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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第二章 発条少年
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きれいなせかい

 週が明け、いよいよ夏休みまでのカウントダウンが始まった月曜日。

 狙い通りに点を取り零したにも関わらず、廊下に貼り出された順位表の太文字三名のトップに再び名前が出る細やかな誤算はあったものの、それからの数日間は何事もなく、寧ろ授業が進まないだけ酷く退屈な日々に有村はそろそろ暇潰しにも飽きていた。

 退屈は有村の敵だ。好奇心が猫を殺すなら、自分を殺すのは間違いなく退屈だと有村は思う。風も温かな、麗らかな夏晴れ。せめて自宅にいれば佐和の布団をフワフワにすることだって出来ただろうに、それすら叶わないなどなんて底抜けに無駄な時間なのだろう。

 しかもその理由が、鈴木曰く、いま教わっても二学期の中間考査までに忘れてしまうからだとしたら尚更だ。唯一張り合いがあったのはクラス対抗の球技大会があった日くらいなもので、それを思い出してふと物思いに耽るのすら飽きてしまえば、この延々続く自習時間はもはやただの暴力。無論、この時間も早々に配られたプリントの問題を解き終えてしまった有村にとっては、であるが。

 再び手持無沙汰になった有村は致し方なく、残りの時間はまた窓の外を眺めて過ごすことにした。

 チャイムが鳴るまであと二十分ほど。その間だけ、目だけでも慰めてくれるものがありはしないか。雲さえ止まっているような代わり映えのない景色に一縷の期待を込めていた有村の視界に、ふと小さな救世主が舞い降りたのはそんな折のこと。

 窓から近い木の枝に止まった一羽の鳥。何か啄んでいるようにも見える忙しい動きは、過ぎる退屈ですっかり思考回路の鈍った有村にごく軽い気持ちで窓から出した指先を弾かせる。

『そこには何か面白いものがあるのかい? 僕は退屈で死んでしまいそうだよ』

 犬や猫ならまだしもと口には出さず愚痴を垂れたみたところ、絶えず動いていた小さな頭がピタリと止まり、有村は『しまった』と思った。

 忘れていたが、そう言えばコレは鳥にも届いてしまうのだった。

「あっ」

 次の瞬間、後ろの席から「おい!」と藤堂が放ったのは、有村の零した声を聞いたからか、その指先に止まった鳥を見てのことか。

「なにやってんだ! どっから連れて来た!」

 無論、十中八九後者である。

 とは言え有村だって本当に来るとは思っていなくて困惑しているのだ。振っても退かず、反対の手を出せばちょん、とそちらへ飛び移るだけ。話せばわかるかもと話しかけてみても鳥はチチチと鳴くばかりで、どうしたものか、可愛らしい仕草にちょっと胸が高鳴る。

「さっさと放せ!」

 しかしそうこうしている間に藤堂の動揺ごと有村のうっかりは静かだった教室中に知れ渡り、同じく時間を持て余していたのであろうクラスメイトたちが次第に騒ぎ出してしまった。

「うそ! 姫が小鳥と戯れてる!」

「なにアレ和む!」

「ああっ、頭に乗ったぁ」

「啄んでる……!」

「ヤバイ尊い。フェアリーマジ天使」

 そうなれば教壇の脇に腰かけていた教員が本から顔を上げるのも時間の問題で、定年間近の歳老いた社会科教諭が暢気に「動物はいかんぞ」などと言うから、躍起になるのは髪を食まれる有村ではなく、生き物が苦手な藤堂の方だ。

 自分が触れないからってこんなに可愛い小鳥を目の敵にして。藤堂の口振りではまるで猛獣でも引き連れているかのよう。

「なんとかしろよ! 掴んで外に放るとか!」

「可哀想なこと言うなよ。ちょっと待って。はーい、こっちおいでー」

 教室のあちこちからは呻き声が沸き上がり、身悶える人があり、中には携帯電話を翳して高速で親指を動かす人もいて、男子たちは大体が仕方のないヤツと呆れ半分の笑みを浮かべていて。

 そんな中でも冷静に頭の上から優しく鳥を包んで外す有村は、ふと目が合った草間に片手で柔く握る可愛らしい訪問者を近付け、「鳥は好き?」と問いかけたりした。

「そんなんいいから早く外に出せ!」

「痛いよ藤堂。すぐ叩くー」

「出せ!」

「はい、はい」

 これが後に『小鳥事件』として校内で実しやかに囁かれる姫様伝説に加えられたエピソードの顛末であるが、それはさておき、この一件でついに有村の本性が露呈したと青くなっていた人物がひとり。

「有村くんが鳥にバイバイしてたの! どうしよう! すごく可愛かった!」

「仁恵はホント姫様の残念がご褒美だねぇ」

「勉強が出来てもアレはバカよ。仁恵。目を覚ますなら今のうち」

 次の休み時間に廊下の隅でしたうっかりの立ち聞きで、お似合いってのはいるもんなんだな、とほっこり顔色を取り戻した鈴木だ。彼はあれだけ愛おしそうに戯れておきながら、鳥は菌の宝庫だからと念入りに手を洗う有村の肩を叩き、何とも言えない仏の笑みを湛えた。

「お前さ、もうラクになんなよ。大丈夫。いいとこ目ぇつけたよ、ホント」

「うん?」

 順調そうでなにより。

 他人の色恋沙汰には心が狭い鈴木がやっかむのを忘れて和むほど、今週も変わらず学園の王子様と一躍時の人になった地味な委員長は可愛らしいお付き合いを続けており、微妙な距離感もそのまま。

 本当に何事もない毎日だったのだ。

 ただ今日が二週間に一度の通院日だっただけで。



 月に二度、有村は佐和と共にとある雑居ビル五階のクリニックへ通う。

 広い個室にカウンセラーの座る椅子と机が一対。それ以外に唯一置かれた椅子に腰かけて短い問診を受けるのが、有村が佐和と暮らす際に出された条件だった。

「学校はどうだい? お友達とは仲良くしている?」

 有村から見て足元まで覆う机の向こう、ブラインドの閉まった大きな窓を背に問いかけるのが、彼の掛かりつけで佐和の兄でもある藤尾奏多。そこはかとなく面影はあるように思うが、佐和よりずっと笑顔が重い。

「はい。どちらも恙無く」

「恙無く、か。アルバイトはどうだろう? 楽しい?」

「ええ」

「そうか」

 学校のこと、アルバイトのこと、そのあとは他愛のないやりとりをして、処方箋を貰う為にここへ来る。生活や心境に変化はないかと毎回訊かれるが、目立ったことは佐和が事前に連絡しているのだ。具体的に問われない限り、有村は何もないと答える。

 別に話したくないわけではないし、彼が苦手なわけでもない。ただ『先生』が書き込むカルテは有村の所有者に筒抜けで、そうと知りながら開く口が自ずと慎重になるだけだ。

「そう言えば、外泊を控えることにしたそうだね。藤堂くんに勧められたとか」

 例えばこうして切り出された時にだけ、有村は佐和にした説明をより簡潔に繰り返した。

 ここは有村にとって半ば駆け引きの場であって、望む結果に近付くよう、本分を違えぬ程度に明かす事実には差し引きを加える。伝えることと、伝えないこと。それを引き出すのがまた、『先生』の仕事であるわけなのだけれど。

「彼はいい子だね。少し不愛想なところがあるが、それもまたいい。硬派な男の子って感じだ。誠実さが見た目にも表れていて、とても気持ちがいいね」

「ええ」

「彼は、なんて?」

 上げた視線がふと重なり、有村は手短にらしくないと言われたと答えた。

 そうしてまた走るペンの音に窮屈を覚える。ここに座ると、いつだって罪人になった気分だ。元々出来損ないの上ケチのついた自分には打って付けだと思うと、有村はどこまでも無心でいられた。

「やめるよう命じられた?」

「いえ。彼の助言はあくまで善意です。強いられてはいません」

「なるほどね。確かに年頃とは言え好ましくはなかったことだ。洸太くんなら滅多なことはしないだろうと思っていたが、時に叱ってくれる友人は一生の宝物になるよ。大事にしないとね」

「はい」

 夜遊びに関しての報告はしていないと言われ、ありがとうございますと頭を下げ、一生などという響きを薄ら寒く思いながら、有村はじっと自身の靴の先を見つめていた。大事にしたい。そう口に出してみたところで、その一生において最も蔑ろにされるものこそ、物を想う有村の意思そのものなのだ。彼はそれを嫌と言うほど理解している。

 理解していると知っていて放たれる『先生』の優しさは、優しげな言葉は、致命傷を避ける刺し傷みたいだ。 

「まだ、大人の男性は苦手かな?」

 唐突に問いかけられて、有村は返答に迷った。

「まぁいいさ。君は苦手を次々克服していく強い子だ。私に言い難ければ佐和にでも構わない。その為にそばにいるのだしね。ただ、忘れない欲しい。私は洸太くんの味方だよ。一緒に、君が得られなかったものを、手放してしまったものを取り戻していこうね」

「はい」

 瞬きを忘れていた目が、ひどく痛んだ。

 そうして過ごす時間は、時計の針にして四分の一にも満たない。もういいと促されて席を立った有村は佐和と入れ替わりで待合室へ戻る手筈だったのだが、ホッと気を緩めたのも束の間、内線で妹の不在を知らされた『先生』に呼び止められて、再び感情のない視線を投げた。

「電話で少し外しているそうだ。せっかくだから、佐和が来るまでもう少し話をしようか」

「はい」

「そう言えば、例の宿題はちゃんとしているかい?」

「……いえ。あまり」

「そうか」

 昔から、有村の嫌な予感はよく当たる。

 『先生』の言う通り、有村は大人の男性を得意としない。正しくは単に目上の男性ではなく、高圧的な態度や強い命令口調が苦手だ。逆らうことは許されないと、潜在意識に深く刻み込まれているように。『先生』は今夜、久方ぶりにそこへと踏み込んだ。

 手順はとてもシンプルだ。先に「洸太」と名前を呼び捨て、短い言葉で命令を下す。出来るだけ高圧的に。条件を満たせば有村はその指示にのみ従順になる。病的なほど、忠実に。

 物心がつく前から擦り込まれたその習性は、日常的に使用されていた親元を離れて三年が経とうとする今でさえ十二分に有村を縛りつけ、彼を発条(ぜんまい)仕掛けのからくり人形にした。意識まで手放さなくなったのがこの三年の成果というところだが、その所為で有村は新しい痛みを知ったのだ。

 出された指示は、ペンを手に取り絵を(えが)け。それだけが、どうしても叶わない。

 従えない命令はただただ有村を苦しめた。胃が押し上がるような不快感。吸った空気も行き届かず、瞬きも出来ずに見開く目には熱く込み上げるものがある。

 それでも強張る手はペンを握ったまま微動だに出来ず、真っ白の紙の数ミリ上でガタガタと震えた。芽生えた意識が死にもの狂いで、従いたくないと訴えて。

「不思議だとは思わないかい? 君にとって絶対の命令で縛ってもそれだ。積極性に委ねてみれば試しもしないのは何故だ、洸太。どうして、絵を描くことだけしようとしない。君の唯一の趣味だったはずなのに、やめた理由も明かさないのは何故だ」

 浅い呼吸で鈍る思考の一片まで手放させるように、『先生』の手が丸まる背中に触れる。

 それだけで、もう痛まないはずの無数の傷が皮膚の内側を這う虫みたいに、肉を食い、血を啜り、もっと深くまで侵されていく気がした。

「描けないんじゃない。君は描かないんだ。何故だ、洸太。教えてくれ。君は、一体なにを恐れている?」

 言えるはずがない。これだけは、踏み躙られるわけにはいかない。

 縛り過ぎた奥歯が、今にも砕けてしまいそうだった。

 心が、割れてしまいそうだった。

「それとも、今日も代わりに秘密を差し出すかい? それでもいいよ。そうだな。じゃぁ、あの夜の話にしようか。私にはひとつ、気になっていることがあってね。三年前のあの夏の日、君に起きた不運な事故は――」

 いっそ割れた方がマシだった。大切に大切に胸の一番奥にしまった宝物を、汚されてしまうくらいなら。

 綺麗な世界(リリー)を二度も奪われるくらいなら、死んだ方が、よっぽど。

「――本当に、ただの事故だったのかな」

 よっぽど。

 乾いた目から落ちた水滴が染みになり、過呼吸を伴い大きく上下する肩が限界を訴えた時、ふと『先生』の影が白紙に落ちた。

「……時間切れだ。もういいよ、洸太くん。よく頑張ったね。続きはまた、今度にしよう」

 触れていた指先がシャツの上を撫で、鼓膜に剣を解いた優しい声が届くと、有村はペンを放り投げた手で忽ち吐き気の込み上げる口許を押さえ、逃げるように診察室から飛び出して行く。

「洸太!」

 ドアのすぐそばで擦れ違った佐和に目もくれず、駆け込んだ手洗い場で喉が痛むまで吐いて、吐いて、吐き尽くして。

 もう何も出なくなっても、まだ吐いて。そうして有村は力なくしゃがみ込むと、小さく身体を丸めて蹲り、声を殺して嗚咽した。なのに。

「……ごめんね、リリー。ぼく、まだ……っ」

 生理的に浮かんで溢れた涙が乾くと、それ以上はひと粒だって、有村の瞳から零れてはくれなかった。

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