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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第二章 発条少年
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やさしい朝食

 所謂、芸術家肌と呼ばれる人たちに、職業柄よく出会う。

 彼らは往々にして他と異なる視点を好み、中には少々個性的な表現方法や話口調を用いてでも、それを誇張したがる人もいる。凡庸とされるのを恐れているだけのようにも見えたが、私は根本的に自らのスタイルを貫く人たちが好きだったし、そうすることが彼らを芸術家たらしめるアイデンティティであると認識していたから、一癖あることが特徴のひとつ、くらいに捉えていた。

 要はそれを鎧と知っていたのだ。彼らは確かにクリエイティブだったが、少なくとも同じ世界に住まう仲間だった。一皮剥けば大抵気さくな若者で、アルコールが入れば普通に管を巻くようなひと並び。

 だから恐らく初めて出会った、正真正銘、天性のそれを持つ彼を目の当たりにして覚えた圧倒的な異質に私はひと目で心を奪われ、正直を言えば胸が躍った。

 世間から隔離されて育ったのが、幸か不幸か。その少年は鎧でもポーズでもなく、そうとしか振る舞えない子だったのだ。不器用に、少しくらいは生き辛さすら感じ取れるほど、知識として身に着けた常識の遥か外側で息をしながら、彼は常に自分だけの価値観で物を見ていた。

 私は思った。もしもこの子が化けたなら、きっと素晴らしい世界を見せてくれるに違いない、と。

「紙に描いた色とは違う『いろ』と、鼻で嗅ぐのと違う『におい』です。どちらも目と鼻を使うけれど、どう違うのかは口では言えないです。だけど、僕はそれ、好きじゃない。うるさくて、くさい。偽物のにおい。綺麗じゃないです。それ」 

 彼は聴覚や視覚などのどれかひとつに頼ることなく、総合的にあらゆる物事を感じ取って生きていた。目で見える物にプラスして、受ける感覚を匂いや色で分け、それら全てでひとつひとつを認識している、と言うのだ。

 目で見える美しさと、感じ取る美しさ。彼は圧倒的に後者を尊重しており、前者を取るに足らないものと思っている節すらあった。

「形なんかはどれも似たようなものです。線で出来た入れ物に、いろとにおいが詰まっているのが息をしている物の全部。同じものなんてひとつもないから、比べることも本当は出来ません」

 逆を言えば、人間と鳥とを区別出来ないのが彼だった。しないようにしているのではなく、出来ないのだ。だから同じように接し、同じように対話する。彼にとって言葉は極端に重要度の低いもので、会話には五感を使い、彼の目には私たちよりもずっと多くの色彩が映り込んでいた。

 十四年間も閉鎖的な環境で育ったとは思えないほど、豊かに。

 だけど。

「僕のいろはどこかへ行ってしまいました。リリーが側にいた頃は、もっと全部が綺麗だった。きっと僕だけが残ってしまった罰です。ずっと一緒にいるって約束したのに。うそつき。乱暴で、物置の天井より気持ち悪い、ぐるぐるしてる汚いいろ。一番きらいです」

 彼は来る日も来る日も、無表情の下で涙もなく泣き暮れていた。

 私はそれに耐えられなくなったのだ。

「ねぇ洸太くん。外へ出て自由に暮らしてみたいとは思わない?」

 この感受性の強い子を外へ出したらどうなるか、わからなかったわけじゃない。

 まるで歩くウソ発見器も宛らに言葉と並行して心の声が聞こえているみたいに振る舞う彼は、多くの人と関わる度に消耗し、傷付くだろうとも思った。一切の穢れを知らず、汚れたこともなく、その瞳の奥に慈悲すら滲む彼には壁の外など汚らわしいばかりかもしれないとも。

 だけどそれ以上に、彼をここで終わらせたくなかった。何十冊とあるスケッチブックに眠る彼の美しい世界には、まだ先がある。

「私は手を差し出すことしか出来ないの。だけどもし洸太くんがこの手を取ってくれるなら、必ずここから連れ出してあげる」

 見たかった。

 もう何を犠牲にしても構わないほど、私は彼に夢中だったのだ。

「佐和さん――」

 差し出した手に指を重ねた私の天使は、あの時何と言ったのか。

 受け入れられたことが嬉しくて、これからの期待に胸がいっぱいで、そう言えば私はあの時のあの子の顔を、声を、思い出せなくなっていた――。



 穏やかな朝の気配に誘われて懐かしい夢を見ていた佐和の瞼が開いてゆくと、昨晩も気持ちよく寝入ってしまった姫君を寝所へ運んだタクシーは、彼女の足元、そのベッドを背に長い脚を放り出したまま静かな寝息を立てていた。

 まるで居眠りのような風体ではあるが、彼は何もそこで力尽きたわけではない。少なくとも佐和と暮らし始めてからの約二年間、有村の寝姿といえば決まってこの体勢だった。

 佐和はすぐさま身体を起こして、けれど気付かれぬよう、そっと背中を丸めてお気に入りの第一位を覗き込む。クマかパンダか見張り番かというような、熟睡するには好ましくないその体勢では有村は眠れて二時間が精々なのだ。一緒に暮らしていようとも、不在がちな佐和がこの場面に出くわすのは一ヶ月ぶりくらいな気がした。

「……ふふっ」

 隙間の空いた口許に、降りた睫毛の落とす薄い影。

 随分と凛々しくなった端正も、寝ている時ばかりは未だあどけなさが残る。持ち前のどこか少女のような可憐さも見てとれるし、変わったような、変わっていないような、そんな不思議な感覚になる横顔が佐和は愛しくて堪らない。

 近頃は少々物騒な色気を身に着けて、大人の真似事もだいぶ手馴れて来たようだけれど、それでも高々十七歳の高校生だ。時に別人のような顔をチラつかせて気を揉ませたとしても、無防備になればまだまだ未熟。そこが、また無性に可愛らしい。

 可愛らしい。とても。

「…………くっ!」

 佐和は掛け布団に突っ伏して、声にならない悲鳴を上げた。

 なんだ、この可愛さだけをぎゅっとしたみたいな生き物。親馬鹿と言われても構うものか。だって可愛いものは仕方がない。そんな歳じゃないとか知ったことか。今だって抱き着いて頬擦りしたいくらいなのだ。周りがそろそろ可哀想だとしつこく言うから泣く泣く卒業したけれど。撫で繰り回すくらいなら。後頭部に顔を埋めてグリグリするくらいなら。

「――ふ、ふぅ」

 そうしてふと顔を上げ、もう一度じっくり覗き込んでみる。心穏やかに見れば、彼は今や普通に爽やかな見目麗しい好青年だった。

 容姿の素晴らしさも然る事乍ら、事実その頭に詰め込まれた膨大な知識に裏打ちされる聡明さと、家柄あってのことか、やはり所作や存在感そのものに染み付いた気品が感じ取れる。

 その上、この温厚で人当たりの良い性格だ。佐和にとっては忌々しい限りだが、寄って来る女が後を絶たないのも無理はない。だからと言って甘んじていいものでも、便利に使っていいものでもないが。

「……夜遊びをやめる、ねぇ……」

 佐和は昨夜のやり取りを思い出し、細く溜め息を吐いた。

 藤堂にそうしろと言われたから、などと尤もらしい理由を添えていたが、恐らくそれで半分というところだろう。彼女が思うに、藤堂は世話好きであってもお節介ではない。苦言を呈すことがあったとして、やめろと言うには他にきっかけがあったはずなのだけれど、どうやらこの無垢でなくなった天使はそれを隠しておきたいらしいのだ。

 彼の年齢を考えれば、秘密のひとつやふたつはあってなんら不思議はない。寧ろ、その歳で全裸を見られても顔色ひとつ変えない羞恥心の薄さにこそ佐和は危機感を募らせていたから、内緒にしなくてはと思ったか、言われて同調したかのどちらにせよ、そうした発想に至ったことは喜ぶべきなのかもしれないとすら思った。

 だからこそ佐和はあと半分の理由を尋ねなかったし、本来過ぎるほどに頭の回る有村なら手に余れば言ってくるはずと、今回もまた彼の自主性に委ねることにした。ただ、そうしたあとが心配だっただけで。

 理由もなくただ繰り返す興味本位の女遊びなら、とうに佐和がやめさせている。

「ふたり共、自分たちで思ってるよりずーっと、言葉が足りてないのに気付いてる?」

「…………っ」

 身じろいで、耳に届かないくらいの寝言を零したその髪に、佐和は改めて手を伸ばした。

「……ん」

 毛先に触れたか、触れないか。その程度で終わりを告げる浅い眠りに何を見ているのかを、あの心優しい親友は知っているのだろうか。 

 彼は眠れないのではなく、夢を見るほど深い眠りに落ちるのが嫌なのだ。身体が不調を訴えても尚、薬の効果さえ跳ね退けてしまうほど、もう自分でもどうしようもないくらいに、心の底から。

「……佐和、さん……?」

「おはよ、洸太」

「……おはよう」

 目が覚めた瞬間にだけ朧げなヘーゼルグリーンに仄暗い色を湛える彼の性格の大凡を理解していれば、行きずりなどは柄じゃないのもわかるだろうけれど。十七歳はまだ、大人と呼ぶには頼りない。

 佐和は切り揃えたばかりの柔らかな髪に指を滑らせて、露わになる額へと軽いキスを落とした。

「私、今朝はちょっとしっかり食べたい気分なんだけど」

「ちょっと、しっかり?」

「野菜とフルーツメインで重めなの作ってよ」

「寝起きからハードル高いなぁ」

「でも叶えてくれるでしょう?」

「勿論、女王様の仰せのままに」

「バカ」

 言いながら頭を小突いて、佐和の腕はそのまま首許へと巻き付いてゆく。

 この首にも、シャツの下にも、もう痣はひとつもない。形をなぞれそうなほど浮き上がっていた骨もすっかりと見えなくなったし、当たり前に抱き返して来る腕は少年と呼ぶよりずっと逞しく、朝の抱擁としては熱烈なくらいに抱き合えば、包まれているのは寧ろ佐和の方にも思えるのに。

 今朝もうっすらと首筋を湿らせた悪夢を過去のことだと割り切るには、まだ何もかもが足りないようだった。



 カーテンの外はまだ空気が澄んでいて、街が動き出すにはもう少し時間がある。

 だからふたりはキッチンと向かいのダイニングテーブルとに分かれ、カウンターを隔てて他愛のない会話を降らせながら、徐々に朝靄の晴れていく景色のように次々と出来上がる色鮮やかな料理で食卓を満たした。

「こんな感じでいかがです?」

「うん、合格」

 佐和ご所望のちょっとだけしっかりとした軽くて重い朝食を間に、今日の天気はどうだとか、また背が伸びたんじゃないかとか、仕事にも学校生活にも触れずに過ごすふたりの時間は穏やかだ。

「このりんごジャムいいわね。シナモン入りで私好みだし、加減もいいわ。どこの?」

「自家製だよ。貰ったリンゴがあったから」

「あっ。このドレッシング美味しい」

「ありがとう」

「……ねぇ、今ここに市販の加工品って……」

「ソーセージくらいかな。羊の腸ってその辺じゃ買えないし」

「洸太はどこに向かおうとしてるの?」

「もう先は見えなくなってるよね。だいぶ」

 しかし休日のあとはどこかよそよそしくて、これもお手製と聞いてふたつ目のスコーンを頼んだ佐和が今週もあまり帰れそうにないと零し、昨日のショッピングの荷解きはまた適当にしておいて、と追加のオーダーを出すと、その返事だけが少し遅れる。

 サワークリームもあるよ。そう言ってテーブルに置く無地の保存瓶の蓋を外す眼鏡の奥は見えないが、「ドレスはすぐに使うから手前にお願い」と重ねてようやく「わかった」と返す横顔が寂しげに見えるのは、珈琲に砂糖を落とし忘れた所為だと佐和は思った。

 なんとはなく物悲しいのだ。満たされた分だけ気が重い。多かれ少なかれ、お互いに。

 そんな朝が、近頃少しずつ長くなってきている。

 これまで朝食の後片付けが終わったらとか、佐和の珈琲が二杯目になったらとか、有村が眼鏡からコンタクトレンズに変わったらとか、どこかのタイミングに休日が終わる『スイッチ』があった。

 佐和が先に出る日は最初と変わらず身支度を始めたら、なので、名残惜しさが募るのは彼女の方なのだろう。今朝は有村が制服に着替えてもまだ構い足りなくて、久々にネクタイをしめてやったりもした。

 そんな想いが、きっと指先から伝わってしまうのだ。玄関へ降りて靴を履く背中を眺め、せめて気怠げに壁にもたれる彼女を振り返る顔はまるで映し鏡のようで、何でもないような透き通る目が、僕も同じだ、と言ってくる。

「なんか、変な感じだね。佐和さんに見送られるのって」

「そう? 私は好きよ。洸太を送り出すの」

 だから佐和は半ば自分の為に用意した助っ人の登場を、今や遅しと待っていた。親離れより子離れが難しいというのは、あながち嘘でもないらしい。

 ピンポーン。

「あら。いいタイミング」

 明け透けに嘯いて「どうぞ」と声をかけたドアの向こうからようやっと見慣れた仏頂面が姿を現せば、瀬戸際で佐和の気持ちも否応なしに切り替わる。

「藤堂?」

「よう」

「おはよう、藤堂くん」

「おはようございます」

 どうしているの。私が呼んだのよ。

 そんなやり取りを朝だからといって爽やかに微笑んだりしない藤堂は無言のまま腰を折り、当たり前のように床に置かれた有村の鞄を拾い上げる。二度ほど上下させるのは糖分補給が必要かどうかを見極める為だ。足りねぇな。そう判断したらしい藤堂はふと、視界を掠めた耳朶に有村の毛先を指で掬った。

 あまりにも、ごく自然な流れで。

「切ったのか」

「短い?」

「いや。よく似合ってる」

 やや右分けのショートボブ、と言うと近いだろうか。顔にかかる部分はやはりまだ目許を越える長さがあるが、サイドは耳が半分ほど出るような塩梅で、全体的に週末よりさっぱりとしている。

 特にうなじが露出するくらい短くなった襟足が涼し気で良い、と更に前髪を横へ流した藤堂は何やらご満悦の様子で、俄かに鋭さを増した佐和の視線には気付かなかったようだ。

 どういうわけか有村も、同じく佐和を気に掛けない。 

「顔色も良くなったな」

「だから体調は悪くな……そうだ。君、佐和さんにメールしたんだってね。信じて貰えてなくて、残念だった」

「心配だったんだ。側にいてやれればよかったんだが、みさきが風邪をひいてな。でも悪かった、余計なことをして」

「……さっちゃんの具合は?」

「熱も下がったし元気に学校へ行ったよ。お前が褒めてくれるからって、薬を嫌がらなくなった賜物だな?」

「……そう。それはよかったね」

 拗ねるなよ。拗ねてない。

 そうして延々と続くやり取りは最早ただの痴話喧嘩で、佐和はすっかりと蚊帳の外。狭い場所に収まっているからにしても近過ぎる距離に、ともすれば膝と膝がぶつかるような接近に、冷めかけた珈琲をひと飲みした彼女の眉がピクリと跳ねる。

「――ねぇ。ふたり共、それって学校でもやってないわよね?」

「え?」

「はい?」

「…………まぁ、いいわ」

 仲が良い、ということにしておこう。絵面が悪くないだけに万が一が心配だと思うのは、きっと痛い腹がある所為だ。佐和は自らにそう言い聞かせ、遅れるわよ、とふたりを送り出した。

 男同士の友情を疑うまい。信じようじゃないか、可愛いあの子を。

 ちょっと流されやすいのが不安だけれども。

「……充には釘を刺しておこうかしら」

 リビングへと戻った佐和は携帯電話を手に、二年前まではもうかけることもないと思っていた番号へと電話をかけた。この時間ならまだベッドへ入る前だろう。

『ハァイ、キャリーよぉ』

 余計な知識を与えてくれるな。おかしな兆候があったら連絡を。

『まっかせてちょーだい! カワイイ洸太のことだものぉ、アタシ、協力しちゃう!』

「――電話先でくらい、その気持ち悪い濁声やめてくれない?」

『……仕方ねぇだろうが。まだ客が店に残ってんだよ』

 地声はいいのよね、相変わらず。

 終話を押して消える名前と昔の男の顔が化粧抜きで思い出せなくなる、月曜日の朝。佐和は珈琲のお替りをカップに注いで、ボトボトボトと角砂糖を落とした。

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