知らない感情
なんだか機嫌が悪そうだ。
今しがたついに山本にまでそう指摘され、晴れて三連続のパーフェクト。
スリーアウトで白を切るのは男でないとばかりに至近距離で無言を貫く藤堂の睨みを一身に受けながら、腑に落ちない面持ちの有村は本日三本目になる無糖珈琲のボタンを押す。
機嫌が悪いと言えば昨晩の方だ。久々の荒療治に参ってはいたが、疲れているだろうにベッドへ入らず寄り添ってくれた佐和には感謝していたのに、口を吐いた八つ当たりの数々は思い出すだけで気が滅入る。
「何があったって訊かれるのと、単にどうしたって訊かれるのとどっちがいい」
「選択肢になってないし、何も訊かないで欲しい」
「殴るぞ」
「わーお、バイオレンスー」
「本気で殴るぞ」
人気のない放課後。購買部近くの自動販売機の前。
有村は気まずさと藤堂の人相の極悪加減に目を逸らしつつ、山本がくれた慰めの飴玉を口の中へ放り込んだ。ガリッ。固さ自慢のソーダ味と聞いたのに、早くも粉砕されたそれはただの薄いミント味。こんな日に二重ガッカリとはツイてない。
そう言えば朝見た占いでも双子座は最下位だったし、お気に入りのチョコは売り切れだったし、改札口で見知らぬ女子高生に抱き着かれて草間には距離を置かれるし散々だ。
こういう日は最後まで碌なことがないもので、有村は勘弁してくれよと口をへの字に結び、向き合った藤堂の肩口にグリグリと額を擦り付けた。
「火が出る」
「燃えてしまえ」
駅前での襲撃は気の毒だったとして、例のチョコなら鞄にひとつ忍ばせているのを明かした藤堂は優しく背中を叩いてやった。ポン、ポン。その愛らしい仔犬感で誤魔化されてやるつもりは毛頭ないわけだが。
有村は観念して、昨日佐和を泣かせたと、それだけを白状した。
「なんで」
「言わない」
「なんで」
「しつこくすると嫌いになるぞ」
言ってどうなるわけでもなければ黙っていて然るべきと思う有村は、元々あまり過去を振り返らない主義だし、悲観もしないと決めている。けれど後悔は頻繁にする方で、悲しいかな自己嫌悪はお手の物。
藤堂はそんな面倒な性格を知っていて、擦り付けたあとはコツコツとキツツキのような細かい頭突きを落として来る有村の頭に手を添えると、それ以上は訊いてやらないことにした。遣る瀬無さだけは痛いほどに伝わって来るから、それだけで納得くらいはしてやれる。
「佐和さんには君と寝てるって言っていい?」
「死んでも言うな」
信頼はしているのに苦楽を共に出来ないとは、まったく、どこまでも生き難い男だ。
しかしどれだけ七面倒臭い精神構造をしていようとも有村が優秀な番犬なのには変わりなく、共に缶珈琲をぶら提げ教室まで戻る途中ふと行く手を遮られてみれば、集中した藤堂にも微かに人の声らしきものが聞こえて来た。
高音の具合から女なのは朧げにわかるが、藤堂に聞き取れるのはその程度。
「何を話してる」
「内容まではわからないな。僕は別に聴力が優れているわけじゃないから」
なのに自信あり気に有村が言う『嫌な感じ』とは例のにおいのことだろうと、藤堂は素直に指示を仰ぐ。理解としては第六感的な眉唾ものだが、有村のそれが誇る的中率は恐ろしく高いのだ。
信じ難いことにその『嗅覚』は、通り雨や当人がこれから自覚する病の訪れまで感知する優れモノ。そろそろ電波系に足を踏み入れそうな懸念にあまり口外するなと念押ししているが、実際はかなり役に立つ。
様子を見て来ると言い残し階段を上り出した有村に待機を命じられればそのままに、藤堂はその背中を見送った。
ふたりが分かれたのは登下校時に使う階段とは別の、本校舎反対側の階段だ。こちらは上がった先の正面に続く渡り廊下で中庭を挟み向かい合う旧校舎と繋がっており、普段から人の出入りは少ない。用があるとすれば手前にある手洗い場くらいなもので、特に有村が差し掛かった二階フロアから繋がる先は大多数にとって卒業まで立ち入ることのない忘れられた物置である。
最初の踊り場でその声が奥へ消えて行くと悟った有村は、迷うことなく旧校舎へと向かった。聞こえて来るのは三人分の声。残りのもうひとり。全く口を開かないその人を、放っておくわけにはいかない。
「ひとりにしないでって言ったのに」
心なしか歩幅が急いだ。
あちらにしてみれば焦れた半月で、こちらにすれば平穏に慣れ、気の抜けてくる頃。
「だから、ちょっと呼び出してってお願いしてるだけじゃない。アンタが頼めば無視出来ないでしょ?」
「誰か助けてって人に頼るの得意じゃん」
「自分で言えとか、委員長のくせに生意気なんだけど」
有村が耳を頼りに施錠されているはずの空き教室のドアを開くと、カーテンを引いた薄暗い窓際に詰め寄る三つの背中が振り向いた。
「なーんだ。頼む必要なかったみたい」
首にゆるくぶら提げたリボンに合わせ、胸元を大きく開けたシャツの裾を出すだらしない着こなしと、太腿を半分以上露出する短いスカート。踵を踏む上履き。脱色したウェーブヘア。
そして、水商売の女のようだと形容すればそちらに失礼になりそうな濃い化粧の中で最も品位を下げるぽってり塗った赤い唇が皮肉に片方の端を上げるのを見て、有村はやはりと顎を引く。
「人に物を頼む態度には見えないけどね。橋本さん」
尊大な仕草で視線を送る彼女の名は、橋本まりあ。自称本校の女王様であり、昨年度草間に面倒を押し付けた張本人で、有村を辟易させる常習犯。
お馴染みの取り巻きをふたり引き連れる彼女が得意満面に湛えているのは、恐らく不敵な笑みというやつなのだろう。色気を振り撒いているつもりなら可哀想な限りだが、橋本のそれに有村が見るものは魅力的とは程遠い。
ポーズだけで実がないから、相も変わらず粗末なものだ。
「だって優しくお願いしてるのに電話一本してくれないんだもん。ケチねー? 洸太が何十人も振ってやっと選んだお姫様なのに」
締めきりで淀んだ空気に立ち込める埃の臭いで参るのに加え、教室に溜まった彼女らの纏う安い香水と卑俗のにおいに晒された有村は、吐きたくなった溜め息を緩慢な瞬きで濁した。日頃気にも留めない疲れがドッと肩に圧し掛かるような気分だ。いつもなら、彼女らに対して有村が思うことなどそれくらい。
ただ今日は元々気が滅入っていた所為か、僅かに道を開けた取り巻きの奥にスカートの裾を握る項垂れた草間を見た途端、そこに多少強めの『うんざり』が込み上げて来た。弱い者いじめが様になるねと嫌味を言うのも億劫なほど、一気に嫌気が差したのだ。
だから有村は早々に切り上げるべく古い机の間を真っ直ぐに通り抜け三人の檻に割って入ったのだが、それを黙って見ていられないのが橋本まりあというところ。
行こうと声をかける有村を見もせず、またスカートの丈を数ミリ短くした草間を鼻で笑い、代わりにとでも言いたげに柔い手を背中に這わせて来たりする。
そういう仕草こそが有村を辟易させるのだとも気付かずに。
「話があるの」
「俺にはない」
「ちょっとくらいいいじゃない」
「気が向いたらね」
「洸太の気はいつ向くのよ」
「君はいつになったら呼び捨てをやめてくれるの? まずはそこからだ」
離して。有村はそう告げて、正面に立つ草間の、スカートの裾を握っていない方の腕を掴んだ。その腕が思いの外、強張っていたのだ。だらりと垂らされているように見えたのに。
気付いた瞬間、有村の中で橋本たちに抱いていた『うんざり』が、少しだけ形を変えた気がした。
「ねぇ。そんな子のどこがいいの? なんの取り柄もない、ただのぶりっこじゃない。洸太には似合わない。相応しくないわよ、そんな子」
いつもの口振り。いつもの半分笑ったような、可愛げのない声。
いつも通りの橋本が、いつもよりずっと鼻につく。
「……君に何がわかる」
独り言のように呟いたそれは、無意識に有村の喉を震わせた。
「え? なに、聞こえなーい」
「自分で言ったんだろう? 何十人も振って選んだお姫様の魅力がわからないなら、君に見る目がないんじゃないの」
けれど、零してしまったら歯止めが利かなくなった。
指が軽々と回ってしまう草間の腕がか弱く思えて、触れていたら壊してしまいそうなほど。だから代わりに肩を抱き、足まで棒になってしまっているような小さな身体を引き寄せる。逃げ出されないように力加減をすることは出来たが、近付くだけで狼狽えるのが常の草間が大人しく胸に飛び込んで来ると、何故だか頭の中が氷漬けにされるみたいにみるみる熱を奪われていく。
不可解な感覚だった。頭の中から広がって指先まで凍えていくようなのに、胸の奥だけ沸き立つような。
「逃げるの?」
覚えた不慣れを悟られる前に立ち去ろうと踵を返した有村の前に、取り巻きがふたりして立ちはだかった。橋本も似たような薄ら笑いでこちらを見ている。その光景が鬱陶しくて堪らない。
普段なら相手をするもの馬鹿らしいと、どこか引いて見られるはずのそれが、眉を顰めたくなるくらい、どうしようもなく。
「へぇ、洸太ってそんな顔もするんだ。ただの気紛れかと思ったけど、そうでもないのね。こわーい」
「わかったなら退いて」
「でも、どうせ遊びなんでしょう?」
それでも出来るだけ穏便にと心掛けはした。いつものように。なのに。
投げた言葉通りに退いてくれと送った視線に隠し難い鋭さを滲ませた有村を捉まえて、橋本が真っ赤な唇を裂いて笑った、その刹那。瞬きをひとつした有村は、その顔から一切の表情を消し去った。
こんなにも思考が冷えたのは、こんな塞ぎ方は、今までにないパターンだ。
「……呆れた。尻尾を振ってくれる男に担がれて勘違いした女ほど、憐れなものはないな」
一度開いた口が勝手に動くような気分で、しかしそれを止めようという気には到底なれなかった。
余裕綽々の顔が歪んでいく橋本にも、もう何も感じない。ただそこに顔がある、だけ。それは周りに幾つもある古い机とそう変わらない物に見える。
「人を妬むのも大概にすることだ。自分を安く見せなければ勝負が出来ないと知っている君と草間さんとでは、比べものにもならない。住まう世界の異なるほどに」
「なっ……!」
思ったままを吐き出したとて到底気は晴れなかったが、あからさまな憎悪を湛えた橋本が怯んだ隙を突き、有村は草間を抱いて足早に教室をあとにした。背後から追って来る悪態になど、耳も貸さずに。
そのままの足取りで渡り廊下へと差し掛かる頃には幾分か思考を固めていた氷が解け、草間の肩が震えていることにも意識が向いた。そうなれば一刻も早く安心させてやりたい気持ちが勝って、かけた声にも徐々に熱が戻っていく。顔を上げない草間はそれに、一度も応えてくれなかったけれど。
そうして戻って来たふたりの様子からすぐに事態を察した藤堂が「橋本か」と確かめただけで空いた草間の脇へ着けると、有村もひと息吐いて抱き続けていた腕を解いた。橋本たちはあれで保守的だから、藤堂まで控えていればまず噛み付いて来ることはない。
もう大丈夫だと思ったし、草間にもそう感じて安心してもらいたかった。手を放した途端に少し距離が開いたのも、仕方がないとか、些細なことだと思っていたのだ。
「新垣たちもいなかったのか」
「授業が終わってだいぶ経つからね。もっと気を付けるべきだった。ごめんね、草間さん。俺の所為で嫌な思いをさせて」
「…………ううん」
全ては自分の落ち度だと心から思い、詫びるつもりで覗き込んだ横顔から、一瞬だけ見上げた草間の瞳を見るまでは。
不安気に揺れる瞳孔の奥。そこに宿るものを目に留め、有村は息を飲んだ。
下がる眉や戸惑いがちに縛る唇が物語るのは、明らかな恐怖。三人掛かりの毒に中てられたあとでは当たり前であるとして、それが今も癒えることなく継続的に草間を蝕んでいるのが見て取れる。
そして、それはこの瞬間、間違いなく有村にこそ向けられていた。
跳ね上げた視線に同じく横顔を窺えば藤堂にもわかるほど、草間はすっかりと怯え、萎縮していたのだ。そのことに有村はようやく気が付いたのだと、間もなく藤堂にも合点がいく。
「大丈夫か、草間。おい有村、お前なにした」
「言い過ぎた。橋本さんに」
「ああ、なんだ。怒ったのか。そりゃぁ怖くて顔も見れねぇよ。なにやってんだ、お前」
女相手にムキになるなと藤堂が繰り出す柔い拳に小突かれ僅かに蛇行した有村は、面目ないと項垂れてみせた。乗り出してくれたフォローに合わせたのが半分。残りは戸惑いと困惑が綯い交ぜだ。
無論、有村には腹を立てた自覚などない。なにせそう出来ないのは当人が誰よりわかっていること。
しかし言い過ぎたのは間違いがなくて、そこまで口にする意味も今となっては見い出せずにいた。夢の中にいたみたいだ。ふわふわして、もやもやして。ついさっきの出来事が、記憶の中で朧げになる。
助けを求めて合わせた藤堂の目は黙っていろと言っているようで、有村は大人しくそれに従うことにした。
「普段文句ひとつ言わない分おっかなかったろ。真顔が既に迫力あり過ぎだってのに、キレると口まで容赦なくってな。助けるったって、それで草間を怖がらせてりゃ世話ねぇよ。気を付けろ、アホが」
「ごめん」
妙に身の入った叱責は粗方本物らしく特に最後のひと言が鋭利で、再び繰り出される先より強めの一発に有村は大きくよろめいた。
全く以てその通りだ。助けたいと思いはした。けれどこんな険悪を望んだわけではない。もっと穏便に、平和的に。そういう解決が出来るはずだったのだ。橋本の扱いには慣れていたし、自信もあった。
なのにそう出来なかった理由が、よくわからない。
すると困惑に押し黙る有村が気落ちしているようにでも見えたのか、「大目に見てやってくれ」と言った藤堂の台詞が利いたのか、忙しく瞬きをした草間が少しだけ視線を上げた。躊躇いがちの横顔はまだ怖がっているように見えたが、それでもやがておずおずと重ねてくる目線はどこか儚い。
「怒った、の? さっきの」
「うん。ごめん」
「そっか……有村くん、怒ったんだ……」
床を見つめ「そっか」ともう一度呟いた草間は多少の間を取り、次に顔を上げた時には有村に向けてニッコリと微笑みを湛えた。
とても眩しく、透き通るような。そして、どこまでも深く慈しむような。
その笑顔に有村は驚くほど安堵したのだ。自分でも不思議なくらい、大袈裟ではなくやっと肺の中にまで酸素が届くような解放感が込み上げて、控えめな草間から目が離せなくなった。
整理がつかなくて戸惑ってはいたけれど、別段張り詰めた覚えもないのに。
これは、なんだ。
「ありがとう。助けてくれて。なのに、変な感じにしちゃって……ごめんなさい」
「いや。言い過ぎたのは確かだし、俺の方こそごめんね。怖がらせちゃって」
「まったくだ。お前は加減が下手なんだから、腹が立っても無視しろっていつも言ってるだろうが。草間は気にすることないぞ。悪いのは全部、コイツなんだから」
「ごめん」
「ううん」
足取りは重いまま鈴木たちが待つ教室へと戻り、彼らの輪の中でまた他愛のない会話を交わしながら、有村は胸に痞える息苦しいような想いの正体をひたすらに考えた。
憂鬱とは違う。もっと軽やかで、けれど喜びとも違うゆっくり膨らんでいく風船みたいな、抱えていたら破裂しそうな、そんな感情。
温かいようで、どこか恐ろしいような。
初めて感じたその不快なだけでない息苦しさの名前もまた見当たらず、有村はひとり、笑顔の下で奥歯を噛み締めていた。




