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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第二章 発条少年
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きれい

 兄ちゃんはいい男だ。可愛い彼女と、仲良くな。

 耳打ち際にもう一発、今度は背中を大きな手で叩いた店主に見送られ、ダウングレードしたらしい景品を食べ進めつつアップグレードして貰った景品をぶら提げて、待ち合わせ場所へと向かう途中。境内に設置されたスピーカーから流れたアナウンスで、有村は図らずも秘密のお楽しみを知ってしまった。

「花火があるの?」

 このあと八時から、川沿いの土手で上がるという花火。ここはそれを眺めるのに最適な場所だったようだ。

 耳を澄ましスピーカーを見つめて、流れた文言を頭の中で復唱しながら、所在無さげな草間の隣りに佇む有村は狐のお面を腰につけ、忙しく瞬きをする。

「あ……うん。内緒にして驚かせようって、話だったんだけど」

「空に上がるやつ? 手で持つのじゃなくて」

「え? う、うん」

「……見たい」

「うん?」

「早く見たい! 急ごう!」

「えっ! まだ時間はあるよ!」

 なんてことだ。まさか、こうも早くに夢が叶うだなんて。

 逸る気持ちが抑えられず、有村は草間の手を引き先を急いだ。



 有村には外へ出たらしてみたかったことと、見てみたかったものが幾つかある。

 学校へ通うこと、アルバイトもそうだ。そして、最も見てみたいと思っていたのが打ち上げ花火。前々から興味はあって、去年の夏にテレビで見ながら実物はこんなものじゃないと佐和に教えられ急浮上した。

 音が身体に当たると言っていた。火薬の匂いがまた風情なのだと。五感の全てで感じられる夏の風物詩、そんな素晴らしいものを自由に出歩けるいま見ない手はない。

 待ち合わせ場所へ駆けつけると、先に来て特等席を用意していた藤堂たちは、祭りの間縁日の屋台で出入り口を隠された暗がりの公園にそびえるジャングルジムの上からふたりを出迎えた。

 お面はもういいのかとか、その荷物はなんだとか、そんなことはどうでもいい。花火だ。もうすぐ空に大輪の花が咲く。

 駄菓子の残りは山本に渡し、空いた手となけなしの平常心で登るのに難儀する草間を引き上げたりはしたけれど、気もそぞろの有村には落合や久保も思い思いの言葉を投げてくる。そんなものすら、もう気に掛けている暇もない。

「な、言ったろ? こいつ案外こういうの知らねーし、はしゃぐんだって」

「姫様が前に住んでた方って花火なかったの?」

「知らない!」

「あっても行かなかったんじゃねーの? これだから箱入りは」

 箱入りは止してくれ。いつもなら間髪を入れずに返すはずの文句も忘れ、三段ある一番上で藤堂の脇に腰かけた有村の身体は落ち着きのなく前後に揺れた。

 面倒見のいい兄の体で、危ない、やめろ、と窘める藤堂など気にも留めずに、ゆらゆらと。彼らの間柄では無邪気に振る舞う有村は別段珍しくなかったが、人の話も聞かないほどとなると稀である。

 喜ばしいような、ただただ心配するような視線を注ぐ藤堂の前で、すっかり自分の世界に入り込んでしまった親友を連れ戻したのは、意外にもその反対側にかける草間の小さな笑い声だった。

 クスリ。それは恐らく普段より緩んだ有村を見て零れた、悪い意味ではない笑みで、そのたった一回を機にピタリと止まった有村は案じる藤堂に後頭部を向けた。

 これから見られるものへの期待感で閉塞した有村の耳に、彼女の声だけがやけに鮮明に聞こえたのだ。誰よりも、何よりも奥まで入って来て、トントンとノックされたみたいだった。

 こっちも見て、と。

「花火、楽しみだね」

「うん! もちろん!」

 楽しみで仕方がないさ。そんな思いで視線を合わせれば、草間も柔らかく目を細める。

 穏やかで、和やかで、ほんの少し恥ずかしそうで。見せてくれたのが遠慮がちな笑顔でなくてよかったと安堵したら益々残りの数分がじれったくなり、一分が百秒にも二百秒にも感じた。

「キョロキョロするな。落ちたらどうする」

「知らない!」

「いや、そこは知ろうぜ有村」

「どこに上がるの?」

「前だ。いいから落ち着け」

「ヤバい。なんか初めて本気で姫様可愛いって思ったかも」

「バカ丸出しね」

「オレもうケツ痛ぇんだけどー!」

 一段下に座り駄菓子を頬張る山本に向かって「肉有り余ってるお前が言うな」と吐き捨てた鈴木の台詞が、丁度八時の針を跨いだ。

 花火はあくまで同日に土手で催されている式典の締めのイベント。名の知れた見物場所としてお膳立てはしてくれるが境内にはじまりの合図はなく、不意打ちを食らった有村は驚きに肩を跳ねさせた。

 低くて深い大音量の壁にぶつかったような衝撃が走る。鼓膜を直接叩かれるみたいな振動だ。残響と長い尾を引いて高く空へ舞い上がり、花開いた赤と白を皮切りに、次々と炸裂するスターマイン。

 その目まぐるしさと輝きに、有村は感嘆ひとつ零せなかった。平面ではない実物には閃光が折り重なるだけの厚みがあって、迫力は予想以上の桁違い。

 瞬きを惜しんでもまだ見逃してしまう端々が悔しくて、つい呼吸も忘れていた有村がやっと「うわぁ」と吐き出せたのは、一際大きな金色の大輪が細く繊細な線を描いて降り注ぐ“しだれ柳”を見た時だった。

「きれいだ……」

 火の粉がなぞる光の雨。その瞬間の上空には時間がスロウに流れていて、もったりとしたミストが晴れた夜空に染みてゆく。

「気に入ったか?」

 耳朶に触れるほど近くで問う藤堂に、有村はコクコクと素早く頷いて返す。

「声も出ねぇのかよ」

 得意気に仰け反り、鈴木が笑う。

「来てよかったろー?」

 山本が突き上げた肉感たっぷりの丸い拳が脚に当たった。

 全く以てその通りだ。あまりに美しくて、溜め息も震える。圧倒され、魅了されて息苦しくなるこの感覚が胸がいっぱいになるというものかと思うと、それすらも感動を煽る。

「夏の終わりにも、もう一度ある。だから、今は少し楽しめ」

 藤堂の声も、耳には届かないほど。

 単発の“菊”や“牡丹”が散ったあと、出だしよりも忙しく乱れ打った白が消え、そうして見つめ続けた空に綿雲のような煙だけが残ると、優しくそよいだ風に乗り、火薬の匂いが鼻先を掠めた。



 お帰りの際は順に、ゆっくりとお進みください。

 境内に繰り返し流れるアナウンスは、未だジャングルジムの上で空を見上げ続ける有村には届いていないのだろうと藤堂は口の端を上げ、手洗いへ行く、ゴミを捨てて来ると散り散りになる鈴木たちを背に、地上からその後ろ姿を眺めた。

「なんか年々人増えるよね。これ抜けるのも時間かかりそう」

「私たち、ちょっと飲み物買って来るけど、藤堂はどうする?」

「俺はいい。草間は置いてくのか?」

「歩き回って足が痛くなったんだって。ついでに何か買って来る?」

「そうだな。じゃぁ珈琲を」

「なにー? 仲良し復活ー? 絵里奈、今日は随分セコムに優しいじゃん」

「別にそんなんじゃないわよ。アレのお守りで大変そうだから、同情してるだけ」

 悪態は相変わらず。けれどどこか満足気な久保と落合を見送り、藤堂はまた有村を見上げる。

 花火は終わり、煙も消え、それでもまだ真っ直ぐに背筋を伸ばし空を仰ぐ有村には、目の前に広がる一面の黒に余韻の形が見えている。藤堂はそう思っていた。

 有村は時折、彼だけの世界を凝視する。それこそ、見たいと願っても藤堂には覗けないものだ。あの美しいばかりのガラス玉の瞳は、時に視力を頼らず物を見る。焼き付けるように、瞬きもせず。

 鈴木は未だ気味が悪いと零すけれど、藤堂は存外そういう有村を見守るのが苦ではなかった。むしろ進んで眺めてしまうくらいだ。あの目は人の内側すらも透かして覗く。その瞬間が最も、湛えるヘーゼルグリーンが冴えるのだ。見物料として暴かれるなら、藤堂にとっては安い。

 他人とは共有出来ない、共有することになど興味すらないような孤高の領域を持つ有村は、藤堂から見てある時期自身もそうだと言われていた、しかし実際にはそうでなかった類の才能の持ち主だった。他人がそれをどう呼ぶのかに興味はないが、藤堂はそれを例えば天才などと呼ぶことにしていた。

 自分がそうでなかったから、余計に目を引かれるのかもしれない。あの背中を、あの瞳が見つめる先を一緒に眺め続けていたら、いつか自分にも何か見えるかもしれないと、そんな期待が沸いてしまって。

 そして、そうした藤堂と似たような視線を有村に注ぐのが、下手な嘘でジャングルジムの近くに留まることにした草間だ。彼女もまた藤堂と同じ、()()()()()()人。

 藤堂は下駄を鳴らして歩み寄り、不安気に有村を仰ぐ華奢な肩を弱く小突いた。

「心配しないでいいぞ。アイツは、たまにああなる」

「あっ、う、うん」

「もう少し離れた方がいいか?」

「あ、いや……えっと……ううん。大丈夫。ごめんなさい」

「別にいい。草間のソレにも、もう慣れてる」

 許しを得て共にジャングルジムに寄り添うと、藤堂はふと視界に入った草間の手許を指して、何故ハンカチを握っているのかを尋ねた。離れたいのを我慢しているのか俯く草間には、有村が泣いているように見えたらしい。

 あの大きな目は、横から覗くと稀にそう見える。零れないくせに潤んだように見えるから、藤堂も最初の頃はよく間違ったものだ。

「変なヤツだと思うだろ」

「ううん。学校にいる時とは違うなって、ちょっとは思うけど、変だとかは、そんな……」

「俺は思うぞ。アイツは変だ。変わり者を越えて、たまに珍獣に見える。どれだけ一緒にいたって、アイツのことはよくわからん」

「あ……だから前に、逃がす、とか……?」

「ん?」

「いやっ! あの……な、なんでもない、です」

「そうか。ああ、あとあの浴衣な。実は俺が無理矢理着せたんだ。昨日お前を怖がらせたからって言い包めて。余計だったら、悪かった」

 有村にあの大層な顔を隠せと言い、花火のおまけつきだとしても、すっかりと余所行きを忘れさせる。その時点で、草間はこれまで有村がにべもなく袖にしてきた女たちとは一線を画していた。

 無論、藤堂には以前有村に苦手と思ってやるなと助言した辺りからその確信があったわけだが、草間はこれで物の見方が有村とよく似ている。見た目などは二の次。草間の容姿がどうという意味ではなく。

「アレ、ちょっと任せていいか? 便所行きたくなってきた」

「えっ、あ。そう。それは、行かないと……でも」

「放っておけばいい。気が済めば勝手に動く。それまでは何を言っても無反応だがな。動いた時に、ここで待ってろって伝えてくれればいい」

「そう? そう、なんだ……うん。それなら……」

「じゃぁ、よろしく頼む」

 金魚、取れてよかったな。藤堂はそう告げて、帰り道の渋滞へと紛れて行った。

 世話好きでもない藤堂に好んで世話を焼かせる有村が、会話が成り立つくらいにまでこの短期間に草間を変えたのだ。それが何処か誇らしく、逆を思えば久保の苛立ちもわかる気がして、ひとり離れた藤堂は元より薄い唇を更に薄く横へ伸ばした。

 それから間もなく。

「…………はっ」

 吐息めいて零した通り、ハッと我に返った有村は忙しく周囲を見渡し、下の方から草間に声をかけられて危うく細いパイプから滑り落ちそうになった。

「有村くん!」

「ビックリしたぁ」

「気を付けて!」

 藤堂たちは手洗いへ、落合たちは買い物へ出掛けたと聞き振り返ってみれば、参道を埋め尽くす鮨詰めの大名行列に有村はうんざりとする。眺めるだけで酔いそうだ。

「みんな、なんでそんなに急いで帰るんだろうね?」

「まぁ、終わったからね。屋台もそろそろ店じまいだし」

「余韻に浸るとかさぁ」

「時間が経つと余計に、名残惜しくなっちゃうんじゃないかな」

 言われてみれば、『祭りのあと』とか『打ち上げ花火が消えたあとの空』とかは、小説でも定番の物悲し気な表現のひとつ。草間の台詞もまた風情というわけか。

 参道から目を逸らししなにもう一度夜空を仰いだら、有村も少しだけ寂しいような気がした。

 なので。

「ドーン!」

「なにしてるの、有村くん! 危ない! いま下駄! 立ったら危ないよ!」

 寂しい時は大声を出すのが一番手っ取り早い解決策と、せっかくだし仁王立ちでしてみたところ、大層慌てた草間は何を思ったか掴みかかったジャングルジムを揺らしたので、本当に落ちそうになった有村はついでにピョンと地面へ飛び降りた。

「よっ……と!」

 タイミングよく膝を曲げ、着地は無事成功。が、しかし、想定外に足の裏が痛い。

「……下駄、痛い。全然吸収しない。直に来る、骨に……」

「なんで飛び降りるの!」

 でも寂しくなくなったでしょう、としゃがんだ姿勢で見上げると、逆光の所為か草間の顔が赤鬼みたいに怖かった。堅く口を結んで唸っているのが尚更、戦慄く拳が今にも飛んで来るのかと、有村はそのまま丸い瞳をぱちくりさせる。

「もう、そうやって頑張ってはしゃいで見せてくれなくていいから! 気にしてないよ! 昨日はちょっと有村くんも怒るんだって驚いただけで、怖いなんて思ってないよ!」

 次いで口走る唐突な見当違いには首を傾げたくなったが、有村はそれを控えた。怒る女性は刺激するべからず、だ。今日のきっかけには、そんな意図もあった気がするし。

 確かに羽を伸ばし過ぎたと反省もしていたので、有村は大人しく草間と少しの間隔を開けジャングルジムに背中を預けた。少々気まずい沈黙も、藤堂たちが戻って来るまでの辛抱だ。

 しかしこんな時にと言うべきか、待てど暮らせど悲しいかな藤堂たちが全く帰って来ない。ともなれば有村はすぐに手持無沙汰になり、辺りを見渡し始めた。

 改めて気を配ってみると、ここは公園と一括りにするより参道脇の広い休憩スペースのようだった。街灯が点在し、ベンチがあって、これほど混み合うようになる前から地元の子供たちには穴場として有名だったらしい。徐々に落ち着きを取り戻す草間が、そう教えてくれた。

 するとその本来の使用目的に合わせ、衰えを見せない混雑からあぶれたか、嫌気が差したらしい人々がちらほらと入り込むようになって来た。未だもっても牛歩の如くだもの、時間を空けた方が賢明である。

 疲れ切った子供は特に、となんとはなしに増えてゆく人たちを眺めていると、中にはまた別の目的で潜り込んで来る輩もいると気が付く。

 祭りの余韻。なにせこの暗がりだ。街灯の隙間を縫えば、解放的な個室という気分なのだろう。

 つまりはひと時の逢瀬。織姫と彦星よりは人間的な、甘ったるい恋人たちが手を取る以上へ容易に踏み出したりする。

「…………っ」

 しまったな、と思ったのは、どうやら一歩遅かったようだ。

 同じものを見たのであろうお隣りの赤鬼さんは途端にいつもの瞬間湯沸かし器に変わり果て、場所を変えようと声をかけるのも憚れるくらいに高まる緊張が針のようにチクチクと刺り出すまで、タイムラグは僅か数秒。気まずさは倍以上に膨れ上がった。

 例えば、場所を弁えて欲しいものだよね、と正義感ぶるのがいいか、そっと視界を遮るのがいいか。下手に身じろいだら誤解されてしまいそうで、思い巡らす有村に急な名案は浮かんで来ない。

 さて、どうしよう。小学生くらいの女児を連れた年配女性に親近感を覚えつつ、有村の思考は駆け巡った。あちらの知ったことではないだろうが、こっちは近年稀に見るピュアな子を連れているんだけどなどと思えば、有村だって多少は焦る。

 決めた。場所を変えよう。なにより自分が、この息苦しさに耐えられない。

 面倒嫌いの有村にしては珍しく事前にシミュレーションをしたりして、そうして勇み視線を投げた先で捉えた草間の横顔が、微かに()()()()

「ばっ、場所、移す?」

 先を越されたひと言も別の含みを持つような、甘ったるい女のにおい。それが、こともあろうに大層気に入っていたはずの草間の上目遣いから漂ってくる。

 その瞬間、有村の中で何かが途切れた。

「あ、あの……有村くん?」

 何もかもが急速に冷めていった。感動の痕跡も、楽しかった時間も、彼女に抱いていた愛らしいという想いさえ。

 きっと心のどこかでは、こんな日が来ると覚悟していた。だから呆気ないほどさっぱりと、潮が引いていくみたいに草間への興味や感謝が薄れていく。それはやがて零になり、その子は他と何ら変わりない物になる。

「興味ある?」

「……え?」

「あるよね。年頃だし。してみたいって思う?」

「えっ、いや。そ、そんな……ことは……」

「いいよ」

「なに、を」

「あげる。こっち、向いてごらん?」

 不確かだった分のツケが一気に襲い掛かってくるようだった。さもしい夜の入口に立った有村は草間の肩を押して向き合わせ、その顎先へと指を宛がう。

 楽しかった。とても。だから、つり合うだけの礼をしなくては。

 あとはもうなにも感じなかった。

「かわいいね」

 これは対価だから、彼女が望むならキスより先も別に構わない。

 ただ、そうしていつものように凍える思考の奥底では、こうも気が進まないのは初めてだ、と渋る自分がいただけで。

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