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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第三章 脱却少女
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祭りのあとの

 彼の、頬を叩いた。

 その意味が、時間の経過と共に重みを増して、草間の胸に襲い掛かって来る。

 帰り道に落合や久保と何を話したのかも、帰ってから部屋に入るまでもそのあとも、ひどく記憶が曖昧だった。

 何度も思い返した。あの時のことを。近くで年上の若いカップルがキスをして、口の中がカラカラに渇くほど緊張してから先を。

 だって隣りにはあの王子様がいたのだ。引く手数多なのは全校生徒のお墨付き。そういうことには当然慣れているはずの、有村洸太が。

 そうしたら草間はふと彼がどんな風にあのふたりを見ているのか気になって、それがいけなかったのかもしれない。曲がりなりにも付き合っている間柄として、一応『見られちゃうって』と嫌がる素振りをしていた、紫とピンクの混じった浴衣をいやらしく着崩していた女性と自分が多少似た境遇なのに気付いたのも随分とあとで、ただ純粋に、家族団らんの席で唐突にテレビから流れ出したラブシーンに思わず親の顔色を窺ってしまう条件反射と同じだった。

 他意はなかったのだ。本当に。でも、三回くらいチラチラと伺っていたら、何か言いかけるような有村と目が合った。暗がりで良く見えなかったが、ただ見られたという風な目だった。しまったな、と思う暇もなく、そこからの記憶がやけに朧げだ。

 起きていたのに、金縛りに遭ったみたいな感覚だった。無数のピンで固定された昆虫標本みたいに瞬きも出来なくなって、覗いてしまったあのヘーゼルグリーンの瞳から目を逸らせなくなって、頭から丸飲みされてしまうような息苦しさがあったのに、動けなかったけれど動いちゃいけない気がした。

 変な話、食べられると思った。上の方から、バリバリと。それ以外は一瞬真っ白になって、何も考えられなくなっていた。顎先を持ち上げられて、息が止まるほど綺麗な顔が近付いて来て、引きつった喉が変な音を漏らして。有村が少しだけ動きを止めた瞬間に、身体中を警告音が駆け巡った。

 それで。

「――――ぶった、わたし……」

 いつの間に寝落ちしたのか中途半端にかける布団の中で口に出してみたら、突っ伏した枕にじわりと溢れた涙が染みて行った。

 あの瞬間に沸いた感情にあとから名前を付けるなら、それはたぶん視線を送ってしまったのと同じく条件反射だったというのが一番近い。有村の手や目線が日頃の穏やかさから駆け離れた感じだったのと、その両方に過ぎるくらいの異性を感じてしまったから、草間の本能が考えるより先に彼を避けた。

 彼を、というのは間違いかもしれない。草間は唐突に距離を詰めて来た、大人の男性のような目付きを避けたのだ。ただの屁理屈にも思えるが、拒否反応を起こしたのは有村にではなく、彼が異性だったから、そう結論付けるのが一番の正解に思える。

 別に、忘れていたわけじゃない。彼も、男の子だったってこと。なのに、そうだったと思い出すくらいに草間にとっての有村は、ただ有村洸太という名前の人だった。これもまた屁理屈か。だとしても、そうと思う他ないくらいに、男性全般に抱く恐怖心が有村に対してだけ一切役に立たなかった。あの、右手を振り抜いてしまった瞬間以外は。勿論、今でも他の男性は怖いのに、だ。

 人として、彼が好き。多分そういうことなのだろうと草間は思う。彼は綺麗だ。顔が、というのは勿論あるが、彼は存在そのものが滾々こんこんと沸き出す清水みたいに透き通っている、気がする。だから触れられる。彼は、綺麗だから。

 草間が恐れるものは、いつか覗いたドアの隙間、そこにあった彼女のトラウマと、同じ状況に置かれる自分。五年以上が経った今でも、思い出すだけで何度でも当時と同じ吐き気が込み上げて来る姉の痴態を、草間ははっきりと嫌悪している。

 あれは、恋じゃない。人を好きになるということは、あんなに醜いものじゃない、はずだ。

 プラトニック、なんて言葉が脳裏を過る。草間が憧れているのはそこまで崇高なものじゃない。でも、手を繋いで嬉しくなって、見つめられてドキドキする、そういう恋がしたかったという点ではシンパだったかもしれない。

 彼は、有村洸太という人は、そういう恋を草間に許してくれていた。と、草間は思っている。拙い私に合わせて、足並みを揃えてくれているんだ、と。彼はそういう優しさに溢れた人だった。無理強いはしない。教室で誰かがバカなことを言っても、やっても、決して馬鹿にしたりしない。きっと本当に優れた人だから、心が他の子の何倍も大きいんだ、とも思う。全部、受け止めてくれる。昨日だってそうだ。

 射的の屋台で、いつもの悪い癖が出た。けれど有村は訳もなく逃げ腰になる自分と、ちゃんと最後まで向き合ってくれた。面倒臭いと聞き流すでも、強引に背中を押すでもなく。ただ、試してみないか、と誘ってくれた。きっと楽しいよ、って。顔はずっとツリ目の狐だったけれど、だから余計に温かさだけを草間は感じた。 

 それがどれだけ幸せなことか。どれだけ、嬉しかったか。なのに。

 ほんの少し意表を突かれたら悲鳴を上げて、頬を叩いて逃げ出した。まるで恐ろしい怪物に出くわしたかのように怯えて、走って逃げた。呼び止めた有村をまた無視して、結局そのまま被害者みたいな顔をして家まで帰って来てしまったのだ。

 一番してはいけないことをした。有村がどういう人か良く知る前に無視をしてしまったのとはわけが違う。ああいう人こそ傷つけてはいけないのだ。間違いなく、昨日の悪はこちらにあった。

「なのに、なんで泣くのよ……悪いのは全部、私じゃない。謝りたい。今度こそ、許してもらえなくても。でも、なんて言えばいいのかなんて……私……」

 遣る瀬無く見やるベッドの脇には、射的の景品だったウサギと思われるぬいぐるみと、丁度半分に分けた草間の分の駄菓子がビニール袋に入って転がっている。

 そして近くのテーブルには有村がくれた髪留めと、うっかり持ち帰ってしまった二匹の金魚が、朧げにも入れらたらしいガラス製の小物入れの中で窮屈そうに泳いでいた。

 ジャングルジムで空を見上げていた有村が落としてしまいそうで預かっていたつもりが、草間は今や誘拐犯でもあった。返せる気も、少しもしない。

「……きえたい……」

 なんならもう死にたいと口走りたいくらいの気持ちで草間はまた少し泣き、そんな自分を呪った。大嫌いだ。また、可哀想な振りをする自分が。

 しかし次第に高くなっていく外の気温につられ部屋の温度が上がってくると、布団を被ってひとりぼっちを気取るのも徐々に辛くなってきた。汗はじんわり滲んでくるし、頭はもっとぼんやりするしで、これでは滅入る気持ちも底なし沼だ。

 せめて窓を開けようと思い立ち、草間は気怠くベッドから這い出した。頑張って手を伸ばしてもカーテンの端に触れるのが精一杯の配置が、こんなに面倒だったことはない。

 そうして多少粗雑になった布団を退かす動作で、何かがコトリと床に落ちた。どこに絡まっていたのか、どうしてベッドにあるのかも覚えていない草間の携帯電話だ。

 視線を落とした先で小さな光が緑に点滅すると、草間はそれを拾い上げる。

 昨晩はきっと散々な様子だっただろうから、落合か久保が気にして連絡をくれたのだろうと、零れるものは心底深い溜め息がひとつ。

 落合にはちゃんと有村と話すよう言われたし、その念押しかもしれない。彼女の言うことは尤もだし、気持ちも有り難い。

 けれど、話せるはずがない。合わせる顔もないのに、一体なにを、どうやって。

「……ええっ!」

 あくまでも味方として有村を非難し続けていた久保と、逆の立場でいた落合を比べ、どちらがマシかを考えながら携帯電話を開いた草間は、一番上に表示された名前を見て思わず随分と遠くまでそれを放り投げてしまった。

 放物線を描いて、床を滑りドアの方まで。ほぼ部屋の端から端まで飛んで行った携帯電話を取りに行き、改めてディスプレイを見やる。信じられずに角度を変えて、閉じて開いて何回も。

 そうまでして確かめたから、見間違いではない。受信したのは、今朝方、七時頃。

「終わった……」

 いやしかし、メールをくれただけ親切だと思うべきか。そこに何がしたためられていようとも。

 有村洸太。その名前が、封をされた手紙マークの隣りにあった。



 と、いうのが今から約三十分ほど前の出来事である。

 現在の草間は人生で最速の身支度の真っ最中で、洗い晒しの髪はまだうっすらと水気を含んでおり、纏ったワンピースの背中を冷やしていた。

 それすら気に留められないほどの焦りようで鏡に向かい施すのは、近頃落合から習っているメイクアップだ。あれからまた一度大泣きをした目は真っ赤で酷い有様だったが、氷を当てて腫れを引かせている余裕も猶予も今はない。

 有村から届いたメールには草間を責めたり別れを切り出すような文言はひとつもなく、ただただ昨晩の一件は全部自分が悪かったとする謝罪の言葉と、出来るならと控えめな切り出しでこれから会えないだろうかと尋ねる一文が添えられていた。草間が泣いたのはその前半部分だ。そして、後半部分を読んでから、ずっと気ばかりが急いでいる。

 以前、映画を観に行った時に待ち合わせた駅前で待っていると書かれたくだりに、何時まで待っているとは書かれていなかった。けれどメールを送ってから有村が家を出たとして、草間がそのメールに気付いた時点で既に五時間近くが経過していたのだ。

 不貞寝などしている場合ではなかった。もっと早く気付いて、読んでいれば。そう後悔するのすら後回しに、草間はひたすら支度を急ぐ。

 これはきっと最後のチャンスだ。悪かったのは自分だと、謝るチャンス。

 絶対に無駄にしてはいけないものだ。まだ間に合うのかは、いま考えても仕方がない。

 無心になった分だけ明瞭になった頭は昨晩の帰り道の記憶も呼び覚ましていて、落合に言われた「姫様にはお面被せて顔を隠せとか言っておいて、ちょっと思ったのと違うことをされたら許せないって、それはない」という指摘も、草間の尻を叩きまくる。

 確かにそうだ。付き合ってるのにそれっぽいことから全力で逃げ回る仁恵に遠慮して、姫様はだいぶ我慢してたんじゃないの。それも一理あるどころではないから、草間は焦る。

 もし言い訳が許されるのなら、頬を叩いたあの一発の本当の理由を伝えたかった。だからといって許されるものではないだろうが、許してくれたらいいなと願うだけで何もしないのはもう嫌だ。

 そうしてあれこれと思い巡らせながら仕上げに姿見で全身のチェックをした草間は、お守りのつもりで例の髪留めを鞄に忍ばせ家を出た。玄関の外は、視界が白むほど暑い。

 動きやすさを考えて久々に持ったショルダーバッグの斜めにかけた肩紐を握り、全速力で駅まで走る。ホームに着いた時には、時間は一時近くになっていた。六時間経つまでもうすぐだ。六時間と言えば、一日の四分の一。

 電車を待つ間も乗っている間も忙しなく身体が揺れて、不審な目を向けられようと止められないほどに気持ちが急いで、草間は駅に着いてからもまた走った。

 擦れ違う人の流れを避け、向かう最中もひっきりなしに辺りを見渡し、あの軽やかな栗色を探した。

 太陽の光が当たると、ほんの少し緑が混ざる不思議な色。それに背中が真っ直ぐ伸びた凛とした立ち姿。どこにいても、後ろ姿でも充分に目を引く有村を探すのは、得意なはずで。

「あの日待ってたのは確か、あのガードレールの近くの木陰のはず……!」

 待っていると書いてあったのを信じたいが、そう長く待ってくれている保証はどこにもない。

 なにせ時間が経ち過ぎているし、相手はあの有村洸太だ。何時間も待ち惚けする姿なんて想像も出来ないし、目的地が近付くほど草間の中には『もういないかもしれない』という想いが募った。

 この距離だって、いれば姿が見えるはずだ。でも、まだ見えない。

 見えないだけで、まだ待っていてくれているかもしれない。

 待っていてくれたけれど、もういないって思う方が普通かもしれない。

 帰るきっかけなら、もう過ぎてしまった正午が丁度良かったかもしれない。

 だけど。でも。もしかしたら。

 間に合いますようにと願いながら、走って、走って、走り続けて。

「……はぁっ……はぁっ――」

 二度目はないようなチャンスを。ここぞという時に踏み止まれる力を。

 ふいにしてしまったり、持てなかったりするのはやはり、『お前が鈍間なグズだからだ』と、遠くで鳴いたカラスの声を借りて、いつかの姉に笑われた気がした。

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