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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第一章 初恋少女
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王子様の朝

 それまでの草間の毎日というのは大体が昨日の繰り返しで、良いことも悪いことも一晩寝れば大凡リセットされるのが常だった。そうする癖が付いていると言ってもいい。

 例えば過ぎることは夢だと思ういつもの現実逃避もその一部。それまでがあまりに平坦だった草間にとって、興奮や緊張を日を跨いで持ち続けるというのはなかなかハードルの高い話なのだ。

 今朝、前日の夜遅くまで調べものをしていて寝不足気味だった草間は、起き抜けに洋服が散乱する部屋を眺め『はて、なんだったかな』と数秒間、その動きを止めた。

「昨日は確か、絵里ちゃんときみちゃんが来てくれて私の服を――」

 そこまでを思い出し、草間はベッドの上で茹だったように赤らんだ。

 部屋にかかるカレンダーには、落合がつけた丸印がひとつ。今週の土曜日。それはもう明日の話だ。

「そうだ、私。明日、有村くんと……!」

 無意識に持ち上がった手が着ているパジャマの合わせを掴んだ。鼓動は早いし、顔も熱い。苦しいわけでもないのに詰まるような胸を押さえて前屈みになり、ついにはパタリと倒れ込む。

 どうしよう。どうしよう――!

 少し間まで恋愛感情を持つことすら諦めていたのに、そんな自分が男子と、しかもあの全校の王子様たる有村と出掛けるだなんて。

「どうしよう……って、どうなるの? 私」

 ブブー。ブブー。

 死んじゃう気がする、と蹲る草間の携帯電話が、部屋の中頃に置いてある小さなテーブルの上で震えた。

 時間はまだ七時すら回っていないのに一体誰だろう。訝しみながらベッドを降り、携帯電話を開いてみると、届いていたのは久保からのメールだった。

『おはよう。昨日はちゃんと眠れた? 今日だけど、泊まる用意と、あと使えそうな鞄とか幾つかまとめたから朝寄って、持って行ってもいいかしら』

 読み終えたメールを閉じもせず、草間は呆然とそれをベッドに投げ出した。

 これはちゃんと昨日の続きだ。リセットされていない出来事で、明日は本当に有村に誘われた土曜日がやって来る。

 目が回りそうだ。

「――こんなんで保つのかな、私……」

 今更ながらに噛み締めた現実に、草間は膝を抱えて丸くなった。



 彼女らが学び舎、譲葉高校二年C組の教室は新校舎二階の奥から二つ目に位置している。

 ひと学年にクラスは四つ。学年ごとに階が分かれているので、新校舎二階には本来、二年生以外の生徒はいないはずである。

 しかしそれはあくまで立ち入る必要がないからであって、いてはいけないわけではない。だからこの階だけが異常な人口密度を叩き出していても問題はないわけで、そうやって通り抜けやら先輩ないし後輩に用がある体で迷い込む他学年の生徒たちは我が物顔で廊下の幅を狭くした。

 口実はなんだっていい。彼女たちの目的は言わずもがな、始業時間のギリギリにやって来る有村である。

 だからその手には手渡したいのであろうファンシーな袋や封筒などが握られていたりして、そんなあからさまを見る度に、本年度の二学年、特にC組の面々は少しばかりうんざりとした気分になった。

 道幅が狭くなるのが不便で、というのが半分。

 あとは毎朝その相手をしなければならない有村が不憫で、というのが半分である。

「あっ、ちょっと、また有村くん捉まってるよ。あれ三年じゃない? なんか珍しくすっごい抵抗してるけど」

 教室の廊下側の席にたむろしていた数名が登校して来たらしい有村を見つけ、ドアから身を乗り出した。

「うわぁ、腕がっつり組まれてるじゃん。かわいそー。あ、抜けた。あ、まただ」

「最近ああいうの増えたよねぇ。最初の頃はみんな恐れ多くて近付けないとか言ってたのに」

「ちょっと、セコムどこ行ったの?」

「この間なんて、一回でいいから抱いてとか言った三年がいたって」

「うっそ。最低」

「形振り構ってられないんじゃん。諦めるから一回キスしてとかは多いって聞くよ」

「やだぁ」

「思い出をくださいって? バッカみたい!」

「ねー。軽そうなのは見た目だけって、いい加減で気付けばいいのに」

「ウチの姫様はそんな安くないんだよーだ!」

 一ヶ月ほど前ならば殺気立っていたであろう彼女たちも今やすっかりその光景に慣れてしまって、騒ぎはしても冷やかすまでには至らない。

 相手が上級生であろうと下級生であろうと、美人であろうとそうでもなかろうと、どうせ有村は断るのだ。過去に同じ場面を幾度となく見てきた二年C組の面々にとって、それはそろそろ日常の一部になりかけていた。

 そして、そう感じているのは草間も半ば同じである。

 廊下の向こうから聞こえて来る猫撫で声には存分に覚えがあるし、それはどうしたって諦めきれない女子が、邪険にされないのをいいことに『教室まで』とか何とか言ってついて来たに違いないと知っていたからだ。

 朝から大変だな、といつもならば思う。それだけだ。

 恐らく今日も有村は溜め息交じりに席について、無造作にポケットから出した飴なりチョコレートなりを口に運び、何事もなかったように一日を始めるのだとわかっているのに、草間の胸は何故か今日に限ってやけに騒いだ。

「腕くらい即座に振り払え。尻軽が」

 教室のドアから様子を窺うクラスメイトたちの話を聞き、草間の正面に立っている久保が悪態を吐く。

「軽くない、軽くない。寧ろ軽いの相手だからね、絵里奈。口、誰おまレベルで悪くなってるから。朝から無駄な闘志燃やさないの、ね」

 それを宥める落合の手が優しく肩に触れたので、ようやく草間はこの胸騒ぎがいつもよりも有村を意識している所為だと気が付いた。

 下の名前で呼んでもいいか。今日の放課後は空いているか。

 徐々に大きくなる媚びた声が、甘く有村に問いかけている。その返事まではまだ聞こえて来ないが、返されたあとの女子の反応を聞いて察するに、彼はどちらも断っているようだった。

 よかった。ついそう思ってホッと胸を撫で下ろしてしまう自分に、草間は隠れて苦笑する。

 口ではどうも手厳しく拒絶しない有村が、触れられた時などに振り解くなり拒むなりすると心の隅ではっきりと安堵する自分がいる。そうした心の狭さを彼女は恥ずかしいと思っていた。

 そんな、他人の失恋を喜ぶようなこと。草間の良心がそう咎めるのなら、夢見がちなもうひとりは不誠実でなくて良かったねと笑ってみせたりする。

 その狭間で草間は度々、酷い自己嫌悪に陥った。

「じゃぁ明日は? えー、それって一日かかるものー? 何時ならいい? ねぇ」

 心苦しさに下を向いた刹那そう尋ねたのが聞こえて、草間は思わず身体を固くした。

 それを感じ取ったのか、落合がその横顔に「姫様はダメだって言ったんじゃない?」と耳打ちをして来た。

「断ったから、何時になら空くんだって訊いてるわけでしょ」

「あ、そうか」

「よかったね」

 草間はホッとして笑みを浮かべたが、次に口を開いたのは無表情にドアを見つめる久保の方だった。

「約束くらい守るでしょ。普通」

「もー、絵里奈はどうしてそう姫様に厳しいわけ? なに。親の仇か何か?」

「ヘラヘラしてる男って、大っ嫌いなの」

「でも仁恵の初恋なんですけどー」

「――腹立たしい」

「絵里奈ぁ……」

 つい数分前まで今日と明日は草間の為に頑張ると息巻いていた久保と、その強情に項垂れる落合のやり取りを縫うように、ドアから見守っているグループが「ねぇ、藤堂くんまだ?」と教室の中を見渡した。

 有村もはっきりと断るには断るのだが、常々あの風体なのでしつこく迫れば押し切れるのではと引き時を逃す輩が時折現れてしまう。そういう時に有効なのが藤堂の“連れ去り”だ。

 彼はどこからともなくやって来て、行くぞとひと言。文字通り有村の首根っこを掴んで、その場から連れ去ってしまう。それはもう、何人にも有無を言わさぬ迫力で。藤堂自体はそれを面倒だと言ってあとで有村を小突き回すのだが、その必殺技は皮肉なことに今のところ負け知らずである。

 しかしそんな藤堂が今日は何故か、ホームルーム間際になっても教室に戻って来ない。

「長引くかもね。今日のは」

 落合がそう呟いたので、草間は藤堂の席を見ようと斜め後ろを振り返った。彼はどこに行ってしまったのだろう。そんな思いで瞬きをした草間は、その視界を凄まじいスピードで駆け抜けた影に思わず肩をビクつかせた。

 藤堂が有村の右腕ないし相方であるならば、そんな彼らと行動を共にする『お付き』のひとり。

「え。鈴木?」

 姫様の隠し玉と言われることもあるその彼は、どうやら今朝の救世主に名乗りを上げたようだった。

「あーりーむーらぁっ!」

 けたたましい声を上げながらそれが通り過ぎたのは、大きく開け放たれたドアの向こう。

 全速力で廊下を右へ、つまり有村がいるであろう方向へと走って行った。と、同時に響き渡るホラー映画のクライマックスのような女の悲鳴。

 次いで、きゃぁ、とも、いやぁ、とも取れる甲高い声がひっきりなしに、「なにっ、なんなのっ!」喚き散らす。

 なんだ、なんだ。

 状況がわからず繰り返す廊下の声と似たような言葉が教室の中からも溢れ出したが、次に聞こえて来た声で、その犯人が落合の見間違いでないと明らかになった。

「ちょっ、のんちゃ……ッ! 痛ッ、痛いって! 痛い!」

 悶絶する有村の声。それがのんちゃんと呼ぶのは、クラスメイトで有村と親しい鈴木忍のことである。

 彼は腹から絞り出すような「ふははははっ」という如何にも悪魔らしいという風な笑い声を上げるばかりで、有村が何を言おうと取り合う気はないようだ。

「なに? ちょっと……え、有村くん? 大丈夫なの?」

「大丈夫ですよ! 大丈夫! ……ッ、のんちゃん、ちょっと加減して……っ、すみません、これ、友人なので大丈……痛いッ!」

「朝から女人といちゃつきまわす外道には粛清を!」

「痛いッ! あの、そういうことで……ッ、お誘いには乗れないので……ッ! いッ、失礼します、ね……ッ、もう! のんちゃん!」

 なんとも有村らしからぬ声だ。彼は普段、滅多に大きな声を出すことがない。

 一体何があったのだろう。草間は落ち着かない気持ちで、そわそわと教室の様子を窺っていた。するとほどなくして廊下から入って来た男子が席に着くなり、「鈴木が有村の乳揉んでるわ」とヘラヘラ笑った。

「あれ痛ぇんだよなぁ、肉のねぇトコもぎ取る気で掴むから。渾身の力で鷲掴みとか千切れるわ」

「なんであんな痛ぇの? 鈴木でなくてもあんなもん?」

「いやぁ、鈴木だからだろ。あいつ握力と執念半端ねぇもの。普通なら胸パンのが痛ぇ」

「だな。非モテの恨みは怖い」

「お前が言うな」

 鈴木の自慢は藤堂にも勝る腕力ただひとつである。

 特に指先の力には自信があって、それで思い切り胸元を鷲掴むこの技は、クラスの男子なら一度は味わったことのある思い出したくもない苦痛、であるらしい。そして二年に上がってからの一番餌食は有村だったりする。

「で、どうして有村は逃げねーの? あいつマゾ?」

「さぁ。やられ慣れてねぇから驚くんじゃね? 道路に飛び出した猫みたいに止まるしな」

「鈴木は暴走トラックかぁ」

 鈴木はとても小柄で、藤堂と比べると兄弟よりは親子と揶揄されるほどの身長差がある。飛びかかろうにも、頭を掴まれれば手も足も出ない状態。そんな悲しい一年次を悶々と過ごした鈴木には、それより若干差の小さい有村がじゃれるには都合がいいのだろう。仲が良いのと、他の男子が言うには女子人気の妬みもあって、他の誰にするよりも有村に対してだけ容赦がない。

 しかも有村は基本的には温厚なので、力の限り胸を掴まれるくらいでは止めてと言うだけで怒りもしない。それがまた鈴木に拍車をかける。

 ダンッ。

「あ。来た」

「あーあ。おーじさまがひでーもんだ」

 少しして現れた有村は開け放たれた教室のドアに手を着いて、落ち武者か、そうでなければ瀕死の負傷兵のような様相で髪と制服を大層に乱していた。

 そんな有村の背中にぴったりと張り付いている鈴木の手は、未だ胸元を鷲掴んだまま。

「――着きましたよ、忍さん。そろそろ放してもらえませんかね」

「席までまだありますよ、このスケコマシ」

「誤解ですよ、忍さん。やめましょう? 朝から疲れましたよ。もうおウチ帰りたいくらいですよ」

「あーあー、朝からセンパイと仲良くご登校で疲れましたってか。モテる男は違うねぇ」

「言いがかりにも程がありますよ。なんですかコレ。この人痴漢ですのデスエンドですか。痛いです。特に何に目覚めることもなく、ただただ痛いです」

「黙れ……滅すぞ。敵認定してひん剥いてやろうか。なぁ、洸太お坊ちゃんよぉ、お人形みたいな顔しやがって。近くで見るとドキドキするなぁこの野郎。脚も長ぇから絡めやすいじゃねぇか。硬ぇ腹しやがってよ、鍛えてんじゃねぇぞ! この全方位イケメンが!」

「忍さん、それもうなんか褒められるのか貶されてるのかわからな……痛ッ」

「リア充憎いッ!」

「痛いッ」

 再び握られて前屈みなったところを後ろから飛び乗られ、ついには床に膝を着いた有村に尚も覆い被さる鈴木を見て「眼福!」とはしゃぎ出した落合とは対照的に、久保はそっと草間の頬に手を添え視線を移動させると静かに首を左右に振った。

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