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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第二章 発条少年
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スイッチ

「……ふぁ」

 エントランスへ降りて自分の鞄を肩に提げた有村が小さな欠伸を零すのを横目に、藤堂は緩む口許を隠すよう、一足早く自動ドアを潜る。

 後ろからパチパチと頬を叩く乾いた音が聞こえるのは、有村がまだ本調子でないからだ。いつもなら一歩でも外へ出れば余所行きの顔になるのを知っているからこそ、藤堂は「バイトは来週いっぱい休むことにした」と欠伸混じりに報告してくる油断だらけの声に綻ぶ。

 佐和と過ごした休日は充実したものだったらしい。それに一役買えたのなら、お節介も甲斐があったというものだ。

 けれどやはり自宅の外では全身から漂う気怠さも長く尾を引かないのが有村で、洸太くんと呼び掛けられて振り返る時こそ多少眠たそうではあったが、緑の茂る生垣から顔を覗かせた女性を目に留めて「おはようございます」と微笑む頃には、もう王子様の横顔を取り戻していたりする。

 そうした切り替えは正にスイッチそのもの。良くも悪くも、有村は何かと長く続かない。

「今日も暑くなりそうですね。その後、足のお加減はいかがですか?」

「ええ、おかげさまでやっと包帯に。その節は色々とありがとうね。洸太くんに助けてもらってゆっくり出来たから、治りが早いって先生に褒められちゃった」

「それはよかった。ご不便も多かったでしょうが、少しでもお役に立てたのなら嬉しいです」

 女性の元へと駆け寄って行く背中を眺めて、藤堂もまた軽い会釈をする。彼女は有村の住むマンションの向かいの家の住人で、年の頃はふたりの祖父母と同世代。

 娘が自立してからは一人住まいで、有村は度々顔を出しては買い物や庭の手入れを手伝っているという。何かにつけて面倒だが先に立つ藤堂には、到底出来ない近所付き合いというやつだ。

「けど、無理はなさらないでくださいね? しっかりと治さないと」

「そうね。でも大丈夫よ。こう見えて私、丈夫だけが取り柄だから」

「自転車はまだダメですよ?」

「ないと不便なのよ」

「買い物なら僕が行きますから」

「悪いじゃない。洸太くんだって忙しいのに」

「早希子さんの美味しいお料理のおすそ分け狙いですよ。下心がありますから、お気になさらず」

「もう! 口の上手い子ね!」

 向かい合う有村の腕をパシンと叩きながら至極嬉しそうに微笑むのを見て、高齢の女性にしてはと言ったら失礼になるが、藤堂は目にした少しばかり恥じらうような笑顔を素直に可愛らしいと思った。

 きっと、お世辞なんかじゃないですよ、と叩かれるままゆらゆら揺れる有村がそうさせているのだ。後ろで待つ藤堂にその顔は見えなかったが、同じく嬉しそうにはにかんでいるはずの彼は触れ合う人々に満遍なく、そういうものを振り撒いてしまう。

 まるで呼吸をするように、ごく自然に。

 鈴木に言わせれば有村からは大自然的なマイナスイオンが出てるらしいが、藤堂もたまにそう感じることがある。

 夜の領分が微塵も絡まない時の有村は、存在そのものが癒しだ。だから眺めているだけでつい心が緩みそうになる。流石は奥手で男性恐怖症の気があった草間を穴倉から引っ張り出した男だ、と納得してしまうほどに。

「骨折か」

 けれどわけもなくニヤついているのは性に合わないから、見送られ改めて駅へと向かう道すがら、すまし顔に戻った藤堂は最初の角を折れた所でそうぶっきら棒に尋ねてみた。

 小間使いまでしてやっていたとは初耳だ。手が必要なら言えばよかったのに、とまでは口にせず、藤堂はあくまで世間話を装う。

「自転車で転んでしまってね。この数週間は松葉杖だったんだ。ギプスは蒸れて辛かったろうから、取れて本当に良かった。この時期、お風呂も入れないなんて地獄だよ」

「それで世話してたのか。いい子だなぁ、お前」

「大したことはしてないけどね。困った時はお互い様」

「に、したって他人だろ。そうそう出来ることじゃねぇよ」

 そうして僅かに早足になる藤堂との距離が半歩から一歩になり、有村はそれを駆けて追い越すと、上目遣いで居心地悪そうな切れ長の目許を覗き込んだ。

 彼は確かに癒しの権化のような人物だったが、その性格にピリリと刺す棘がないわけじゃない。寧ろ両方が揃ってこその有村なのだ。他人の心を見透かすヘーゼルグリーンはぼんやりしている時よりずっと鮮やかで、藤堂はそちらの方が有村らしいとすら思う。

「やりたくて、出来る者がやればいいだけのことさ。強いることでも、無理をすることでもない。勿論、気の良い友人を巻き込むことでも」

「……いい子だよ、本当に」

 無論、歓迎は出来ないのだけれど。

「しかし暑いな」

 藤堂はうんざりと呟いて「アイスでも食いながら行くか」と眉間の皺を深くしたので、有村はすこぶる爽やかな笑顔で「ふたりで食べるやつがいい」と元気よく答えた。

 それがふたりの丁度良い距離感である。



 そうして分け合ったアイスをチューチューと吸いながら辿り着く駅のホームは、今朝も人でごった返している。

 どちらを向いても溢れている、人、人、人。その隙間を何とか縫って一番空いていると思しき奥の車両に乗り込んで間もなく、折角摂取した糖分を早くも消費したらしい有村がコテンとドアにもたれ掛かった。

 格段に減った口数。貧血を起こしたような青白い頬。

 完全無欠と思われがちな王子様にも克服出来ない事柄は幾つかあって、この通勤通学で混み合う満員電車はほぼほぼ最上位に位置する苦手なものの代表格だ。

 勿論、藤堂はそうと知っていてドアに着いた自らの腕を囲いに有村を匿っているわけだが、多少の空間を与えてやるだけでは不十分。みるみる衰弱していく耳元に絶えず声をかけながら、限界を見定めてやる必要がある。

「無理はし過ぎるなよ? すぐに降ろしてやるから」

「うん」

 弱々しく頷く、伏せた瞼が震えている。今日はいつもより混み合っているようだから、臭いもかなりきついのだろう。

 混雑そのものより鮨詰め状態で立ち込める人の臭いに酔う有村は、先々週の金曜日までひとりでこれより数本早い電車に乗り、我慢の限界になると降車して、少し休んでから後続の電車に乗り直すという方法で通学をしていた。

 どのくらいまで耐えるのかというと、車内で尻を触られても気付かないくらい。先週から護衛の任に就いた藤堂が腕を捻り上げるまで、有村は口呼吸を心掛けるのに忙しくて同じ面子にマークされているのにすら気付いていなかった。

 全身に何十個も目が付いてるような有村には、まず有り得ないことだ。そのくらい余裕がないわけだが、何故そうまでして有村が無理を通すのかと言えば、当然、草間を待ち構える為である。

 そんな健気を見せる親友の為、また、同級生と付き合うのならまず何をすればいいのかと問われて、登下校でも一緒にすればいいんじゃないかと答えたからには可哀想なほど肩を竦める有村を守る責任が自分にはあると藤堂は考えていて、今はその使命感に燃えている真っ最中というところ。

 ほんの少しだけ、目のやり場に困りつつ。

「あと三駅だ。いけそうか?」

「がんばる」

 藤堂は力なくドアや手摺りに体重を預けるうっすらと涙目の有村を見る度に、あの脂ぎったサラリーマンを引き摺り下ろしたのは可哀想だったかもしれない、と車窓から見える景色の遥か遠くを望む。

 魔が差したと叫んでいたっけ。それもまあ、わからないではない。

「……はぁ……っ、はぁ……っ」

「…………」

 弱れば弱るほど俯き加減になる表情が憂いを帯びて見えるのは、きっと藤堂の気の所為ではないからだ。苦し気に呼吸を乱すのさえ、有村がするとどことなく様子がおかしい。理由は明らかなのだ。全部、何もかも、この男とも女ともつかないくらいに美し過ぎる顔の所為。

「辛くなったら掴まっても、寄り掛かってもいいからな」

「うん……っ」

「…………」

 降りたっていいのに、それだと回復する時間を稼げなくなるから、なんて。

 草間がこれを知ったら泣くだろうな、色んな意味で。藤堂はそう思いながら、両手で顔の下半分を覆いながら短く息を詰める有村を視界の端に、到着までのカウントダウンを続けた。

 妙に熱っぽい視線を幾つも後頭部に感じながら。



「なにか飲むか?」

「大丈夫。ありがと」

 人混みから抜け出してひと息吐いてから、草間たちがやって来るまでの休憩時間は大体十分ほど。

 その十分で有村は大凡元通りになる。これもまた例の『スイッチ』みたいなものだ。有村は切り替えもさることながら、回復だってすこぶる早い。

「ごめんね。もう一週間も経つのに」

 吐き気が治まり、呼吸が整い、そうして草間たちを待った初日と同じく改札出口の壁に寄り掛かり、前に立つ藤堂の立派な体格が作った木陰で気分を落ち着かせていると、有村は徐々に申し訳なさと情けなさが込み上げてくる。

 他のことは大抵がすぐに慣れて大丈夫になると言うのに、電車だけはまだもうしばらく時間がかかりそうだったからだ。

「対処法はあるはずなんだけど」

 口の中でコロコロと大きな飴玉を転がしながらしょんぼりと有村が零せば、藤堂は気にするなと小さく笑う。

 太陽に透かしても赤茶けない藤堂の髪の漆黒色に負けず、実直な頼り甲斐のある笑みだ。弱っている時に見せられるお兄ちゃんの顔は、有村の心にもじんわり染み入るものがある。

「でも、やっぱり悪いよ。こう毎日だと」

「言い出したのは俺だ。お前が気に病むことじゃない」

「病むよ。全然平気にならないし」

「そうか? 吐きそうにならなくなっただけ大した進歩だと思うけどな。夏場は一番キツイし、秋になれば案外どうってことなくなってるかもしれないだろ。だとしたら夏休みまであと一ヶ月もない」

「だといいなぁ」

「不安がなくなるまででいい。大人しく付き合わせろ」

「藤堂ってカッコイイね、ホント」

「今更か?」

「改めて思ったのぉ」

 体力と気力の回復に放り込んだ飴玉をガリガリと噛み砕きながら、有村はハンサムと形容するのがピッタリな藤堂の顔を見上げて深めの溜め息を吐いた。

 教室でもそういう優しい表情で笑えばいいものを。退屈そうな仏頂面は藤堂に損はさせても、得などないように有村は思う。せっかくの男前が台無しなくらいだ。勿体ないことこの上ない。

 その端正が「そろそろか」と零して壁からひょいっと顔を出した瞬間に、細やかながら黄色い声が聞こえて来た。バキッ。ガリガリ。タイミングよく有村が次の飴玉を噛んだのはただの偶然だったが、その視界ではチラチラとこちらを伺う見慣れぬ制服を捉えている。

 来るか来ないかの微妙なラインだ。このまま無視も出来そうな。

「……どうかしたか?」

「んー」

 目線で牽制を図る有村に気付いて藤堂が振り向けば、今にも駆け寄って来そうだった女の子の四人組はそれまでと違う色めき方をして、キャッキャと走り去って行く。

 一定の距離を置いてじっくり観察されるようなそれはひとりの時にはなかったパターンで、しかし藤堂と登校するようになってからはよくそんな反応をされる気がした。正直を言えば、学校や教室でもたまに。

 どういう趣旨なのかわからないし、戦わずして負けたような不思議な気分にはなるけれど、きっと振り返った藤堂が思ったより素敵だったんでビックリしたんだろうと平和主義の有村は思って、そうと納得出来てしまう精悍な顔立ちへと再び目をやる。

「また睨むー」

「睨んでねぇよ。別に怖がってなかったろ」

 だけど藤堂は大抵睨んだような顔で人を見るのだ。元が鋭い三白眼なんだから気を付けた方がいいと何度言っても、そもそも直す気がないらしい。視力だって有村よりもずっといいのに、すぐ眉間に皺を寄せるのは藤堂の悪い癖だ。

「来たぞ」

 混雑を極める改札口に草間たちを見つけた藤堂はやはり不遜に目を光らせていて、有村は放り込んだチョコレートの粒を噛みながら、ふと伸ばした人差し指と中指を押し当ててグイと深く入ったその皺を伸ばしてやった。

「やめろ」

「睨まないのー」

「睨んでねぇって」

 そうしてじゃれ合っているうちに有村の顔色は完全に元通りになっていて、渋々手を上げる藤堂の影から出しなに同じくこちらへやって来る三人目掛けて手を振れば、それに気付いて手を振り返す落合に続いて、相も変わらず不機嫌そうな久保と、その半歩後につける草間が緊張感たっぷりの肩をビクリと跳ねさせるのが見え、笑顔すら零れた。

 いるのはわかっていただろうに、毎朝一日目の新鮮味を与えてくれる貴重なリアクションだ。有村はそれを楽しんでいたけれど、藤堂は面倒臭そうに目を細めたりする。

 付き合ってるんだよなとこのタイミングで確認されたことも、もう一度や二度ではない。

「まだ慣れねぇのか」

「そこが可愛いと思うんだよね」

「どれだけ物好きなんだ、お前」

「えー? 可愛いじゃない。女の子って感じで、女の人の臭いがしなくて」

 まだこちらの声は聞こえないであろう距離で、もう頬に赤みが差しているのなんて堪らないくらいだ。僅かに顎を上げて有村がそう言うと、せっかく伸ばしてやった藤堂の眉間の皺がもっと深くなった。

「色気がないからいいって? 一通り遊んで試したヤツは言うことが違うな」

「突っかかるなよ。変わることより、そのままでいることの方がずっと難しくて尊いんだぞ?」

「は?」

 わからねぇな、と頭を振る。そんな藤堂を見て、落合が早速目を輝かせる。

 それでいいんだと有村は思う。この胸の内は誰かに見せて気持ちのいいものではないから、見せて気持ちのいい笑顔だけを携えて、彼女たちが近付いた分だけ声を潜めればいい。

「君はまぁ、好きな物は最初に食べちゃうタイプだからね」

「お前は最後に食うクチか」

「ううん。僕はずっと見てるタイプ。たまにお皿の上で転がりたりしながら、腐って興味が失せるまで」

 告げて上げた視線の先で、横顔のまま見下ろして来る藤堂の目に何かが灯ったのが見えた。これが彼の本当の睨みだ。迫力があって、真っ直ぐで、有村の好物。

「なんてね。冗談だよ。彼女は食べ物じゃないから、ちゃんと向き合う」

 口を開きかけた藤堂の次の言葉が自慢の重低音に乗る前に落合が駆け寄って来たので、有村はそれを迎え入れるのに一歩前へと踏み出した。

 その背中を視線だけで見送る藤堂は正直、言葉を発する時間があったとて何も言えなかった気がしていた。最初に草間ならと目を付けたのは藤堂だ。それを有村が受け入れたことは、今でも良かったと思っている。けれど有村は悪趣味な冗談を言う男ではなかったので、ふとした不安が投げるべきものを迷わせるのだ。

 難しい男ではあるが、不誠実ではない。ちゃんとすると言うのなら、本当に草間と向き合う気があるのだろう。

「おはよう、草間さん」

「おはよう。草間」

 でも草間を映す有村の瞳の奥にはまだ、あの憎らしい灰色がチラチラと見え隠れしていた。

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