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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第三章 脱却少女
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知らない

 幾ら単細胞な草間といえども、特別珍しいわけでもない『コウタ』という名前の人が、この国にごまんといるのはわかっている。

 例えば周囲何キロと決めてもゴロゴロいたりするのだろうし、学校にも普通にいるかもしれない。草間はそれを知らないし、身近にはひとりしかいないけれども。

 なので、つい咄嗟にビルとビルの隙間に置かれた自動販売機の陰に身を隠してしまったのは脳裏にそのたったひとりが過ってしまったからで、隠れてからすぐさま盛大に後悔した。

 何を見て、何を聞いたら、どう思うつもりなのか。覗き見なんていけないことだし、盗み聞きなんてもっとしてはいけないこと。反射的にだとしても、本当に何をしているのだか。

 帰ろう。草間は息を吐き、歩いて来た道を眺める。迷子の常連ではあるが、殆ど来ない駅の向こう側とはいえ地元だ。近くに見える脇道を入っても駅には辿り着けるはず。

 よし。草間の背中が自動販売機から離れた。それが、一瞬遅かった。

「あ、タクシー」

「だから、ごめんって言ってるのに! なんでそうやってすぐ帰らせようとするかなぁ!」

 ひどいと嘆く女性に「見送りって帰らせることですよ?」と返した、ひと言でも耳に入れば聞き間違うことのない声。それに自分の予想や予感が正解だったと教えられてしまった草間は、そこから一歩も動けなくなった。

 なんで足を止めてしまったのだろう。会話がはっきり聞こえるこの物陰は、なんと盗み聞きに最適過ぎる場所だった。聞こえてしまえば仕方ない。草間は自動販売機の角から顔だけを出し、明るい通りの方を見る。もうわかっていたけれど、そこにあった後ろ姿は、じめっとした夜風でもサラサラ揺れるその癖のない真っ直ぐな髪は、有村の持つ軽やかな栗色。

 足元をふら付かせる女性の腕を掴み、有村は「危ないですよ」と言った。

「機嫌がいいのはいいですけど、ここは車も通るんですから、ちゃんとしてください」

「だって、まさか洸太からノロケ聞けると思ってなかったからさぁ。お酒進んじゃった」

「言うんじゃなかった」

「で? で? 洸太は彼女ちゃんのこと、なんて呼んでるのー? 名前? やっぱりチャン付け?」

「ハニーですかね」

「嘘つけ、このー!」

 そうか。彼の勤め先は、この近くにあるのか。よくよく見れば、有村は腰に膝丈より長いサロンタイプのエプロンを巻いている。

 動けなくなったのは本当。でも草間がまた自動販売機を背に隠れたのは、悪いことだと知りながら、『彼女』なんて単語が聞こえたからだった。

 店員とお客さん、みたいだし。そう思って、少しくらいは、と考えたのかもしれない。自分の話を他所でしている有村がどんなことを言うのか気になって、草間の目には隠しきれない爛々とした輝きが、少しだけ。

 ハニーなんて呼んだことはないし、呼べば草間を爆死させてしまうこと必至の有村と客と思しき女性が話している雰囲気は和やかで、その間柄は親し気に見えた。

「うふふっ。ダメだ。洸太見ると笑っちゃう」

「おかしいです?」

「ううん。おかしいんじゃなくて、楽しくなっちゃうの。いや、楽しいってより、やっぱり嬉しいのかな、洸太に好きな子が出来たのが。その方が良いよ。洸太は、ちゃんと恋をした方が良い」

「よく言いますね」

「アタシはいいのー。今は仕事が楽しいし」

「……へぇ」

「なによ、その沈黙」

 クスクスと笑い続ける女性は、本当に楽しそうだった。それはそうだと思う。有村といたら誰だって、楽しくて仕方がないはずだ。

 しかし草間は何故か少しだけ、なにか変だな、と思った。感覚というか、直感的な違和感だ。何が変なのだろう。考えてみるが、胸の奥がモヤモヤするだけで原因がよくわからない。

「洸太ってさ。素直だけど、ちょっと可愛げがないよね」

「別にいいですよ、男ですから」

「そういうのもだけど、真っ先に自分を悪い子にするところ」

「なんです? それ」

 けれど同じくなんとなく、草間はその正体を知っている気がした。違うのは有村の雰囲気だ。楽し気に会話はするのに、スッと線を引いているような。

 これ、なんだっけ。無意識に首を捻った草間の前方で、不意に女性の笑い声が止んだ。

「正直、洸太がもう少し歳近かったら、本気になってたかもしれない。少なくとも一回くらいは寝たかな。最初はそのつもりで連れて帰ったし、洸太は妙に色気があるしね? でも、どうします? すぐ始めます? って、その淡々とした感じが、なんか違和感あってさ。夜遊び楽しいんで、慣れてるんで、って風に見えなくて」

「お互い様だと思いますけど」

「うるさいなぁ。まぁ、けど多少はそうかもね。アタシも彼氏に嫌気が差してて、洸太からも似たような……諦め? みたいの感じたんだよね。この子も寂しいだけなのかなって。ひとりで居たくないだけなのかなって。結局、そうだったわけじゃん?」

「……まぁ」

「不器用過ぎるよ。その歳で、したくもないセックスばらまいてさ。自分が一番、傷付くのに」

 夜遊び。慣れてる。諦め――ばらまく。

 聞こえた言葉を脳内で繰り返すけれど、なんの話をしているんだろう、それが草間に沸いた一番率直な感想だった。

 なんの、誰の話をしているの。

 頭の中が、真っ白だ。

「あとで傷付くって知ってたから、自棄起こしてたアタシに改めて訊いたんでしょ? どうします、って。何かの代わりにするセックスなんて虚しいだけですよってアレ、やけに身につまされてたもんね。えっちはナシ、ご飯食べて映画観よって言ったら、ちょっとホッとしたの知ってるんだから。ただ、誰かにそばにいて欲しい同士って感じでさ。だから純粋に、洸太とホラー三昧した半年……いや、もう二ヶ月以上会ってないから四ヶ月くらいか、すっごく楽しかった。ありがとね」

 何も考えられなくなるって、目の前が真っ暗になるって、本当にあるんだなと思った。処理が追い付かないいつものとは違って、ただ思考の外側を聞こえた単語が空回るみたいな。

 焦っていた。驚いていた。それよりたくさん、傷付いていた。

 なのに同じくらい悲しくて、草間の胸はただ息苦しく詰まるばかり。

「誰かを好きになれてよかったね。大切にしたいって、まるで宝物みたいに言うんだもん。自分じゃ気付いてないかもしれないけど、彼女のこと話してる時すっごく優しい顔してた。洸太は、その方が似合う。だから嬉しいんだけど、それと夜が辛いのは別の話か。洸太の目は、まだ寂しそう。それ見ちゃうと抱きしめてあげたくなるけど、それはもう、アタシじゃないもんね」

 草間は知らない。相手の人が有村が本当に自分を想っているみたいに言えば言うほど傷付いて、悲しくて、その真ん中に小さな『悔しい』が込み上げるこんな気持ちも、もし本当に見ただけでわかるほど寂しそうな目を有村がしているのなら、そんな姿も、一度も。

「……あ」

 嘘だ。見たことがある。暗い夜の海みたいな、そういう目。

 薄い色の瞳に差し込む光の加減だと思っていたけれど、ふとした瞬間や、見逃してしまいそうなタイミングの横顔でなら、何度か。

 気が付くと草間は自動販売機に寄り掛かったまま、ズルズルとしゃがみ込んでいた。有村にはあったのだ。草間が苦手だから見せないようにしている『男の子』の顔の他に、誰かには見せていた別の顔が。

 ショックだった。知らなかったことも、正直を言えば、自分が思い描いていた有村洸太という名の男の子、その形が違っていたことも。

「もう、洸太を抱きしめていいのが彼女だけなら、話せばいいのに。昼間に寝ちゃいけないって決まりはないんだし、本当にしんどくてしょうがない夜に電話したりとかさ? 洸太の悪い所だと思うなぁ。ちっとも、他人に預けない。彼女にも同情されたくないから、言わない?」

「まぁ、はい」

「違うよ。洸太は、甘えたくないんだよ。誰にだって苦手なものはある。辛いことも、当然ある。自分の荷物は全部自分で背負うものだって、アタシもそう思う。けど、甘えるのと頼るのは別物なんだよ。そんなこともわかってないのに、まだ十七歳なのに、洸太はもうひとりぼっちで生きてるみたい。ずっと、そうやって生きて来たの? これからも、そうやって生きてくつもり?」

 今更、自分だけだと言われても、素直に喜べない。嬉しくない。悔しい。悲しい。草間は口に腕を押し当てて、零れそうになる嗚咽をやっとの想いで堪えていた。

 有村くんが、そんなこと。そう思ってしまうのは、間違ってるのかな。

 聞こえる声が彼の物でも、全く違う人みたいな気がした。話し方も、内容も、別の人の物だと思いたくて、ぎゅっと瞑った草間の睫毛に涙が浮かんだ。

 もうやめて欲しい。祈るように思っても、動けない草間の耳には次々会話が飛び込んで来る。

 閉じてしまった心と一緒に、耳も聞こえなくなればいいのに。聞きたくないと唇を噛んだ草間は、女性が言った次の言葉で目を見開いた。

「まぁ洸太の悪夢は確かに、同情を買うレベルだと思うけどね」

 ――いま、なんて?

 一瞬だけ胸に渦巻く黒い塊が動きを止めて、耳がやけに冴えた。

「単に寝付けないなら薬飲めよって話だけど、過呼吸起こしたり吐いたり、あんな風になるんじゃ、眠るの怖くなって当然かなって。どんな夢見るのか今更訊かないけどさ。寝てる時、何処にも行かないでって言うみたいにがっちり抱え込むから、他人の体温が特効薬って口で言うよりずっと本気でしょ? 自分の身体を差し出してでも、つい、縋っちゃうくらい」

 知らない。そんなの。

 潮が引いていくように、込み上げていた涙も、湧き上がっていた気持ちも萎んでゆき、体温すら連れていかれた草間の指先が強く握っていた手の中で凍えた。

 悪夢――眠るのが怖いって、なに。

 ちょっと寝不足してるだけじゃなかったの。そう言っていつも笑って見せたのは、誰の為だったの。

 ドク、ドク、ドク、と鼓動が暴れた。

「トラウマにしろ、なんにしろ、精神的なものでしょ? そういうのって。だったら、恋はイイ薬になると思うけど。今はまだ、寧ろ邪魔に見える。それなりに付き合い長いからね、会えばわかる。また寝てないよね何日も、まともに。それが、人を好きになった代償だとでも思ってるの? セックスを道具にしてた自分が、純粋で綺麗な彼女を好きになった、罰みたい」

 ――私だ。私が平気だって言わせて、無理に笑わせたんだ。そんなに深刻だなんて考えもせずに。

 普段より少し冴えない顔色を見つけて、二言目にはちゃんと寝ないとなんて言って気を遣ったつもりになっている人に、草間ならきっとそれ以上なにも言えない。帰って寝るから平気だと、心配しないでと、そう言うしかない。

 そうして新しく芽生えた感情は、有村へ向かうものではなかった。

 情けなかった。何も知らないで、知ろうともしないで、何かあったのとすら訊かなかった。訊く気もなかった。元気ないね。大丈夫だよ。それで、本当に終わりにしていた。

 何回も気付いたのに。デート中に寝るなんて、彼がするはずないのに。そのくらい、だったのに。ただ寝顔も綺麗だって、バカみたいに浮かれてた。

「……だい、しょう……罰……」

 寄りかかる自動販売機から、数メートル先。歩数にしたら何歩もない距離。それが果てしなく遠くにも感じるのに、草間は自分の爪先を見つめて蹲り、ふたりの会話を茫然と聞いていた。

 待っているようだった。核心を突きつけられる、その瞬間を。

「好きになっちゃったって思うことになるよ」

「なりませんよ」

「自分の弱さを見せられない恋愛なんて続かないよ」

「お構いなく」

「構うわよ!」

 声を荒げた相手の女性は、本当に有村を想って問い詰めているのだと思った。

 君はそんなに強くないと断言する口振りと、初めて出た『君』の響きが、より強く草間にそう感じさせる。

 君には支えてくれる人が必要だと、その人は言う。もしかすれば彼女はそれを言う為に今、有村と居るのかもしれない。声が、心から有村を案じている。草間にはそうヒシヒシと伝わって来るのに、「やめません?」と返す有村は話を切ろうとしていて、そんな拒絶が余計に苦しい。

 きっと、単に夜にだけ会う相手ではなかった。

 少なくとも、「やめない」と告げた、その人にとっては。

「もういい」

「待って!」

「触るな!」

「答えるくらいしなさいよ! アタシが気付いてないとでも思ってるの? 今日はそんな気分じゃないから遊びに来たとか言って、一日二日で気絶したみたいに寝る子がいる? ウチに来るようになってから、女なんて全然抱いてなかった、そうでしょう?」

「してましたよ? 声がかかれば」

「洸太!」

 縋るようなか細い声が、「お願い」と言った。

「本当のことが知りたいだけだよ。吐き出して、溜め込んで欲しくないだけ。彼女に心配をかけたくないから言わないならいい。でも、違う気がするから訊いてるの。君は、なにを怖がってるの?」

 有村ならその声を無視出来ないと草間は思っていて、彼はやはりそれを跳ね除けなかった。

「…………言ったら、あの笑顔を見られなくなるかもしれない。少なくとも、あの子の王子様でいられなくなる」

「どっちを?」

「両方です。どこにいます? 悪夢にうなされたくらいで朝まで吐いてる王子様なんて。それが嫌だからって部屋にあげてくれる女性に甘えた。そんな男に、一体誰が微笑みかけてくれます?」

 やっぱり、そうだ。草間は多分、想像出来ていた。

 見ないように、気付かないようにしてたこと。有村が、ありのままでいいよと言った草間の前でも最低限、草間が望む王子様でいたことを。

 聞こえて来る有村の声にはいつもの軽快さがなくて、まるで言わされているか、堪え切れずに溢れたみたいだった。

 そんな声も、草間は知らない。

「昨日今日こうなったわけじゃないので、以前は耐えていられたんだから、たとえ誰かが隣りに居ればなんて知った後でも、そうしていれば良かったんです。特効薬なんて、ただの口実。なのに同じくらい綺麗なフリして王子様なんか気取って、いい気なものですよね、ホント。張りぼてもいいところだ。滑稽で、笑えますよね」

 淡々としている彼の声。でも、少しだけ震えている。

 咄嗟に口を押えた草間も、同じくらい。

「滑稽なんかじゃないよ。根っこが誠実な、洸太らしい」

「どこが? 誠実な男が、さっき会った人と寝ます?」

「気軽じゃなかったから、洸太は相手をコロコロ変えたのよ。何度も会えば情が沸く。それに、彼女と出会う前のことでしょ。全部やめて、今も筋は通してる」

「出来てしまえば同じことです」

「過去を清算しても?」

「その積み重ねで今がある。彼女とは手を繋ぐだけで満たされる気がしてて、でも、この手はもう何十回もドロドロに汚れてる。俺が、それを知ってる」

「彼女が、それを嫌がるの? 自分に相応しい清廉潔白でいろって?」

「あの子がどう思うかは関係ない」

「関係あるわよ。自分と同じように、洸太にも何も知らない初心な男の子でいろって、そういう洸太じゃないと口もききたくないってお嬢様? 自分と知り合う前まで、束縛するんだ」

「…………」

「やっと好きになれたって、酷い相手を好きになったものね」

「……っ、彼女は何も悪くない!」

「恋に目隠しをされたら、大体みんなそう言うの!」

 力いっぱい塞いでも、短く詰まる息が漏れた。閉じた瞼の縁からポタポタと雫が落ちて、それが余計に草間の身体を縮こまらせる。

「……もういい……」

 やっと吐き出したか細い声は、出した草間にも良く聞こえない。

 聞こえなかったけれど、多分それを遮るようにして有村はまた口を開いた。

「束縛なんかされてないし、僕が勝手に言わないだけだ。彼女には何の非もない。寧ろ被害者だ。僕なんかに好かれて良い事なんてひとつもない。なんなんですか、さっきから。彼女に出会うまで、女性なんか知らなければよかったって。そう思ってるって言えば、気が済みますか――!」

 次の瞬間、夜の帳に小さな音が短く弾けた。

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