夜道と彼の悪癖と
いつからかは覚えていない。けれど、気付いた時にはそうだった。
「……やっちゃったなぁ……」
駅まで向かう大通り沿いの一本道をのろのろと歩きながら盛大な溜め息を吐いた稀代の王子様には、所謂ひとつの『悪癖』がある。
癖と呼ぶには致し方がなく、寛大だと言えば寧ろ美点なのだろうけれども。
有村はこれまで、ただの一度も他人に腹を立てたことがなかった。
「……はぁ」
隔週で通う主治医の話では、覚えはしても認知しづらいのだろうという話だ。疾病ではなく改善を図ることは可能な代物で、そういう性格的傾向を持つ人は少なくないらしい。
有村は当初、怒り以外も殆ど自覚することがなかった。その頃を思えば今はかなり喉の通りがよくなっていたし、まだ多少希薄な部分がありはすれ、怒れないくらい短気なよりはずっといいと開き直れるようにもなった。
現にこの性格を知っている藤堂たちは大らかでいいだとか、単に思考に落とし込むタイムラグが面白いと言って笑い飛ばしてくれるし、無理に我慢をしているわけでもないから不自由だってないのだけれど。
「――悪いことしちゃったな。せっかく選んで買って来てくれたのに」
有村は肩にかける鞄を鉛のように感じながら、減らしたはずなのにおかしいなと、そうやってお道化るのも億劫になって、もう一度深い溜め息を吐いた。喜怒哀楽。たった四つの内の、ひとつがない。その事実をやはりどうしたって、大したことではないとは考えられなかったからだ。
憤りを感じない。何をされても違和感がない。
だから侘びられても、その理由が理解出来ない。彼の『悪癖』とはそれだ。そして理解出来ないものに対して、有村はそれほど寛容ではなかった。
ただただ苦痛でしかなかったのだ。謝罪も、それに付随する好意も、有村にとってはその謂れがないから。せめて自分が何かした自覚があれば、それで折り合いがつけば問題はないのに。
「だいぶマシになった気でいたのになぁ……」
自分が誰かにしたことと、されたこと。そのバランスがつり合っているか、前者の比率が高ければ彼の心は穏やかで、多少の誤差は飲み込むことが出来る。しかし今日は少しばかり条件が重なり過ぎてしまったのだろう。その均衡が著しく乱れて、しばらくぶりに息が出来なくなった。
嘔吐したり取り乱したりしなくなっただけ、よくなりはしたのだろうが。
「お礼とか、お詫びとか、我ながらに屁理屈が過ぎる……」
点滅に立ち止まった信号の手前で有村は鞄の口を覗き込み、一番上に乗せた白い紙袋を取り出した。
結局、他のスタッフにも配って数を半分以下に減らしたその中身は、大きな一枚の板を砕いたようなサイズの疎らなチョコレートの欠片の詰め合わせ。細かいナッツが浮いて見えるミルクチョコレートに、レーズンとラム酒が香るビターチョコレート。誰も手をつけなかったフリーズドライの苺を丸ごとコーティングしたピンクのチョコだけが数をそのままにコロコロと転がって、緑色の粒が入ったものは抹茶味だと聞いた。
確か、まだ食べていないのもあったはず。有村は袋を揺らして物色を始めた。
赤に黄色にオレンジに。覗き見る袋の中は全てがチョコレートだとは思えないくらいにカラフルだった。溢れる色は彼にとって最高の友人だ。一色よりは二色がいいし、十色よりは二十色がいい。けれど混ざり合って、煩いのは駄目だ。鮮やかさとはそれぞれが独立していて、それでいて調和が取れていないと。
「あ。」
白、ピンク、小さなアンバー、真昼と射す木漏れ日の色。
そうして目に留めたひと欠片を摘み上げて顔の前に翳してみれば、表面のゴツゴツとしたホワイトチョコレートが夜の帳にぽっかりと浮かんで見えた。
優しくて、けれど甘さは控えめで、時折少し酸味があって、食感も面白くて。
「――そういえば」
猫の手くらいの大きさの欠片を眺めて、これと同じく太陽がよく似合うあの子も今頃は帰り道の途中だろうかと、放り込んだ口の中でザクザクと音を立てるそれにいつかの蒸し暑い教室を思い出しながら、有村はふとそんなことを考えた。
お気に入りだ、なんてよく言ったものだ。有村には物の好き嫌いがあまりなかったから、この口の中に広がるこんがり焼けた穀物が特別好きと言うわけでもない。
「別に好物とは言ってないし、嘘ではないか」
会話を続けるきっかけになればなんだって良かった。馬鹿な質問もそのひとつ。
身体が揺れてしまうくらいに緊張で鼓動を速めていた彼女を前に、なにもせずにはいられなかった。あんな感覚は初めてだ。どうしてだろうと後になっていくら考えても、あの日草間に話しかけられてからの行動が上手く説明出来ないでいる。
そういうものは苦手だったはずなのだけれど。調子がよかったのか、他に何かあったのか。彼女の回りくどさを先回りするのに忙しくて、逆に余裕がなかっただけなのかもしれない。
ただ、もう少し親しくなればわかるかと連れ出した土曜日の昼下がり、白む日差しを避けて小さな木陰に身を寄せていた後ろ姿を見た瞬間、なんて綺麗な子だろうと思ったのは確かだった。
十七にもなって電話ひとつに悩みあぐね、百面相もお手の物。赤くなって、青くなって。草間の感情は清流のように留まることを知らず、堰き止めたとしてどこからかは必ず漏れ出してしまう。
羨ましかったのかもしれない。彼女は人としてあまりに豊かで、それが七割、五割、三割でもいい。たった一縷でもあの純粋が本物なら、これ以上はないと思った。
自分がもしも誰かを心から思い遣れるとしたら。その相手が彼女であったなら、どれだけ素敵なことだろうか、と。
「美味しいけど、草間さんのクッキーのがいいな」
甘くもなく、味もなく、ただ硬いばかりで時には口の中を切ったりもするのだけれど。
「時間はすごいかかってるんだろうしなぁ」
それが、何よりも嬉しい。
「……あれ? そういえば、どうしてあの子のだけ最初から受け取れたんだろ」
差し出してきた時の顔があまりに必死だったから。よかったら、と言いながら断ったら泣きそうだったから。
「うーん」
有村は頬の内側に残る細かい欠片を追い出して、ぼんやりと空を見上げた。やめよう。草間に関わることは、考え出すとひと晩費やしたって到底足りない。
「綺麗だなぁ」
雲のない星空に、負けじと月が輝いている。明日もよく晴れそうだ。だけど湿度も高くなりそうだと掠める風の匂いを嗅いで、有村は次のチョコレートを口へ運ぼうと再び視線を下ろした。
その時だ。
――ミャァ。
すぐ近くから微かにひと鳴き、愛らしい声が有村を呼んだ。
どこだと探して、二回目で視界に入る。
「ん? ああ、君か。どうしたの? 夜のパトロール中かい? 悪者はやっつけた?」
――ミャァ!
元気よく返事をしたのは、通りがかりのビルの隙間から顔を出した、灰色と黒のキジトラ。頼りない骨格はまだ生後半年ほどか。寄って来るのを待ってしゃがみ込み、有村は促されるまま成長途中の小さな頭を撫でてやった。
耳を倒して顔から首までを繰り返し順に擦り付け、ピンと立ち上がった尻尾の先は有村の頬を撫で返そうとするように近付いて来る。
人懐っこい仔猫だ。グググと控えめな音を鳴らす喉をあやすとすぐさま横になって腹を見せる無防備を「警戒心がなってないよ」と叱りつつも、それが自分の所為だと知っていればほんの一瞬だって愛着が沸く。
「お腹が空いているの?」
――ミャァ。
「そうかぁ。でもこれはチョコだからダメなんだ。何か食べられるものはあったかな」
――ミャァ!
「そんなに期待しないでよ。あったってどうせお菓子……あ。ねぇ、タタミイワシって食べられる?」
――ミャァ?
「食べたことないか。ちょっと待ってね。うん。添加物なし、っていうかなんでこんなの入ってんだろ。藤堂だな。また人の鞄をキャビネットにして」
――ミャァ!
「ああ、そうだね。ごめん。藤堂なんて知らないよね。はい、どうぞ。お勤めご苦労様です」
――ミャゥー。
軽く砕いたそれを掌に載せて差し出してやれば、仔猫はきちんと腰を落として美味しそうに食べ始めた。
フワフワの毛並みの中、下げた頭の付け根に首輪が見える。飼い猫ならそろそろ帰る時間だろうに。眺めているうち小さなざらつきが指の間を舐め、やがておかわりを要求する。もうひとつだけね。有村はそう言って、再び袋から出したひと欠けを砕いてやった。
どうぞと差し出す有村にまたタイミングよくミャァと鳴いて、美味しいかと尋ねても律儀に尻尾を振り上げてくれる彼女はとてもお喋りだ。食べながらコクコクと上下する頭が『気に入った』と言っているし、最後まで綺麗に舐め取る舌が『ごちそうさま』と言っている。
「お粗末様です」
――ニャゥアー。
「可愛いなぁ……はっ!」
そうやって嬉々として向き合ってから、犬猫と普通に会話する男子高校生はキモイと鈴木に言われたのを思い出し、有村は慌てて辺りを見渡した。
遅いからか見える範囲に人影はなく、ホッと胸を撫で下ろす。普通はしないと言い切られてしまうと、どうにも気になってしまうものだ。足元では不思議顔の仔猫が首を傾げていて、頭を撫でると気持ちよさそうに目を細めた。
「大丈夫だよ。驚かせてごめんね」
――ナー。
鈴木は一方的だと呆れるけれど、これを見て有村はそうは思わない。確かに会話と呼ぶには拙いかもしれないが、言葉だけが意思の疎通に不可欠というわけでもないと思うからだ。
よく見て、よく耳をすませれば、動物だって植物だって日々言いたいことを言っている。わかり合うことは叶わなくとも、伝え合うことは可能なはずだ。そのもどかしさや不足は人間相手でもそう変わらないし、大切なのはわかろうと寄り添うことだとも思うのだけれど。
「なかなか、そうもいかないのかもしれないね?」
――ナー?
もうおウチへお帰り。有村はそう言って、擦り寄る仔猫の顔や喉を指先であやした。
「それとも、君がそう言ってくれているのかな」
柔らかな毛並みに触れると、つい感慨に耽ってしまう。
けれどそうやって長居をしてしまうから、いつも困ったことになるのだ。
「……あっ! えっ、いつの間にっ」
目の前の仔猫以外の鳴き声を聞いて再び顔を上げてみれば、キジトラと有村を囲むようにして五匹か六匹の猫が静かに射程圏内へと踏み込んでおり、その向こうにも数匹の猫が暗がりから徐々に距離を詰めて始めているのが見えた。
対して残るタタミイワシはもう僅か。どう考えたって足りるはずがない。
「え、あ。ちょっと待って。ごめん。みんなの分はなさそうで……」
慄きに後退ろうとも、時すでに遅し。そこからはナーとミャーオの大合唱で、飛びかかられた有村は成す術なく猫のなる木になった。
早く寄越せと棒立ちの足元に爪を立てるのがいれば、背中までよじ登って来る強者もいる。ここでもやはり、ごめんと謝ればその分大きくなっていく猫の鳴き声。それが次第に鼓膜を叩くくらいになるとさすがに近所迷惑で、肩に乗ったブチ猫に毛先を食まれながら有村は一匹ずつ丁寧に地面へと戻し、残りのタタミイワシを纏めて砕いて両手に分けた。
「これで勘弁してください!」
――ミャァッ!
そうして脇目も振らずに駆け出してその場を離れる。と、いうのが実のところ頻繁にある。
マタタビでもついてんるんじゃないか、と山本が揶揄うのも無理はなく、猫に限った話でもなくて、有村はどうも動物を寄せ付ける節があるらしい。
これも悪癖と言えばそうなのか。若干食い千切られた気がする後頭部を撫で、有村は信号をふたつほど越えた辺りで立ち止まると大きく息を吐き出した。
「ふふっ。可愛かったなぁ」
一回くらい抱き上げればよかっただろうか。
しなやかな縞模様に笑みを零して、また、不意に艶やかな黒髪が脳裏を横切る。
「ん? あ、そうか」
言葉などあってないようなもの。それに頼らず感じ取れるものを信じるなら、草間と過ごす時間は猫や犬と過ごすのに似ていると気が付いた。いい気分はしないだろうから言いはしないが、それは彼女の気配が心地よい大きな理由のような気がする。
有村は徐に鞄に手を差し込んで、開いた紙袋からチョコレートをひとつ、見もせず選んで頬張った。しかし、それだけだろうか。あのキジトラを抱き上げたら草間の手を取った時のような温かさを覚えるのかと考えてもハッキリしなくて、放り込んだ粒を口の中で転がしてみる。
人と関わると説明の出来ないことが増えて大変だ。もっとシンプルにいかないのかなと思う時もあるが、その面倒臭さがそれらしいことだと藤堂は言う。
それなら、それでいいや。
今日はもう疲れたから難しいことを考えるのはやめにしよう。
「ん。いひごら」
苺はいいな。赤くて、甘くて、酸っぱくて。小さいのに見た目にそぐわず貪欲なのがいい。食べているのは実じゃないなんて、そのうち口から芽が出て来そうで面白いじゃないか。
「えへへ」
声に出して笑ってみると、思いの外不審者に磨きがかかった。こういうことをするから鈴木に気持ちが悪いと言われるんだ。気をつけなくちゃな、そう思って、有村はパチンと両方の頬を打った。
静かな夜道に蓋をして、隠した頬がじんわり痛い。
これで頭が冴えてくれればいいのに、彼の思考は常々大事なところで靄がかかっていた。まるで深く考え込まないよう、自分を守る殻のように。
そうして物悲しく黄昏た有村の耳に、どこからともなくブレーキを踏む音が飛び込んで来たのは間もなくのことだ。キィ。目を閉じたままでもわかる。次の信号待ちにはまだ早い。自業自得だとしても、今夜はもう例の打ち明け話はしたくなかった。
やだなぁ。気付かないふりしようかな、なんて。
「なーに面白いことしてるのよ。体罰の練習?」
「はえ?」
しかし、また猫と遊んで来たわね、と呆れる声が思いがけず聞き慣れたものだったから、有村は両手を頬に当てたまま声のした方へと視線を投げる。
「背中、汚れてるわよ」
すぐそばの路肩に停車している赤いスポーツカー。新車同然の美しい車体は見間違うはずもなく、こちら側の窓を開けて現れたはっきりとした顔立ちの女性はやはり思った通りの人物だった。
「なにソレ、バカみたいに可愛いじゃない。あざといわね」
「む、ん? はれ? はわはん? かええらいんらなかったろ?」
「ヤダ。何言ってるかわかんないけど、洸太至上三番目くらいに可愛い。いい? そのままじっとしてなさい?」
「うん?」
「ちょっと明るさが足りないわねぇ」
カシャ。
向けられた携帯電話が眩しく光って、有村は我に返ると慌てて手を離した。
「写真はイヤ」
「あらぁそう残念ねぇ」
ぼうっとしてるからよ。そう言って笑った『はわはん』は車道側のドアを開け回り込んだ有村を迎え入れると、帰って来た仔猫を抱き上げるよう、さも愛おし気に強く両腕でその身体を抱き締めた。




