精一杯と最大限
何が起きたのか、一瞬だけ理解に苦しんだ。
自慢ではないがこの腕を望む人はごまんといるのだ。一度でいいと強請られることだって少なくはない。なのに。
有村の前には今、間抜けに持ち上がったままの自身の腕だけがある。
「――――っ、ごっ! ごめんなさいっ!」
スポッと音がしそうな俊敏さで消えた先から上がる、そんな悲鳴交じりの謝罪と共に。
「えっ。そんなに嫌だった?」
思わず呆れ声とも取れそうな声色で告げた有村の顔は完全に下を向いていて、その先には切株ほどの大きさになった草間がしゃがみ込んでいた。小さく小さく丸まって、見落としたら躓いてしまう小石の如く、折った膝に顔を埋める草間はそのまま持ち運べそうにコンパクトだ。
ちょっと大きめの掃除機くらいだろうか。業務用の、太い茶筒のような、あれ。
「そっ……そ、じゃ、ないんだけど……」
「だって、下に逃げるってよっぽどじゃない? ごめんね、なんか」
「ちがっ! あの……ゴッ、あの……ちが、くて……有村くん、近過ぎて。ちょっと席、離れてたから。ヒッ、ひさびさで――」
徐々に小さくなる声が聞き取りづらくて腰を折ってゆけば、もう殆ど真上に寄せた有村の耳に独り言にしても小さい、吐息のようなものが届いた。
「――ちから、ぬけた……」
なんと。
細かく震える草間を見れば冗談とも思えずに、有村は身体を起こすと、緩んでしまう頬ごと当てた掌で覆い隠した。
背筋を伸ばしてどうしたものかと視線を迷わす仕草は、『しまったな』とそんな様子だ。彼女の心情を察するなら笑うなど論外だろうが、込み上げてしまうものは仕方がないと開き直るのもままならないような、有村が必死で堪えるのは場違いなくらいに嬉々としたもの。
もしもこの瞬間に草間が顔を上げたなら、勘弁してくれとでも言いたげに眉を顰める貴重な有村の困り顔を見ることが出来ただろう。
「あ、あの……あ、あきれた?」
「いや、そんなことは、全然」
震え過ぎて細切れになった声に応える精一杯の気遣いも、心なしが揺れていた。
どうしよう。すごく可愛い。
有村が肩を揺らして告げないように耐えるのは、素直に明かせばそれだけだった。
露骨に避けられれば傷付かないではないのにな。そういう感情は有村にもあるのに、深く項垂れて開けた髪の隙間から覗くうなじの朱色がこうも必死に『嫌いにならないで』と訴えるのだもの。責められるはずがないし、そのくらい恥ずかしかったんだと思えば、愛らしさ以外に残るものがない。
可愛い。どうしよう。これが仔猫や仔犬なら抱き上げて抱きしめて頬擦りするのは間違いない。そう出来ないのがこんなにも苦しいとは知らなかった。抱きしめたい。餌付けしたい。出来ることなら鞄に入れて持ち帰りたい。そんな思考が一周回って、どうして草間は十七歳の女の子なんだろうとまで考えて、有村は潤んだ瞳をフルフル震える黒髪に落とした。
やっぱり、この子はすごい。
「ごめんなさい。わたし緊張しちゃって……どきどき……しちゃって」
「うん。ドキドキしてもらえるのは嬉しいかな」
適度なら。
胸の内でかけてしまった追い打ちに、有村は余計なことをと苦虫を噛む。
思い返しても草間に適度なんてあった例がない。沸点の低さもまた有村にとっては草間の可愛いところだけれど、五くらい跳ねたら一気に百まで振り切れてしまう過剰反応を頭の中で瞬間湯沸かし器に見立てたら、そろそろ横腹が痛くなってきた。
『ピーッ!』
きっといい音がするに違いない。小型のやかんは音が高いと言うし。
『ピーッ!』
すぐに赤くなるから湯気が出るなら顔面かな描いた途端に漏れた、くっ、という小さな声は半ば根性で飲み込んだ。おかしい。笑う努力ならまだしも、笑わないことに苦心する日が来るとは思ってもみなかった。
どうやって堪えるのかも、わかりやしない。
「あの、それで……て……てを」
「て?」
そこへ飛び込んで来た言葉につい素っ気なく返してからはたと思い至り、有村はすぐさま再びに腰を折った。
手を貸してくれということか。有村にどう見えているにしろ、草間にとっては未だ進行中の一大事だ。立ち上がらせるのが先決と思えば、有村の表情もすっと普段のすまし顔へと戻っていく。
「ごめん。気付かなくて」
「立てる?」と優しく問いながらそっと右手を差し出して、有村は草間から触れてくれるのを待った。
強引に腕を掴んで引き上げなかったのは有村なりの気遣いだ。けれどそんな指先をチラと見たらしい草間は更に小さく蹲るばかりで、手を取ってくれる気配がない。
「いや。あの、そうじゃなくって……」
「でもいま手って」
違うの、と覗き込んだ有村は小首を傾げた。手を貸して欲しいのでなければ、他になにがあるだろう。
そうしてひとつかふた呼吸ほど。思案する間に閉じかけた有村の手の方へと、恐る恐る草間の手が伸びてきた。やっぱりそうだったのかな、と思ったのも束の間。その指先が触れるか触れないかのところでピタリと止まると、訝し気に瞬きをする有村の眼下で、それでも全く顔を上げない草間の後頭部が力なく呟いた。
「手……あの、手から、慣らすのとかって、ダメかな……?」
慣らす、とは。
言いながら続けてこちらもやはり恐る恐る向けてくる上目遣いにその台詞を理解すると、今度は堪える間もなく有村は吹き出して盛大な笑い声を上げた。
全く以て無遠慮な、遠くまで響くような大笑いだ。
「あはははッ! 手、手ね。先の方から慣らしてくって。確かに基本だろうけど、そこからかぁ。あはははっ!」
抱き締める、では近過ぎるというわけか。その上、蹲って辿り着いた譲歩がそれなら、なんて素晴らしく清い発想なのだろう。
少しでも媚びようとした自分が馬鹿みたいだ。そう思いながら、有村の喉はさも愉快に大きく震えた。
「ちがっ! 違うの! あの、あのね。私、男の人の手って苦手で、でも有村くんのは不思議で、怖くないし温かくて、だからっ」
ククッと声を殺せば余計に肩や背中が揺れて、草間の声色が益々慌てていく。
笑わないで。そう語気を強められても、口を開けば開くほど『男なんか大っ嫌いなんだけど、有村くんは男っぽくなくて平気っぽい』と露骨に言っているようなもので、それが全く褒め言葉でないのに気付いていないから尚更、有村は腹を抱えて笑い続けた。
せっかく一度は堪えたのに。我慢した分、一度声を上げると中々どうして収まりがつかない。自分の笑い声が煩いなんて生まれて初めてだ。
「もう! そんなに笑わなくても!」
「だって。手って、握手くらいなら誰とでも普通にするじゃない」
「そうだけど! 握手と違うでしょ!」
「おんなじだよぉ?」
「違うよ! あっ、有村くんなんだよ?」
「ダメだ。ハマった」
「それだって、精一杯だよ!」
「子供じゃないんだから」
「それでいいって言ったじゃん!」
「あー……」
確かに言った。
子供みたいな、一生懸命なだけの恋がしたいと草間に言った。ここまでとは思わなかったが、確かに有村はそれを期待して草間を選んだのだ。
だから彼女の答えは寧ろ模範解答で、有村は笑い過ぎたと咳払いをひとつ。胸元を二度ほど叩いて気を落ち着かせると、もう泣いているのに近い涙目の草間に「ごめん」と頭を下げた。
精一杯をくれると言うのに不満に思うことなどなにもない。顔を上げた有村はいつの間にか引っ込めてしまった手をもう一度差し出すと、草間の前でひらひらと振ってみせた。タネも仕掛けもないよ、とそんな風に。
「手だったらいけそうなの?」
「うん。この間は、平気だったし……」
「まぁ半日普通にしてたしね。恥ずかしいのはともかくとして、俺から繋ぐのはクリアしてるわけだよね?」
「うん……たぶん……」
「そしたらこれは草間さんからってことだ」
「それはっ」
「違うの?」
「がっ……がんばります」
「いいね」
試しに待っているから草間さんから握ってみて、とそのままでいれば、草間は目隠しで箱の中のザリガニに触れるみたいにちょんちょんと何度か躊躇ってから、おずおずとそれを取る。
これでも同じ人間なんだけどな、なんて。つい頬が緩んでしまうような覚束ない触れ方だ。あったとしても、皮膚越しに毒が回るわけじゃなし。
「噛みついたりしないよー」
「わかってる、んだけど……っ」
だって、たかが手だ。
なのに取っている風で実際には浮いているような塩梅で限界を迎えたみたいにゴクリと生唾を飲む懸命を見ていたら、それにも大層な意味があるように思えた。
途轍もなく大きな一歩のような。草間にとっては多分そうで。
「……ふっ」
「なに?」
「いいや」
不意に零した声に視線を上げた草間があまりに怖がるものだから、有村は何をということもなく謝ると重なりかけた指先に触れ、力を込めてその身体を引き上げた。
「今日はこれで充分だよ」
「キャッ」
「続きはまた今度」
そうして立ち上がらせた草間の脚はふらついていて、咄嗟に有村が身を引かなければ胸に飛び込んでいたほど。そんなことをしたらまた切り株に逆戻りだと思ったら、今度こそ有村は明らかな笑い声と共に至極自然な笑みを湛えていた。
面倒を避ける為に張り付ける計算ずくのものじゃなく、寧ろ抜けていくような柔らかな表情だ。ここに草間以外の誰かがいれば見せなかったであろう、藤堂や佐和と過ごすふたりきりの部屋の中でくらいしか覗かせない、無意識の微笑。それは決して温かであったり見栄えのいいものではなかったけれど、大きな縁取りの上の方にヘーゼルグリーンの瞳が欠ける、余所行きでない有村の素顔のひとつ。
「ありがとう。ふふっ。元気、出ちゃった」
なにせその胸の内には、偽りなく伝えたままが溢れていた。
充分な睡眠を取るのと同じくらいか、それ以上に心の中が穏やかで、ポカポカと温まる熱源が身体の内側に満ちていくのがわかる。この感情の名前は、喜びだ。
だから有村は壊れやすく大切な宝物を掬い上げるよう、立たせたあとも離さずに草間の目線の高さも越えて引き寄せた指先から、嬉々として持ち主の方へと視線を移した、のだけれど。
「――――ッ!」
はぁ、とも、あぁ、ともつかない、発するより吸っているような掠れた音を放った草間の瞼と口は大きく開かれており、目が合った次の瞬間、驚くべきスピードで有村から離れて行った。
「ん?」
驚愕だか戦慄だか定かでない表情が有村に丸見えだったのは、それが目にも留まらぬ後退りだったから。
「――うぐっ!」
肩にかけた鞄をひしゃげてしまうほど強く胸の前に抱き、昇降口の出入り口、そのガラス戸に背中から体当たりをして急停止した草間は強い日差しの逆光の中、それでもわかるくらいに荒ぶる呼吸で肩を上下に揺らしている。
「大丈夫? すごい音したけど、背中、痛めてな――」
「……ぎる」
「……え?」
「すぎる」
「ごめん。ちょっと、意味がよく……」
まるで戦場に赴いた猛者みたい。戦闘力は皆無だろうが、もしも猫ならああいう時は刺激すると捨て身の逆襲に遭うパターンだ。
外見上こそ平静を保っていた有村も内心は焦るくらいに驚いていて、一瞬だけ宥める言葉のレパートリーが単語帳ごと行方不明になった。
なんだ。なにがあった。いや、この場合は何をしたのかを考えるべきか。
「過ぎる、って言った? えぇと、なにがだろう」
声のボリュームは耳に届くギリギリのラインだし、言いたいこともよくわからないし。
とりあえず聞き返すくらいしか出来ないなんて情けない限りだが、やはり上っ面だけで積んだ経験はさして役には立たないらしい。
「有村くんが……」
「俺が?」
「……過ぎる」
「――はい?」
困惑を通り越して真っ白になった有村を置き去りに、草間が引いた片足がガラス戸を越える。ゆるゆると首を横に振りながら、それは一体どんな心境なのだろう。
しないようにと心がけても眉の辺りに怪訝が滲んだ有村が、ほんの少し首を傾げた途端。
「ちょっと、十分くらいでもいいから…………休憩させてくださいっ!」
「ええっ?」
草間は今日二度目になる絶叫を残して、背後に広がる太陽の下へと駆け出して行った。
「……休憩って、なに」
そうポツリと零すくらいが精々の有村を、振り返ることもなく。
ここへ来て不思議な言葉をかけられることは少なからずあった。過ぎるという表現も、例えば『姫様が過ぎる』とか『可愛いが過ぎる』とか、有村にとって揶揄われるフレーズの類なら投げられたことがなくもない。
だけど草間のはどう考えたって、そんな軽口とは種類が違う。
「て、いうか。本人に向かって僕が過ぎるって、なに。また妙な顔でもしてたかな」
有村はふと顔の下半分を掌で覆い、素性を尋ねられた先日のベンチで慌てふためいた草間を思い浮かべた。
気を抜くと、造形として非の打ちどころのない有村の顔は簡単に人間臭さを失ってしまう。だからこそ日頃は意識的ににこやかを張り付けているわけだが、草間の前でうっかり剥がれたことがある以上、今しがたもその可能性が否めない。
完全に油断したと思った。寝不足で呆けているにも程がある。うっかりというのは、たまにだから『うっかり』で済むのだ。草間の前で度々ともなれば、もはや単なる腑抜けも同じ。
「ん? あれ?」
そう。草間に対するうっかりは、少なく見てもこれで三回目くらい。
「あっ!」
頭を抱えたくなる後悔の中で前の二回を思い出した有村は急いでガラス戸から身を乗り出すと、未だ走り続ける草間を目掛けて大声を上げた。
いつかの光景が鮮明に蘇るようだ。長い黒髪をワサワサと揺らして遠退いていく背中が、実物以上に小さく見える。
「草間さん! 走るなら、ちゃんと前見て! 目を閉じて走っちゃダメだよ! また――」
また転ぶよ、と言いかけて、有村は口許に添えた手を下ろした。
有村がひとり佇むこの日陰から出て行ってどのくらい経っただろう。藤堂たちの待つ校門までは、何キロもの長い道のりがあるわけでもないのに。
あの時と同じだ。まだ道路の隅に桜の花びらがこびり付いていた頃、教室の前の廊下で、草間は集めたノートを抱えていて。
「――だから、追い付いちゃうんだってば。もっと速く逃げてくれないと」
手伝いを申し出た有村を、彼女は無視して走り出した。
そうして間もなく盛大に転んだ草間は飛んで来た落合と久保に挟まれ、とやかくと責められながら、曲がり角の隙間で酷く悲しそうに振り返ったのだ。
思えばあの瞬間から、避けられたあとの草間を見るようになった気がする。
おはようの返事は大きく跳ねる肩と、ホームルームが始まってから感じる視線。また明日への返答は強張らせて丸める背中と、俯いた髪に隠れる赤い頬。
「ちゃんと見てくれるだけでも、たくさん頑張ってくれたんだよなぁ」
だもの、急に抱きしめたいなんて迫ったら膝も抜けるだろうし、自主的に手を繋いでくれと待ち構えたらブレイクタイムが欲しくもなるはずだ。
ふっと漏れた声はやがて有村の喉の奥を震わせ、しっかりと合わせた奥歯に反して唇の上下が離れてしまうと、それはすぐに冷たいタイル張りの壁に響き渡る笑い声になった。
「あはははっ!」
大きく開けた口は精巧な有村の顔にも皺を寄せるし、一度でも入った跡は瞬く間に癖になって、醜く外見を損なうものだと言いきかされてきたけれど。
だから、なんだと言うんだ。
「そっかぁ……ははっ! そうかぁ」
締め付けられるような胸の辺りのシャツを掴んで天を仰ぎ、溢れ出すまま、零れ出すままに、上擦った声を吐き出すのはこんなにも清々しい。
損なうから、なんだ。崩れるから、なんだ。
「あはははっ!」
上げてしまった笑い声の収め方など知らない有村はしばらく笑い続け、頬や肩を怠くした。それがようやく途切れたのは、近くでドザッと何かが落ちる音がした折のこと。
「――――笑ってる」
「……ん?」
「有村が、声出して笑ってる」
疲れ混じりの余韻で間延びした生返事をした有村が視線を向けた先、草間が去って行った日差しの中には、足元に鞄を落としたまま立ち尽くす茫然自失の鈴木の姿があった。