決戦前日の話
嵐のようだというのは、まさにその放課後のことを指すのだろうと思う。
帰りの挨拶もそこそこにホームルームが終わるなり教室を飛び出した三人はまず一旦自宅へ戻る落合と、このまま草間の家へ行く久保との二手に分かれ家路を急いだ。
作業しやすいように姿見を手前に出し、テーブルを端に寄せ、登校前に久保が置いていったキャリーケースいっぱいの服や小物を部屋に広げていると、程なくして落合が再合流。既にベッドは埋まりハンガーも底を突いていたのだが、彼女もまた大きなキャリーケースを携えての登場で、中身は服の他、大量のメイク道具やヘアアイロンなどがびっしりと詰め込まれていた。
「どうせなら色々試したいと思って、コス用の一式持ってきちゃった。ネイルセットもあるよー」
これには久保もさすがと舌を巻く。落合は趣味でアニメの二次創作などをしており、同時に同アニメのコスプレを楽しむコスプレイヤーでもある。普段はあまりメイクなどに力を入れる方ではないが、技術だけなら相当なもの。眉墨だけでも暗い色から明るい色まで三、四色はあるのを見て俄然やる気に火が付いたメイクアップ好きの久保と、輪郭から印象を変えてしまう落合の技があれば怖いものなしだ。
「下地もばっちり。流石ね、揃ってるわ。ファンデは……三色?」
「あとはリキッドがふたつ。粉入れて調整しようかなって。普段から少しでもしてれば参考になるんだけど、仁恵は何もしてないからね。塗ってみて自然に見えて、可愛い感じに乗るのを探そうかと思って。リップと、あとチークも。睫毛足す? 一応上下持って来たけど」
「そこまではいいんじゃない? いきなりだと仁恵が疲れそうだし」
「だねー。あ、でもそしたらマスカラはこの辺オススメだよ。別で繊維だけってのもあるから盛れる盛れる」
「……いいわね、コレ」
「うん、結構便利。今度一緒に買いに行く?」
「行く。ネイルは?」
「んー、間に合えばだけど。全部置いて行くからさ、夜にでも絵里奈やってあげてよ。テープとか小物も全然、使ってもらっていいから」
「了解。任せて」
「靴は玄関に置かせてもらってるから、まずは服だね。あたしが持って来たのは――」
そんなやり取りを、草間はちょこんと床に正座をして聞いていた。
ふたりのあまりの勢いに有村と電話番号の交換をしたことすら言い出せないまま放置されてもう三十分になるが、口を挟む隙も無ければ口を吐く言葉もないので仕方がない。
ただなんとなく手に取ったルージュの蓋を開けてみたところ、鉱石でも練り込まれているのかというくらいに大きなラメがゴロゴロ見えたので、草間はそっとケースに戻し、もうなにもすまいと心に決めた。
青い口紅なんて、どんな時に塗るのか想像もつかない。
そこからはまるで着せ替え人形の気分だった。部屋の真ん中に立つ草間に落合がテキパキと服を合わせては、久保が小首を傾げ善し悪しを決めていく。
「じゃぁ、まずはこれを着て。上にこれを羽織ってね」
「あっ、はい」
恥ずかしいと言った草間の為に着替え中は久保も落合も背を向けて、合わなかった服の片づけなどをしており、着替えたよと声を掛けると無表情に振り向いてそれを眺める。
羽織を変えてみたものもあったし、振り向いた瞬間に「違う」と言われて次の服を渡されもしたが、ままその繰り返しがしばらく続いた。
「これは丈が微妙で脚が太く見える」
「ダメダメ、胸があき過ぎ」
「んー、ちょっとサイズ合ってないかなぁ」
「そっちの白いの取って」
「中にこれ入れてみたら?」
「明日、真夏日らしいよ」
「肩は出したらダメだって」
ただただ圧倒されるふたりの気迫に、草間はされるがままだった。渡されたものを着、脱げと言われて次に着替える。自分が何着着たかもわからなかったし、草間自身は一着も鏡でその姿を見ていなかったので、何が良くて何が駄目なのかすらよくはわからない状態だ。
「どう? 苦しくない?」
時折尋ねられてもその程度。
ふたりは服を選ぶのに草間の趣味や好みを汲むつもりは更々ないようで、さながら職人の所業、にこやかとは程遠いその姿は協力をする友人というよりは仕事人の様相だった。
それから約小一時間あと。草間の目の前にはタイプの違う二組のコーディネイトが並んでいた。
右に立つ落合が持つのは、白地に細かい花柄の入ったワンピース。普段から女の子らしい服を好んで着る落合が選んだだけあって、ふわふわとした可愛い印象の一着だ。腰の高い位置で切り替えたボリュームのあるスカートは膝丈で、袖丈は二の腕にかかるか、かからないかの短め。素材は少々透け感のあるレースになっている。
対して左に立つ久保が持つのは、ビジュー付きの白のノースリーブシャツにこちらも花柄のフレアスカートを合わせた組み合わせ。ただし柄は落合のよりも大きくて、はっきりとしている。それに肩を隠す為の淡いピンクの羽織が掛けられた、これまた選んだ久保らしい少し大人びた印象のコーディネイトだ。
「さぁ」
「どっち」
一見して惹かれるのは落合の方だ。草間もどちらかと言えばふわふわとした印象の服を好んでよく着ているし、スカート丈も丁度いい。ワンピースなら着慣れてもいるし、涼し気で季節感も合っている気がする。ただこちらだと腕を出さなければならないのが迷うところだった。草間は肌を出すのが得意ではないし、特に二の腕などは今まで極力出さないようにして来たので、恥ずかしいと言う前にとにかく出ていることへの抵抗感が強い。
ならばと久保の方を見ると確かに可愛いながらも上品で、有村と歩くならこちらが正解のような気もした。彼は背もあるし何しろずば抜けてスタイルがいいので、私服ともなればきっとかなり大人っぽく見えるだろう。だとしたら自分もそれに合わせた方が、とは思う。スカート丈は落合のよりも少し短いが許容範囲内だし、羽織があるから腕も隠せる。しかし着るのが久保のように背の高いスラリとした美人ならまだしも、草間の容姿はお世辞にも美人系とは言い難く、例えるなら小動物系というのが優しいだろうかというこじんまりとした見てくれだ。
カッコイイお兄ちゃんと妹みたいになったら嫌だな、というのが率直な感想だった。頑張って大人っぽい服にチャレンジしてみようかな、とも思うのだけれど、ついさっき一度着て見た時の、あの精一杯背伸びをしましたという雰囲気が頭から離れない。
「仁恵、そろそろ」
「どっちか決めて」
「うっ……」
腕を出すか、気持ち的に無理をするか。
どちからよりマシかを必死に考えていた草間を見抜き、「好きな方にしたらいい」と助言をしたのは、やはり久保だった。
「どっちも似合ってたから、ここが厳しいってところがあるならベースにする方だけでも選んで? あとは考えてみるから」
「そうそう! 可愛かったし、そっちに合うように髪もメイクも考えたげるから安心しなってー」
そう言って今日一番の笑顔を浮かべるふたりを見て、草間は大きく深呼吸をした。
「……すぅ……ふぅー」
そうだ。ふたりが選んでくれたものを、どちらがマシかで決めるのはおかしい。
両方とも草間の為にと彼女たちが悩んでくれたものなのだから、最後の二択くらいは自分の手で選ばなくては。
「それじゃぁ……こっちにする」
草間は充分に間を取ってから、そっと落合の方を指差した。
「それで、もう少し腕が隠れてると、嬉しい……な?」
「了解! じゃぁなんか羽織ろう。絵里奈の方によさそうなのあったね」
「ええ。この辺りはどうかしら」
「どう?」
「うん。それなら」
「よし! ん、じゃ次はメイクだ。ささ、仁恵! ここに座って正面向いて!」
少しの沈黙のあとそう切り替えてメイク道具の入った箱を持ち上げた落合につられるように、久保も持っていた服をベッドに降ろしニッコリと微笑んだ。
「うん。こっちの方が仁恵らしくていいと思う」
そう告げた久保は思い立ったように一度、ぎゅうっと強く不安気に見上げる草間の身体を抱き締めた。
「絵里ちゃん?」
近付いた久保の髪から香る花のようないいにおいが鼻腔をくすぐって照れ臭いような気分になったが、草間はその柔らかな大人びた香りが大好きだったので、そのままそっと目を閉じる。
久保に抱き締められると何故か、緊張や不安が解けていくような気がした。昔からそうだ。思い返せば学校行事の出番前や、高校受験の朝もそう。
背が大きく違うからかな。草間はそう思っている。
実姉にされたことはないけれど、言うならば久保がくれる安心感というのは家族が分けてくれる勇気のような温かさだと思うのだ。
「可愛いわ、仁恵。でも、もっともっと可愛くしてあげる」
「……ありがと」
答えた草間の背中を久保の手が上下に擦り、離れていく。
その時何故か視線を落とした久保が寂しそうで、草間は何も言わずに顎を引いた。
「あ。携帯忘れた」
陽も暮れた七時過ぎ。
玄関先で靴を履いて立ち上がった落合が自転車の鍵を出そうとポケットを弄ってそう嘆いたので、草間はすかさず「取って来るよ」と踵を返す。
「多分ベッドの辺だと思うー」
「わかったー!」
バタバタと階段を昇って行く草間を眺めて身を乗り出した落合は、その後ろ姿が見えなくなると、傍らで廊下の隅など見つめて物思いに耽る久保の脇腹を肘で突いた。
ニヤニヤと見上げてくる落合のしたり顔。それを見るだけで彼女の言いたいことは察しがついたが、久保には既に答える気力もなく、そっと視線を外すばかり。
「あんま脅しちゃ駄目だよ? アレもう相当ビビってんだから」
「わかってるわよ。もうしない」
「本当に?」
「本当に」
「ならいいけど。でもなんか感慨深いよねぇ、仁恵がデートだって。あたし先越されちゃったよ」
「男に興味ないんじゃなかった?」
「三次元の男に興味ないの。あたしの彼氏はいま世界の脅威と戦う為に軍曹してる」
「へぇ」
「いやいや、そんな最強素っ気ない返しせんでも」
ふたりにしか聞こえないくらいの囁き声で小さな笑みを零しつつ、草間がいなくなってようやく表面に出て来た翳りを久保の瞳に感じ取り、落合は静かに「上手くいくといいね」と呟いた。
結局はそれが全てだ。草間が異性とふたりで一日過ごす。そうしてもいいと思えたことが何より嬉しい。久保にはそこに男性と目も合わせられず、会話など到底成り立たない草間のそれらを演技だなんだとやっかむ人たちからずっと守って来た者故の寂しさがあったりするのだろう。落合にだって多少はあるのだから。
巣立ちを見送る気分と言うと近しいのかもしれない。嬉しいが、それ以上の心配が胸を過る。同い年のくせをして。
草間の男嫌いには、そうなる理由と切っ掛けがあった。草間と違って奔放な性格の、五つ年上の姉の所為だ。
彼女が高校へ進学した辺りだったから、三人はまだランドセルを背負っていた頃のこと。草間の姉は一時期、自宅に代わる代わる男を連れ込んでいた。でも大人しい草間はそれを、当時共働きだった両親に黙っていた。両親が知った時にはもう目に余る状況で、家庭内が荒れたのもふたりは知っている。それらを機に草間の人見知りが、特に男性に対して過敏になったことも。
昔から空想好きで夢のようなお伽噺ばかり好んでいた草間が、姉の一件を受けて何を感じたのかはわからない。けれど少なくとも以来、彼女は男性と関われないのだ。一切、近付くことすらも怖がる。なのに有村とは自ら進んで話そうとしている。近付こうとしている。
大袈裟ではなく、それはふたりにとって殆ど奇跡だった。
「姫様とって言うか、明日楽しめるといいね、仁恵」
「そうね。でも心配要らないんじゃない? 色々卒のなさそうな男だし」
「うわぁ、ここへ来てまだ嫌いますか」
「だって嫌いだもの」
「嫌いって言うほど知らないじゃん。絵里奈もだけど、あたしもさ」
天井の上をドタバタと歩き回る音がする。草間の探し物下手も相変わらずだ。
落合はその足音を見上げ、ベッドの辺りだなどと吐いた時間稼ぎの嘘にニヤリと口角を上げた。草間は素直だからくまなくベッドの近くを探しているのだろうけれど、部屋全体は中々見ない。
まだ少し時間がある。だからそっと打ち明けた。草間を案じて来た相方として、久保にも寄り添う為に。
「あたしも思う。姫様はバカじゃない、って。バカだったらもっと調子乗ってんじゃん。だからさ、絵里奈がどうも信用ならないって言うのも、ちょっとわかる。男子とじゃれたり、女子に構われたり、ちょっとバカっぽくしてるトコが、なんかね?」
「ええ」
「でも、あたし単純に偉いなぁって思ってる。誰も嫌わないって難しいよ。いるんだろうけど、全然見せないし。見せらんないんだろうなって。そういう人らしいんだよね、鈴木が言うには」
「そう」
「だからさ。よく知らない姫様のことは置いといて、お互いよく知ってる人の言うことを信じてみようよ。あたしは鈴木を信じるし、絵里奈はセコムをさ。どう? 明日はまぁ、ただのデートなんだし」
「そうね」
やっと久保の笑顔が柔らかくなり落合がそれに応えたところで、ようやくドアが開く音がした。
パタパタとスリッパの底を鳴らして、トントントンと階段を降りながら「きみちゃん、あったよ」と言って寄越す草間は、辺境の地で歴史的文化遺産でも掘り起こして来たみたいな顔をする。探したよなんて言わないけれど、とっても探したのだ。久保なら二秒で見つけたとしても、草間は探した。
だからふたりは有村に話しかけるのに草間がどれだけ大変な思いをしたのかも、想像するしかなかった。それが草間の個性。久保と落合が、つい頬を緩めてしまうもの。
「椅子の下にあったぁ。待たせちゃってごめんね」
「ぜーんぜん。こっちこそごめん、ありがと。んじゃ、仁恵! がっちり姫様掴んでおいでね! 報告待ってるよぉ」
「やめてよっ。そんな、掴むだなんて……っ」
「またまたぁ」
元気に手を振り帰って行く落合を草間と並んで見送りながら、久保は静かに目を伏せ、ゆっくりと開いた。
全ては杞憂なのかもしれない。そうだったらいい。明日が終わってその夜に、草間の口から聞けるであろう楽しかった一日の話があれば、きっとくだらない心配だったと笑えるはず。そうなることを、久保は心から願っていた。
明日はよく晴れそうだ。落合が出て行った玄関の扉が締まる前に見えた夜空に浮かんだ星を数えつつ、絶好のデート日和だなんて考えた自分に少し、唇を噛んだりして。