暗い昏い穴の中
「……ふっ」
グラスを磨くのに視線を落とした隙間でつい数時間前を思い出した有村が小さな笑みを零すと、薄暗いカウンター越しに髪の長い女性客がすかさず「どうしたの?」と厚塗りの口紅を裂いた。
「いえ。ちょっと思い出し笑いを」
脳裏に浮かんだのは件の『ケチャップうさぎ』を携帯電話の待ち受けにして、嬉しそうにしていた草間のことだ。彼女も今日はどうしてもと頼まれて断り切れずに入れたアルバイトがあると言って、勉強会は夕方頃に解散になった。
とはいえ昼食後間もなくして集中力を欠いていた面々はそれからの数時間を思い思いに寛いでいたので、それはあくまできっかけに過ぎなかったのだけれど。
「楽しいことでもあった?」
穏やかな声に視線を上げてから有村はまたそれを落とし、薄いグラスの縁を眺めた。
楽しい、と言われれば、そうだったかもしれない。
いつもは無音の部屋に絶えず話し声や笑い声が響いて、その違和感が目に馴染むとそこはかとなく胸が温かくなったし、長い夜が明けたような、教室を少しだけ切り取って張り付けたようなあの時間は、次があるなら是非にと思うくらいには有村の『お気に入り』になった。賑やかで、子供らしくて。あとは本来の目的通り鈴木と山本の成績が上々であれば申し分ない。
探検と称して自室は多少荒らされたけれど『お目当て』が見つからずに肩落とす落合と鈴木は面白かったし、草間とは本棚を見上げてそこそこ弾む会話も出来た。彼女は本棚を見るとその人がわかると張り切っていたが、ただ読んだ順に詰め込んでいくだけの有村の本棚はあまりに雑多でその限りではなかったらしい。
趣味が広いんだねと言われたから、本が読みたいというより活字を追っているのが好きだと答えた。だからこれだけ読んでも面白いと思ったものは少ししかない、と。
掃除癖と同じでどこか病的な気がして誰にも言ったことはなかったのだけれど、草間ならわかってくれるような気がして告白してみれば、彼女はやはり思った通りの回答をくれた。
わかる、と恥ずかしそうにはにかんだ彼女も、文字を追ってその世界に入り込んでいると落ち着くのだそうだ。そういう人は近くにはいなかったから、有村はまた少し草間との距離が縮まったようで嬉しくなった。何冊か持って帰った本は試験が終わってから読むと言っていたから、その感想を聞くのも楽しみだ。
食の好みや趣味趣向など近しければ気が楽な物は多いが、例え真反対の受け取り方をしたとして本の話ならよく喋る草間とは単純に意見の交換が出来る。読み手が違えば持つ感想もそれぞれで、それを語り合えるのは二度楽しめるようなものだったから、有村は草間なりの解釈をいつだって心待ちにしていた。
「わかった。彼女とデートだったんでしょ」
振り返ったそんなやり取りに緩んだ頬を覗き見た先の女性客が名探偵宜しく人差し指を立てれば、一緒にやって来た連れの女性がそれより身を乗り出して「洸太くん、彼女いるの」と質問の体ではなくただショックだと言う風に投げかけて来る。
「さぁ、どうでしょう」
有村は静かに微笑んでそう答えた。
ここは照明も疎らな、店主曰く『ノスタルジックな』場末のバーである。隣り合った客の顔も満足に見えないほどの薄明りの中では曖昧こそが正解なのだ。
取り付けたオーダーの折にカウンターを乗り出して、余所見のお詫びに甘いお菓子をお付けしますよ、と甘く囁きかければ、それ以上を尋ねてくる女はいなかった。
有村が勤めるこの店は、駅から歩いて十五分ほど入り組んだ路地を右へ左へと何度も折れて、街灯が点在する小道に突然空いた穴倉のような階段を降りた先にある。
その入口たる道路端に『ノクターン』という店名を知らせる看板などは特になく、地下へ導く明かりすらもない。そうした隠れ家的な店構えが常連には好評だったりして、ここは毎夜多くの客で賑わう、知る人ぞ知る人気店だ。有村はそこで最年少スタッフながらも厨房を任されている。この店に正式な男性スタッフが三名しかおらず、他のふたりもバーテンダー、フロアチーフとそれぞれに役割があるのだ。
無論、人手が足りなければウエイターにもなったし、時には演者の補佐としてステージにも立った。
そう。この店は品揃えの良いアルコールが自慢のバーでありながら、ひと晩に幾つも披露される完成度の高いショーをメインに据えた、俗に『ショークラブ』とされるものだった。外観や、店の雰囲気はさておき、間違っても水商売的な在り方ではなく、純粋に質の良いショーを提供する。その評判があって、ここは毎夜ほぼほぼ閉店まで席が埋め尽くされていた。
好奇心の強い有村にとって、ここは飽きることのないおもちゃ箱みたいだった。披露する演目は演者次第で、歌もダンスもマジックだって、ショーとして成り立っていれば何でもあり。ちょっとした休憩時間に習ってみたり、そうでなくても日々上を志して懸命に努力し続ける人たちの背中は有村に色々なことを教えてくれる。
だから有村はここで働く時間が相当に好きだった。夜の時間も、短くしてくれるし。
だが、その実で有村は近しい人たちからこの店で働いていることを口外するなと、きつく口止めもされている。保護者からも、キャリーという名の店長からも。所謂グレーゾーンだからかな、と有村は思っていたりするが、校内で唯一ここを知る、以前ついでがあって連れて来る機会があった藤堂が『もう勘弁してくれ』と言うくらいには少々クセの強い店である、らしい。
先入観のセの字もない有村には、これまた少し難しいことだ。多分、あのことだろうなとは、想像くらいは出来るけれど。
兎にも角にも、だ。別に誰がどう言おうといつ何時知られて困ることのない有村は、今夜も素顔に本名のまま、美味い料理をテーブルへ運ぶ。営業中はスタッフ全員が終始、大忙しだ。
「それで、友人に試験前にバイトを入れるなんてと言われてしまって。しばらくお休みを頂くことにしたんです」
「まぁ学生なら学業第一だもんね」
「で、どのくらい?」
「来週と再来週の二週間」
「えー、洸太くん二週間もいないのぉ」
「やだ! あたしたち渇いちゃう!」
とは言え、テーブルを回りながら給仕の折に客とちょっとした会話を楽しむのも、言ってしまえば業務のひとつ。有村はここで目上とのやり取りや気さくな話し方を覚えたし、適度な距離の取り方も学んだ。
けれど彼が最も早く吸収したものと言えば、『上手な振る舞い方』に尽きるであろう。ときめきは女の養分とする店主の差し金もあって少々媚びを売るのも仕事の内と、有村はいつも以上に饒舌に日々に疲れた女性たちに寄り添う。
大人ぶってみたり、時には拗ねたふりをして。その匙加減で渡る夜は至ってシンプルだ。
「俺がいなくてもカケルさんかキイチさんがいますし、大人なふたりの方がみなさんとお話も合うんじゃないでしょうか。少し寂しいですが、間が空いても俺のこと忘れないでくださいね?」
そう年下を笠に着て甘えてみせれば、仕事帰りと思しき客たちは忽ち「可愛い」と色めき立って軽やかな声を上げる。
「忘れるわけないじゃん。あたし、洸太が目当てで通ってんだよ?」
「今日だって来るまですっごいカッコいい子がいるって散々惚気られたしねぇ?」
「本当に? 期待外れじゃなかったです?」
「全然! 正直ここまでって思ってなかったくらい。スカウトとかされるでしょ」
「たまには。でも、そういうのは苦手で」
「勿体なーい!」
「洸太はこれでいーの。 ……自由に遊べなくなっちゃうしね?」
「遊ぶ?」
同時に向けられた視線に微笑みを返して、有村は空いたグラスをトレイに乗せた。その笑顔に僅かに籠る含みもまた、彼の持ち味のひとつだ。
これで話題のスイーツをオススメして来るのもそれはそれ。ただ殆どの場合はこの暗がりにちょうど良い解釈をして「やだぁ」と嘯いたり、悪い子と言って指を拱いたりする。
有村は流されるまま腰を折り、潤んだ瞳に顔を近付けていった。そこは暗い夜の入口だ。ぽっかりと大口を開けて落ちて来る者を待ち構えている。
「……今夜、久々にどう?」
「遊ぶってそういう……へぇ。君、本当に悪い子なんだ?」
「それだってたまにですよ。綺麗な人には誰だって弱いじゃないですか」
「ねぇ洸太――三人でって、したことある?」
肩に触れられ耳に息を感じるほどの距離で囁かれた恥知らずに有村は変わらず微笑みながら、ゆっくりとした瞬きの下で何かが軋む音を聞いた。
ここには有村がふと安らぐほどの無邪気な笑い声を聞かせてくれる人はいない。一時間をほんの数分に感じさせてくれる人たちも、同じ温度で語り合える活字中毒者もいない。
そんな温かな物から離れて、さもしい夜を繰り返すのは虚しいばかりだ。そんな日々に、有村はこの一週間別れを告げ続けている。
「すみません。せっかくのお誘いは嬉しいんですが、俺、そういうのはもうやめにしようと思って」
「うそっ。彼女でも出来たの?」
「まぁ、そんなところです。ああ、でも他の方には内緒にしてくださいね? 優しくしてくれるお客さんが減っちゃう」
「本気で言ってる?」
「本気ですよ? ユリさんまでカケルさんやキイチさんに取られちゃったら悲しいです」
「そっちじゃなくって。 ……セフレくらいが気楽でいいって言ってたじゃない」
「ああ」
腰を伸ばしがてらに呟いて、有村は「そうだったんですけどね」とよく出来た愛想笑いを自嘲気味のそれに替えた。友達にちゃんとしろって言われたんですよ。そう切り出すのは藤堂の台詞だ。
草間と付き合うならちゃんとしろと凄まれたのは、報告に出向いた日曜日のこと。それまでの有村は一週間の半分ほどを『優しくしてくれる人』の部屋で明かすのが常で、電話一本で泊めてくれる寝床が幾つかあった。今しがた誘いをかけて来たような『たまに』を含まずに、だ。
「それとこれとは別物だと思ってたんですけどねぇ」
「相変わらず軽いんだから。でも、そういうことなら諦めようかな。洸太に好きな子が出来るのは大歓迎」
「あれ、意外。そう言ってもらったのは初めてです」
「だって洸太ってば稀に見るくらいのイイ子だし。尽くし屋さんだから、プレイでしか尽くせないセフレより、決まった彼女作って朝から晩まで世話焼いてた方が楽しいでしょ。その方がらしいわよ。セックス自体は、そんなに好きじゃないみたいだし?」
「そんなことは……」
客という以外にはそれしかなかった間柄の相手を前に認めてしまうのは気が引けたけれど、白状しろという風体で見上げて来る視線に根負けしてみれば、気まずそうにしたことさえ笑われて「知ってたわよ」と揶揄われた。
「だって何にもさせてくれないし、自分がヨくなるようになんて動かないんだもん。こっちはまぁ、クセになっちゃうくらいだったけど。アタシ、洸太がイくトコって見たことあったかな」
「それ、いま言います?」
「だからぁ、そういうのはやめてよかったねって話」
こんな生活を送っておいてとは我ながらに思うが、有村は正直なところ、これまでただの一度も性的な欲求を感じたことがなかった。相手がどんな女性でも、何をされても。したい、ではなく、やろうと思ったから、出来た。有村には、本当にそれだけだった。
以前、愚痴を聞いて眠るだけという夜を過ごしたことがある彼女は恐らくそれ毎まとめて『知っている』と言っていて、少なからず乱れている身辺を一掃するのは当たり前で必要以上の思わせぶりも『彼女』にとってはいい気がしないと教えてくれた。
「そうなんです? ハグもダメ?」
「論外」
「ハグもキスも挨拶ですよ?」
「日本人離れは見た目だけになさい」
「…………恋愛って意外と狭量なんですね」
「外へ向かっては、多少ね。て、言うか、なんか楽しんでない?」
「いえいえ、まさか」
「慣れてない子ならちゃんと加減しなさいよ? 洸太、ちょっとやり過ぎるところがあるから」
「はーい」
わかってるのかしら。わかってますよ。
数回目にして初めて和やかに済んだ打ち明け話の最後、有村は置き去りになっていた連れの女性に微笑みかけて「こんなですけど、どうぞご贔屓に」と種を蒔くのを忘れない。
それがいけないんだとまたしばらく盛り上がって、中央のステージに次のショーの準備が整った頃。すっかりと氷の溶けたグラスを下げようとカウンターに戻る有村の腕を、派手派手しいネイルが掴んで留めた。
もうかれこれ三十分ほどその席でたったひとり酒を煽っていた女性だ。彼女は暗がりから恨みがましい視線を向けて来て、それだけで何が言いたいのか有村にはよくわかった。
こちらが大凡だ。ちょっと、と呼びかける爪がみるみる食い込んでいく。
「……話があるんだけど」
ステージの上では意気揚々と出て来たマジシャンが挨拶代わりの消失マジックで、大きな歓声を浴びていた。