キラキラゆれる
胸の中で繰り返す内にうっかり口から出た本日数回目の溜め息に、隣りの席からいつにも増して静かな「どうしたの?」という声が降る。
昼下がりの図書館、その閲覧コーナーに並べられた机のひとつに席を構えてから、どのくらいの時間が経っただろうか。一向にページの進まない草間をずっと気にしていたようで、ようやくの溜め息は丁度良い切っ掛けと、有村は読み途中の本をパタリと閉じた。
しおりを挟まずに読書を中断するのは、有村の癖だ。
「またバイト先で何かあった?」
「ううん」
さすがは察しの良い有村くん。そんな気分で眉を困らせた草間は実際より良い陳列について多少悩んでいたが、今吐いた溜め息の理由はアルバイト先で任せてもらえることになった仕事に関する事柄ではなく、早くも数日後に迫った誕生会で有村に何を贈るか、それ以外にない。
気も漫ろに捲ったページはあとで読み直せばいいが、一度贈ってしまったプレゼントはあとになってやっぱりこっちでとはいかない、失敗が許されないもの。そう思えば思うほど草間は勝手に崖っぷちの心境で、実のところ昨晩からは食事もあまり喉を通らずにいた。
「草間さんは責任感が強いからなぁ。あまり根を詰め過ぎないようにね。食欲もなくなってるみたいだし、僕に手伝えないことならせめて落合さんたちには相談に乗ってもらえるといいかもね?」
その答えは有村くんしか知らないんだよ、とも言えず、草間はやはり知られていた不調への気遣いに礼を告げる。落合たちに相談。それは多分、そう遠くない内に必要になりそうだ。
とは言えこの度の草間には、入口から誰かを頼る気はなかった。意見を求めたとしても、AとBのどちらがいいかという程度に収めたいと考えていたからだ。
先のアンケートを挙げて指摘された未熟さが恥ずかしかったのもあるが、草間は多少趣味でない物を貰ったとしても、相手が自分の為に費やしてくれた時間が何より素敵なラッピングになる口だ。流行には疎く、センスにも自信がない。そんな草間の予防線、彼女がつけられる付加価値とは精々そのくらいのもの。
まあ、時間をかけてひとりで悶々と悩んだからといって、有村に喜んでもらえるプレゼントが見つかる保証はどこにもないのだけれど。
もう一度零しかけた溜め息をグッと飲み込み、草間はやっぱりもうひとつの心配事については有村に相談してみることにした。
今の季節にうってつけの厳選ホラーコーナー。そのラインナップを悩むのに、有村ほどのアドバイザーはそういない。
掘り出し物のホラー小説、約二十作品が一覧になり、中でも選りすぐりの五作に付けるポップの下書きまで手伝ってもらった草間は、一時間ほど読書を中断させたお詫びとお礼を兼ねて調達した飲み物を持ち閲覧コーナーのある二階へと戻りしな、階段を上がりきった所で遠巻きに、腕を上げて伸びがてら欠伸を零す有村を見た。
下げ切るでもなくくったりと肘を曲げた右腕だとか、大口を隠すには足りていない右手の柔く握った拳だとかが少しだけ可愛らしい感じだ。彼でもそんな隙だらけになる時があるんだな、などと思った草間の頬は緩んで、テーブルの隅に冷たい水のペットボトルを置く時には締まりのない口許に白い歯列がチラチラと見え隠れした。
「眠くなっちゃった?」
「あ。ごめん」
「ううん」
露骨にしまったなという表情を見せた有村に、草間はもっとニヤケてしまう。らしくないのは、確かに。でも有村が完全無欠の王子様じゃないのは知っているし、そのくらい気を緩めてくれているのなら草間にとっては嬉しい限りだ。
「バイト、忙しいの?」
元いた椅子に腰かけながら問いかけると、少し涙目の有村はアルバイトには最近あまり行っていないと答えた。
なんでもここ数ヶ月ヘルプに駆り出されてばかりで出勤日数が群を抜いていたらしく、店長とフロアチーフがフリーターより働いてどうすると休むよう口を揃えているのだとか。
「週末とか忙しい時は行くけど、そうじゃない時は来なくていいって」
夏休みなんだから少しくらい友達と遊びなさいと言っている辺り、アルバイト先でも随分と可愛がられているのだろう。草間は買って来た紅茶を飲みながら、何故だか妙に嬉しくなった。どこにいたって、みんなちゃんと彼の良さを知っているわけだ。
居なくてもいいって言われたみたいでちょっと寂しいけど、と口を結んだ有村がまた可愛く見えた所為もあって、草間の爪先はこっそりとテーブルの下で前後にゆらゆら。
「知らなかったんだけどさ。学生でも働き過ぎると税金かかるんだってね。このまま行くと危ないらしくて、勿体ないから調整しろって言われて」
「そんなに? 欲しい物でもあるの?」
「ううん、別に何もないよ。普通に働いてただけ。知り合いの店を手伝ってた延長でバイト採用されたから気にしてなかったんだけど、藤堂に話したら、ウチ時給が高いみたいで」
「千円くらい?」
「千二百円だって。この間、聞いた」
「この間? それまで知らなかったの?」
「うん。興味なかったからね。足りなくなければいいかなって」
「本当に、興味のないことにはすっごい無頓着だよね」
「面倒臭くて」
「でもバイト代は知っておいた方がいいと思うよ、さすがに……」
などと、ちょっとだけ現実味のある話をしたら浮かれていた爪先もピタリと床について、草間はそのまま足元に置いていた鞄の脇に紅茶のペットボトルを差し込んだ。
その背後から、もう一度短く噛み殺したような欠伸が聞こえて来たのだ。話している時からいつもよりふわっとしているなとは思っていたが、有村はどうやら本当に気がゆるゆるらしい。
「……ごめん。ダメだ、よくないね。デート中に何度も。ちゃんとしなくちゃ」
「全然いいよ、欠伸くらい。私だってバイトのこと色々手伝ってもらっちゃったし。よかったら、少し眠ったら?」
今日は特に人がいないし、と促す声に然程気を遣わなくていいくらい、たまに通り掛かる人たちを除けば、閲覧コーナーは今ふたりの貸し切り状態だ。イビキをかいて熟睡するのはいただけないが、軽くうたた寝をするくらいなら問題はない。
有村がその提案に乗らないのは予想していたので、草間は引き続きの笑顔のまま携帯電話で時刻を見やった。三時半まで、もう少し。となると益々、仮眠をとるにはもってこいの残り時間だ。
「何をするにも睡眠は欠かせないよ。寝付きが悪くて寝不足してるなら尚更、眠くなった時はチャンスだって思わないと」
「でも……」
「私はこれからこの本を読みたいし、隣りにはいるけど、気にしないで寝て?」
「……じゃぁ、十分だけ」
「短過ぎるよ。最低でも三時間、って言いたいところだけど、ここは五時で閉館だから、あと一時間半くらい? 見回りが来る前にちゃんと起こすから、有村くんは安心して寝不足解消に努めてください!」
肘を曲げ、両方の手で握った拳を軽く振った草間は、応援されて寝るのもなぁ、と弱々しく笑う有村に構わずフンと鼻息を荒くした。窮屈と退屈が有村の敵なら、睡眠不足こそが草間の大敵。そこだけは譲れない。
そうした一歩も引かない姿勢は、尚も申し訳なさそうな有村の態度をすぐに和らげた。
値切り交渉のように「一時間で充分」と言った有村に草間は再び微笑みを向け、念の為のアラームを設定した携帯電話の液晶画面を見せたりする。ちゃんとこの時間に起こすという意思表示のつもりだ。
「音が出ないように設定した?」
「もちろん!」
「なら安心だ」
有村が椅子の背もたれに寄り掛かるのを待ち、草間は宣言通りに本を開いた。さて、何ページくらい戻ればいいのか。十ページくらいかなと昨晩読んだ辺りを思い浮かべて、その時までは確かに、草間はこれから読書に没頭するつもりでいたのだ。
せっかく心置きなく本の世界を散策出来る場所へ来て一行も読まずに帰るのは、草間の中の本の虫が許さない。悩み事もあと、あと、と。そう、思っていたのだけれど。
「…………わぁ」
出そうになった声は強めの呼吸で濁したが、草間の顔は遠慮なく驚愕していた。
力を抜き、軽く顎を引いた頬にハラリとかかる栗色の毛先、そこまではいい。閉じたことで長さが際立ち、影を落とした睫毛もまま想定の範囲内としよう。
余程眠気が限界だったのか、寝付きが悪い割にすんなりと眠りに落ちて行ったらしい有村からは間もなく、静寂の中でも耳を澄ましてやっとという程度の寝息が聞こえ始め、そうしてすっかりと沈黙した横顔の美しさたるや、形容するに値する言葉も見つかないほど。
「……キレー……」
多分、彼の面立ちにおいて瞳の印象が強過ぎるのだ。言葉より、表情よりもよく喋る目許、それが閉ざされているだけで、有村は厳重なガラスケースか、豪華な額縁こそが似合う完璧な美を放った。
薄い瞼は儚く繊細で、全体にそこはかとない可憐さを絶妙な加減で纏うそれは、もはや芸術。美術品の領域。この図書館に眠るアート関連の蔵書を引っ掻き回しても、きっと彼より完成された物などひとつもないはずだ。
「……はぁっ」
愛くるしい子供の寝顔を天使のようだと表すが、だとすると有村の寝顔は確実に大天使ミカエル級。
若しくはひとりで神と女神のハイブリッドかのような寝顔には溜め息しか出て来ず、そのあまりにも人間離れした目映さに戦慄くまま細く長く吸ったはいいが、草間は四回目の溜め息を前に吐き出し方を忘れた酸素で溺れかける。
「んんっ」
全く考えてもいなかった所から突如として舞い込んだ最上級のご褒美に草間は震え、感慨深く閉ざした口と瞼を固くした。
薦めてよかった。こんなに綺麗な有村くんを見られるなんて夢のよう。そう染み入った草間の意思とは無関係に、机の上へと伸びる右手。
――カシャッ。
手ブレが酷かったので、もう一度。
――カシャッ。
有村は、写真が嫌い。そうと知っていながら収めた一枚に、草間はまたしみじみ震える。
「ホント、キレー……っ」
そうして握り締めた携帯電話。そこから垂れ下がるビーズの煌きが指先に当たり、草間は数回の瞬きをした。
このストラップは少し前に携帯電話を買い替えた際、もう何度も落として傷だらけにしないようにと落合がくれた物だ。三色のビーズが輪っか状になっていて、そこに指をかけておくと手を滑らせても落とさずに済む中々便利なひと品。
便利だから付けていた。可愛いし。前の携帯電話は有村と同じで何も付けていなかったのだが、いざ付けてみると思っていたほど邪魔でもなかった。鞄からも取り出しやすくなったし。
「……ストラップ……」
そのくらいなら。ふと、そんな想いが過った。
「……でも、ただのストラップじゃなぁ……」
たくさん考えて、こんなに小さな物を贈るとなると、あともうひとつくらいラッピングに追加のリボンが欲しい。
重いかな。やっぱり、売ってる物の方がいいかな。
冷静になれば当然、そうも思ったのだけれど。
「……ビックリ、してくれるかな」
ドキドキしたい、は、有村の口癖。どこかで売っている有名なお菓子より、草間が焼いたクッキーの方がいいと言うのを真に受けるつもりもないけれど、もし嘘でもなかったら頑張ってみる価値は多分、大いにある。
草間はもう一度携帯電話を開き、一通のメールを送った。
中指を引っ掻けた、キラキラ光るストラップ。これを作ったクラフト名人への協力要請だ。
返事は五分と経たずにやって来て、草間はようやく心行くまで宿敵に立ち向かう名探偵の活躍にどっぷりと入り込んで行った。




