あまくて、いたい
一週間の無断欠勤。重ねるなら、行方知れずの音信不通。
それらをよくあると片付けてしまうのは無責任だけれど、カケルがこれと思った女性に入れあげて三日三晩、どこぞに部屋に籠って逃避行というのはこれまでにも何度かあった。
知り合ってからの約一年半で十数回にも上るだろうか。それは今夜のように頬を腫らしたカケルに、今度こそはって思ったんだよ、と顔を見るなり泣きつかれた数で、慰め役がすっかり板についた有村が思うに最短一日の熱愛を含めれば、彼の最後の恋はスーパーマーケットの特売日並みの頻度でやってくる計算になる。
だから正直を言えば、一週間は長かったかもしれないけどカケルさんだしなというのが、どうしたものかと直立のまま大きな目を瞬かせる有村の本音。
これで今度こそ解雇の危機だとでも言うなら話は別かもしれないが、彼がここにいるということは、気の良さで上を行く店主が今回も大目に見たということ。叱りつけるのはこれから来るキイチの役目でもあれば、事実有村に言うことも思うこともなかったのだけれど。
――パァン!
どうやら、さすがのカケルも今回ばかりは『まずかった』と思ったらしい。
「悪かった!」
彼は平身低頭、昨日の夕方に見た鈴木の神頼みに負けず劣らず盛大な破裂音を鳴らして両手を打ち合わせ、廊下まで響くのではないかと心配になるくらいの大声を上げた。
机に腰かけ、煙草に火を灯したままで。
「いや、いいですよ、本当に」
咄嗟に持ち上げた有村の右手が、固く目を瞑り祈祷師宜しく見事な合掌をみせるカケルに触れるでもなく宙を彷徨う。参ったな。有村は人に謝られるのが苦手なのだ。
いつものように半笑いで言われるならまだしも、こうも必死な風にされてしまうと居心地が悪くて仕方ない。
「こう言ってはなんですが、慣れていますし」
「う……ッ」
「キャリーとの話も済んでいるんでしょう? それなら、もう。キイチさんには連絡なさいました?」
「……まだ」
「それはちょっと、かもしれないですね。じきに出勤されるはずですから、すぐに謝った方がいいですよ。結構、参っていらしたので」
「そんな?」
「ええ。カケルさんがいないと、どうしても飲まされてしまいますからね。飲めそうに見えてしまうのがまた」
「下戸だもんな、あの人。あの顔で」
「顔立ちで判断するのはよくないですよね。胃薬がラムネみたいに見えて」
「マジか」
だからどうか顔を上げてくださいと言った有村は自分の方が余程申し訳さなそうに眉を下げ、困り顔のまま口許にだけ小さな笑みを張り付けた。
許しは貰えても相当に絞られたのでろうカケルの気持ちはわかるが、頭を下げる相手が違うと思うのだ。酒の相手にならないどころか勤務時間にさえ制限のある未成年に出来たことなど、そうでなくてもフロアチーフとして忙しいキイチに比べれば微々たるもの。有村の考えではまず真っ先に彼に許しを乞うべきで、自分と入れ替わりのシフトが組まれているカケルは早くフロアに出るべきだった。
しかし今回のカケルは一度吐き出し『良し』と言われたくらいでは気が済まないらしく、腕を下ろしても引き続き、叱られた仔犬の体で透明な耳をしょぼんと寝かせていた。そんなに怒られたのかな、とつい気の毒になってしまうくらいだ。カケルがこの軽めのキャラクターの割に打たれ弱いのも知っていたから、有村はこれも役目かと更に態度を和らげる。
お察しします、というのが半分。もう半分では、このまま店に出てもきっと碌なことがないと思っていたりして。
そんな思惑が漏れないくらいの素晴らしい笑みを湛えるべく、有村はそっと瞼を閉じた。
「心配はしましたけど、お元気そうでなによりです。俺のことはもう本当にいいですから、そんな似合わない顔をしていないで、いつものカケルさんらしく堂々としてくださいよ」
「出来ねぇよ……一週間だぜ? さすがに長ぇよ……」
「ですけど、終わったことをいつまでも悔いていても仕方ありません。ここはキャリーの店、そのキャリーが許すと言うなら他に誰が文句を言うことがあります?」
「こーたぁ……」
「ちゃんと謝って、その分これから頑張ればいいじゃないですか。カケルさんの抜けた穴が大きかったのは確かですけど、それはそれだけカケルさんが必要だったってことだと思いますよ?」
前向きなのが取り柄でしょうと諭す有村に、カケルは背中を丸め口を尖らせた。そうして向けて来るいじけた視線がまるで子供だ。これではどちらが年上かわからなくなるけれど、困ったことに有村はそんな正直者のカケルが嫌いではない。
気まずくて、居た堪れなくて。だけど失恋もしているから傷付いてるのもわかって欲しくて。
キイチなら我が儘を言うなと拳のひとつも繰り出すのだろうが、開き直ったり逃げ出すよりはいいと有村は思うのだ。
どうにもならない感情に流される。それが少しばかり羨ましくもあって。
「必要? おれ……」
「ええ、勿論」
「戻っていいと思う?」
「戻ってくれないと困ります。この一週間で何人のお客さんがガッカリして帰って行かれたか知りたいですか?」
常連客の名前を指折り数え、それが小指を折り返した頃にカケルへと目線を戻し、仕上げとばかりに「俺を嘘吐きにしないでくださいね」と微笑みかければ途端に花が咲くわかりやすさを、どうしたら憎めると言うのだろう。
「……っ、こぉたぁっ!」
それに、躾には飴と鞭がセットだと言うし。
昨晩電話でキイチからカケルが出勤するまでの繋ぎを頼まれた折に、きっと顔を見れば怒鳴って殴って蹴り上げてしまうからと特別甘い飴を仰せつかっていたことは胸の奥にしまい込み、有村は腰元に頬や額を存分に擦り付ける大きな子供をあやすべく、天使だ、フェアリーだと浴びせられる興奮気味の言葉たちを彼が飽きるまで極上の笑顔で受け止めることにした。
そんな聖母の如く淀みのない穏やかな胸、もとい腹に埋もれて多少は気が晴れたのか、数分と経たずにむっくりと身体を起こしたカケルは意気揚々と机の上から飛び降りた。
「さぁて、今日も頑張って働くかなぁ」
そうしてようやくロッカーへと向かうカケルを見送る有村にはその目許に差す僅かばかりの赤が見えていたが、それに触れるほど大人げなくはない。出勤時間ならとうに過ぎていますよとも言わず、有村は安堵の表情を浮かべて長袖の白シャツに着替えるカケルからそっと視線を離した。
懺悔を終えた罪人のような後ろ姿だ。スッキリしているようで、まだ引き摺ってもいる。
そこまで後悔したのなら少しは懲りてくれればいいと有村は思うのだけれど、それも口にはしなかった。言ったところで無駄なこと。悲しいかな、きっと彼はまた一ヶ月ほどで次の相手を見初めてしまうのだから。
しかしもっと悲しいのは、そうして失恋を繰り返し新しい恋愛に現を抜かしている時のカケルが最も生き生きと輝いていることだ。彼にとっての恋とは人生の活力で、ともすれば生きている意味そのものなのかもしれない。
「素敵な方だったんでしょうね、きっと」
「そりゃぁもう、俺の為かってくらいピッタリのな」
短いから戯れにというつもりもなく、たった一日でも二日でもカケルにとっては純愛で、真剣な交際だったのだ。だからこそ別れ際がどうであれ、有村は彼が相手を悪く言ったのを聞いたことがなかったし、そうやって離れてからも愛おしそうに思い返せるのなら、そんな温かさを感じてみたいとも思った。
一晩、肌を重ねるだけではわらないこと。
それに慰め以外の意味があること。
信じてみたいと思ったのかもしれないな、と、有村は痛いくらいに絞められた腰の感触が徐々に消えて行くのを追った。粗雑な布擦れの音がする。微かに視線を向ける先で腕利きのバーテンダーに変わっていくカケルがあまりにも真っ直ぐに人を好きになるのは幸せなことだと胸を張ったりするから、きっと欲しくなってしまったのだろうと。
例えば、甘いお菓子を強請る子供のように。
「――でもよぉ」
開いたロッカーに向き合うカケルが徐に呟いて、有村はふと我に返った。
「なんです?」
その瞬間、この顔はきっと能面のように味気なかったはずだ。慌てて張り付けた笑みが歪でないかを気にしながら問いかけるも、カケルはサロンを巻くのに下を向いたまま。
有村は再びに目を閉じて、ニッコリと口角をつり上げた。
「今回ばっかりは愛想尽かされるかと思って、ちょっと焦ったりしたんだわ。俺」
「キャリーにです?」
「お前にだよ。色々聞いたし。金曜のこととか」
「金曜?」
言われて思い出すのはそれがカケルの失踪一日目だったことと、翌日に草間と出掛けたことくらい。有村ははてと小首を傾げて、何を見るでもなく天井を見上げてみる。
なにかあったかな。
穴埋めのシフト調整にキイチがバタバタしていて、しかもその日は団体客がいて、ドリンクが追い付かないと泣きつかれて代わりに入って、そうこうしている間にもフードのオーダーが溜まっていて、それが自分に回って来ていなくて久々に分身したいなと思うくらいの急ピッチで駆け回り、結局抜けられなくて初めて閉店までこっそり厨房に籠った覚えならあるが。
そのことじゃないだろうしな。
視線を戻すと不意にカケルと目が合って、有村は『わかりません』を込めた瞬きを数回した。
「来たんだろ? あの、一回寝ると起きねぇおっさん。俺がいりゃぁどうせ始発まで帰んねぇし面倒見たって何でもねぇけど、キャリーもキイっつぁんも帰ったってのに起きるまで付き合ってやったんだって?」
わかんだろと額を指して「あのハゲ散らかしたジジイだよ」とカケルが言えば、有村はすかさず「滝沢さんですね」とキャリーが店を持ってすぐからの常連客の名前を上げた。
有村にとっても馴染みの客だ。見送りをしたのは初めてだったが、事務所に運んだことならば何度かある。
「ありましたね、そう言えば」
思い出しがてら事も無げに返せば、一瞥をくれたカケルは苦々しく舌を打ち鳴らした。
「そう言えば、じゃねぇよ。高校生のくせに朝帰りなんかしやがって。帰れねぇ距離じゃねぇんだから叩き起こせばよかったんだ。キャリーもそう言ったって話じゃねぇか。なのに次の日来てみりゃ溜め込んだ事務処理は終わってるわ、親切にしてもらったってジジイからお礼の電話は来るわってよ。ビビってたぞ。軽く」
朝飯も作ってやったんだってと訊かれたから、お味噌汁だけと答えた。
本当は他にも用意していたのだけれど、味噌汁を出しただけで随分と恐縮されてしまい言えずじまいだったのだ。
「二日酔いにはシジミ汁って聞いたので」
「お前なぁ……お人好しも大概にしろよ?」
でもそのお人好しが今現在唯一の味方であるカケルは何を言っても格好がつかないのもわかっているようで、次からは叩き起こして帰らせろと吐き捨てた。
怒らせてしまったのかな。向けられる背中に、有村はそう感じて顎を引く。
「気遣っていただいて、ありがとうございます」
「そういうわけじゃねぇけど。いい子も過ぎると碌なことがねぇって話」
「はい」
「嫌な時は嫌って言えな?」
「……言ってる、つもりなんですけど」
「お前と比べたら大概のヤツが短気で薄情だろうな」
「…………」
「わり。今のナシな」
「……はい」
怒らせたんだ。今度は確かにそう受け取って、有村は見られていなくとも小さく頭を下げ、椅子に置き去りだった鞄へと手を伸ばした。
年齢が近いからか、苦言を呈すとそのあとでカケルはいつも引き際がわからないような困惑を見せる。今夜はおまけの理由もあるしこれ以上気まずくさせるのも嫌で、もう帰ってしまおうと思ったのだけれど、鞄が浮き上がるその瞬間をもしカケルが見計らっていたのならぶつけるつもりかというくらいの至近距離に突然出された白い物体に驚いて、有村は咄嗟に身を引きつつ顔を上げた。
「で、だ。そんないい子のこーたくんに、なんつーか、ホレ」
「……え?」
「え、じゃねぇよ……受け取れっての、早く!」
「あっ、はい」
相も変わらず背中を向けたままのカケルに急かされて受け取るが、掌にうっすらと感じる冷たさに有村の怪訝は深まるばかり。
上の口を二回ほど折り返した、白地にほぼ無地の紙袋だ。単行本を立てたくらいの大きさで、底は乗せた指先が余るほど。その割に重さはしっかりとあって、やや感触が硬い。
有村は無表情にそれを眺め、湛えるものに相応しく機械のように思考を巡らせた。
カケルから渡されるなら、一番多いのは捨てておけというやつだ。しかしこれはどう見てもゴミではない。貼られたシールには賞味期限の表示。購入したのは今日のことだ。無断欠勤のお詫びかと思えど、スタッフ全員で分けるにはどうにも小さい。キャリーに宛てるならもう顔は合わせているだろうからとっくに渡しているはずで、キイチにというのはふたりの関係上違和感しかない。
駄目だ。思いつかない。
有村は考えるのを諦めて、カケルを見上げた。ほんの一、二秒の話だ。
「あの……これは?」
「やる」
「え?」
「やるよ、お前に」
「えっ!」
「なんで驚くんだよ」
「いや……明日、雪でも降るのかなって……」
「お前な」
そうしてやっと振り返ったカケルの前で、有村が口元を隠し慄いているのも無理はない。
これまで口先で侘びたところで半笑いだったカケルは、一度だって有村を労ったことがないのだ。
「むっ、虫ですか……これ……っ」
「小学生の嫌がらせか。なんでわざわざ大っ嫌いなモンをやるんだよ」
いっそ怯えるような素振りも、言ってしまえばカケルの自業自得。日頃の行いの自覚があれば肩身も狭くて、カケルは溜め息を吐きながら乱暴にうなじを掻き、反対側を見てみろと言った。
「むし、ですね……?」
「違うって言ってんだろうが! いいから裏見ろ。見りゃぁ中身がわかるから!」
ぷるぷる震えてチワワかてめぇは。
だとしたらギネス級に大きなチワワだ。身体はすっかり大型犬だというのに、恐る恐る袋の反対側を覗き込む仕草がホラー映画冒頭のクライマックスに迫るよう。
カケルは頭に流れ出す『ジョーズ』のメロディーをバックに、そこにある細い文字を読み取ったらしい有村が「アル、コ……ん? ショコラトリー?」と呟くのを聞いて、かかったとばかりにニヤリと口の端を上げた。
「好きだろ? チョコ」
美味いんだぜ、ここの。
そう得意気に告げて未だ驚愕する有村を覗く。
「好き、ですけど……どうして? 今ってコンビニでもこんな……」
「コンビニじゃねぇから」
「じゃぁ誰に頼んで……」
「頼んでもねぇから! 俺が、自分で買って来たの! 言わすな。そんなこと」
じゃぁ、これを頼んでフラれたわけでは。なんだその斬新な別れ方。
順番が逆だと言うとカケルは墓穴を掘ったも同然で多少は気を落としたけれど、それよりも信じられないとマッチ売りの少女のような顔をする薄幸の美少年が目の毒で、久しぶりにその柔らかな髪に手を伸ばし、長めの栗色をグリグリと掻き回した。
「察せよ! 気まずいんだよ! お前、そーゆーの得意だろうが!」
前にこうして髪を混ぜられたのは、確か去年の終わり頃。
いいから受け取れと繰り返したカケルはその時と同じく「無駄にスクスク伸びやがって」と仕上げに額を突き飛ばしたので、上を向かされた有村は黙って乱れた髪を指で梳き、尚も溢れ出して来る『どうして』や『なんで』が滲んだ視線を所在無く彷徨わせた。
カケルは口も悪し横柄だし面倒を押し付けて来るし意地悪だって言うけれど、出会った時からずっと変わらず親切だ。だけど好きだろうなんて何かを貰ったことなどないし、ありがとうに添えられるには、この贈り物は度が過ぎる。
変だと思った。何かが違う、と。
何かが明らかにずれていて、ピッタリとあるべき場所に嵌っていない感じ。座りが悪くて上手く飲み込めないその感覚は有村にとって随分と身近なもので、考え事の折にしてしまう癖が有村の指先に口の端を撫でさせると、僅か上にピリリと走る痛みがあった。
有村にとっては、不快を与えてしまったことへの代償だったもの。
『なんとか言ったらどうなのよ!』
ついさっき、そう詰りしなに打たれた頬。
逆上しきった女の顔に、ヒステリックな金切声。あれは怒らせてしまったからで、正解のはずで。
『破っても顔色ひとつ変えられない約束を何度もする私の気持ちが洸太にわかる?』
でも、その割には泣いてるみたいに震えていた指先を思い返して、有村の口が小さく開く。
「これ……もしかして、お詫び……ですか? お礼、ではなく……」
「あ? んなモンどっちだって……よくねぇか」
どこを見つめるでもなく揺れる有村の目線は、表情を引き攣らせたカケルの顔よりだいぶ下の方を泳いでいた。右へ、左へ、行ったり来たり。何か探すように。
見当たらないことがわかっているみたいに、取り留めもなく。
「そ、そうだよ、お礼! 世話んなったから。ありがとな、マジで!」
「侘びられるということは……怒るべき、だったんでしょうか。その方が正常だった? あの人も、そう言って?」
「オイ、だから違うって。洸太、こっち向け、な? お詫びじゃない、お礼だ。だから――」
何とも思わなかった。
あの時、あの暗がりで手を振り抜かれる瞬間もそのあとも、特に何も感じなかった。寝こけた客を見ても、手付かずの朝食をゴミ箱へ落とした時も、カケルの不在が三日を越えても、なにも。
ただそこに起きた事象があっただけで。それをただ、見ていただけで。
「僕は、おかしいと思うべきだったんでしょうか。何か、感じるべき……だったんでしょうか」
「いやいや、そーゆー話じゃなくてだな?」
「何もなかったです。僕は……僕には、何もなかった……!」
「ちょっ、洸太! オイ――!」
慌てふためく声がする。突然にしゃがみ込んだ有村の腕を掴んで、カケルが「わるかった」と血相を変えながら、わかってる、仕方がない、とも言って寄越した。
仕方がないことがあるか。ずれてるんじゃない。また、足りなかったんだ。間違えたんだ。誰でもない――僕自身が。
所詮、作り物だから。
「洸太!」
そんな自分を捉まえて『寂しい』と投げて寄越したのだとしたら、それはとても正しい評価だ。
体温を求めていた。彼女もそうだと思っていた。
けれど彼女はきっと、それだけではなかった。
自尊心の高い大人の女性だった彼女が、ただ聞き分けのない子供になって腕を振り抜いてしまうくらい。理屈の通らない戯言を喚き散らしてしまうくらい。それほどに向き合いたかったと言ってくれていたのかもしれないと今更になって気付く乏しさに、抉られるような痛みが心臓へと突き刺さる。
本来であれば『心』なんて呼ばれるものがあるべき場所に、深く、深く。
「――カケルさん」
目の前は真っ暗で、吸い込んだ空気も喉より先へ入って行かない。
無意識にシャツの合わせを掴んだ有村は途方暮れた子供のように折った膝に顔を埋め、受け取ったばかりの紙袋を震える右手で差し出した。
「ごめんなさい……ごめん、なさい……ぼく……これ、うけとれない……!」
こんな虚しいばかりの人間紛いには、謝罪を貰う価値もない。
持ち上げた袋が重たくて、冷たくて、怖くて、怖くて仕方がなくて。
有村はとても久々に、凍えそうに寒い暗がりへと足を踏み入れていた。




