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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第三章 脱却少女
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そろそろ

 どちらかというと、有村の話し声は小さい。

 でも聞き取るには充分だし、あの時話していた知り合いの女性も、そう大きな声ではなかったはずだ。だとすると、有村は返事をしなかったことになる。頷きはした。それでも事足りる内容だったとはいえ、別れ際に挨拶もしないなんて有り得るだろうか。あの、礼儀正しい有村に限って。

 ないな。草間は自然にそう思う。近頃熱心に読んでいるシリーズ物の推理小説に感化されて、昨日の夕方から気分はすっかりと名探偵だ。

 挨拶を交わさなくても不思議じゃない間柄を探して、数も中身も少ない引き出しを引っ掻き回す。そうして見つけた、もしかして、がひとつ。と、いうか、最初から九割方それしかないと思っていた。

 流れるように、当たり前に、あれはもしや昔の恋人だったりして、などなど。

「うーん……」

 聞こえた話の流れ的に、久々に会ったからお茶でもと誘われて、断った、とか。それなら辻褄も合う気がする。たぶん年上の女の人。そこも有村なら寧ろ納得だ。

 だから草間はいま純粋にどんな人だったのかなと、遠ざかって行くピンヒールの足音に想いを馳せる。カツンカツンと涼し気な音だった。ああいう靴を履く人は、きっとすごく美人だ。

 有村と並んで、引けを取らないくらいの。

「十センチくらいかなぁ」

「なにが?」

 床置きの小さなテーブルの向かいから「現実逃避すな」と凄まれて草間はハタと我に返ったが、確かに彼女はつい数分前に烈火の如くお叱りを受け、気が遠くなりかけていた。

 昔の恋人の容姿にのみ純粋な興味を持った草間の明後日具合が設えた二枚のルーズリーフを一枚ずつ持ち、似たような呆れ顔をしている落合と久保のふたりから。

「もう一度訊くけど、有村は本当にこれをイヤな顔ひとつしないで答えたの?」

「うん」

「マメって言うか、ここまで行くとさすがにお人好しも度が過ぎてるわね。気の毒にすらなるわ」

「えっ」

「ほらぁ! 絵里奈だってこう言ってんじゃん! あたしは彼女として姫様ともっと親密になった方がいいんじゃない? って言ったの! 誰がこんなファン垂涎の解剖アンケ作れって言ったのよぉ!」

 叫ぶなりテーブルに突っ伏した落合が、「姫様ごめんねー!」と今日一番の大声を上げる。

 昨日帰宅してから飛ばした項目を抜いて清書したアンケートは草間の宝物でありながら、どうやら有村にとっては嫌がらせに近かったようだ。

 そうしてようやく反省の色を濃くしたわからず屋に溜め息を零し合う落合と久保が訪れたのは、いつもながらのミーティングルームこと草間の自室。

 集合して三十分ほどが経った午後一時頃、外はいま太陽が最も誇らしげな時間帯で、猛る落合の熱気が室温を上げたのか、クーラーのモーター音が少しだけ騒がしくなった。

 それがしばらく続いたのは有村贔屓の興奮が冷めやらぬ所為だと、一枚目のアンケート用紙を置いて冷めかけの紅茶をひと口含んだ久保は多少、今はどちらかというと草間より落合寄りの立ち位置にいた。

 有村など存分に振り回されてしまえばいいと思う反面、以前ほど鼻持ちならないとも感じていなくて、特にこうして草間に付き合ってやる辺りを見ると、そう嫌いな種類の人間ではないような気がしてくるからだ。

 あの男は呼吸するように他人を汲もうとする。落合ほどわかりやすい切っ掛けがあったわけではないが、久保もまた少々交わすようになった雑談の中で有村に感謝しなくもない事柄があった。初恋に浮かれる友人たちには出来ない、年上の恋人について。それがまた腹立たしくもあるわけだが、とりあえず。

 よくもまあ、こんなアンケートに付き合えたものだと思う。通し番号では、全三十五問。マメな男ではある。本当に。バカが付くほど。

「ったくさぁ! どこの世界に自分の彼氏に好きな物アンケ取る彼女がいるんだよぉお! いたよねぇ! ここに!」

 ダン。ダン。ダン。

 突っ伏したテーブルを拳で叩きながら酔い潰れた管巻きの如く嘆く落合を横目に、座り位置的にも立場上も中間を陣取る久保は、『助けてください勇者様』という風体で弱々しく腕に触れて来る草間を見やり、これも役目かと数回目になる溜め息を吐いた。

「好きな人のことを色々知りたいと思う気持ちはわかるわ。私だって、書き出していったらこのくらいはあると思う」

「うん! うん!」

「でも私なら一気に訊かないで、少しずつ知って行きたいと思うかしら。時間をかけて、ひとつずつね。答えを訊いてしまえば簡単だけど、相手の好きな物は一緒に過ごすうちに、徐々に自分で気付きたいと思うの」

 どうかしら。そんな色の眼差しで見つめれば、草間の目が大きくなる。

 責めるつもりはなかった。久保にとっても恋愛は、正解の朧げな難問だ。

「考えてみて? 有村は仁恵に、何が好きかを何の脈略もなく質問したりする?」

「……しない」

「でもアイツは、仁恵の好きな物をいつの間にか知ってない?」

「……知ってる」

 問いかけながら、久保はまるで気の利かない自分の恋人を窘めている気分になった。

 まったく、あの優男は胡散臭いが、男としてはまま出来たヤツだ。言われなくても、見ているからわかっている。自分が欲しい気遣いを注がれている草間へ向ける声はどこまでも穏やかに凪ぐけれど、それは随分と贅沢なものなんだと言いかけそうになる口角を、久保は逆に上へと上げた。

「そういうものだと思ってるの、私も。初めての恋愛だし、仁恵がずっと有村に憧れてたのも知ってるから、こういう選択肢が出て来たのも、わからないではないのよ?」

 テーブルに広げられた二枚のノート用紙を持ち上げ、久保は草間に向けた微笑みのまま、改めて上から順に項目を目で追っていく。草間が尋ねたのはメディア雑誌で芸能人が対象となるような、所謂『丸裸企画』のミーハーちっくなものばかり。

 彼女として云々の前に、草間の持つこのファン心理が何よりの問題点だと久保は思う。だからこそ気の毒になってしまうわけだ。あの王子様が板につき過ぎた優男が、少しだけ。

「ひとつ気になるんだけど。好きな物しか訊かなかったのは、どうして?」

「それはっ。あ、有村くんには、苦手な物とか、なさそうだから……」

「有村がそう言ったの?」

「ううん」

「そう。まぁ、アイツはそういうのを隠すのが上手そうだものね。でも本当にいるのかしら。苦手な物や、嫌いな物がない人なんて」

 一層静かな久保の問いかけに、草間はいよいよ返す言葉がなくなった。

「せっかくの機会だったなら、そういうアイツが絶対に自分から言わなそうなことを、もっと訊けるとよかったかもしれないわね」

 そうして黙り込む俯き顔に反省の色が濃くなると、久保は溜め息をひとつ殺して落合へと目を遣る。

 草間はただ気が付かないだけだった。走って行く方向に難があるのは、どちらかと言えば久保が思うに落合の方。どちらの気持ちも、久保にはわかる。

「有村ならきっとこれも楽しんだんじゃない?」

「そうかもだけど、あたしは姫様にハッピーラブライフを満喫してほしーのぉ」

「してるわよ、きっと」

「こんなんで出来るわけなかろーがぁ……」

 夢見がちはどちらなのだか。他人が口を挟むくらいで恋人同士の距離が本当に縮まるのなら、久保だってもう少し気楽に恋愛を楽しめている。

 返し損ねたままいよいよガラスの小物入れから小さな水槽に住まいを移した金魚といい、初恋なんてままならなくて当然なのだ。



 ミーン、ミーンと鳴く蝉の声がして、ジー、ジーと鳴くものもそれに混じって。

 茹だるような本格的な夏は、これからまた一層の猛威を振るうつもりでいるようだった。

 夏休みの序盤にアルバイトを詰め込んだ草間と落合の生活サイクルも徐々に落ち着く頃合いで、いよいよこれからが彼女たちの夏本番。行き先を練るのはこの辺りで終わらせて、そろそろ予定を組み始めないと全部やりきる前に八月が終わってしまう。

 勉強机の脇に掛けられた草間好みの可愛らしいカレンダーを見つめた久保は溜め息を漏らし、今日集まった目的に沿って三人と七人の大きな違いに頭を悩ませていた。

「それにしても、七人って思ったより面倒なものね。鈴木が言った通り、先になんとなくでも組んでおくべきだったかしら」

「それ、この間またすっごい嫌味言われた。細かいんだ、あのA型チビ」

「でも実際そうよね。ねぇ仁恵、前に行き先を纏めたメモって、すぐに出る?」

「あ、うん。ちょっと待ってて、持って来る」

 日中の数時間で済むならもっと楽に予定が立つのだろうが、七人全員で朝から一日中となると中々どうして難しい。とは言えあちらは全員が前以て日取りが決まっていれば大丈夫だというから、この進みの悪さはやはりこちらの腰が重いのが元凶であろう。

 テーブルへ戻って来た草間の手帳を開き、久保は物憂げに顎先を撫でた。

「夏の終わりの花火大会は日取りが決まっているとして、やっぱり海水浴がマストね。藤堂と有村の誕生日を一緒に祝うっていうのは、結局どうなったんだったかしら」

 確かどこでやろうかで悩んで、そのままだったはずだ。

 同じように指先を口元に当てた落合も、肘を着いたテーブルへ身を乗り出す。

「それねぇ。それこそ早くしないと、鈴木のついでみたいになるよ」

「鈴木は八月なの?」

「九月。今くらいが丁度、セコムとの中間って感じ」

「なら急がないといけないわね。まさか窓口に誕生会してあげるなんて言えないもの」

「四人中三人まとめるんじゃアレだしねぇ。それだけ先に連絡取ってみるよ」

「よろしく」

 窓口同士も仲が良いようで何より。それはさておき、散り散りに書かれた走り書きを改めて見てみると、スイカ割りやら、ビーチバレーやら、他は殆ど海でしたいことばかりだった。

「そうなると残りは――」

 間髪を入れずに落合が答える。

「姫様待ちのお泊り!」

 どうやら、それがこの夏一番の行事になりそうだ。

「進捗は?」

「鋭意待機中であります! んで! その件につきまして、少々興味深いご報告がっ!」

 床にぺたりと座る『女の子座り』のまま姿勢だけを正し敬礼をした落合に、草間と久保の視線が集まる。なに、と問いかける以外その行動についてふたりが何も言わないのは、芝居がかった時の落合に構うと本題までが遠くなるのを知ってのことだ。

 予想通りの受け流しにしんみりと瞼を閉じた落合は気を取り直し、今度はテーブルに肘を下し深刻そうに引いた顎先に両方の手を宛がう『ゲンドウポーズ』で「実は鈴木からこんな話が回って来たのだが」と切り出した。これにも勿論、草間たちの対応は変わらない。

「その前に、ふたりは鈴木に大学生の姉と年子で双子の姉たちがいるのを知っているだろうか」

「ええ」

「前に山本くんが教えてくれたよ」

「では、その鈴木シスターズが姫様を大層気に入っているという――」

「長い」

「すまぬ」

 侘びて体勢諸共改めたにも拘らず「だから、なに」と続く久保の冷酷に落合は背中を丸め、先日聴いた話を大凡そのまま打ち明けることにした。

 付き合いの悪いヤツらめ、と吐き捨てるのは、だいぶ前から飽きている。

「その鈴木シスターズがさ、姫様んチの別荘行くとか言ったら付いて来るんじゃないかって、どうも鈴木は行くってなったら親に部活の合宿だって誤魔化すつもりだったらしーの」

 部活なんてやってたの、と久保が言う。一応軽音だよと答えた落合は去年の文化祭を持ち出したのだけれど、興味がなくて体育館でのライブに行っていない久保は別として、お化け役として教室に終日缶詰だった草間を前に妙な気まずさが少々。

「で、だ。まぁ軽音の中には実際合宿だーって何泊かして来る人もいるってんで、鈴木は口実に使おうとしたらしくて。そしたら、それを聞いた姫様が激おこ」

 気分を変えようと落合は両方の人差し指を数多の横に立て、声を張る。

「なんで?」

 首を傾げた草間があまり気に病んでいなさそうで、落合は随分とホッとした。

「悪いことしに行くわけじゃないのに、親に嘘吐くんならこの話はナシだってさ。宿泊先と、行くことになったらウチらの面倒見てくれる大人? が、ひとりついてくって話で、その人の連絡先と教えるから、ちゃんと家において来なさいって言われたんだって!」

「へぇ」

「有村くん、ちゃんとしてる」

「なんで、ウチらもちゃんと話せよって、鈴木越しの姫様からの伝言でした。そこで質問だけど、ふたりはもう親に話してたりする?」

 方向転換、無事完了とばかりにツノにしたままの指先を拱き「あたしは軽ーく話したよ」と落合が言うと、久保もそうだと今度は草間が視線の先側になる。

 まだ、言ってないです。その告白を聞き終わる前にふたりの顔が『やっぱりな』と言ったのは、草間の顔もまた『言い難くて』と語っていたからだ。

 親の反応が怖くて、というわけではない。この中で言えば、草間の両親は落合の母親に近く柔軟で、久保の家より融通が利く。だから黙っているのはただ草間が言い出せていないだけだった。決まってから話すより、そういう話が出てるんだけどと切り出した方がハードルが低いのは承知しているのだけれども。

「まぁ、ウチらと仁恵じゃレベルが違うよね。言い辛さの」

「たぶん……」

「なんたって彼氏さんのテリトリーにお泊りですし」

「何もさせないわよ」

「悪魔か」

「……多分、話せばいいよって言ってくれると思うんだけど……」

 久保と落合が一緒だし、やはり保護者からの信頼に厚い藤堂の存在は大きいと思う。監視役としても、監視すべき彼氏の親友という点でも。

 しかし不意に俯いた草間はこれまで家族以外と外泊をしたことがなく、言い出す切っ掛けすら思いつかずにいた。出来れば誰と一緒か適度に濁してまろやかに伝える術を、少ないボキャブラリーから探している真っ最中だ。

 だって、言いたくないのだ。多分父親に話すにも味方になってくれるであろう母親に、有村のことは、極力。

 その理由を知っているはずなのに、落合が「姫様のこと知ってれば、おばさんも快く送り出してくれると思うけどなぁ」などと言うから、草間の額はついにテーブルへと落ちた。

 だから、それが嫌なんだってば。

「おじさんはちょっと微妙だけどね。仁恵ラバー第一号だし」

「でも筋さえ通せば許してくれるわよ。まぁ、太めの釘は刺されそうだけど」

「親に嘘吐くなって言って来る時点で、お眼鏡には適うと!」

「まずはおばさんに話してみて、じゃない?」

「うーん……」

「――なにを話すのー?」

「――ッ!」

「うわぁっ!」

 絶句の草間は正座の姿勢で飛び上がり、悲鳴を上げた落合はテーブルの縁から手を滑らせた勢いで床へと転がり、久保には軽く紅茶を吹き出させた声の主は、唐突に開け放たれたドアの向こうから現れた。

「偶然だったけど、グッドタイミングだった気がするわぁ! さすが、私!」

 グラスを並べたお盆を携え、どこか見覚えのある満面の笑みを湛えて。

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