天使はどっちだ
無事に辿り着いた独特の香辛料が香るカレー専門店。
人気店のようで今は外に列が出来ているが、滑り込みで本格的に混み出す前に入店出来たふたりは奥まった四人掛けのボックス席に向かい合い、届けられた皿から上る湯気に混ざった刺激的な匂いにそっと頬を綻ばせていた。
店内に流れる会話を邪魔しない音楽は中々好みの感じで、目の前には自然に口角を上げる有村がいる。座ってやっと気付く歩き疲れた脚の怠さも、日差しを浴びてやや日に焼けた気がする火照った首筋も心地良い、至上のひと時だ。
「色が全然違うね」
「ね。やり過ぎたかな。鼻が痛……あ、眼鏡が」
「あはは。ウチのお父さんもよくそうなってるよ。眼鏡者の悲しみ、でしょ?」
曇る眼鏡は煩わしそうで、けれど取ってしまうと手許が見えないという有村の視力には少々驚きつつ、激辛を選んだ彼のと比べてだいぶ色の薄いルーを絡めてひと口含むと、草間はその美味しさに思わず唸った。
甘口でもちゃんと香辛料っぽい味も、匂いもする。口の中でホロホロと崩れる牛肉がまた脂の具合も丁度良くて淡白過ぎず、これは確かに久保が絶賛するに値する美味しいカレーだ。家で食べるのとは全然違う。
「おいひい……!」
「ふふっ。草間さんは本当に、可愛い顔をして食べるね」
「むぐっ!」
ついしてしまったのは、所謂えびす顔というやつだろうか。
予想以上の美味しさに緩んだ顔を静かな笑みで指摘された草間は大層慌て、少し噎せて、コップの水を一気に飲み干した。今のは完全に不意打ちだもの。飾らない有村も、やっぱりズルい。
いつもの草間なら、きっとここで気恥ずかしさに俯いてしまっただろう。が、しかし、今日の彼女は一味違う。
たくさん笑い、たくさん話して気兼ねなく過ごせた分、いつもより有村を身近に感じられた草間は多少気が大きくなっていて、空にしたコップを置くなり正面へと向き直り、仕返しのつもりで真っ直ぐな視線を送った。
無事に大役を果たせた安堵と美味しいカレーの力を借りて、教室でたまに見る美味しい菓子を頬張った時の『うーん!』と唸るお気に入りの表情を間近で見てやろうという魂胆だ。匂いだけで喉の奥がヒリヒリしそうな激辛に眉を顰めるところでもいい。辛さにちょっと頬が赤らむだけでも、常々麗しい有村のそうでない新しい表情が見れたら尚良いと、そんな気分で。
そう期待いっぱいに目を輝かせていた草間の前で、カリカリのオニオンが散らされたライスとルーを絡めていたスプーンの動きが、不意に止まる。
「あの……」
「あっ! ごめんなさい。私、見過ぎた」
「いや……うん。それはまぁ……そうなんだけど……」
らしくない歯切れの悪さで言い淀んだ有村はそのままスプーンを手放してしまったので、草間はすぐさま反省しきりに頭を下げた。それはそうだ。誰だってじっと見られながら食べるのは気まずいに決まっているもの。仕返しなんて思って申し訳ないことをした。
一気に気持ちが萎れた草間は平謝りの様相で、沈黙した有村を伺い見る。怒らせてしまったかなとか、そうでなくても不快だったろうな、と。しかし上目遣いを向けた先でまだ何か言い辛そうにしているのを捉えると、そのどちらも違うようで訝しむ瞬きの回数が増えた。
期待していたものとは違うが、これもまた草間の知らない表情だ。やっぱり綺麗だなと見惚れそうになるけれど、下向き加減でより長さの目立つ睫毛に隠れた視線は迷子みたいで、素でいても飄々としている感が否めない彼がどういうわけかひどく困っている。
「あの、もし、草間さんが嫌じゃなかったらでいいんだけど……そっち、行っていい?」
「……え?」
「隣り、並んで食べていい?」
「斜めとかじゃなくて?」
「うん。隣り。嫌でなければ……」
嫌ではないが、四人掛けのテーブルで横に並ぶのは、正直物凄く恥ずかしい。けれど躊躇いがちに人差し指を向けて来る有村にそれを言うのは気が引けて、断るにしても理由を聞いてからにしようと草間は言葉を飲んだ。
この様子は何かのスイッチが入ったみたいな大人びた有村の雰囲気ではないし、何より心底言い辛そうなのだもの。草間が気圧される色っぽい時の彼なら、もっと断り難い口調で言ってくるに違いない。
「別に嫌とかじゃないけど、どうして? あ、そっち冷蔵がきついとか」
「……ううん」
「じゃぁ、風向き的につらいとか?」
「……ううん」
「じゃぁ――」
「……しいから」
「え? ごめんなさい。ちょっと聞き取れな――」
「はずかしいから……人と向き合って食事をするの苦手で。慣れるまで、恥ずかしい……」
「――――ッ!」
ダメだ。気絶する。
告げるなり柔く握った手を口許に寄せた有村の耳に差した赤を見て絶句した草間は、テーブルの下でこれでもかと両膝を握り締めた。骨まで軋んでくまうくらい、立てた指先は十本全部が真っ白だ。
そうと知る由もない有村がポツリと続けるに、人前で口を開けるのが恥ずかしいのだとか。あの有村洸太がと驚くより、その控えめに言って可愛らしい恥じらいの仕草に馴染みのない興奮が頭の中を駆け巡り、草間の肺は空も同然。
荒ぶった落合が時折使う『萌える』とか『滾る』とは、きっとこのことだ。まだひと口しか食べていないのに、何故だかもう胸いっぱいでお腹いっぱい。
「もしかして、学校でお昼ご飯にプリンとか食べてるの、小さいスプーンならそんなに口を開けなくていいから、とか?」
「うん……」
「そう言えば、前にご飯食べた時もいつの間にか食べ終わってるか、夜はやっぱりパフェだったね」
「前はまだ草間さんがあんまりこっち見なかったし、食べるのは速い方」
「そっかぁ……」
「だから横、並んでいい? 何回かしたら慣れるから、一回目は、ちょっと」
「ウン。イイヨ。ドウゾ」
理由は、歯並びが良くないから。絶世の美人と名高い彼が、歩く美の象徴みたいな人が、そんなことを言う。
歯並びくらいなんだ。有村ほど麗しい人がそれくらいで恥ずかしいとか言ってたら、外食文化などとうに廃れていて然るべき。
見開いた眼球は燃えてしまいそうな熱を持ち、それでも草間は瞬きもせず移動して来る有村を目で追った。つい先程の猛省も忘れて。
「……お邪魔します」
「…………ハイ」
隣りにかけても一瞬だけチラと目を合わせ、近い方の肩に横顔が隠れる数センチ分だけ背を向けたりする。それが十七歳男子の、あの自信満々な王子様の恥じらいかと思ったら、草間は今すぐ大声で叫びながら駆け出したくなった。
可愛い。カワイイ。思考力など放り投げた頭の中に残った語彙はそれしかなくて、視界の端にかかる自身の髪先が戦慄くまま小刻みに震える。
でも地球の裏まで走っては行けないし、何より今は食事中。行儀良くしなくては。落ち着け自分と草間は深呼吸をして自身を宥め、そうは言っても有村を見て歯並びが気になったことはないなと考えついた。
思い出せるのはまるで歯磨きのCMに出て来そうな、爽やかな彼にぴったりの真っ白な歯列。思い当たるものがないわけではないが、果たして気に病むようなものだろうか。
前は普通に、見せてくれたのに。
「もしかして有村くんが気にしてるの、前に見せてくれたあの牙みたいな犬歯のこと? 有村くん、全然歯並び変じゃなかったのに」
「あれは楽しくなって、つい。気持ち悪いの見せちゃったから、あとですごく後悔した」
――しょんぼりしてるの、かわいい。
「なんで? 気持ち悪くなんかなかったし、カッコイイなって思ったよ?」
「いいよ。気を遣ってくれなくて」
――拗ねてるのもかわいい。
「吸血鬼みたいでカッコイイよ」
「変だよ。たまに当たって口痛いし」
――不便なんだ。かわいい。
「でも、もし変だったとしても有村くんは他が完璧過ぎるから、私はあの牙を見てなんだかホッとしたよ?」
「……なんで?」
――こっち向いた。かわいい。
「全部綺麗じゃ大変だもん。カッコイイなって思ったけど、一般的には整ってないんだろうし。だから、ホッとした。有村くんにもそういう所があるんだなって思って!」
「本当?」
――控えめな上目遣い。凶悪にかわいい。
「本当だよ。だから、全然恥ずかしがることなんかないよ!」
「……じゃぁ、あっち戻る」
――ああ、もう! 全部可愛くて死んでしまう!
再び席を立とうとする有村の腕を掴んで引き留め、草間は早く食べようと素晴らしく良い笑顔で促した。これ以上の可愛さを浴びせられたら本当に息が出来なくなる。内心ではもうバッタバッタと身悶えて瀕死ラインもいいところだ。
名画の如く美しい外見にして、性格も底抜けに可愛いだなんて。有村洸太、やはりどこを切り取っても最強である。
「美味しかったね」
「そうだね」
最初のひと口以外は碌に味なんてわからなかったけどね、とは言わず、手を繋いだふたりはすっかり日の暮れた帰路に就く。
明日もまた学校で会えるけれど、その時にはいつもの大人びた彼だ。そう思うと前回より大きな名残惜しさで歩く速度が遅くなる、そんな帰り道。浮かれた草間の足取りは歩調の割にずっと軽く、綻んでしまうニヤけ顔も治まる気配がまるでない。
最高の一日だった。目覚めた時にはこの世の終わりみたいな気持ちで泣いていたなんて嘘のよう。目が合う度にそっと微笑んでくれる有村に嫌われてしまわなくて本当に良かったと、草間は胸を撫で下ろしっぱなしだ。
「今日は本当に、すっごく楽しかった。こっちの有村くんの方が、私たくさん話せるみたい!」
「よかった。子供っぽいって呆れられるかもって、心配だったんだけどね」
「ちょっとビックリしたけどね? でも、楽しかったから」
「そっか」
「これが本当の有村くんかぁ……」
草間はそう呟いて、ふふっ、とだらしない頬を更に緩めた。
正直を言えば、いつもの有村の方が照れ臭い以外の困惑は少なくて、一緒にいる間中ふわふわしたお姫様気分でいさせてくれる。でも今日の方がわかりやすくて自分まで自然体でいられる気がしたから、草間は口に出した通り飾らない有村の方が『楽しい』も『嬉しい』も何十倍も大きい。
「僕も、楽しかった」
「本当? なら、よかった!」
「こんなに気負わず楽しめたのは、初めてかもしれないな」
「またぁ。有村くんはいつもそうやって喜ばせてくれようとして」
「嘘じゃないよ」
だから一歩進んだ折にふと離れた手に有村を振り返り、彼が視線を落としていても、草間の笑みは崩れなかった。
くすぐったくて、甘ったるい雰囲気もそのまま。それがいつもより素直にこの胸を喜ばせてくれる。間違いなく、草間はこの数時間で有村をもっと好きになった。これ以上なんてないくらい。
ただ、嘘じゃないと繰り返した真っ直ぐな目を見た瞬間だけ、ほんの少し浮ついた心の奥がチクリと刺した。昼間の駅前で見たような弱々しい微笑みだ。有村は瞼を伏せて口角を上げていたけれど、眉だけ困ったみたいに下げている。
そういう笑顔も持っているんだなとまじまじ見つめていたら、草間は不意に彼が学校で『微笑みの王子様』と呼ばれているのを思い出した。
誰の前でも何をしている時も、浮かべているのは大体、笑顔。草間にしてもそうして終始にこやかな彼に惹かれたわけだけれど、困っても笑うから『微笑みの王子様』なら、その気遣いも今日限りはあまり嬉しくない。
せっかく笑ってくれるなら楽しい時だけがいい。気は遣わないと言ったじゃない、と、草間はそんな気分で、向き合いながら鏡合わせみたいに同じく眉を平坦にした。
そうして悶々とする内に彼と違って顔に出やすい草間の表情は露骨に曇り、有村が姿勢を正してコテリと首を傾げて見せたのがまた気遣いなら、少々気まずいと口を固くする。
ふたりの間に落ちた、何とも言えない微妙な沈黙。それを破った有村の声は、いつもより少し低い。草間が知る限り、有村の声が低く響くのは楽しくないことを言う前触れだ。
そして、その予感もまま正しかった。
「でも、昨日も同じくらい羽を伸ばし過ぎてしまったから、二度目ではあるかな。やっぱり、君がそうさせてくれるのだろうね」
「そんな……」
「なのに台無しにしてしまおうとするなんて、本当に情けないな。ごめんね。謝って済むことではないけれど」
「もうやめよ? 昨日の話は。私も良くなかったし、そんなに謝られちゃうと逆に気まずい、というか……その、お互いさまということで……」
「ありがとう。君は天使なのかな」
「てっ、天使って!」
「ふふっ」
でも、耳に届く有村の声が徐々に軽くなるにつれて草間の口も軽くなり、立ち込め始めた重い空気は煙のように消えて行く。
喉を震わす控えめな笑い声。気にして見ていれば、そこでも歯列を覗かせないように有村は笑う。二度か三度見た大きな口を開けて笑うのが一番好きだけれど、その笑顔も草間にとっては宝物だ。
願いが通じたみたいに有村が大好きなそれを見せてくれたから、草間もつられて大きく笑った。




