彼女の親しい快活な方の友人のこと
初恋は実らないという定説を絶賛覆し中の草間仁恵の理解者たる友人、落合君佳には、長らくの付き合いになる彼女らにもひた隠しにする密やかな趣味がある。
真夜中に差し掛かる駅のホームにひとり降り立つ、踵の高い『おでこ靴』。
「ふぅ。やっぱこの時期、ゴスはあっついわぁ」
だいぶ市民権を得てきたとはいえ未だ偏見を持つ人は少なくない、全身黒尽くめのゴシックファッションについてだ。
この装いに身を包んでいる時が最も心穏やかである落合は、以前そうとは知らずに否定的な言葉を放った久保を切っ掛けに半ば意地になり、『譲葉高校二年C組の落合君佳』の知り合いの誰ひとりにも知られぬよう、日々努力の限りを尽くしていた。
そんな落合の今日の服装はというと、フリルを何枚も重ねたボリューム満点のひざ丈スカートのコルセットタイプのウエストに、白を基調としたリボンなどの装飾を多用する袖に膨らみを持った半袖ブラウスの裾をきちんとしまい込み、上にスカートと同じ黒がベースのベストを重ねる、夏場のマストスタイルである。
手には黒いレースの手袋を、頭には唯一の挿し色である赤いバラのモチーフが施されたミニハットを着用し、提げる鞄も黒なら、引いているキャリーバッグも黒と正装風の完全装備。そこで固くなり過ぎないよう、足元に左右で黒と白のアーガイル柄と同配色のストライプという異なるデザインのストッキングを合わせて遊び心を演出し、無論メイクにだって余念がない。
いつものナチュラルメイクとは違い、目鼻立ちをよりはっきりと目立たせる仕様で、自慢のブラウンに若干グレーがかるショートボブの前髪に隠れてしまうが、実は眉も少し太めだったりする。
拘りは随所に。それが落合の満足で、誰にも譲れない誇りだ。
そして引き摺るキャリーバッグの中身については、例え周知の事実であろうと墓まで持って行くと決めている。こちらはまた別の意味合いで、そのくらいの極秘事項。
「今日も豊作だったなぁ。目の保養も出来たし、久々のゴス参戦も中々。売り子なのにワガママ聞いてくれたタマちゃんに感謝だぁ」
因みに、大変悔しいことではあるがルールは守り、キャリーバッグの中身は今日も『健全』である。あと一年の辛抱。我慢。我慢。
「でも、そろそろ隠し通すのしんどいなぁ。押入れはみ出しそうだし、もう腐女子バレてるし同人誌くらいは……いや、でも仁恵はともかく絵里奈はなぁ。ホモキモイとかバッサリだし。頭硬過ぎなんだよ、あの天邪鬼。いいじゃん腐ってたって。服だって好きなの着させろ。なにが姉系よ。背伸びしてりゃぁいいってもんじゃないっての! てか、あっつい! 夜風来いよぉ、冷ませよあたしをぉ!」
生温い上にそよぎもしない風を役立たずと罵りつつ、落合はひとつしかない改札機を通り抜ける。服は暑いし、荷物は重いし。隠しているのは自分の為でも、特に汗の滴るこの季節は毎度、満身創痍だ。
本心では、心の底から一刻も早くシャワーを浴びたい。でも、そこまでの道のりを長くしているのもまた落合自身に他ならない。
「うぉー! 暑いわくたびれてるわの上に、ここからまた一時間弱歩くとか鬼か! 死ねよ見栄っ張り! あたしだよ見栄っ張りはぁ!」
はぁ、はぁ、と語尾が木霊しそうなほど閑散としたこの駅。実は自宅の最寄りからふたつ先の、何年かに一度は『なくなるらしい』と噂が立つ寂れた駅だったりする。
両隣が近い上にそこそこ栄えているので、わざわざここを利用する客は余程駅のそばに住んでいる住人くらいなもの。特にこんな煌々と街灯輝く終電間近に人を見かけた例はなく、うっかり誰かと鉢合わせしたくない落合にはうってつけというわけだ。
改札前の明るい場所さえ通り過ぎてしまえば、乗り越えたも同然。家までのルートも完璧だし、そうやって何度も危なげなくやり過ごして来たので、落合は多分警戒心が薄れていた。
「はぁ……帰ろ」
ずっと隠し通してこれたから。この辺りに知り合いは誰も住んでいないから。
だから気を取り直していざ自宅へと顔を上げた瞬間、数メートル先にある横断歩道の手前に立つひとりの男性、顔だけをこちらに向ける長身で細身の栗色サラサラヘアーに、落合は思わず鞄とキャリーバッグから手を離してしまった。
ドサッ。バッタン。
「やっぱりそうだ。こんな時間に、ひとり?」
そちらこそ、こんな時間に何用で。
天を仰いだ落合はただ、終わった、と心から思った。
「まったく、深夜に女の子の一人歩きなんて危ないよ。しかもこんな暗い道を通るだなんて。ダメだよ、落合さん。気を付けないと」
「……すみません」
前後に並んで歩く道すがら、気分も面持ちも死刑囚のような落合の前には、あの見目麗しき王子様がいる。
ただの友達なのに家まで送ってくれるなんて紳士だな、とは思うのだ。有り難いとも思う。思うけれど。
爽やかで健康的なイメージ通りに夜のランニング中だったという、黒のジャージに緩めのTシャツを着たラフな格好の有村洸太。その人が今、深く項垂れる落合の目の前でゴテゴテとフリルやリボンのしこたまついた真っ黒なキャリーバッグを引き連れているのだ。
至極真っ当なことを言いながら、人気のない道をガラガラと。重ね重ね、今日の落合の服装にこそ合うゴシックなキャリーバッグを、だ。しかも中身は例のアレ。なんたる二重苦。
いや、全く以てかの王子様は正義であって、彼に非などは欠片もない。強いて挙げるのなら帰路に就いて早十数分、有村がひと言もその大荷物やこの服装について触れてこないのが、逆に気まずい、と言うか。
下手に気を遣われるならバッサリ切られた方がいっそ気が楽で、落合はついせっせと墓穴を掘り進めてしまう。
「あのぉ、姫様? お叱りご尤もなんですが、他にちょーっと気になることとかないですかね?」
「そうだね。気になると言えば、どうして用もないのに、わざわざ遠くの駅で降りたりするの。せめてちゃんと最寄りで降りて、歩く時間を短くしなきゃ」
「そうですね。確かに。でも……それじゃぁ、なくてですね? もうちょっと、ないですかね?」
「他に? んー。あ、荷物が多いね。でもそれは別にどうでもいいや」
「どうでもいいんかい!」
「中身、改めた方がいい?」
「よしてくださいごめんなさいおねがいしますやめて」
「ははっ。呪文みたいだねー」
「そう、ですね……ははっ。あはははっ」
しかし結果はまたも返り討ち。
これは敢えて触れてこない系だ、きっと。そう思えば益々、落合は走って逃げたくなった。もしも興味すら持たれていないのならそれはそれで悲しい気もして、情緒不安定なかまってちゃんかよとセルフツッコミをかますも、心は虚しくなるばかりだ。
そんな落合の微妙な物言いに有村は少しだけ振り返り、これで三度目になる「遠い」を放った。指しているのはふたりの間隔。前を行く有村と落合の間には、乗用車二台分くらいの距離がある。
離れていては一緒にいる意味がないと言われればぐうの音も出ないので、指摘される度に落合は二歩か三歩前へ出る。けれど気付けば出る前より下がっていて、「汗をかいている僕の近くはそんなに嫌かい?」などと王子よりとんでもない台詞が飛び出せば、いよいよ気まずさも限界が振り切れるというもの。
斯くなる上は介錯を待たずして腹を切る構え。落合は意を決して立ち止まり、全身全霊をかけて両腕を大きく広げた。
「姫様、どうぞ!」
「……え?」
そりゃそうだ。焦り過ぎて色々飛ばした。
不足が過ぎる誘導では、察しの良さに定評のある有村も呆気に取られて当然だ。でも意気込み過ぎて頭の中が真っ白だったから、なんとか汲み取ってくれないかなと腕を萎める落合は無体な期待を寄せてみる。
頼む。そんな思いで見つめていたら、アイラインもマスカラも無しに自分より大きな羨まし過ぎる有村の瞳がぱちぱちと瞬き、それからハタと何か気付いた様子で見開かれると、落合は自分勝手に『来るぞ』と身構えた。の、だが。
有村は空いている方の手をそっと翳し、何故か気の毒そうな顔をした。
「ごめんね、落合さん。僕は草間さんの物だから、いくら心細いのだとしてもハグはしてあげられない」
「せんでいいわー!」
「え。違うの?」
「されたらこっちが気まずいわ! どこにいんのよ、友達の彼氏に突然ハグを願う女が!」
「結構いるよ」
「いるんかい! そうでなく! これを見て何とも思いませんかって訊いてんの! ゴスロリだよ、ゴスロリ! 人気がないとは言ってもさぁ! 姫様ともあろうお方がこんなの連れて歩いたら恥ずかしいでしょうが、って!」
ゼェ。ゼェ。
一度堰を切ったら湯水の如く昂るままに胸の内を吐き出した落合は、大きく肩を上下させて唾を飲む。つまりはそういうことだ。落合自身はこの装いに誇りがあるが受け付けない人は確かにいて、一切触れてこない有村はそちら側だと判断したまで。
煮るなり焼くなり、どうぞ、という気分だったのだ。先に放った『どうぞ』は、その末尾。
おモテになる王子様はさぞ上等な女性を見慣れているでしょうし、このような装いは特に奇異に見えますでしょうと、どこまでも卑屈に。
けれど再びコテリと首を傾げた有村は、向けられると覚悟していた冷めたものとは異なる面持ちでいた。落合がつい『あれ?』と思うくらいの自然体で、長い睫毛を瞬かせるだけ。
「確認だけど、その服は罰ゲームか何か?」
「そんなわけあるか。お気に入りだわ」
「だよね。そうだと思う。持ち物から全てに統一感があるし、今日のメイクもその雰囲気にぴったりだ。爪の先まで拘りが感じられて、よく似合っているもの」
だから落合は素直に面食らい、無意識に最後のひと言を繰り返していた。似合っている、だと。まさかそう言われるとは。それも、彼の王子様に。
信じられるもんかと眉間に皺を寄せる落合には構わず、有村の方はあっけらかんと「うん。似合ってる」と至極自然に二回も褒めた。
「マジで?」
「うん。可愛いよ? 普通に」
「えー……」
やっぱりそういうことを平気で言っちゃう人なんだ、とは思えど、それこそ普通に嬉しくないはずはない。たとえお世辞であったとしても、似合っているとか、可愛いとか、日頃の落合君佳を知る人から言われたのは母親に次いで二人目のこと。
こういうの、なんて言うんだっけ。瓢箪から駒? 棚から牡丹餅?
異常なほど瞬きが増えた落合の脳裏に、それともこの王子様に限っては産むが易しだったのかなと過った頃、間隔としては二秒ほどを置いてふとうなじを撫でた有村は、僕はファッションに明るくなくて詳しいことはわからないけど、と重たそうな口を開いた。
「僕はさ、自分に無頓着で年中ジーンズにTシャツを着ているような女の子の方が、勿体ないことをしているように思うんだよね。勿論、それがその人の好みなら構わないんだろうけど」
「……ほう?」
「だって、もっと自分を輝かせることが出来るかもしれないのに。もっと可愛くなれるのに、自分がそうと知っているなら何に遠慮することもないよ。綺麗な方がいいに決まってる。そこにあるのは自分と相手の趣味が合うか合わないか、だけじゃないのかなぁ」
女の子らしくて僕は好きだよ、そういうの。そう言ってニッコリ微笑むのを目の当たりにした時、落合は瞬きも息をするのも忘れてしまった。
トク、トク、トク、と胸を打つ鼓動だけが聞こえて来る。
あとは、草間の嬉しそうで楽しそうな照れ笑いが、頭の隅に少しだけ。
「……惚れてまうやろぉ」
「あはははっ!」
そっか、と、そんな気分になった。いつか草間が一番好きだと言っていた口を開けた大きな笑顔。それを前に、吐いた軽口を本当に軽口として受け取ってくれる、そこにある信頼感みたいなものがどうにも心地良くて。
こんな人が相手なら、草間が息をし易くなったのも当然だと思った。
「姫様ってさ、なんかガキっぽいね」
「ひどい」
「いやいや、褒めてんの。すごいね。なんか」
「そう?」
「うん。お世辞とか言わないんだ?」
「必要なら言うよ。あ、今のは違うよ? 僕がどう思うかを訊いて来たから、答えただけで」
「ふっ、ははっ!」
有村くんがいいって言うなら、それでいいんだと思う。草間が出した結論を、落合は履き違えていたらしい。
あれは決して宗教じみた妄信でも、放棄でもない。草間と、有村のことだから。今は自分と有村のことだから落合は意固地をやめ、素直に「ありがと」と表情を緩めた。学校用でもそれ以外用でもない、込み上げてきた笑みをそのまま。
それだけで心がフッと軽くなった。本当に、草間が言っていた通り。なんて気持ちのいい空間なのだろう。なんて、裏を考える甲斐のなさそうな男なのだろう、この人は。
有村は驚くほどケロッとした顔をしていた。真っ直ぐに落合を見ていて、その目を覗くに、たぶん余計なことは何も考えていない。
「あのさ、姫様」
「うん?」
落合は、この服装のことを誰にも言わないで欲しいと言った。恥ずかしいわけじゃない。ただケチをつけられたくないのだと、理由も正直に告げた。
有村からの返事は「わかった」と、それだけだった。それだけ。そう言えば、草間は前にそんなことも言っていた。有村くんは多分、それだけなんだよ、と。
なんて清々しいのだろう。
笑みを零し合ったふたりの間に、今夜初めて普段の和やかさが訪れた。
「でもソレ暑くない?」
「あっついよ。今度着てみる?」
「絶対に嫌」
「女装しろとは言わない」
「重ね着が嫌いで」
「ファッションとは!」
「ははっ」
もう何十回と通ったこの薄暗い細道は落合に丁度良い日陰だったけれど、これまで少しも不安がないわけではなかった。
点在する街灯の明かりには小虫が群がり、それらが時折鳴らすジジッという音がクラクションみたいに大きく聞こえるほど静まり返る家々はまるで衰退したゴーストタウンのようで、本当にひとりぼっちになった気分にさえなる。
趣味に走る落合君佳と、当たり障りのない高校生の落合君佳。そのどちらにも嘘はなく、どちらも落合にとっては欠かせない大切な時間。でも、ふと両方を繋ぐ架け橋があったらと沈む夜もたまにはあって、それが急に目の前に現れると、予想より遥かに喜んでいる自分がいた。
だから普通にモテる男は嫌いなんだ。せめてもの強がりを胸の奥で呟いた落合は、「それじゃぁ、そろそろ帰ろうか」と姿勢正しく佇む有村までの乗用車二台分の距離を駆ける。
「早く帰らないと親御さんも心配するでしょ」
「あっ、そうだ! さすがに十二時過ぎるとヤバい」
「なら急ごう。ちゃんと送って行くからさ。落合さんも、この『宝物』も、おうちまで」
「へあ?」
音を立てずにゆらゆらとキャリーバッグを揺らして見せる有村に、思わず口がポカンと開く。
「腐女子、だっけ。そういう趣味の人たちは、コレのことをそう呼ぶんじゃないの?」
それを見てさも愉快そうにクスクス笑った有村に「透視でもしたわけ?」と半ば叫んだ落合は、その返しこそが本当の墓穴だと気付くのにもタイムラグが約数秒。
マジでエスパーだ。そうと言う以外に、この動揺に説明などつくはずがない。
「この重さは服が入ってる感じじゃないし、引き摺ってても中身が揺れる音がしないから、びっちり詰まってるんだと思って。あと、落合さんが気まずそう過ぎたからね」
「察しが良過ぎて怖い!」
「大丈夫だよ、これだって他人の趣味だ。干渉しないから安心して?」
「マジかぁ!」
「落合さんが描いたのも入ってるの?」
「仁恵のバカぁ!」
「ははっ。別にいいじゃない。趣味で漫画を描く子なら他にも知ってるよ」
「ホモなんだ」
「男性同士の恋愛モノ、でしょ?」
「理解もあり過ぎてチョー怖い!」
「ふふっ。落合さんは元気だなぁ。ホント。飽きない」
騒いだ分だけ明るくなった気がする夜道を足取り軽く進みながら、颯爽と歩く有村の後ろで業の深いキャリーバッグがガラガラと喧しい音を立てる。
今度見せてよ。見せるかバカ。そんなやり取りをしている内に自宅が近付き、玄関の前でシンデレラを気取った落合は、時間を確認しがてら取り出した携帯電話に有村のアドレスを追加してもらった。
不規則に並ぶ数字八桁。一九で始まるそれが生年月日だとすると落合より七歳ほど上になるたったそれだけの彼のメールアドレスは、驚くほどに素っ気ない。
「これ売ったら稼げそー」
「心にもないことを」
別れ際に手を振りながら「仁恵のこと、よろしくね」と言った落合にひらひらと手を振り返す有村の背中も、同じくらいに素っ気なかった。振り返るくらいしたっていいだろうに。
時間はもう十二時を五分ほど過ぎていて、玄関扉の向こうで仁王立ちしていた母親からの雷は当然烈火の如く落とされたのだけれど、反省を口にした落合の頬は有村にバイバイを言った時からずっと締まりがなかった。
草間みたいにスカートへと指を滑らせ、実は途中で偶然会った仁恵の彼氏がここまで送ってくれたんだと打ち明けてみる。
「最近、結構一緒に遊ぶんだけどさ。すごくいいヤツでね。この服、似合ってるって」
それ以上は何も言わなかった。でも母親は全部わかったみたいに今日のような日は特別に延長される門限を初めて破ったひとり娘の頭を撫でると、ただひと言「よかったね」と言ってくれた。




