恋人らしい、とは
あの深夜の住宅街を有村と歩いた日から、落合はすっかりと姫様推しだ。
以前から見た目よりは取っ付き易く面白い男だとは思っていたし、鈴木が言うように人が良くて、草間が心地良いと頬を染めるように屈託のない人物なのだと改めて認識したのは確かにある。
勿論そこには長年の憂いを意とも容易く一蹴してくれたという個人的な理由も大いにあったのだが、落合を突き動かしていたのはやはり、あの適度に男臭さのない前向き思考の王子様でなければ草間の恋はままならないということ。アレは何があろうと逃してはいけないサカナだ。
早いうちに、ちゃんと釣り上げておかないと。ここ数日、草間とふたりきりになるチャンスを虎視眈々と狙っていた落合の本音はソレ。
なにせ有村は爽やかでいやらしさのない優男とはいえ、近くに居れば否が応でも感じ取れてしまう色気を持った最強モテ男子。手を繋いでキャッキャウフフの初々しい恋も良いけれど、現に有村は一度そういう目を草間に向けたことがあるわけで、どうにも進展が見られないのは多分と言わず目の前で香りの良い紅茶に舌鼓を打つ無自覚ムッツリな妄想少女の暴力的な奥手の所為。
「仁恵はさぁ、姫様とどんな感じのお付き合いがしたいの?」
そして久保が席を外した今こそが好機と、何の前触れもなく口火を切ったのだ。
アルバイトへ向かう前の数時間を馴染みのカフェでまったりと過ごしていた草間にとっては、電光石火の急展開である。
「どんな感じって……どうしたの? 急に」
「急じゃないの。ずっと思ってたことだから。で、仁恵はさ、姫様と付き合ってどうなりたいわけ?」
「どう、って?」
「まだ、ちゅーしてないの、って」
「しないよぉ!」
思わず上げてしまった大声に草間と落合は周囲を見渡し、ふと目が合ったサラリーマン風の男性へ向けてペコリと頭を下げた。
静かに本を読んでいる客もいる落ち着いた雰囲気の店内では、さすがの草間も荒ぶる心に自然とブレーキがかかる。だからこそのもってこい、だ。
落合は腰かけたままテーブルに身を乗り出し、向かい合う草間にも同じく顔を近付けるよう指を拱いた。
別に取って食おうというわけではない。ただ言ってしまえば知りたいだけ。今後の作戦を練る為にも。こと草間の素直が故の扱い難さについては、落合はそこそこ以上に手馴れている自信がある。
「まさかとは思うんだけどさぁ。七夕祭りの日に拒否って、そのままってことはない?」
「そのまま?」
「リベンジ的な? 進展と言うか。夏休み前は手を繋ぐので精一杯とか言ってたじゃん? で、休み入ってからはふたりでもよく出かけてるじゃんね。ぶっちゃけ、どこまで進んだのよ」
「どこまでって」
「進展はまるでなし?」
「まるで、ってわけでは……」
「そこを。カモン」
「その……たまに」
「たまに?」
「たまに……ぎゅって、して、くれるけど……あ、でも、軽くだよ? 一瞬、していい? って言われて、いいよって言った時に、ちょっとだけ」
「え、主導権て仁恵が握ってんの?」
「合わせて、くれてる。私すぐ舞い上がっちゃうし、もう焦ってぶっちゃったり、したくないし……」
「マジかぁ」
落合は椅子の背もたれに仰け反り、天井を仰いだ。それってバカみたいにハードル上げまくってるよ、と投げてみて、目をぱちくりさせる草間はやはり気付いていないわけだ。
どこからどう見てもリードするのに適しているのは有村の方。でも彼は一度踏み込んで返り討ちに合っている。そこで確かめてみれば決定権は草間が持っていた、と。つまり。
この自分に自信がなさ過ぎる男性恐怖症一歩手前の恥じらいっ子が切り出さなければ、ふたりはずっと手を繋ぐのが精々のお子様カップル、ということ。本人たちがそれでいいなら可愛らしくて結構とも思うが、落合の考える年相応の恋愛としてはもう積んだも同然。
重ね重ね、落合は別にそういうプラトニックな交際や考え方が悪いと言うつもりはない。かく言う彼女自身も至って清らかなわけで、その上で、だ。正直な話として、あなたは興味がないんですか、と落合は問いたいのだ。私にはありますよ、相手がいないだけで、と。
ここまで言うと下品な話になってしまうから、口には出さずにいたけれども。
「したくないってわけじゃないの?」
「キ、ちゅ……あ、アレを?」
「キスでもちゅーでもいいけど、そうよ、アレを。てか、単にイチャイチャしたくないの? あのキレーな顔をさぁ、こう、撫で繰り回したりしたくないわけ?」
「撫でくッ」
「シィー」
再び出しかけた大声に先程のサラリーマンを見る草間の横顔は、凄まじい程の挙動不審。
と、いうことは彼女も考えていないわけではないのだと、落合には確信めいたものが芽生える。これはきっと妄想はしてるパターンだ。忙しく空を彷徨う視線が、何よりの証拠。
「あっ。そ、そりゃぁ、ちょっとくらいは? 藤堂くんがしてるの見ると、いいなぁ、とは」
尖らせた口で歯切れ悪く草間が白状すると、落合は存分に目を細める。
「そうだよ。セコムなんか触りまくりじゃん。負けてんじゃん。セコムに」
「負けるとか、そういうのではないと……」
「イチャイチャしないなら付き合う意味ってあんまなくない?」
「意味って……!」
「だって、親友よりベタベタしない彼女ってどうよ。てか、見たくないの? 知りたくないわけ? 姫様の彼女にしか見せない顔、とか」
「彼女にだけ……」
「それ見れるの今は仁恵だけなのにさぁ。勿体ないねって話!」
初心なだけ真っ新な草間は、至近距離に詰めていた身体を引きどっかりと座り直した落合に言葉でも態度でも突き放され、素直にここ最近の有村との関係を振り返ってみる。
夏休みに入り、二週間と少し。その間、メールや電話は毎日のように有村から来ていて、誰かが招集をかけた日以外にも時間を見つけては、こうしてお茶を飲みながら他愛のない会話を楽しんだり図書館へ行ったりと、比較的多くの時間を共有している気はした。
お互いに本の虫で、騒がしい場所は苦手。その共通点があって何度かただ本を読んで終わる日もあったが、草間としては充分に充実した『デート』を重ねているつもりだ。先程挙げてみた辛うじての進展である抱擁で、ちゃんとドキドキしたし。回数で言えば、まだ片手をちょっと超える程度だけれど。
だから草間の感覚では、また多少距離が狭まったかなと、そこそこ満足していた。けれどそれが、例えば『打ち解けてきた』と言っても困らないものだとしたら、確かに落合の言う進展は今のところないのかもしれない。
手を繋ぐのに稀に握り返せるようになったとしてもだ。どこまでもどこまでも、清く正しいお付き合いである。それが嫌だとかおかしいとかは、草間も落合と同様に別段思わなかった。
なにせ自分たちはまだ十七歳だし、学生だし。草間にとっては初めての恋愛で普通はどうともわからないけれど、少々歩みが遅くともそういうものではないのかなとすら思うのだ。
可愛らしいカップルでいいじゃないか、と。子供なのだし。不純だなんだと言われるよりは、数倍マシだ。
しかし草間はふと、落合のひと言で気が付いてしまった。自分はともかく、彼の方はどうなのだろうか、と。
「――どうかしたの?」
「んー、ちょっとね。背中押そうと思ったら、悩み始めちゃたみたい」
「また? こうなると仁恵は長いんだから」
「へへ。ごめん」
「反省して」
そうして草間は手洗いから戻った久保もしばらく目に入らないほど、深く深い悩める森へとひとり迷い込んで行ったのだった。
確かめたわけではないけれど、有村にはきっとこれまでにも彼女がいたし、もしかしなくてもそういう意味で草間よりずっと大人だ。
彼や藤堂、実は鈴木や山本も、他の男子たちが人目も気にせず盛り上がる下世話には滅多に参加しない、草間のクラスでは少数派の男子だった。特に頻繁に話題を振られる割にのらりくらりとかわすだけの有村は避けてさえいる風で、返しても『お盛んだねぇ』とか『煩悩まみれで見てられない』とか遠回しに注意する感じが、草間にとっては彼に惹かれた理由のひとつだったりする。
ああいう人だから前の恋人とも抱き合ったりしただろうし、一度されかけたキスもいま思えば流れるような手つきだったし、きっと多分その先も。それを当たり前に思えてしまえば、経験があるからこそ浮ついた話に乗らないようにも見えて、そういう意味でも大人な有村は急ぎたくても急げない草間の救世主ですらあった。
付き合ってもすぐに大人の階段を、とは思わない男子もいるんだ、と。でも、その状況に置かれたいま指摘されてしまうと、本当にこのままでいいのかなとは悩んだ。自分がではなく、色々知っているであろう大人の有村が。
それに。
「私だけが見れる、有村くん……」
口に出してみると、なんとも魅力たっぷりの言葉だ。草間は未だ要所要所でファン目線が抜けずにいたので、椅子に掛けてぶらりと垂らした脚が思わず揺れた。
なにせ有村は何をしても様になるのだ。無邪気な笑顔から鳥肌が立ちそうな端正を如何なく発揮するすまし顔まで、見れるものなら全部見たい。
かと言って自分から踏み出すのは、言わずもがな草間には大変に困難なこと。
「見たい……けど、言えない。無理……」
恐らく草間自身は現状に満足してしまうタイプで、マンネリとは無縁の性格だ。嬉しいことは何度でも同じように嬉しいし、慣れるにも時間がかかる。
でもその反面、踏み出してしまえばその先も嬉しく思える受け身気質でもあった。偉そうに胸を張れることではないにしろ。
「大丈夫になったら言うって、約束しちゃったしなぁ……」
言える気がしない。そう草間は突っ伏して、身の入らない本を隅に置いたテーブルに額を当てた。
「キ、ちゅ、あ、アレはまだ無理そうだけど。有村くんにギュッてされるの、訊かれると無理って言っちゃう時も、されたら絶対嬉しいんだけどな……」
なにこのわがまま。口に出したら、少し落ち込んだ。
――ブブッ。ブブッ。
「んんっ!」
同じくテーブルに出していた携帯電話が横滑りしながら放つ振動を直に感じて、草間は勢い良く身体を起こした。
おでこがムズムズする。微弱な刺激に痒くなった額を擦りつつ持ち上げてみれば、なんというタイミングであろう、届いたのはメールではなく有村からの電話着信。
「――はい。もしもし――」
慌てて出たは良いものの、恥ずかしいことを考えていた所為か暴れる鼓動で、視界が僅かに前後している。
『こんな時間にごめんね。今、ちょっと話せる?』
「うん。大丈夫」
声、震えてないといいけど。
気が付くと草間は背中が反り返るほど姿勢を正していて、カチカチと耳に届く壁掛け時計の針は、あと一周と少しで日付を跨ぎそうだった。
『そろそろ寝る時間だよね。おやすみだけでも言いたいと思って』
「あ。いや、今日はまだ本読んでて」
『この間の本?』
「ううん。あれはもう読み終わって、今はその続き……」
『そういえばシリーズものだって言ってたね。ハマっちゃったわけだ』
「うん。謎解きは初めて読んだんだけど、結構面白くて。よかったら、有村くんも読む?」
『草間さんのオススメなら、是非。小説に関しては辛口だから、信頼してるし?』
「事件現場はサラッと流す感じだよ」
『あー……そう』
「残念そう」
『いや。うん。そういうのも、たまには』
「残酷な描写とかないけど」
『なきゃダメみたいに言わないで欲しいなぁ』
「ないと物足りないのかと思って」
『僕は平和を愛する男だよ?』
「小説と映画に関しては、有村くんは残酷好きです」
『んー……確かに』
草間がベッドへ入る間際のこの時間、有村は週に三、四回程度電話をくれる。
それは屋外からかかって来たり、全くの無音をバックに数分間の雑談と最後につけるおやすみで草間をより心地良い眠りへと誘ってくれたのだが、彼女はまだ週に七日、飲み物を用意して心待ちにしているとも言えていない。
風呂上がりのパジャマ姿で有村の静かな声を聞くと、嫌なことがあって落ち込んだ日も心が穏やかになり自然と眠気が襲って来た。でも今日は浴槽でウトウトしたからかあまり眠くなくて、草間は見やった本の表紙に指先で触れ、有村への返答が嘘にならないよう、彼が読んでくれるなら残りの数十ページも今日中に読み切ってしまおうと思う。
「有村くんは、いま帰り? まだ外みたいな音がする」
電話の向こうに車の過ぎる音がして、「遅くまで大変だったね」と、草間は何も訊かずにアルバイト帰りの体で話していた。
「もう十一時だよ。高校生だし、怒られちゃう」
『まだ出先だけど、今日はバイトじゃなくてさ』
「あ。そうなんだ。ごめんなさい。決め付けちゃって」
『ううん』
ちょっと用事があって、家に着くのは一時間くらいあと。
もう一度時計を見ればやはりこんな時間にと思ってしまい、あまり遊び歩くイメージがなくて「ちょっと意外」と伝えると、電話口で小さく笑う有村は『保護者同伴だけどね』と声を落とした。
なんだ。そういうことなら納得だ。
『こんな時間に焼肉食べたいって言い出してね。帰るの待ったら明日になっちゃうから、抜け出して来たんだ。煩い?』
「ううん、全然。でも、こんな時間に焼肉……」
『僕はもう食べなくてもいい感じだったんだけどね』
「お菓子食べて?」
『そう。あ、昨日貰ったブラウニー、食感が面白くて美味しかったよ。ありがと』
「面白い? あれ、ナッツかな」
『また作って欲しいなぁ。前のクッキーも、また食べたい』
「有村くんが作った方が美味しいと思うけど」
『わかってないなー。草間さんが作ってくれるから美味しいの』
「またそういうこと言う……」
『だって本当だからさ。あ。しまった、見つかった』
「お母さん? もう帰る時間なんじゃない? そろそろ、切らないと」
『……今の、ちょっと残念そうにしてくれた?』
「してな……っ、くもないかもしれないです……」
『えー。そんなこと言われたら切りたくなるんだけど……うそだ。こっち来る気だ』
「なら! もう、ね。はやく、きらないと」
早く切って。切りたくないから草間さんが切ってよ。
その手のやり取りも実のところは定番で、こういう気恥ずかしい電話は充分に恋人らしいのではないかと、草間はつい浮かれてしまう。
ちゃんとしてるじゃん、そういうこと。とは、思ったのだ。
思ったけれど、今日はずっと落合とした話を悶々と悩んでいたから、今日だけは、それだけでは少し足りなかった。
「あの……あのね、有村くん」
『なぁに?』
「もし、もし時間があったらでいいんだけど、明日、その……」
『…………デートのお誘いなら、喜んで』
「んんっ!」
『嬉しいなー。草間さんから誘ってくれたの、初めてだよね』
「……うん」
『楽しみだなー。時間とかはあとでメールしておいてくれる?』
「うん」
『明日も可愛い草間さんに会いたいから、夜更かししちゃダメだよ?』
「しっ! しばせん!」
『あははっ。噛んだー』
「もう!」
通話終了のボタンを押してからも、草間の鼓動は張り裂けそうだった。切ろうと言い出してから呼び止めたのすら、初めてのことで。
でも、せっかく勇気を振り絞ったのだから、無駄にしないようにしないと。
「時間、メールして……っと。そうだ」
きっと顔を見たらまた舞い上がって碌に話せなくなってしまうから、草間はノートを取り出して、今日考えたことだけでも纏めておこうとペンを握った。




