彼の、親友のこと
小学校教諭の父と、栄養士の資格を持つ母と、八歳下の可愛い妹との四人家族に生まれて、自分が恵まれていると思ったことは、贅沢にも一度もない。
子供の頃から身体が丈夫で体格も良かったから、中学校の二年で事故に遭って辞めるまで所属していた野球チームではずっと花形のピッチャーだった。自分でも得意な方だと思っていたし、将来有望だと期待されてもいた。勿論、努力もしたけれど、やっぱり同い年の誰よりもしっかりした体格があってこそだったと思う。
楽しかった気はする。けれど、好きだったかと言われると後半はもう覚えていない。
いつからか、コレしかないのかと思うのが、時々不安で堪らなかっただけで。
だからだろうか。リハビリに励めば、或いは。そう言われた瞬間、俺は少しだけホッとした。ずっとその気でいるようなふりをして来たけれど、これで生きて行こうだなんて欠片も思ってなかったからだ。
妹や母親を泣かせてしまったことだけが悔しかったが、辞めようと決めるのは驚くほど簡単だった。
そうして俺はどこにでもいる平凡な高校生になり、何に打ち込むこともなく、淡々と毎日を過ごしていた。良くもなく、悪くもない。そんな来る日も来る日も延々続く変わり映えのないある日に、夕暮れの川べりで、この世のものとは思えないほど綺麗な顔をしたヤツが言った。
「楽しいかい? 毎日毎日、そんなにつまらなそうな顔をして」
俺は言った。お前は毎日、楽しそうでいいな、と。
するとそいつは軽く振り返って、軽い口調で言いやがった。
ただその声だけが俺には少しだけ、教室で前の席に座るいけ好かないニヤケ顔のそいつが放つにはらしくないような、ひどく冷めたものに聞こえた。
「そう、見えるかい?」
誰かが言ったんだ。あんなに綺麗な顔をして、あんなに純粋な心をして。
まるで天使みたいだ、と。
「幸せなんだね。君は」
そいつは本当に空からふっと落ちて来たみたいにそこにいて、なんでも知っていて、なんにも知らないような顔をして俺を見た。
そこら辺の女よりデカいそいつの目はガラス玉みたいに薄い色をしていて、映った自分がそのまま見える気がした。つまらなそうで、退屈そうで、救いようもないくらいしょうもない俺の顔が。
恥ずかしくなったんだ。情けなくなくて堪らなくなった。
お前は誰だって、そう言われた気がしたんだ。何にもなれなかった自分を突き付けられるみたいだった。
「なぁ、有村――」
もし、あの時逃げ出さずにいたら。もっと、自分を見つめていたら。
俺はお前のそんな綺麗なばっかりの目を、同じくらい真っ直ぐに見ることが出来たんだろうか――。
目覚めしなに身じろいでふと腕を掠めた感触に跳び起きた藤堂は、弾かれたように隣りを見下ろして、目の当たりにしたソレを理解するのに少しの時間を要した。
白い枕カバーに降りる栗色の髪。シーツも布団も一揃えの白より白い頬と首。
「……そうか、ちゃんと寝たのか」
半信半疑でいたけれど、先に寝ていろと押し込まれて寝落ちた藤堂の隣りに、有村は約束通り横になって眠ったらしい。視線を投げた先の時計では、今は七時の手前辺り。いつもなら当然、有村は起きている時間だ。
耳をすませど聞こえてこない静か過ぎる寝息は多少気になったが、そんな時間になっても規則正しく上下する布団を見て藤堂はやっと安堵に頬を綻ばせる。
「つか、やっぱどう考えてもおかしいだろ、この状況。なにやってんだか」
男ふたりが枕を並べて、セミダブルのベッドで窮屈にご就寝。
楽しいものではなかったが、結論から言って藤堂も昨晩はぐっすりとよく眠れたので、『双方クリア』ということになるのだろう。だとしたら何日かに一回くらいは付き合ってやらなくもない、と早くも次を覚悟する自分に我ながら気味の悪さを感じた藤堂は目を座らせ、気晴らしに初めて見る親友の寝顔をじっくり拝んでおくことにした。
なにせあの抜けているようで抜かりのない有村洸太の完全なる無防備だ。よだれとか半目とかそんなのを見つけてあとで揶揄ってやろうという、ちょっとした出来心で。
「……うわ」
しかし、だ。首を傾け、まじまじと覗き込んだところで藤堂が思い出した言葉は、『好奇心は猫をも殺す』のひと言。そこには眠っている時でさえ一点の曇りもない絶世の美人が、ただただ清楚に横たわっていた。
「すげぇ破壊力。美人振り切れてんじゃねーか」
透けてしまいそうなほど薄い瞼に、閉じてる所為でより長さの目立つ睫毛と、微かに開いた淡い色の唇。どこをとっても完璧だ。と、同時にとても同性とは思えない寝顔を前に、藤堂からはつい感嘆の溜め息が漏れる。
「やっぱり綺麗な顔してんなぁ」
線は細いし、骨格も華奢だし。触れたら壊してしまいそうだとか、可憐な少女に似合いそうなセリフが頭の中でいくつか飛び交う。
月並みにも、繊細なガラス細工のようだ、とか。
そう、可憐で可愛い女の子に思いそうなことを、いくつか。
「…………ねぇわ」
こんな綺麗な顔をしてコイツはよもや男にも言い寄られたりしているんじゃないかとか、その辺りの貞操観念はどうなっているんだとかの疑問が不意に沸いたとして、今朝は特に墓穴を掘るだけの藤堂は底知れぬ寒気にブルリと震えた。
そう言えば有村の親衛隊には同性も多く席を置いていると聞くが、彼らが隠れ蓑にする『美しさに男も女もない』のキャッチフレーズが妙に染みるのも、そもそもおかしな話で。
「性別『有村』って、アイツらなに上手いことを」
その外見に男らしさは確かにあまり感じないけれど、だからと言って女性的というわけでもない。なのに、中性的かと言うとそれもまた何か違うのだ。
性がない。性別がない。いやらしさがない。そう考えると有村の美貌とやらはどこまでも清潔で、まさに絵画の世界のような。そこまで突き詰めると現実味もなくなってしまうわけだが。
「まぁ、だから草間も構えない、か。普通に考えたらコレが手の早いオオカミさんには見えな――」
ゆっくり静かに寝たいから気をやるまで抱くよ、と素っ気なく嘯くようには、とても。
「…………」
藤堂は何故だか急に居た堪れなくなり、水でも飲みに行こうかと、肘を着いて支えていた身体をしっかりと起こした。人は見た目じゃわからないというのを、よもや寝起きに実感する羽目になろうとは。
しかし膝を立て体勢を変えようとしたところで、そんな複雑な思いがてらの行動はそっと伸びて来た指先によって遮られてしまった。
「――起きたの?」
なんとも頼りない声だ。手首に触れる力も弱く、藤堂はそこで改めて元は有村の安眠の為にここにいたのを思い出す。
出来心のついででうっかり失念していたが、よく眠っているのを邪魔しては元も子もない。気まずさはさておき、動かずにいればもう一度寝てくれないだろうかと、藤堂は息を潜めて様子を窺ってみたのだけれど。
「……だめ」
その隙を衝いた有村に腕を引かれてバランスを崩した身体はなす術もなく、枕の上へと倒れ込んだ。
「んっ」
柔らかな羽毛に受け止められ、息を詰まらせるのが精々だった瞬く間に聞こえたのは、小さく軋むスプリングの音。次いで視界を遮るよう、ひらりと返る人肌の気配。
そして、それらを追うのがやっとの藤堂に降りてきた囁くような甘い声に目を見開いた時には、既に万事休すのこの事態。
「もう少し、いい子にしてて?」
一連の手馴れた動きに状況が理解出来ず慄く藤堂に有村がとった行動は、引き込んだ、という表現の方が正しかったかもしれない。再び仰向けに寝転んだ藤堂の顔の近くに腕を着き、有村はこともあろうにその顎先に指を添えると、ゆっくり覆い被さる影を濃くしていったのだ。
当たり前のように、うっすらと唇を開いて。
「……まッ!」
「……ん? かたい?」
性がない、なんて冗談じゃない。
寝顔が天使なら寝起きは淫魔かと罵りたくなるほど、日頃からたまに滲む色気に気怠さを上乗せした有村はもう官能の権化のような存在感でギリギリまで迫ってから訝し気に瞼を持ち上げ、瞬きをひとつ。
「あれ、藤堂? どうしてこんな所に……ああそうか、昨日は一緒に寝たんだっけ」
そうか、そうか、とひとり勝手に納得をして、事も無げに言い放った。
「ごめん。ちょっと間違えちゃった」
「……間違えたで済むかバカもんがー!」
やっぱり、迫ったままの超が付くほどの至近距離で。
体格諸々違い過ぎるだろうとか言いたいことは山ほどあったが、とりあえず。
「早く退け!」
「はい、はい」
そうして、「寝起きにいきなり怒鳴らないでよ」と伸びがてら、布団ごと身体を起こした有村を見て、藤堂はもう一度盛大な怒鳴り声を上げることになる。
「お前! 服は!」
「え? あー、言ってなかったっけ」
藤堂を跨ぐ膝立ちの体勢は所謂『馬乗り』というやつで、見下ろしてくる有村が身に着けている物は、何を隠そう黒のボクサーパンツ一枚だけ。
その恰好で、わなわなと憤る藤堂なぞ知らん顔で、半裸以下の有村ときたらまだ暢気に欠伸などしている。
「僕、服を着てると寝辛くて。窮屈なのは好きじゃないから」
「なっ……!」
よく引き締まっていながらしなやかさも兼ね揃えた肢体を堂々と晒す様は、驚愕や怒りを越えて藤堂の頭を一旦真っ白にさせたあと、急激なUターンを決めてやはりこの上ないほどの怒号を生んだ。
帰ってすぐに靴下を脱ぐ感覚で下着姿になられては堪ったものじゃない。
「着ろよ! 俺だって我慢して添い寝したんだから、お前だって譲歩しろ!」
「したよ?」
「怖いこと言うな!」
蹴り飛ばされて、ベッドからも追い出されて。
それでもすこぶる上機嫌な有村は口角を上げたままベッドサイドから眼鏡を取り上げ、颯爽と窓の方へ歩み寄る。
半裸に眼鏡は尚嫌だと苦虫を噛む藤堂の横顔にも眩しい日差しが届いたのは、厚手のカーテンが大きく開かれたから。思わず目を細めてしまう朝日を前に、ぼやけた視界で背中を向けた有村が腕を上げて伸びをするのを眺めつつ、藤堂はただただ顔を顰めるばかり。
「あっ! そうか、髭か。なんか指がざらつくと思ったら、君、一晩で髭が伸びるのか」
「伸びるよ……伸びるから、もう、なんか着ろよ。頭いてぇ……」
「なるほどねぇ。いいなぁ。僕も欲しいなぁひと晩で伸びる髭」
「やめろ。お前は絶対似合わない」
「そんなことないよー」
ケラケラと笑いながら適当なシャツを羽織って部屋を出ようとする有村に「下も履け!」とまた怒鳴り、閉まるドアに藤堂は深い溜め息を吐いた。まったく朝からいい迷惑だ。顔が熱いわ、どチクショウ。
無邪気に笑えば済まされると思って。深い息を吐き出した時は確かにそう憤っていたはずなのに、自ら発したその音を聞いた藤堂は、すぐさま違う理由で繰り返しの溜め息を吐く。
あれはそんなに単純な性格じゃない。最後のは確実に、有村に気を遣わせたのだ。
「なにも蹴ることはなかったよなぁ……」
持ったパンツは抱えたまま「藤堂も早く起きてね」とこちらを向いてドアを閉めた有村の真っ白な背中には、朝日を浴びながら一度はっきり晒されたそこには、肩甲骨の辺りからウエストにかけてだいぶ消えかけた幾つも走る線状や楕円型の傷跡がある。
どれもじっくり見なければ気付かないくらい細い線や点だけれど、数だけは悍ましいほど。
「よくしてくれる人には、アレを見せたくないってのもあるんだろうな」
浅い関係なら、なんでもないです、で済むのかもしれない。本当は誰にも見せたくない、たぶん、有村の踏み込まれたくないところ。
藤堂はむしゃくしゃとした気分のまま乱暴にうなじを掻いて、部屋から飛び出して行った。
「有村!」
死ぬほど嫌な思いをさせたから、藤堂への対価はしばらく分前払い。なのに上乗せなどした仕返しとばかりに、早速キッチンへ立ち朝食の準備を始めていた有村を呼びつける。
「朝飯はあとにして、ちょっと付き合え。走りに行こう」
そうしてふたりの朝には互いに休みがちになる日課に出掛けたあとは、過ぎたことを持ち出さないのが決まり事。
ふと手を止めた有村は穏やかに笑って、何も言わずに火を消した。




