きみがいないと
ようやく屋敷を飛び出して足早に進む有村の半歩後ろでは、同じくの和斗が苦々しい顔をしている。
「どこが二、三? 四十個くらいあったんだけど」
「でも、これでもうここへ来る必要はなくなったし。洸太、傘、ちゃんと差して」
「苦手。箕輪さん。あの人絶対、自分が聞きたかっただけでしょ。いらなくない? なんでもかんでも、根掘り葉掘り」
「用心深いんだろうね。洸太、傘がイヤなら、こっち入って。濡れる」
本当に、なにが二、三だ。最初の方は必要なことだろうと思えたけれど、後半などはもう尋問だ。尋問。学校やノクターンのことは、要点だけでいいだろうに。演目まで知って、あの執事は一体、どんな不安を解消したというのだ。
いつの間にか降り出した雨に差した傘が、有村の苛立ちを表現するかのようにクルクル回る。そこから飛ぶ雫にも耐えながら歩く和斗も、帰って目を通さなければならない書類を山ほど持たされていた。こっちは、大学の勉強もあるのに。
「やってらんない」
「まったくだ」
結局、なんだかんだで夕食までとらされる羽目になった。そちらは祖母がいたく喜んだからまだしも、その時間までにはと言っておきながら帰宅が遅れた挙げ句、自分が着くまで引き留めておけと命じた長男、伯父も伯父でどうなんだ。
弟の罪は兄の罪だかなんだか知らないが、顔を見て謝罪しないと気が済まないのはそちらの勝手で、足止めをされたのが有村は気に食わない。なんなんだ。気真面目か。
「和斗、急いで車を回して」
「草間さん?」
「約束は反故にしてしまったが、今日中に会いたい。早く!」
「傘」
「早く!」
初めて使った正面玄関を出て、花咲き誇る庭を抜け、そこからまた多少のアプローチまでを足早に行く途中、和斗は車を取りに有村と分かれた。
イライラしていると、何もかもにイライラする。広いにも程があるだろう。玄関から道路へ出るまで、どれだけの距離があったと思う。短距離走のタイムでも測るのか。中距離か。どっちでもいい。
辿り着いた正面門。自衛隊の基地か何かか、と毒吐きたくなるような大きさの扉は開いていて、有村は近くの東屋のような場所で和斗を待つ。
このスペースも、一体なにに使うのだ。門の横に、ちょっとしたバーベキューなら出来そうな広さの東屋など。
胸の内に零す文句の尽きない有村を、遠くから「洸太!」と呼ぶ声がした。
「お前、歩くのが早いな! 間に合わないかと焦ったぞ!」
暎彦。元気良く手を振りながら駆けて来る従兄を見る有村の目は、極細。その後ろには勿論、ついて行くのも大変そうなか弱い世話役、文伸がいる。
あのふたりにも、随分と手間を取らされた。屋敷の案内はそこそこで祖父が止めてくれたけれど、そうでなければあのまま二時間は連れ回されたに違いない。悪い人ではない。元気が良いのも、素直なのもいい。しかし、その押し付けは純粋に迷惑だ。
来るなよ。相手しないぞ。僕はもう帰るからな。
そんな目で若干は睨んでいた有村に後頭部を見せ、暎彦が文伸を叱る。
「フミ! お前は走るな! ビオラが酔ってしまう!」
「……ビオラ?」
駆けつけた暎彦のあとで東屋へ入って来る文伸はずぶ濡れで、両手が塞がり傘を差せなかった理由の大きなカゴをベンチへ下ろした。
カゴには毛布がかけられている。それを外す時、暎彦は「すまなかったな」と、大声でない声をかけた。
「昼間は時間が足らなかったのでな。お前に紹介したくて連れて来た。俺の相棒、ビオラだ。どうだ。美しいだろう」
外された毛布の下には、白が混じった黒い毛並みのシェパードがいた。瞳は白く、年老いている。
けれど、その老いた犬が顔を持ち上げ、どうにか立ち上がろうとする姿を見た有村の口からは、自然とリリーの名前が出た。同じく黒いシェパードだからではなく、とても似ていたのだ。
「そうか。やはり似ているか。当然だ。姉妹だからな。ビオラの方がお姉さんだ」
「リリーの?」
初耳だ。リリーに姉がいたなんて。
そういえば聞いたことも、考えたこともなかったけれど。
「聞いていないのか? お祖父さまは姉妹で二匹の子犬を用意し、一匹を俺に、もう一匹をお前に贈った。名付けたのはお祖母さまだ。贈る犬に願いを込めてな。ビオラは、本当はヴァイオレットという。リリーと同じで花の名だ」
「由来、知ってる?」
「花言葉だ。スミレの花言葉は、謙虚」
「叶わなかったのだね」
「なんだと! ビオラは慎ましい淑女だ!」
「うん。そっちじゃない」
名前は、最初から付いていた。この子の名前はリリー。ユリの花言葉は、純粋、無垢。
カゴの中で横たわるビオラは一生懸命ににおいを嗅いでおり、着こうとする前脚にも、あまり力は入らないようだった。暎彦はその頭を撫で、とても優しい顔をする。
「年老いてしまってな。目は見えないし、歩けない。足に力が入らないんだ。もうずっと寝たきりでいる。それでも変わらず可愛いものだ。いてくれるだけで、どれほどに癒されるか。リリーの訃報は聞いている。可哀想に。ビオラがと思えば、お前の心中も察して余りある。つらかったろう、お前も」
「うん」
撫でてやってくれと暎彦が言うので、有村もビオラの顔や身体を撫でた。
懐かしい感触に、涙が出そうになる。顔立ちもどこか似ているし、この感触や温もりはリリーとそっくり。顔を近付けて嗅ぐ、においだけが違うだろうか。
鼻を寄せたことで、ビオラがその先を舐めた。
「お前が来てから、寝てばかりいたビオラが久々に歩こうとした。こうして嗅いでは、クンクンと鳴いてな。お前に会いたかったのだろう。わかるのだろうか。わかるのだろうな。ビオラは賢い。妹の相棒を間違えるはずがないな。嬉しいか、ビオラ。見ろ、尻尾を振っている。ビオラ、洸太だ。会えてよかったな」
可愛らしい鼻を動かし、ビオラはゆらゆらと尻尾を振る。健気で尊く、なんて愛らしい子だろう。
一度だけ抱かせてもらえないか尋ねると、暎彦はとても良い笑顔で両腕を広げた。
「君じゃなくて、ビオラちゃん」
「ああ、そうか。いいぞ。頼む」
地面に膝を着き、頭を撫で、顔を撫で、その手や寄せる顔のにおいを確かめさせてから、有村はカゴの中へ両手を入れ、ビオラをギュッと抱きしめた。
温かい。大きさもリリーと同じくらいだろうか。触れる毛並みを撫で、頬を摺り寄せ、ビオラの首へ顔をつける。
「ビオラ。どうか、君は長生きをしておくれ。リリーの分まで」
一日も長く。どうか、最後の時まで幸せに。
祈りを込めて抱いた腕を解く頃、車をつけた和斗が駆け足にやって来た。
「行こう、洸太」
「うん」
雨はみぞれから雪に変わりつつあり、寒さが堪えぬよう、ビオラはまた暖かな毛布に包まれる。優しく優しく包んでやる暎彦は有村に、また会いに来てやってくれと言った。ビオラも自分も来てくれたら嬉しい、と。
そうして、有村を後部座席へ乗せて走り出す車を、暎彦と文伸は道路まで出て見送った。ふたりで手を振り、中々去らない姿を見ると、正面へ向き直る車内で有村はもう、暴力的な素直をこれでもかと投げつけて来る暎彦を悪く言う気にはなれなかった。
「能無しは言い過ぎだったんじゃない?」
「改めるよ。前に会った時は、印象が違ったんだけどね」
有村が執事の箕輪に尋問されている間に暎彦や文伸と話をした和斗が言うに、暎彦にも素直なりに思うことがあったらしい。
ワガママ。能無し。自分がそう親族に思われていることを、暎彦は知っていた。そこで素直さ故か、自分を悪く言う人々に対し、暎彦はぞんざいな態度をとった。挨拶はするが返事をしない。不貞腐れた顔をして話もしない。そうした態度はさすがに改めたというが、あの性格では今も顔には出ていそうだ。
「楽園を嫌ってるっていうのは?」
「好きなのに、動物に好かれないそうでね。理由はそれだけ。嫌っているわけではないから、来年の夏には行って、桜子ちゃんたちの誤解を解くと言っていたよ」
「そう」
「あと、さっきの奥様じゃないけど、あそこの人たちは洸太が好きだ。動物たちも。ヤキモチもあったんだろう。たぶん」
食事中、本家の奥様、暎彦の母親にも、有村は丁寧な謝罪をされた。
有村を嫌っていたわけではなかったそうだ。ただ、我が子が可愛いあまり、祖母が格別気に掛けるのが気に入らなかった。会いたくないと言い、会わないでいるから、祖母が作った例の噂を信じてしまい、暎彦にも吹き込んでしまった。あの、口が利けない生き人形、というアレだ。
「屋敷に来て、庭で話してるのを見て驚いたって。洸太は喋れないんじゃなかったのか、って」
「あらぁ」
「気の毒に思ったそうだよ。自分の方が年上だから、お兄ちゃんになってあげようと思っていたらしい」
「いい子じゃない」
「バカだけどね」
「和斗」
「だって、アレを再教育って……出来る気しないよ」
「大丈夫。和斗のお兄ちゃん力は僕が保証する」
「元気出た」
「よかった」
車内での会話こそいつも通りだが、和斗は速度を上げている。今日中に草間の家へ。十二時を過ぎたら、規則正しい草間が寝てしまう。
ただ、会いたい。彼女に会いたい。約束は守れなかったけれど、せめて。どうしても、今日のクリスマスが終わるまでに。
口に出さずとも有村の気持ちはわかる和斗は、制限速度のギリギリで車を飛ばした。
「そうだ。これ、家の鍵。今日は遅いしホテルに部屋を取ったけど、忘れる前に渡しておくね。あと、洸太の携帯。預けたまま金庫で充電切れてて。どうする? 今いる? 電源、入らないけど」
「いらない。和斗のは?」
「俺のも。ねぇ、やっぱりさ、俺は別に持っててよかったよね。わかんない、箕輪さん」
「僕も。あの人、ちょっと怖い。はじめて。こんなの」
車内には暖房が入っていたが、しばらく外にいた所為か、指先が冷えていた。温めようと吹きかける息には白色がついており、ふと見上げた空からはふわりと舞う雪が降り注いでいる。
「和斗、寒いはずだよ。雪だ」
「本当だ。温度上げる?」
「いい。これ以上ぬるい風浴びたら吐き気する」
「はいよ」
雪など何年ぶりに見ただろう。勿論、全て部屋の窓から見た雪だ。
冷えるガラスの温度は知っているが、あの雪の冷たさは知らない。有村は窓を開け、外に手を出した。
「洸太。風邪ひくって」
触れた雪はすぐに溶け、水滴になる。だからあまり、格別な冷たさは感じなかった。それもそうか。低体温気味とはいえ、人間の身体は温かい。
気になるものは確かめられたので、有村は窓を閉めようとした。その時、どこからともなく軽やかな音楽が聞こえ、再び窓を全開にする。
信号で車が停まると、よりハッキリと聞こえて来た。遠くで鳴るような鈴の音。どこかで流れているクリスマスソングだ。そういえば、車道の脇に並ぶ街路樹も、色とりどりに輝いている。
「一晩中流すのかな。もう遅いのに」
「店が閉まれば止まるだろ。道に流しているところもあるけど、ここはそうかもね」
「ここ、どこ?」
「もうだいぶ近いよ。あの辺りを入ると大きなショッピングモールがあって、そこかな」
「モール?」
意識はすっかりと草間の自宅へ向かっていたので、有村は改めて注意深く景色を眺めた。
モール。大きな、ショッピングモール。そういうものは、他にもあるだろうけれど。
走る車内から視線を送り、有村の目が見知った店をひとつ見つけた。
「停めて!」
「なに!」
和斗は急ブレーキを踏み、慌てた顔で振り返る。その間も、有村は周囲を見渡すのに忙しい。
あそこと、あの店も知っている。そうだ。間違いない。ここは、あのモールの裏手を通る道だ。
気付いたあとは、更に遠くへと視線を投げた。よくよく見れば薄っすらと、夜空に色がついている。赤や緑。黒に溶けてしまっているが微量の青も感じられるし、その辺り一帯は下の方がどうにも明るい。
「モールへ寄って」
「なんで? 連絡出来ないし、草間さん、急がないと寝ちゃう」
「そうだけど。もう閉館時間を過ぎていると思ったんだ。もしまだ間に合うなら、せめて、草間さんが見せてくれようとしたイルミネーションを見ておきたい」
「……うん。わかった」
記憶では、閉館は十時だったと思う。けれど、イベントのある日は延びると前に落合が言っていた。もしかすれば、今日がそうかもしれない。
モール自体が営業を終えていたとして、その周辺だけでも構わない。彼女は何度も、とても綺麗なのだと話していた。本当はふたりで見たかったけれど、彼女が誰かと見ていたら、あとで話くらいは出来る。
和斗は正面近くの路上で車を停めた。そこから見ると、まだモールの中も明るい。有村は車を降りて、和斗にも声をかけた。今はお互いに連絡手段がないし、イルミネーションは見たいが、有村は草間の家へも急ぎたい。
「あー……でも、俺はやめとく。コンビニ探して、携帯を早くどうにかしたい。すぐに連絡したい所もあるし、たぶん、瓏さんが鬼電してる」
「怒らせると怖いしね、瓏さん」
「急いで戻って、また、ここにいる。楽しんだら戻っておいで」
「うん」
発車を待たず、有村はモールへと急いだ。
向かう途中も、木々や壁、アーチや街灯に飾り付けられたイルミネーションに目を奪われた。全体的に青色が多く、そこへ差し込む紫色や黄色の煌めきのバランスが絶妙で、ただの道が幻想的な異次元への入口のよう。
「すごい」
内心、もっとじっくり観察したいが、ここへ長居するのは草間の家へ着く時間を単純に遅らせる。
ある程度眺めたら、次へ。でも、向こうの通りも気になる。足を止めては遠くまで眺め、強烈に後ろ髪を引かれる想いを連れながら、モールの中へと進んで行った。
「……うわ」
中に入ってしまえば、自動ドアの後ろはもう気にならなかった。外の夜空と光のマッチングは素晴らしかったが、中は中で広い空間を活かした、全体がひとつの作品のように壮大だ。
思わず、進む足取りがトボトボと心許なくなる。周囲を眺め、上へ、上へと視線を仰げば、まるで光源に包まれるみたいだ。中でも当然ながら最も目を引くツリーの前で足を止め、有村はそこから高い高いツリーの先端を見上げた。
「……高」
一階、巨大なツリーの足元からでは、その切っ先は天井に刺さっているのではと思えるほど。つまり、禄に見えない。
「草間さんは確か、あの先っぽが一番キレイって言ってたな」
せっかくだ。彼女のオススメを見て、帰るとしよう。
見つけた時計で、時刻は十時半を過ぎていた。入口に本日の閉館時間は十一時と書いてあったから、上りのエスカレーターを使う有村は多くの帰路へ就く客と擦れ違った。
「あっ、すみません」
「いえ」
余所見をしていて気付かなかったのか、次のエスカレーターへ向かう途中で後ろからぶつかって来た女性が小走りに、置いて行かれた僅かな距離を別の女性の元まで駆けて行く。女性の二人組。仲の良い友人同士なのだろうか。雰囲気が少し、仲良く話している時の草間と落合に似ている。
お喋りをして、笑い合う。そういう人たちを何組も見たが、目につくのはやはり、男女で歩く二人組。
気付いてしまうと、三階から四階へ上がる途中のフロアで、有村の足はピタリと止まった。
そこからでも大きなツリーは見える。吹き抜けを囲むように設置された手摺りから身を乗り出せば、一階から見上げるよりも当然、てっぺんはかなり近い。まだ全容がすっかりと把握出来るわけではないが、先が刺さっていないのは、わかる。
「…………」
ふと俯いてしまうくらい急激に、興味が削がれていく。
入った瞬間はあんなにも目を奪われたのに、今はなんだか、見たくない。
「……そっか。これも、ひとりで見たんじゃダメだったんだな」
ひとりでは出来ないキャッチボールと同じ。いくら壮大で素晴らしいイルミネーションも、隣で『キレイだね』と笑う草間がいなければ意味がない。ひとりでは、心からは楽しめない。
草間さんと見ていたら、もっと綺麗だったのかな。
ずっと、会いたい、会いたい、と思っているくせに、いま、無性に会いたくなった。
「……見るには見たし、帰ろうかな」
早く草間に会いたくて、会いに行きたくて、踵を返す有村の手が手摺りから離れる。
会いたい。顔が見たい。抱きしめたい。あの、愛しい声が聞きたい。
下りのエスカレーターへと向かいながら、呟くように名前を呼んだ。
「……草間さん」
「――有村くん!」
エスカレーターへ乗り込もうとしていた足を止め、有村は弾かれるように振り向いた。
今、確かに呼ばれた。その声を、あの愛しい声を聞き間違うはずがない。
再びフロアの手摺りまで駆け戻り、声が聞こえた方角を必死で探した。まだ行き交う人は多い。反響はしたが、たぶん、聞こえたのは上の方からだ。視線を仰ぎ、見渡した。
どこだ。どこにいる。
あれじゃない。あれでもない。どこだ。どこに、彼女がいる。
吹き抜け沿い、四階フロアの銀色の手摺りを掴む、小さな両手が見えた。
「草間さん!」
ゆらりと揺れて、小さな人影が姿を現す。
長い黒髪、こちらを向く白い頬に、丸型の目。
「草間さん!」
有村は駆け出し、エスカレーターを駆け上がった。




