的なことをいろいろとやっていきたいのです。
ですから、爵位を返上し、堅苦しい、旧来のしきたりなどを変えていき、それが世の中全体を変えていき、活力を与えるものと、そう思うのでございますが。」
しかし公望はここで、爵位の返上は思い直すようにと説得をした。そして、こう言った。
「この、今の日本のような国では、爵位がある方が、何かと便利で、何かと自由気ままにいろんなことをやれる。実際、私は今までそうやって生きてきたからね。
だから公一よ。爵位の返上は思い直してくれ。素直に爵位を継いだ方が、結果的には君の主張も通りやすくなるものと思うぞ。」
なるほどと思った公一だった。爵位や肩書きといったものを利用した方が、結果的には自分たちの主張したいことも通るようになると。
西園寺公望は公家の名門に生まれ、長らく政治のトップ、そして元老になってからはその政治のトップを決める最終決定権を事実上掌握していた。つまりは長らく、政界の大物、黒幕として、権勢を振るってきたこれまでの人生だったといえる。
その孫の西園寺公一は、こちらは実に波瀾万丈の人生を送ることになる人物である。
開戦前の時期には、日米開戦をくい止めるべく、奔走してきたが、結果的には誰も日米開戦をくい止めることはできなかった。
戦後になってからも、ずっとそのことを心の内に秘めていたという。
祖父の公望は昭和15年に死去。
その2年後の、既に開戦を迎えていた昭和17年に、公望の曾孫にあたる一晃氏が生まれているが、
その一晃氏の曾祖父にあたる公望は、赤ん坊の一晃氏をその手に抱くことはなかったのだった。
以上、ここまでが、史実通りの、本来の歴史。
しかし、この物語の中では、これがどのように変わっていくかというのは、これからのお楽しみだと、公望はそう、内心思っていた。
「もしかしたらこれは、本来の歴史を変えてしまうような旅路になるかもしれないな…。」