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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第三章 脱却少女
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明日からは

 これから始まる夏休みに、焦がれ焦がれた数日後。

 いよいよ迎えた終業式のあとの解放感に足取り軽く教室へ戻ると、草間たちより一足先に戻っていた藤堂の背中が、彼の席から離れた場所で鈴木と山本に挟まれていた。

「ねぇねぇ、まおたん。アレ何事?」

 クラスの男子は粗方、女子も大多数が観覧者に混ざるか自分の席から注目をするのは、近くにいた灰谷を捉まえた落合が思うに、教室前方の廊下側、会田の席がある辺り。

「今日で一学期も終わりですからね。会田さんが締め括りにと、有村さんに勝負を挑んでいるのですよ」

 またか、と落合は思う。会田は本当に懲りない男だ。

 体育の授業だけでは飽き足らず、なんとかして有村に一矢報いたい会田が今日持ち出したのは、特技だというルービックキューブ。近くで見ようと誘われた草間はそれを断り、席へ戻って遠くから勝負の行方を見守ることにした。

 今度こそと意気込む会田と受けて立つ有村の構図は、もはや二年C組の恒例行事。一学期の最後、そう思うと、目に馴染むほどのこの光景もどこか感慨深い。

「――おー。会田のタイム、二十三秒。結構速いんじゃね?」

「まぁな」

 人垣の中、有村は会田と机を挟んで向かい合い、その手許をじっと見つめていた。

「これはタイムを競うものなの?」

「そうだな。でもお前は今日初めてやるんだし、三分以内に完成させたら勝ちってことにしてやるよ」

「えー、いいよ。おまけしてくれるのは嬉しいけど、タイムを競うものなら、それで」

「そうは言ってもなー。初心者が三十秒切れるわけねーしよー?」

「構わないよ。どうせやるなら、ちゃんとしよう。あ、でも先に少し触らせてもらっていい? 感触だけ確かめておきたいんだけど」

「いいぜ? じゃぁ、一分の猶予を――」

「うん。もういいよ」

「もうかよ! つか、回し方わかんのか」

「会田くんのを見たし、大丈夫。いつでもどうぞ」

「ふん! 今日こそ吠え面かかせてやる」

「かくのはテメーの方だぜ、会田ぁ」

「吠え面ってどんな顔だー?」

「ごめんなさいって泣かせることだよ。のんちゃん、悪人顔しないの」

「有村。本気、出していいぞ」

「藤堂……君までなんて顔を」

「有村が勝つに一票!」

「あっ! 村瀬が裏切った!」

「俺も万能村が気味悪いに一票」

「怪力村が粉砕するってのは?」

「ボク有村でーす。気を付けて頑張りまーす」

 当事者でありながら一等気の抜けた声を出した有村がルービックキューブを持ち上げ、六つの面をグルリと見回すと、ストップウォッチ係の八木が「よーい」と右手を振り上げる。その瞬間、シャッターを切るような瞬きをした大きな瞳を見て、草間はなんとなくこのあと起こることが予想出来た。

 あの顔は頭の中で何かを整理した時の顔。何度か見たから、多分そうだ。

 会田は多分、挑む相手と組み合わせる物を間違えた。

「スタート!」

 いち、に、さん、と心の中で数えているのか、草間の視界で数人の頭が揺れる。

 よん、ご、ろく、教室には途切れることなくシャカシャカという音だけが響く。

 なな、はち、く、やっぱりそうだ。

「――うん。完成」

 そこで、有村はルービックキューブを机に下ろした。

「……今のタイム、九秒……四三……マジか」

「おっしゃ! 有村の完全勝利ぃ!」

「うわぁ……こーなる気してたけど、やっぱ引くわぁ。怖ぇわぁ。化けモンか」

「もう諦めろ。な、会田っち。無理。器用勝負はマジで無理」

「うそだろ……」

「思ったより回すのにコツがいるね。頭も使うし、良いゲームだ」

「お前はそのコツをどこで掴んだ……教えてねぇのに……」

「あー! 会田ずっけー!」

「会田くんのデモンストレーションがヒントになったよ。うん。楽しかった」

「マジか……」

「二学期もまたたくさん遊ぼうね、会田くん」

 お邪魔しました。そう言って席を貸していた八木に礼を告げる有村より先に駆け戻って来た落合は、興奮しきりに草間の腕を掴む。

「見た? いまの! 姫様の指が変な動きしたんだけど!」

 力任せにゆらゆらと、区切る言葉に合わせて揺られる草間はされるがまま、有村くんは器用だから、と答えてみた。なにせタネがわかっていても目で追えないくらいの素早さで、飴やコインを瞬間移動させる器用な指先だ。十本それぞれが別々の生き物みたいに動いても不思議じゃない。

「つか、なにあの迷いのない動き! そうゆうロボか! 初めてとか嘘っしょ!」

「んー、多分だけど、有村くんは配置を覚えて、最短で揃う順番通りに動かしたんじゃないかなぁ」

「はぁ? だって、渡されてから一分も経ってない」

「有村くんは暗記も得意だからぁ」

 そろそろ酔うなと思い、落合を宥めた草間は自分でも驚くほど落ち着いていた。

 嘘みたいな話でも、有村ならやりかねない。そう結論付けるほど有村の反則級に見慣れてしまったのもあるし、最大の理由はもっと明らか。今しがた披露された新しい特技は、草間に向けて晒されたものではないからだ。

 自分に関係のない所でまで一々驚いていたら身が持たない。その点では既に、草間は悟りの境地に爪先を引っ掻けていたりする。聞くところによると、藤堂たちもそうらしい。

 未だ騒がしい一角から離れ、本来の定位置、有村と藤堂の座席がある草間の隣りに移動して来た四人の中で最も誇らしげだったのは、異次元過ぎて笑えると特に声を弾ませていた鈴木だった。彼は会田とも仲が良く、クラスメイトたちは皆で会田の挑戦を面白がっていたので、鈴木も誇らしげに笑っていたと言った方が教室全体の空気を指すに丁度良い。 

「お前の指、変態みてーな動きしたな!」

「ひどい!」

 その一部になったつもりで小さく笑うと、草間はまた少しだけ今日で最後かと考える。

 教室の後方、窓側の後ろから二列目。通路を挟んで隣り合うこの席は、草間には思い入れが強過ぎた。最初は視界の隅で、こっそりと。次は横目で、チラチラと。今ではしっかりと顔を向け、「おつかれさま」と言えるようになった草間に、有村は今日も爽やかに「ありがと」と微笑んだ。

「姫様さぁ、面暗記して解いてから始めるってチート過ぎじゃない?」

「そうなの? じゃぁどうやって解くの? 回しながらのが難しくない?」

「何手だったん?」

「十九手」

「それが一瞬でわかったらしーです。ウチのおーじ」

「指の動きも変態だったけど、頭の中も変態構造だね。ドン引き。ゾッとする」

「ひどい」

「おちあーい。気持ちはわかるけど、頭の回転がいいって言ってやれよー」

「回転の速さが、マジ変態」

「へんたーい!」

「ひどいよ! みんなして!」

 このずっと見ていたくなる賑やかなひと時も、しばらくの間お預けだ。

 しかしながら、その代わりと呼ぶには充分過ぎるほどの楽しみが、最後のホームルームに合わせて開いた草間の手帳に早くも記されている。

 夏休み最初のお出掛け。週末を挟み次の火曜日、草間たちは遊園地へ遊びに行くのだ。ピンク色のペンでつけた丸印を見る度に、何を着て行こうか、靴はどれを履いて行こうかと、草間の脚は無意識に何回でも揺れてしまう。

 楽しみだ。本当に。毎日観ている週間天気予報には晴れマークしかなかったから、草間の心も負けないくらいに晴れ渡る。こんな気分で夏休みを迎えるのは初めてだった。

 その手帳に担任が黒板に書いた注意事項などを念の為書き写すと、草間は配られたプリントを挟んで鞄の一番奥にしまった。恋人探しもいいがお前は少し勉強しろよと町田が名指しされ、湧き起こる笑い声の中には鈴木や落合のものも混ざる。テストが明けてから夏休みにはナンパを頑張るとあれだけ言っていれば、担任の耳に入るのも当たり前だと思った。

 そうして正面を向くふりでそれぞれの顔を眺めていると、草間はひとり、ニコリともせずこちらを見ていた橋本と目が合う。

 アイラインを長めに引いた涼しい目の大きさはそのままに、睨み付けて来る鋭い視線。すぐに目を逸らした草間は、それをしばらく見ずにいられることにだけ素直にホッとした。

 この感覚は去年までの安堵と、恐らく同じだ。

 浮上したり沈んだりする草間の逡巡を他所に、一学期最後の日直が号令をかけた。起立、礼、さようなら。いつもより一層大きな挨拶が飛び交うと、まだ教壇に担任が残っている内にクラスメイトたちはクルリと背を向け、一斉にこちらを目掛けて駆け寄って来る。

 もとい、こちらにではなく、有村を目掛けて、だ。呆れ顔で笑った担任と目が合ったので、草間は軽くお辞儀をした。そうやって担任の男性教員は度々、草間を気遣ってくれる。通路を挟んだ左隣で始まったのは、しばしのお別れ会だった。

 大丈夫。仲間外れになどされていない。

 キョトンとした有村が大勢に取り囲まれるこの光景も、それに時たま軽く巻き込まれるのも、草間は結構好きだ。 

「姫で目の保養出来ない一ヶ月強とかホント灰色」

「真っ白な美肌は死守してね! 妖精さんは日焼けダメ、絶対!」

「アタシはちょっと、こんがりバージョンも見てみたいけど……」

「ダメだよ! 白くてこその精霊でしょう?」

「姫様は美を司っておられる故」

「大天使様。どうか、この夏こそ私に素敵な出会いを」

「ナンパ成功しますように!」

「――ねぇ。色々気になるけど、とりあえず拝むのは止めてもらっていい?」

「有村大明神。お守りに髪の毛くれ」

「なんで。普通に怖いよ」

「あっ、わたしも!」

「だから怖いって」

 賑わう様子を近くで見ているだけで楽しい気持ちになる。以前そう答えた草間に、姫様は祭りの神輿じゃないんだからと返した落合は、その騒々しさに背を向け、同じ台詞を思い出していたのであろう久保の席へと近付いて行った。

 草間が教室で見る光景のひとつひとつを名残惜しそうに眺めるのなら、ふたりはそこにやっと含まれるようになった世話の焼ける引っ込み思案を遠巻きに見つめる。読書に託けてひとりぼっちでいた頃を思えば、今の状況はまるで天国だ。

「おつー」

「おつかれ」

 そこには間もなく、もうひとり加わった。

「委員長もすっかり輪っかの真ん中って感じな」

 落合と同じくノリの良さはピカイチのくせをして、有村を中心とした騒ぎが集団に及ぶとまず加わることのない鈴木だ。おつかれのやり取りをもう一度しながら落合が視線を向ければ、山本もまだ自分の席で机の中身を四月ぶりに片付けている。

 ついでに見やった橋本の席は、お付きの席共々既に無人だ。

「どうよ、ちったぁ慣れたみてぇ?」

「まね。楽しいみたい」

「そらよかった……よかったんだよな?」

「んー、多分?」

「なによ、その微妙な言い方」

 含みのある雰囲気に苦い声を上げた久保は有村寄りだから、表情にも『微妙』を匂わす、ただのクラスメイトのひとりである落合や鈴木の感覚は苦手分野かもしれない。

「仁恵がみんなと打ち解けるのはいいことじゃない」

「まぁ、そうなんだけどね」

「なに」

「いやぁ……」

 言い辛そうな落合が視線で求めた助けに応え、「委員長は結局、有村のお気に入りだろ」とぶっきら棒に鈴木が返した。その顔が露骨に面白くないと言っているのは、彼もまた藤堂や有村の友人という一括りで存在感を上げた内のひとりだったからだ。

 取り囲んだ有村をご神体よろしく拝んでみたり、撫で擦ってみたり。未だ勢いの衰えない窓際の集団は、まるで教祖様を崇める宗教団体のよう。それを眺める鈴木の目には嫌気以外に差すものがなくて、落合はどこを見ていればいいのかわからなくなる。

 机の中身の空にした山本は一瞬だけ賑わう場所の様子を伺い、荷物を抱えて教室を出て行った。廊下から聞こえた会話では、今度はロッカーの片付けをするらしい。

「有村はいいヤツだからみんなにチヤホヤされてっけど、もし嫌われたら他のヤツからハブられるって心配は殆どがしてんだよ。委員長が告げ口したら、有村はきっと距離を置くだろ? 女共は特についこの間までイジられてんのシカトしてたんだから、内心ヒヤヒヤなんじゃねーの、って」

「バカらしい。仁恵はそんなこと言わないし、有村に避けられるくらいで――」

「それ、橋本見たあとでも言えんのは、久保さんくらいだと思うぜ」

 淡々と告げる鈴木の口調につられ、思わずいつの間にか空席になった前方へ目を向けた久保は何も言えなくなった。一気に天国まで駆け上がった草間の脇では確かに、転落した人気者が居る。

「姫様、なんでもないって庇ってあげたのに」

「逆効果だろ。委員長の両腕固めて旧校舎連れてくトコ、見てたヤツがいたんだから。自分の好感度上げるだけなら、有村ももうクチ挟めねーよ」

 言うだけ言って、最後に「面倒臭ぇ」と小さくぼやいたそれこそが鈴木の本心のように、落合にも久保にも見えた。校内でより学校の外での方が有村と親密に過ごす鈴木や山本は、案外と自分を強く持っているクチだ。単純に有村を気に入っているだけで、他に何もない。

 そうと理解出来る程度に同じ時間を共有したあとの久保からすると、孤立し始めた橋本の件で最も多くの面倒を被り、辟易したのは有村だった。

 草間さんを可哀想扱いされるのは気に入らない。あの詐欺師紛いの優男はそれを理由()に、草間を現在取り巻く環境と、橋本の最低限の立場を守ってみせたのだ。人目を忍ぶように、こっそりと。

 悪いのは態度をハッキリさせなかった、配慮を欠いた自分、と、情けない男になるのに迷いがなかった有村は、自分の使い方と女という生き物の生態をよく理解していると思った。余計な場面に出くわしてしまった久保を、しばらくは鬱々とさせたけれど。

「どうなんのかね、ハッシー」

「遅かれ早かれ孤立はしたでしょ」

「そう?」

「橋本さんは元々関わると面倒だから放置されてただけだし、やることやって一目置かれてる有村とは、違う」

 結果的に久保は、有村をやはり馬鹿だと思うことにした。

 いけ好かないというよりは、呆れて物が言えないという方の部類で、だ。

「……へぇ。久保さんもついに、有村がただのお人好しだって気付いたのな?」

「胡散臭いだけで、最初からお人好しだとは思ってるわよ」

「そっかー。そら、よかった」

 アイツは頭が良いんだか悪いんだか、ホントよくわかんねーよな。雑にうなじを撫でながら、しょうがないなという顔で弱々しく笑った鈴木に、落合は「初回でルービックキューブ九秒は、天才だと思うよ」と返した。取り繕った表情の出来栄えは、まあまあだ。

 すると自らも大概なお人好しである鈴木は、気を遣わせたお詫びか照れ隠しみたいに、コホンと偽物の咳を払った。少しでも重たい空気など、尾を引かせて楽しいものではない。

 楽しい話をする為に、落合は鈴木を呼んだのに。

「で、用ってアレだろ。今度の火曜。一応訊いといたけど、こっちは全員何時集合でもいいし、場所もそっちに任せるわ」

「え?」

「え、じゃねーし。昨日メール寄越したろ、終業式終わったら来いって」

「ああ! そうだった。忘れてたや」

「またかよ。すぐ忘れんな、この鳥頭」

 時間と場所だけはさっさとメール寄越せよと眉を顰められた落合は舌を出し、大袈裟にお道化て見せる。昨晩のメールを忘れていたわけではなかったのだ。ただ締め括りに悩んだ挙句のそれが、それこそただの照れ隠しだったから、ちょっと意識の外に行っていただけで。

 姫様とセコムの誕生日を祝うついでに祝ってあげるから、山もっちと鈴木の誕生日も教えなよ。昨晩の隠したい本題が、今更になって落合の鼓動を少し速くさせた。

 チビなんか論外だ。誰に向かって吐く言い訳なのかはわからないが。

「てか、人数いるんだから早め早めに動けって。そのウチ誰かしら欠けんぞ」

「うへへ」

「うへへ、じゃねーし。それぞれ都合があるってのに、そっちで話出てから何日寝かせてんだよ。なんだお前ら、計画立てられないB型集団か」

「むむっ。お主、さてはAだな」

「そーだよ。文句あっか」

「ないッス。でも正直、七人云々の前にまとめ役って苦手でのう……」

「丸投げする気は端からねーよ。そーじゃなくて、言い出しっぺが動かねーと周りはなんも出来ねーよって話。話さえ投げてくれりゃぁ調整くらい――」

「おー……」

「なんだよ」

「鈴木を我らがリーダーに任命したい」

「すんな」

 約四十日間の夏休みは長いようで、始まってしまえば驚くほどに短いもの。

 男子組の中では意外にも一番キッチリした性格の鈴木に、「とりあず、やりてーことは一回こっちとも共有しとけよ」と脳天チョップを食らった落合は、やっと素直にヘラリと笑った。

 せっかく出来た縁だから、この夏を最高の思い出で一杯にしたい。これでもかと予定を詰め込んで色々な場所へ行き、これまでよりずっと楽しい夏休みにしたいのだ。

 それは「リスト作りやす!」と額のそばに手を翳し、敬礼の仕草をした落合に、「期待しねーで待ってるわ」と言い残して去って行く鈴木を横目で見送る久保も同じ。自分より十センチ以上小柄な背中から視線を戻して落合の嬉しそうな横顔を目に留めると、久保は自慢のポーカーフェイスが崩れないよう、そのまま窓際まで涼し気な目線を滑らせる。

 そうした久保の見なかったふりに気付いた落合が急に「購買行って来る」と席を立ったのは、やはり彼女の照れ隠しだった。隠すことはないのに。久保はそれもまた口にせず、居た堪れない友人を快く見逃してやった。

 草間のことばかり幼いみたいに言うけれど、落合だって充分に可愛らしい恋をしている。

 幼稚な意地を張っているという意味では、ピークを過ぎたらしい騒ぎの中心、そのひとつ後ろの席につい睨みを利かせてしまう久保もそう変わりないが。

「……なに自分は違うって顔してるのよ。信者一号のくせに」

 有村は本当にお人好しだ。迷惑そうにはしても決して嫌だと言わないから周囲もつけ上がるし、それでいいと思ってしまう。ああいうのには限度がない。久保も入学当初には少々面倒な目にあったから、この姿勢を貫いているのだ。

 自分が甘えていることに気付いていない人ほど、許してしまうだけ甘やかすフリで甘えて来る。それにもまた、久保が思うに限度はない。

 特に、あのなりたがりのヒーローさまは。

「……ふん」

 別に、期待しているわけじゃない。あんな胡散臭い男に、アイツを変えて欲しいだなんて思ってない。仁恵を変えたみたいに、なんて、これっぽっちも。

 胸の内で零した久保の言葉は誰にも届かず、じんわり滲んで、やがて跡形もなく消えていく。なのに一瞬だけ、眺めていた先で有村がこちらに気付いた気配がした。

 軽く視線を投げて寄越して、久保に向けた風でもなく口角を上げる。だから久保は有村が嫌いだ。あの薄い色の瞳が嫌いだ。

「…………」

 久保は声を使わずに、口の動きだけで『しね』と言ってやった。

 誰かにとっては奇跡みたいな幸運で、誰かにとってはタナボタで、誰かにとっては奇しくも再びに繋がった縁。

 それをどう形作っていくかの夏が、いよいよ始まろうとしていた。

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