憂鬱の種
幼い頃、滅多に帰って来なかった母親は、見る度酒に酔っていた。
玄関フロアで大声を上げて人を呼び寄せ、それが深夜でも真昼間でもお構いなしに、少しでも待たせれば口汚く罵った。その声は離れていても良く聞こえたから、彼は例え夢の中にいても起き出して階段脇の手摺りの下、人の腕が一本通り抜けるのがやっとの隙間から人知れず帰宅を歓迎したものだ。
派手な衣装に完璧な化粧。無駄のないプロポーションは理想的なそれで、黙っていれば、悪態に歪めていなければ、彼の母親はどこから見ても目を見張るほどに美しかった。
特に笑顔が素敵なのだ。向けられたことはないけれど。
「何よ、その目――」
叱責の最初はいつもそうで、見つかれば腕を捻られ背中や脚が痣だらけになるまで許しては貰えなかった。謝っても、今度はその声が癇に障ると言って。
だから物心がつく前から、女性の起こす癇癪には慣れていた。
そういうものだ。一度気に入らないとなったら話し合いなど言い訳の延長線。呼吸音すら煩わしいと彼女らは言う。
諦めていたのかもしれない。それから多少成長した有村が悲しむとすれば、やはりそういう時の女性とはどんなに美しい人でも醜いものだな、と思うくらいで。
「――バカにしないで!」
人目を忍んで踏み込んだ狭い廊下に、『パチン』と『バチン』の間くらいの乾いた音が短く響いて滲んで消えた。
華やかなステージの脇で影を増す化粧室へと向かうこの一本道は、深紅に漆黒の蝶が散る壁に挟まれて実際よりもずっと窮屈に感じる。浮かぶ照明は天井からぶら下がるオレンジ含みの弱光で、たったふたつ灯るだけの丸いライトは月明かりのふりをして佇む少年の顔を一層大人びて見せた。
だから、であろう。今しがた『その目』と詰られた有村の瞳はぽっかりと開いた夜の色をして、何の感情も持たないような、温度のない輝きを放っていた。別に意図してそうしているわけではない。瞳の色など彼の関心の範囲外で良い時にはそれだって綺麗だと褒めてもらえるものだが、母親にしろ目の前で怒りに肩を上下する彼女にしろ、恐らくはそこにくっきりと映り込んでしまう自らの醜悪が憎いのだ。大抵はこれを詰って、そんな目で見るな、と言ってくる。
なので、有村は打たれた頬に横を向かされたまま、静かに壁と床の間など見つめていた。
「精々頑張って爽やかな王子様のふりでもなんでもすればいいわ。どうせ半月も経たずに他所へ行くんでしょうけど。あなたみたいな寂しい子に目をつけられるなんて、その彼女もいい迷惑ね!」
丁寧に作り上げた美貌と、細身の服で強調した悩ましげなカーブ。軽やかな栗色のロングヘアーは毛先まで艶やかで、そこはかとなく背負う色香は佇むだけで男を引き寄せて止まないはずが、憤りのままに恨み言を吐き捨てた彼女の声は金切声で、くるりと回ったパンプスの爪先も粗雑に擦れた。
残念だ。一から十まで美しくあるのは難しい。それが他者と己で噛み合うことも。
有村はカツカツカツと遠退く音を見送るでもなく壁と向き合ったまま首を垂れて、気付けば随分と重苦しい溜め息を吐いていた。
「――やっぱり気にしてたんだなぁ。歳は関係ないって言ったのに」
相手はいくつだと訊かれたから、同級生だと答えた。それが彼女の逆鱗に触れたのだろう。物わかりのいい出来るオンナは途端に意地悪な継母になって牙を剥き、右手を思い切り振り抜いたというわけだ。先の彼女で六人目。どれも気軽な間柄だったとはいえ、身軽になるのも容易ではない。
しかし有村がそのまましばらく顔を上げずにいたのは、そんな面倒を苦にしてではなく、掘り返してしまった過去についてだ。
「……ああ……嫌なことを思い出した……」
アルコールと煙草ときつい香水の混じった臭いと、耳を劈くヒステリックな声。
そして仕上げの打たれた痛みが連れて来た華美な女の姿は、今もそれだけで有村をひどく憂鬱な気分にさせた。
似ても似つかない容姿をしていたのに、彼女が条件を重ねたりするから。感覚と繋がった記憶はすぐに蘇って来ていけないと、有村は浮かんでしまった面影を頭の中から追い出して、もう一度心底深い溜め息を吐く。
「でも、顔を殴られたのは初めてか」
それがなんだかおかしくて薄笑いを浮かべていると、少し離れた所から「気持ちの悪いやつ」と零す声が聞こえて来た。
「女にビンタ食らって笑うって、マゾかてめぇ」
嘲るようなそれが響いて来たのは、彼女が消えて行った通路の入口。ショーの最後を飾る大技に沸く店内と、この薄暗い吹き溜まりの真ん中の辺りだ。
有村は気怠げな視線を投げて、その持ち主の方を見た。
「――カケルさんこそ、人のこと言えないんじゃないですか? 今回もまた随分と男前になってますけど」
「褒めるな、褒めるな」
知ってます、と語尾を伸ばして上がる軽薄そうな口の端。よく日に焼けた健康的な肌に人好きのしそうな笑みを張り付けた五つ年上の先輩は自慢の顔を半分ほど腫上がらせて、腕組みのまま壁に体重を預けていた。
有村の城が厨房であるなら、彼が『カケルさん』と呼んだその夏の海辺が棲家のような風貌の男性は専らカウンターの中に立つバーテンダーだった。
歳は若いが知識と腕は大したもので、ショーがこの店の看板とすれば彼が作るオリジナルを含むカクテルはそれを支える主力と言って過言ではなく、軽口や遅刻欠勤が多いという難点はあれど固定のファンもつくカケルは特に若い女性からの人気が高い、自称『洸太のお兄ちゃん』である。
――ガシャン。
そんな先輩がポツリと漏らす「意外だ」がどこに掛かるのを、事務所やスタッフの更衣室などを兼ねた一室の壁際に並ぶロッカーのひとつを開いた有村は少しだけ考えた。
兎角人を揶揄うのが趣味のような人だ。どうせ今しがたの醜態を突かれるのだとして墓穴を掘るのは嫌だから、そういう時、有村は彼が確かな言葉を投げて来るまで聞こえないふりを決め込む。
女の扱いには慣れているだろう、とか。フォローくらい出来たんじゃないか、とか。
「別れ話するほどの仲でもねぇって上手いことフェードアウトして来たくせに、彼女が出来た途端に平手打ちも甘んじて、とか。人って変わるもんだなー」
部屋の中央を陣取る机を椅子代わりに煙草をふかしつつ宣うそれが語尾でもう独り言の枠を出ていると大きさを増すから、やっぱりそっちだったかと、有村は腰に巻くロングタイプのサロンを外しながら「案外痛いものですね」などと嘯いた。
実際、有村の頬はもう赤みすら引いていて、カケルが触れて来なければそんな一撃すら既になかったことのよう。
「クリーンヒットはシャレになんねーぞ」
「怖いなぁ」
カケルさんのはクリーンヒットですか? ほぼな。
そんな会話を振り向きもせず笑顔で交わし合ったあと、有村はふと途切れた隙間で「そうしろって言われたんです」とそちらの方が痛そうに白状した。
「寂しいだけでも浮気になるって教えてもらって」
「あー、好きなヤツとはしたことないんだっけ?」
「ないですね。縁がなくて」
「キョーミなかっただけだろうが」
どちらも正しいとは言い難く、外したサロンからペンや調理場で髪を留めるヘアピンを抜き取る有村はそれを纏め、誰にも聞こえないように心の中で小さな溜め息を吐いた。
この店に制服らしい制服はない。あるのはこのサロンひとつで、あとは自前のシャツとスラックスであれば色の指定もされていないほど。だから仕事終わりの身支度と言っても着替えの体をして丸めたそれを鞄へ放り込むだけで、その手軽さが嬉しい時もあれば、染み付いた臭いを連れて帰らなくてはならない止む無しを憂鬱に感じる日もあった。
クンと鳴らした鼻先に調理油と煙草と、女を飾る臭いがする。
化粧、香水、整髪料。移り香と言えば多少は色気もあるのかもしれないが、それらの臭いが得意でない有村には付き方がどうであれ疎ましいものに違いない。
「んで、どんな子よぉ。可愛い? 細い? 乳デカイ?」
「なんで最初にそれを訊きます?」
「だって大事だろー? 所詮第一印象なんて見た目百パーじゃねぇか。鏡見りゃぁヤベー美人がいつでも見られるこーたくん基準じゃ、どれも似たり寄ったりかもしんねぇけど!」
しかし、ヘーイ、ヘーイ、と両手を下から拱きながら概要を寄越せと迫るカケルの鬱陶しさに比べれば大したこともないように思えて、嫌味っぽく言わないでくださいよと弱音を吐いた有村は年下らしく眉を下げてみせた。
有村に異性の外見に対しての特別な好みはない。顔に然り、体型に然り、服装ですら本人が気に入っているのならなんだっていいと思う体たらくだ。そんな趣向は承知の上で絡んでくるのだから、この先輩の面倒臭さは筋金入りである。
加えて諦めも悪いとなれば多少なりとも付き合う方が得策で、鞄を整理しロッカーを閉めるまでの短い時間なら構わないかと、有村は勤務中の道具箱宜しく物の詰まったポケットの中身を空にした。
「可愛らしい子だとは思いますよ。華奢な子で、細いと言うよりは小さいかな。全体的に」
「乳も?」
「知りません」
「またまたぁ。いっつもさっきのお姉さんみたいなエロそーな爆乳連れ歩いてよくゆー」
「たまたまですよ。それか女性下着の底力じゃないですか」
「おっ、言うねぇ」
「そういうのを期待されたのかと思って」
元々と言えば雑談でもその手の会話は苦手な方だったけれど、カケルといれば嫌でも慣れる。
おかげで校内の一部の男子から『話せるヤツ』と慕われるのが良かったのか悪かったのか微妙な線ではあるが、出来るようになって無駄なことはないというのが有村の信条なので結果は上々。故に彼は男女問わず校内一の人気を誇るというわけだ。
とは言えやはりまだ得意ではないから、どうせソッチの相性が決め手だろと投げられた低俗に返答を躊躇った僅かな間で「まさか」を刺されると、途端に弾けるカケルの声色にうんざりするのが関の山。
やってねぇの、と笑うように吐き出したカケルは、絵に描いたような俗物の顔をした。
「なーに勿体ぶってんだよぉ。遊び慣れたお姉さんたち軒並み骨抜きにしちゃうんだろ、その顔で! もう一回抱いてーとか俺も言われてみてーわ、マジで! 抱いてやれよー。忘れられない夜をプレゼントフォーユーしろよぉ。それともまさかの塗り重ねで、来る者拒まずの雑食かまして散々遊び歩いた挙句の初カノがよもやの処女で、勝手がわからず尻込みしてますなんてミラクル――」
「――カケルさん」
ガッシャン。
いつもより少しだけ低めに響いた甘くない有村の声と、開けた時とは別の扉を閉めたような粗雑な音に調子に乗ったカケルの肩がビクリと跳ねた。
「この話、ここまでにしませんか?」
そう言って目を閉じたままニッコリと笑う有村の迫力たるや、聖人の皮を被った魔王の如しとカケルは思う。これが天使なら堕天直前のルシフェルだ。慈悲深さは聖母のそれだが、ここまでと言ったならそれ以上は追いかけぬ方が身の為と思わせる気迫が、この穏やかな海のような優男には初めから備わっている。
「お……おう……」
そんなものを目の当たりにしてはさすがのカケルも死にかけのオットセイのようにひと鳴きするのが精一杯で、照れ臭いのでなどとフォローされても、もう揶揄う気にはなれなかった。
いや、実を言えば最初から揶揄う気などなかったのだ。彼はただその胸に秘める後ろめたさを言い出せずにいただけで、それより早く店に出た方がいいんじゃないですかと、にこやかに苦言を呈す後輩の正論に引き続きのしどろもどろが漏れる。
「あー、うん。そうなんだけど、なんつーか、その」
先程までの威勢はどこへやら、肩を窄めて、視線は下の方を泳いでばかり。
それがまるで悪戯が見つかってしまいそうな子供のように見えたから、いつも横柄なカケルらしからぬしおらしさに有村はコテリと首を傾げがてら「どうしたんですか?」と問いかけてみた。
今日のシフトはカケルが来るまでの繋ぎ。出勤したら帰っていいと言われていたからここにいるのに、交代のカケルが不調なのでは帰るに帰れないではないか。
「お腹でも痛いんですか?」
実は二日目でと返して来るところを見るに、元気そうだとは思うのだけれど。
「そうでなくて。どうしたんですかって、お前が言うなよぉ……」
しかし如何せんこの歯切れの悪さである。何か言いたいことはあるのだろうが、不調でもなく話す気もないのなら帰りたいのが有村の本音だ。
もう一度だけ促すように声をかけるも聞こえて来たのは似たようなぼやきで、有村は困ったなという溜め息をひとつ。
「よくわからないですが、時間も時間ですし。問題ないようなら今日はもう、お先に失礼しますね」
お疲れ様です。そう付け足して出来のいい笑顔を浮かべると、鞄を手に取り部屋の反対側にあるドアへ向かおうと足を踏み出した。
そこへ伸びてくるカケルの手。
「待てって!」
「はい?」
掴まれた腕に呼び止められて、有村は机に腰かけたまま脳天を見せるカケルを振り向いた。
「……そんだけ?」
呟かれる言葉に有村はまた首を傾げる。持ち場が違うので引き継ぎも特にはないし、知っている限りカケル目当ての客はいなかったはずで伝えておいた方がいい用件もない。
何か忘れているのかなと二度ほどした瞬きの間に、カケルの眉根がグイと下がった
「…………俺、一週間ぶりなんだけど」
「ああ」
「お前にも、その……迷惑かけたなって」
「いえ、そんな」
お気になさらずと笑みを浮かべた有村は心底言い難そうなカケルの口振りに合わせいま気付いたふりをしたが、勿論重々承知していた。惚れっぽい彼にはよくあることだ。
カケルは先週の金曜から数えて丁度丸一週間、無断で店を休んでいた。