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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第一章 初恋少女
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きせき

『じゃぁ、なんか観に行く?』

 そんな突拍子のない台詞があるか。

 草間は状況が飲み込めず、ほうきを持ったまま瞼を瞬かせた。

「映画を観に、って……有村くんが、私と?」

「うん。俺いま、そう言った」

「…………っ」

 だって彼は全校生徒のアイドルで、王子様で。

 男子からの人気を総取りしているみたいなあの三人も、他の綺麗だったり可愛かったりする女の子たちも誘い出せなかったのに、そんな彼が、こんな、私なんかに声をかけてくれるだなんて。

「そんな……っ」

 そんなこと、あるはずがない。あっていいはずがない。

 確かに草間は少しくらいは何かを期待して欲をかいたのだけれど、それは例えばオススメの映画を教えてもらえたらとか、もしかしてレンタルショップに行くついでとかがあったら付いて行ってもいいと言ってくれないかなとか、本当にその程度だったのだ。その程度とはいえ、後者は最高で、という場合。もう単なる妄想の産物でしかなかった。

 なのに、有村からもっとすごい誘いをもらえるなんて思ってもみなかった。映画を観に行くということは、映画館へ行く、ということになるのだろうか。彼みたいな引く手数多の王子様が、こんな冴えない私なんかと。そんなおかしな話があるか。有り得ない。夢でも、天変地異の前触れだとしても、有り得ない。

 有村からの誘いは、完全に草間の許容範囲を超えていた。まったく処理が追い付かないし、それはそのまま顔に出た。

 ただ呆然とするだけで、開いてしまった口と瞼の閉じ方すら思い出せない。

 それが向かい合う有村にどう見えたのは定かでないが、彼は珍しくツンとすました顔をしていて、長い睫毛を瞬かせる大きな瞬きをひとつ。

「いや、でも、そんなこと急に言われたら草間さんも困るか。俺たちまだそんなに仲良くないし、こんなタイミングじゃ嫌だとも言い難いよね。ごめん」

「…………っ」

 そうして浮かべたのがもっと珍しい困惑気な苦笑いだったので、草間は慌てて首を何度も横へ振った。

 困ってはいた、混乱していたから。でも嫌がったみたいに見えたんだと気付いたら、そうじゃないとも言い出せなかった草間の首は止まらなかった。

 嫌なんかじゃない。当たり前だ。憧れの有村に声をかけてもらって、舞い上がらないはずがない。

 でも信じられないのだ。理解出来ない。彼と自分には、有村が今しがた引き返して来た教室の後方に置かれたゴミ箱から目の前に立つまでの数歩分の何十倍、何百倍の距離がある。

 今はもう通路を挟むより近くにいるけれど、それでも手が届くはずがない。手を伸ばす勇気もない。

 だけど。

「俺もどうしたのかな、突然。ごめん。今の忘れて」

 首筋を撫でた有村が不意に溜め息を吐いた瞬間、草間は咄嗟に「ちがう」と叫んでいた。

「ちが……ちがう、の。そんな、いやじゃ……いや、なんかじゃ……っ」

 草間を動かしていたものは、とても素直な嫌われたくないという感情だった。

 これ以上なんてなくても、もう話してもらえなくなったりしたら嫌だ。その想いだけは、どんどんと湧き起こって来る。

 こんなにも誰かに何かを伝えたいと思ったのは、初めてだったかもしれない。

「いやなはず、ない――!」

 だから草間は加減もわからなくて、ただただ必死に声を上げるや否や、殆ど無意識に身を乗り出した。

 元より随分と近付いていた距離だ。下から爪先に体重を乗せるように見上げれば、有村の整った顔までは二十センチもなかったかもしれない。

 普段なら絶対に自分からは近付けない距離に踏み込んで、真正面から向き合う草間は飛びかからん勢いだった。

 嫌じゃない、だけじゃない。嬉しかった。そちらの方が先にあったはずなのに。

「……行くっ。行きたい! 映画館っ、すっごく、行きたいですっ!」

 嬉しかったです。それが、彼に届きますように。

 そう願いながら放たれた声は教室中に響き渡り、草間自身の耳も突き抜けた。

「…………っくッ」

 瞬間、いつも上がっている有村の口の端は僅かに下がって逆向きのアーチを描き、面食らったように一瞬だけ大きく目を見開いたあと、芸術品みたいな面立ちが息巻く草間の前で耐え兼ねたように破顔した。

「あはははっ! なんだソレ!」

 腹を抱え、肩を揺らして、有村は高らかに笑い出したのだ。

「はっ、えっ」

「やばい! それはちょっと想定外だ。なんだよ、映画館に行きたいって! 違う、違う。それじゃ目的変わってるから! あははっ」

 言われて気付いた草間は思わず握っていたほうきの柄を離し、自らの口許を覆い隠した。

「あぁっ!」

 そうだ、映画だ。映画を観に、映画館に行きたい、だ。また、間がごっそり抜けた。

 恥ずかしい。その一心で、首から上に火が付いたように顔全体が熱くなる。

「あぁっ!」

「――おっと」

 そんな中、笑っていても倒れていくほうきを目に留めたらしい有村はそれが床に落ちる前に掴み取り、背中を伸ばして「ごめん、ごめん」と草間に向き直った。

「ちょっと意外で。笑い過ぎたね、ごめん。もう止めるから落ち着いて? 大丈夫だから」

「わ、わたし、そんな……は、はずかし……」

「ごめんって。だから、そんな泣きそうな顔しないで? 草間さんもおっきな声出るんだなってびっくりしたのと、そんな必死に被せてくるから、つい。でも全然悪い意味で笑ったんじゃないんだよ? あー、だめだ。不意打ちだったなぁ。まさか草間さんに声出るほど笑わされると思わなかった。面白い子だとは思ってたけど、いや、いいね。そういう反応、嫌いじゃないよ」

 びっくりした。顔が痛い。

 そう言って自身の頬を揉んでいる有村を見られず、草間は俯いたまま跳ねる動悸に身体を揺らしていた。

 嫌いじゃない、って。悪い意味じゃない、って。わたし、嫌われたわけじゃない、の?

 何よりもまず羞恥心が勝っていてよくわからないが、有村が今もそこそこ好意的な視線を向けてくれているのだけは、その気配でなんとなくわかった。彼の目はとても大きく存在感もあったので、見られていると温度に似たようなものを感じ取れるからだ。

 冷たくはない。だから多分、まだ嫌われてはいないはず。

「あっ、は……っ、えっと……その、あのっ」

 その時ふと、何を言えばいいのかもわからず狼狽える草間の視界に、薄い影が下りて来た。

 草間はそれも見られなかったが、有村は僅かに背中を丸めて更に距離を詰めたのだ。頭の近く、右のこめかみのすぐそば。彼はそこで静かに口を開いた。

 教室にはもう誰もいないのに、まるで人目を避け、内緒話でもするかのように。

「余計楽しみになっちゃったから、本当に、草間さんが嫌でなければ何か観に行こうよ。そうだな。今度の土曜日なんてどう? 俺はいま特にこれってのないし、スカッとするのだったらなんだっていいから、気が向いたら映画も何にするか少し見ておいてくれると嬉しいな。返事はまた、明日にでも聞かせてね」

 片付けとくね。

 最後に付け加えた声まで、耳の奥が痺れてしまうほど甘やかな響きをしていた。

 彼の声はそんな音をしていただろうか。いつもなら少し高めの、爽やかなばかりの声であるはずなのに。

 小声だったからかな。草間はそう結論付けて、放り出したほうきと塵取りを持って用具入れへと向かって行く有村の背中を目で追った。

 まだ、痛いくらいに動悸がする。

 これは、夢、だろうか。限界を超えて緊張した所為で軽い酸欠状態だ。頭が朦朧として、今にも身体が浮き上がってしまいそう。見送りながら、草間は空になった手でぎゅっとスカートの裾を握った。

 彼が、一緒に出掛けるって言ってくれた。夢だ。夢に違いない。そうでなければ都合が良過ぎて、明日にでも天に召されてしまうかもしれない。

「……有村くんと、えいが……」

 口に出してみても全く現実味がなかったのだけれど、草間の口角は素直に上がって行く。

「草間さん!」

 そこへ投げられた有村の声は、もういつも通りの爽やかな響きに戻っていた。やっぱり小声だったからだ。慌てて返事をする草間に返って来るのも、穏やかないつもの声。

 彼は持ち上げたゴミ箱を揺すって見せ、ニッコリと微笑んだ。

「今日はゴミ少ないから俺ひとりで大丈夫なんで、草間さんはもう帰っちゃっていいよ。おつかれさま」

「え、で、でも……」

「いーから、いーから。じゃ、また明日ねー」

「え、あ……う、うん。また、あした……」

 ありがとうを言う間もなく教室を出て行く有村を見送り、草間はひとりきりになった教室で急ぎ携帯電話を手に取った。

 話しかけられると身構えてしまい、結果的に無視をして相手を不快にさせてしまう類の人見知りである草間にも、仲の良い友人くらいはいる。同じクラスに、ふたりだけ。いや、学校に限定せずとも人生に於いてふたりしかいない友人へ、草間は短いメールを送る。

『有村くんと、映画観に行く』

 それ以上何を伝えればいいのかわからないし、草間は活字を追うのが好きでも文章を作るのは元々苦手なのだ。でもとりあえず、どうにも治まらないこの胸の内を誰かに打ち明けたくて。一秒でも早く。

 すると、その返事は携帯電話にではなく、けたたましい足音を響かせてやって来た。通り過ぎかけた黒髪と茶髪が開け放たれたドアの縁を掴んで立ち止まり、教室を覗くなり大声を上げる。

「なに今のメール! また妄想?」

「どういうことなの、仁恵!」

 草間は携帯電話を握り締めたまま、ぱちぱちぱちと瞬きをした。

 得意の妄想でも、こんなすごいのは考えたことがない。

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