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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第二章 発条少年
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わるいことがしたい

 気味が悪い、と彼女は言った。

 一週間のお詫びとその顛末を話した返しだ。

「気にすることないわよ。怒鳴られてもヘラヘラしてるカケルが改まって貢ぎ物なんて洸太じゃなくても驚くし、私なら泣かれたって受け取らないわ。お詫びって言うか賄賂じゃない、殆ど」

 でもチョイスは悪くない、と表情を緩めて、例の白い紙袋から摘み上げたひと粒を頬張る彼女は、次に取り出した丸いピンクのチョコレートを有村の口の中へと放り込み、「カケルが行き倒れてなくてよかったわね」と数日前の心配事を持ち出して、鼻先まで届く栗色を撫で回した。

 キャリーに言われて様子を見に行ったのは一回だけ。けれどこの一週間で有村は三回、カケルの住むアパートへと足を向け、部屋に明かりが点かないのを見ていた。

「心配してやったんだぞって言ってやればよかったのに」

「そんな恩着せがましい言い方は好きじゃないよ。僕が勝手にしただけだし」

「そういうところが可愛いのよねぇ、洸太は。……あ。ねぇ、餃子食べる?」

「いらない」

「じゃぁ二人前でいいかしら」

「十一時過ぎてるけど?」

「だから?」

「乙女のなんたらはどうしたの」

「野暮なこと言うわねぇ。ビールには餃子って知らないの?」

「それ明日になって忘れたって言わない……って、ちょっと。つつかないで。痛いって。刺さってるから、爪が。サクサクしないで」

 久々に許容範囲を越えてしまったことも、寂しいのひと言で抉り取られた痛い所も些細なことだと笑い飛ばして、肩も触れ合う狭い場所を武器に脇腹を狙う人差し指を避ける僅かな時間。

 それだけで、不思議なくらいに胸の痞えが取れていく。

「なによこの硬いお腹。可愛くない。ちょっとはお菓子太りしなさいよー。えいっ」

「痛いって」

 そんな日もあるならば、明日はもう上がっていくだけ。そう思えるようで、有村は礼を言う代わりにされるがまま、しばらく彼女に腕や腹をつつき回され、じゃれ合っていた。



 大人にはダメだとわかっていながら抑え切れない欲求に身を委ねたくなる時があるの。

 そう神妙な面持ちで連れて来られた行きつけのラーメン屋に入って間もなくのことだ。ふたりは一度帰ってから歩いて数分の店まで戻り、人気も疎らなカウンター席の一番奥に腰かけて、彼女の言う大罪、夜遅くの『こってり』を待っていた。

 彼女の名は、藤尾佐和。肉親でもない有村の『保護者』を買って出た奇特な人物であり、あのモデルルームのようなマンションの所有者である。

 有村と並んで姉と名乗っても遜色のない美貌の持ち主でもある彼女は、自慢の黒髪を手早く結わえ、先に届いたビールに口をつけても尚深夜のラーメン屋に似つかわしくない気品を漂わせる女性だ。スリットの深いタイトスカートにフォーマルなジャケットを羽織るキャリアウーマンの風体がすっかり板についていて、どこにいようと華がある。

 勿論、場所と傾ける物のサイズでだいぶ損なわれてしまうのだけれど、二十八歳の実年齢を知っていればさしておかしくはない。『弟』曰く、残念ではあるが。

「着替えに戻ったんだと思った」

「バカねー。車置く為に決まってるでしょ」

 しかし、日頃は激務に追われる若き経営者として、些か片肘の張った生き方を自らに強いている彼女が見せるそんな隙は心を許してくれている証拠でもあるようで、その素顔を知っているのが自分だけとあらば、そうと悟られたくない有村の頬も自然と緩んでしまう。

 本当は言うべきなのだ。たまの休息、そしてタイミングよくも週末である。

 電車の動く時間に帰るのは稀なのだから、そんな日くらい放置が過ぎる恋人の所へ行け、と。

 深夜にラーメンなど啜っている場合じゃない、と背中を押してやるべきだとは思うのに、佐和は夕食どころか昼食すら食べていないと得意気に胸を張るのだ。帰るぞって思ったらエンジン掛かっちゃって、こうなったら洸太が帰る前につかまえて驚かせてやるって頑張っちゃった、なんて。嬉しく思わないはずがない。 

 浮かべるそれを隠すのに役立った水滴まみれのグラスを下げ、有村は小首を傾げながら気分転換を兼ねて、コクコクと喉を鳴らすえびす顔に問いかけてみた。

「でも、急にどうしたの? 昨日は今週も帰れないって言ってたのに」

 切り出してから不意に声を落としたのは照れ隠しでなく、それがとても珍しいことだから。佐和のオフィスはマンションから少し離れていて、絵に描いたようなワーカホリックの彼女は多忙になると泊まり込みが多くなる。

 一応のシャワールームや仮眠室を用意している辺り起業当時からそんな生活を覚悟していたのだろうが、それにしてもひどい時には一週間に一度戻って来るかどうかという暮らしぶりはさすがに根を詰め過ぎだ。

 それが突然に仕事を切り上げて帰って来たかと思えば、明日も一日休むと言う。有村の瞬きが無意識に増え、そんな様子を佐和は笑顔で受け取った。

「丁度キリがよくってね。しばらくあっても半休で洸太とゆっくりしてなかったから、私も息抜きしようと思って」

 パッと見は裏など何もないような素敵な笑顔。でもそんなもので騙されるほど、ふたりの付き合いは浅くない。

 有村はまたパチパチと睫毛を扇いで、更に頭を低く、テーブルに着きそうなくらいにまで落としてまじまじと佐和を見つめた。二択を迷う、そんな視線で。

「…………迫さん?」

「藤堂くん」

「うわぁ……」

「夕方にメールくれたのよ。また洸太が寝てないみたいで心配だって」

「寝たって言ったのに」

「助かるわぁ。心配性の彼氏が見張っててくれて」

「友情なんて紙みたいだ」

「愛されてるわね」

「愛情より信頼が欲しいよ」

「あははっ」

 高笑いで再びグラスを傾ける佐和を尻目に、有村はもう何も信じられないとカウンターに突っ伏した。まるで忠犬ではないか。藤堂の過保護の理由の半分くらいは佐和に『よろしく』と言われたからで、右も左も美人に弱い輩ばかりで遣る瀬無いったらない。

 そんな自身第二位のお気に入りを肴に煽る佐和のビールが二杯目も半分になってようやくお待ちかねの『こってり』がやって来ると、有村も拗ねるのをやめて身体を起こし、パチンと手を合わせてから「いただきます」の声を揃えた。

 早速と箸を運ぶ佐和に対して、有村はまずこの悪魔のように立ち昇る湯気と格闘しなくてはならない。不便なくらいの猫舌である彼が最初のひと口を含むのは、佐和が食べ出してから数分後。にも拘らず食べ終わるのは何につけても有村が先で、今夜も佐和が最後のメンマを拾う頃にはヒリつく舌先を癒すのに食べるアイスも平らげているものだから、相も変わらず『補給』のにおいがプンプンとするその食事風景に保護者の目は糸みたいに細くなった。

「ちゃんと噛みなさい?」

「噛んでるよ?」

「粉砕しなさい?」

「してるけど」

 一応、美味しそうには食べるのだけれど、あらゆる意味で身になっている気がしなくて佐和はこれにだけ毎回ケチをつける。外食をしている時は、特に目に余る感じだ。

 それでも「ごちそうさまでした」と目を伏せる横顔が少しでも満足気に見えてしまえば佐和はつい綻んでしまうわけで、寧ろ上機嫌に三杯飲んでほろ酔いの頬を夜風に晒した。

「私ね。今夜と明日一日、洸太にして欲しいことがいっぱいあるの」

 有村の半歩先を歩いて、ふと佐和が振り返る。

「なに?」

 隙がないとされる鉄壁の女も、こんな時ばかりは浮かべる笑顔に屈託がない。ニッコリと微笑む顔は、草間にも劣らない少女のようだ。

 彼女は後ろ歩きのまま指を折り、ひと晩は決して長くないと教えてくれる。

「しばらくサロンに行けてないから、ネイルの塗り直しとケアもして欲しいでしょ? あと首が凝ってて辛いからマッサージもして欲しいし……そうだ。洸太ってドイツ語はわかるんだっけ」

「読むだけなら」

「ならちょっと見て欲しいのがあって。あとね、今度請けたショーで何種類か生花を使いたいんだけど、どうもしっくりこないのよ。配置とか教えるから、また適当なの見繕ってくれない?」

「それって僕がやっていいのかな」

「いいのよー。洸太の配色はセンスがいいって評判だし、私も鼻が高いわぁ」

「明日は?」

「明日のことは朝になってからのお楽しみ。でも朝から晩まで忙しいんだから。あちこち連れ回して、きっと夜には私も洸太もグッタリよ。だからね――」

 今は、手でも繋いで帰らない?

 佐和はそう言って、風に舞う髪を押さえながらそっと反対の手を差し出して来た。

「たったの一日とひと晩よ、のんびりしてたらあっという間に終わっちゃうわ。急いで私の世話を焼いてね。一ヶ月分の洸太補給で、疲れた私を癒してよ」

 明日の約束とやりたいことをたくさん並べて、一日がたったの二十四時間だと、一週間は七日しかないのだと、佐和は有村の指先を絡め取る。

 真っ白で何もない部屋。朝も夜もない毎日。目が覚めて、寝るだけの、それだけの日々。

 そこから連れ出してくれた佐和の手は、まるで知り合う前の十四年間を補おうとするみたいに包み込み、大きさも強さも追い抜いてしまおうと変わらず、有村のそれよりずっと逞しい。

「――急いで帰るならおんぶしてあげようか」 

「タイトスカートでおんぶされる後ろ姿を想像してから言いなさい?」

「じゃぁ、お姫様抱っこ」

「あ。それはいい」

 さあ来いとそんな風体で両手を広げる佐和の悪戯めいたしたり顔に有村もまたニヤリと笑い、握り返した腕を引き寄せるなり意とも容易くその長い脚を掬い上げた。

 ふわりと浮き上がり角度の変わる視界に、佐和の口から「キャッ!」と短い声が漏れる。そのなんと愛らしいことか。これでは名うてのプランナーも形無しだ。

「ホ、ホントにしたぁ!」

「するって言ったじゃない」

「やだ、やだ! ちょっと、信用ならない!」

「大丈夫」

「重いって! 洸太の腕じゃ無理だって!」

「大丈夫だって。慣れてるから」

「……なんで?」

「なんで、って。佐和さんすぐソファで酔い潰れて寝ちゃうのに、いつもどうやってベッドに移動してると思ってるの?」

「あーッ!」

「はいはい。暴れないでいい子にしててねー」

「あー……」

 急ぐんでしょ。有村はそう言って目を細め、怖いだの恥ずかしいだのと騒ぐ佐和を抱えて自宅までの短い散歩へと繰り出した。いつまでも小さな子供じゃないんだよ、と子供じみた台詞を吐く横顔は、あんなに可愛かった洸太に抱き上げられるなんて、と狼狽える姿にしてやったりと晴れやかだ。

 家まで続く一本道は、大通り沿いとはいえ住宅街のど真ん中。日付変更の間際に行き交う人は殆どいない。

 いたとして深夜や週末を理由に浮かれたカップルだと思われるだけだ。そんなのはもう慣れっこだったし、何より佐和の慌てようが愉快で、調子に乗った有村がぐるりと一周回ってみせると、ヘッドライトが通過する明るい夜空に一本の悲鳴が轟いた。

「やめなさいよ!」

「いたっ!」

 勿論、存分に怒りを込めた拳に鎖骨の辺りを思い切り殴られることにはなったのだけれど、数時間前の頬よりは笑えるほど痛くなかった。

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