お絵かき帳とスケッチブック
有村の交友関係は広い。
近所に住まうご婦人やその亭主、よく行くスーパーの店員、そして。
「さーっちゃん、お邪魔していい?」
「うん! いいよ!」
小さくノックしたドアを満面の笑みで開いた藤堂の溺愛の的、可愛い可愛い妹のみさきは、有村にとって互いの秘密を共有する特別な友人である。
この週末、有村は藤堂の母親から模様替えの手伝いを頼まれていて、そのまま泊まることになっていた。
そういう日は先に風呂を済ませたみさきの部屋へ、藤堂と入れ替わりで風呂から上がり次第すぐに尋ねる約束だ。待ち構えていたみさきは有村を招き入れるなり、いつものように急いで勉強机へ逆戻り。
生乾きのまますっかりと冷たくなってしまった髪を拭いてやりつつ、有村は彼女が向かう机の上を覗き込む。
「順調ですか? みさき先生」
「まだ途中だから見ちゃダメ!」
とは言いつつ、有村がここへ来るのはみさきが開くお絵かき帳に描き進める物語を読む為なのが半分。もう半分は転がっているシャーペンを取り、後ろから『手直し』をする為だ。
影をつけ、服の皺を描き足し、全体的に弱い線をほんの少し肉付けをしてやると、みさきは無邪気に笑い「こっちも」とページを戻した。
「洸ちゃんがちょっと描くと、すっごく絵が上手になった気分」
「さっちゃんは上手だよ。お友達にも褒められたって言ってたじゃない」
「漫画っぽい絵ならね」
「漫画なんだからいいと思うけど?」
みさきは将来漫画家になりたいのだと言うが、もう何冊も描き溜めた漫画ごと過保護な兄には内緒にしているらしい。
その秘密を守ってやる代わりに、みさきも有村がこうしてペンを走らせるのを口にしない約束だ。ふたりがそんな友人同士になってから、早いものでもう二ヶ月ほどが経つ。
リハビリ代わりに買って出るアシスタントとして見守り続けた物語も、そろそろクライマックスが近いようだった。
「結末が楽しみだね」
「きっとビックリすると思うよ?」
「本当? それじゃぁますます楽しみだ」
時に悩みながら、それでも終始生き生きと描き進めるみさきと過ごすこの時間は、有村にとっても唯一描く為にペンを動かせる楽しいひと時で、いつもなら藤堂が上がって来る足音がするまで満喫出来る。
けれど今日は様子が違い、みさきは途中だったコマを描き終えるなりお絵かき帳を閉じてしまったので、有村は少しだけ残念に思った。続きが気になるのもあったが、やはり描くこと自体が底抜けに好きだったからだ。
片付けられてしまうお絵かき帳を目で追いつつ「もうおしまい?」と尋ねるに留めたのは一応年上の建前のようなそれであるが、つい声に滲んでしまった残念をすぐさま別のノートに手を掛けたみさきに見咎められると、ふたりは同時に吹き出して、有村は照れ隠しに小さな頭をわしゃわしゃと撫で回した。
三度の飯より絵を描いていたい者同士、そこに年齢差を持ち出すのは野暮というもの。みさきは上機嫌に鼻歌など歌いながら、まだ新しそうなノートに次いで引き出しの一番上の段から取り出した古いスケッチブックを机に並べた。
「前に洸ちゃんみたいな絵が描きたいって言ったの、覚えてる?」
「うん」
「わたしは漫画が好きだし、そういう絵も上手くなりたいんだけどね。やっぱりこの『お手本』みたいな絵の方が本物って感じがして、描けるようになりたいなって思って」
もじもじと恥じらうみさきが『お手本』と呼ぶそのスケッチブックは、以前強請りに強請られて有村が貸した一冊だ。中には有村がみさきくらいの頃に描いた風景画や流し描きのデッサンが詰まっていて、パラリと開いてお気に入りのページを引き当てるくらい、彼女はすっかりとこの秘密の宝物に夢中の様子。
眺めるだけでは飽き足らず、ここ最近は確かにそうしたタッチにも興味があるような素振りはあった。
「描いてみたの?」
「うん。美術の先生に相談したら、わかりやすい本を貸してくれて。デッサンのとか。でもまだへたっぴで、ちょっと恥ずかしいんだけど……見て、くれる?」
みさきは拘っているようだけれど、有村にしてみれば漫画的であろうと絵画的であろうと懸命に描いた絵に相違はないし、いじらしい上目遣いを向けられて断る理由もない。
微笑みを湛え、ふっくらとした白い頬を指の背で撫でてやると、有村は早く力作を見せてもらえるよう促した。
「これは?」
そうして現れた、先のお絵かき帳より厚手の紙に色鉛筆で描かれた一枚の絵。
有村はそれを覗き、一瞬これが完成形なのか描き途中なのかを迷った。気になるのは彩色だ。木々の中に立つには不似合なスーツ姿の男の周りは鮮やかなのに、それと対峙するワンピースを着た女の周りだけ、あまりにも味気ない。
「お気に入りの本に出てくる場面を描いてみたの。この女の子はね、町から遠く離れた森に住んでて、動物とかに囲まれて幸せに暮らしてるんだけど、ちょっとだけ寂しくて。これはその子の所に男の人がやって来て、その瞬間にぱぁって自分の世界に色が付いた! って場面」
「そう……」
身振り手振りをつけてされた説明を踏まえ、これで完成形なのだと改めて眺めてみれば益々、正直を言って有村は目の前の絵に随分な物足りなさを感じた。
技量の良し悪しや描き込みの不十分さではなく、いるはずの動物たちが見当たらないからでもない。強いて言えば受ける印象として食い違うように思うのだが、有村にとっての絵とは模写でもない限りインスピレーションそのものであって、問題の解き方を教えるように言語化するのは難しい。
けれどそんな苦悩など知る由もないみさきは先生を見つめる眼差しで、期待いっぱいに瞳を輝かせるのだ。
「どうかな。一生懸命描いたんだけど、ずっと描いてたらなんかわからなくなっちゃって」
より良いものをと思う気持ちはわかるし、それならせめてアシスタントらしく改良点くらいはと、有村は重い口を開いた。
「この子は、幸せだったんだよね?」
「そう見えない?」
「そうだね。寂しさの方が勝っているように見えるかな。これだとバランスが極端で、まるで死んでるみたいだ」
「死んでる……」
「ああ、ごめんね。なんて言うのかな。上手に描けてると思うんだけど、零と百じゃ、ちょっとね」
色のない世界に立っている少女が幸せだったとは思えず、有村は少女の周りにも淡い色を乗せるのはどうかと提案した。それでイメージと離れてしまうなら、もっと迫っているように、今はまだ絵の中央くらいにまでしか広がっていない色を少女まで届けてみては、と。
「この子はハッとしたわけだよね? その人と出会って、視界が開けるような」
「そう!」
「なら……そうだな。色だけじゃなくて、動きを与えてみるとか。今からでもスカートの裾や髪をなびかせたりすれば」
「……それが出来なくてこうなりました」
「なるほど」
「……描いて?」
「じゃぁ薄く描くからあとで上手く馴染ませてね」
「はーい!」
元の線を殺さぬよう気を付けながら平面だったそこに動きを加えると、みさきは手を叩いて「そう! これ!」と床から浮いた足をばたつかせた。
「すごい! 魔法みたい!」
「それほどでも」
ふたりの違いは原点の他に、単に描いた数の多さだ。
ささやかな修正で俄然やる気が沸いたらしいみさきが忙しく色鉛筆を持ち変えるのを横目に手にしたドライヤーで仕上げのブローをしてやる有村は、彼女くらいの年の頃、朝から晩までスケッチブックを離さなかった。だもの、小手先の魔法使いくらいにはなれる。
みさきは結局、風呂上がりに部屋へやって来た藤堂に寝る時間だと促されるまで、ずっと楽し気に色を塗っていた。こちらは見せても構わないというわけだ。やはり、みさきの拘りは有村にはよくわからない。
そうして大体の道筋を立てた絵の元となる小説を有村が目にしたのは、藤堂の部屋へ連れ戻される直前のこと。差し出された表紙を見て、有村は「ああ」とそれを懐かしんだ。
「知ってるの?」
「子供の頃に読んだよ」
「なに? ダメだぞ、みさき。残酷な本は」
「ちがうよ。これはママに借りたんだもん」
「どんな話だ?」
「SFがかったマイフェアレディ」
「あー」
「ときめきあふれる恋愛小説だもん!」
柔らかな頬を丸くして怒るみさきに聞こえないよう、そっと「ほぼ児童小説だから限りなくプラトニックだよ」と別の心配を募らせる兄に補足出来るほど、有村はその内容をよく覚えていた。
みさきが描いていたのは冒頭のシーンで、迷い込んだ男を案内する代わりに外へ連れ出してくれと少女が願い出るところから物語は始まる。男はそれを渋々引き受け知識や教養を授けるのが大軸なので『マイフェアレディ』というわけだが、有村がそれをSFと括ったのにはちょっとした理由がある。
その少女というのがなんでも鵜呑みにする純真無垢の権化というか、言ってしまえば無鉄砲な世間知らずなのだ。だから何度も騙されるし、悪い男には目をつけられるしで大層苦労をするのだけれど、都合よくも彼女は結局あらゆる幸福を掴み取ってしまう。
シンデレラストーリーにしても出来過ぎていて、有村は読んだ当時でさえ一切の現実味を感じなかった。
「なのに読んだのか。最後まで」
「他に読むものがなくて、仕方なくね。当時はちょっと流行ったらしいよ?」
「へー」
しかし、そうは言っても見所があったから有村の記憶に残っているのも事実。どこまで読んだのかわからないみさきの前で展開は口にしなかったが、彼女がお気に入りだという少女は確かに無鉄砲ながらも魅力的な性格をしていた、と思う。
なにせ読んだのは十年も前の話だ。今なら違う感想を持ったかもしれないが、当時の有村は少しだけその少女が羨ましかった、気がする。
「なんにでも一生懸命でね。絶対めげないの。大好きなエリオットさんの為に頑張るの!」
「エリオット?」
「迷子のおじさん」
「しんし! お金持ちなのにショミンテキで、大人で、すっごくカッコいいんだから!」
「そうなのか?」
「でも迷子になるおじさんだからね」
「もう! お兄ちゃんも洸ちゃんもわかってない!」
そう言い放つなり机に向かったみさきの後ろで、十歳そこそこの小学生に女心がわかってないと詰られたそこそこ女性経験はある方の高校生は静かに顔を見合わせると、揃って紙の上を滑るペン先を覗き込んだ。
三つ揃えのスーツがイコールで紳士とは。今となってはその発想すら子供向けに思える。
「背が高くて、痩せてて、色白で……そうだ! 髪がね、光に当たるとキラキラするの」
「頼りないな」
「優男だね」
「お前が言うか」
「えー」
「そう! 洸ちゃん!」
「……え?」
有村と藤堂はそれを笑うつもりで話していたのに、突然振り返ったみさきは目を輝かせ、「洸ちゃんに似てるんだよ!」と繰り返した。
あまりに仰け反るので倒れてしまっては困ると背中を支えた有村の前髪を持ち上げ、エリオットの目も宝石みたいなんだよ、と言うのだ。具体的な色は明かされていないらしいが、光の反射で変わるならヘーゼルグリーンの可能性はあるかもしれない。
だとしてもだ。それを理由に名前を出されては有村とて面白くない。だっていい歳をして遭難した挙句、道案内をしてくれた少女を連れ帰るなんていかがわしいにも程がある。
いくら本の中ではヒーローだとしても似ていて嬉しいはずがないのに、みさきはひとり得意気に何度も頷き、藤堂に至っては何とも言えない顔で視線を寄越して来たりする。揶揄う気だ。有村はそう思ったが、藤堂からすると『ああ、ついに本人に言ったか』とそんな風だ。
内緒にしてくれって泣いたくせに。藤堂はひとまず、初めて聞いたふりをすることにした。
「器用なところもそうだしー、優しいしー、すっごくモテるし! ホント、洸ちゃんにそっくり!」
「えー、おじさんだよ? しかも迷子」
「丁度良いじゃないか。お前、この間ホームセンターで迷子になったろうが」
「迷子じゃなくて、みんながずっと工具なんか見てるからつまらなくて見て回ってただけ」
「そいつはキザか?」
「うん! すっごいキザ!」
「有村だ」
「ぴったり!」
「ホントそういうところがよく似てるよね!」
でもカッコイイなんて付け足されても慰めにもなりやしない。有村は顔を覆い隠し、みさきと藤堂の笑い声をシクシクと聞き流した。
そんな折、もう拗ねてやると気落ちした頭の中で、不意にある面影が過った。いかがわしい紳士はどうでもいいとして、あの世間知らずのこと、遠い昔に憧れた気がする少女のことだ。
純真無垢の権化のような、他愛のない物事にも一生懸命になる女の子。そう言えば、それが具現化したような同級生について有村はこの週末思いあぐねるはずだった。昨晩の一件ですっかりと忘れていたけれど。
有村はふと手を外し、目の前にもいる純粋の象徴に問いかけてみた。
「さっちゃんはさ。その子、本当にいい子だと思う?」
「思うよ! て、言うかこの本に出てくる人はみんないい人だと思う。悪そうな人も出てくるけど、結局みんな助けてくれるし!」
「ああ、都合がいい人」
「やさしいの!」
「みさきに八つ当たりするな」
「痛っ!」
お叱りついでに後頭部を叩かれた有村は突き飛ばされ、今度こそ文字通りに部屋から押し出されてしまった。時間はもう夜の九時。良い子はみんな眠る時間だ。
笑顔で見送るみさきに手を振りつつ引き摺られて行く有村もまたヘラヘラとニヤついていたので、藤堂は部屋に入るなり張り手をもう一発。そうして放り込まれるように連れ込まれた藤堂の自室には、ベッドの下に布団がひとつ敷かれていた。
「さすがにシングルはしんどいんでな。今日はこれで我慢しろ」
「ふふっ」
「なんだよ」
「いや。君は真面目だなぁと思って。背もたれにはしてもいい?」
「好きにしろ。ただベッドには入って来るな」
「入らないよ。僕だって嫌だ」
申し訳なさそうだったり、心底苛立っているみたいな顔をして見せたりする藤堂はベッドへ入り布団を被る。向けられる背中を眺めてもう一度クスリと笑った有村は、もう何度も泊りに来ていて今夜初めて、床に敷かれた布団へは入らずに上掛けだけを肩にかけベッドを背に座り込んだ。
「いつまで笑っていやがる。さっさと寝ろ」
「はーい」
カチカチカチと乾いた音を刻む秒針の音。耳をすませば下の階から聞こえて来る家人の足音や、ドアの開け閉め、水の流れる音。背後に感じる、藤堂の気配。
そっと目を閉じながら、有村はその全てが優し過ぎて少しだけ悲しくなった。そうして思い出したのだ。どうしてあの小説を何度も読み返したのかを。
「……似ててもいいかも」
「…………」
藤堂はもう眠りの海を泳いでいて、規則正しい呼吸音がなにより温かかった。
「でも、僕を神様になんてしないでね。藤堂」
そんな呟きに、返って来る返事はない。ふと振り返り覗き込んでみれば、藤堂の夢は今夜も優しいようだった。
「僕、ここにいるよ」
ベッドの縁に腕を付き、突っ伏した顔が柔らかな布団に埋まり込む。
「君と同じ、十七歳の男の子だよ」
微かに感じる体温が、無意識に引き寄せていた膝を緩ませていく。
「……明日も、晴れるといいね」
悪者がいない世界。そんな理想を夢に見て、有村もまた静かな眠りへと短い旅に出る。
明日この目が開いたら、そこには優しい物だけが映ればいいのに。『color』というタイトルのあの小説を傍らに、そればかり願っていたことも思い出した有村の閉じた睫毛には、透明の小さな粒が数粒だけ浮かんでいた。




