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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第二章 発条少年
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嘘と本当の境界線

 リビングに入って間もなくこそ初めてやって来た落合が主立って、やれ壁一面を占める本棚がすごいだのベランダからの眺めがいいだのと騒いだが、三十分も経つ頃には熱も冷め、一時間もすればそれぞれが参考書や教科書を開いて思い思いにペンを走らせていた。

 カリカリカリ。カツカツカツ。

 BGMのない部屋に響くは、そんな授業中宛らの音。

 全員で使うには狭いだろうと思っていたソファ前のガラステーブルには鈴木と山本と落合と草間が座り、久保と藤堂はそれを監視するかのように一歩下がって見ていて、自身も参考書を開く傍ら四人の手助けをしている。

 そうやって過ごす六人を眺める有村はといえば、藤堂と向かい合って朝食をとったダイニングテーブルに肘をつき、脚組のままのんびりと草間が差し入れたオレンジジュースなど傾けていた。果汁二十パーセント。その割に果実本来の苦みや酸味のある味わいは、中々クセになりそうだ。

「有村ぁ、ヘルプ」

「んー?」

 ペットボトルの底にこびりつくキツネ色を見つめていると、零した鈴木がシャープペンシルの蓋を齧りながら小難しい顔で問題集を片手に近付いて来る。

 日頃騒がしい彼も今日はちゃんと勉強をする気があるようで良かった。中間考査前の落ち着きのない様子を思っていた有村はそんな気分で、向かいに腰を下ろす鈴木が指差す場所を一緒になって覗き込む。

「ここ、意味がわかんねぇの」

「あぁ、うん。そうだね、これは――」

 いつの間にか、どこが違うのかは藤堂や久保が、どうしてそうなるのかは有村が、というような役割分担が成されていたようだ。

 代わる代わる。行ったり来たり。

 そんな時間が、しばらく続いた。



 何度かの席替えがあって、教科を変えた人がいて。

 みたいだ、とか、らしい、とかを多用しながら、教えたことが横這いに伝わっていったりもして。そういうやり方もあって、そういうのが友人同士で問題集を突き合わせる醍醐味なのだと有村が薄々理解したのを待ち構えていたように。

 ぐぅーっ。

「…………そろそろお昼にしよっか」

 真っ先に集中力を欠き窓際で舟を漕ぎかけていた山本の腹が、盛大に鳴いた。

「くっ、あーっ! 肩凝ったー!」

「んーっ!」

 大した休憩も取らずに集中してここまで約二時間。握り続けたペンを投げて伸びをする鈴木と落合を横目に時計を見やれば、時間は既に十一時を回っていた。

「何か作るよ。何が食べたい?」

 相も変わらず正確な山本の腹時計に感心しつつ有村は席を立ち、いつものように問いかける。

「オレ! オムライス!」

「俺も!」

 元気よく答えるのは鈴木と山本だ。

 するとその後ろから、落合が面食らったように乗り出して来た。

「えっ! 姫様が作ってくれんの?」

「うん」

 そのつもりだけど、と、自らも多少固まったかもしれない腰を伸ばして有村が言うと、何故か鈴木が得意気になって、有村は料理の腕前もかなりのもんなんだぜ、と胸を張った。

 そう称されるのは居心地が悪いが、有村は料理をするのが苦ではない。だから彼らは度々押し掛けてはここで食事をして行くので、大勢のは大変じゃないか、と草間が眉を下げても、有村は笑顔で、平気だよ、と返した。

 キッチンは広いしコンロは三口、壁に埋め込まれた背の高い冷蔵庫は二人暮らしとは思えないくらいの大容量を誇る。しかも生活時間が五時間ほど前倒しになっている家人が夜中に何を食べたいと言っても対応出来るように、その中身は野菜室から冷凍庫まで常に食材の宝庫だ。

 みんなも同じでいいかと尋ねた有村が頭の中で数えたのは精々卵の数くらいなもので、それだって封を切っていないのが一パックあったなと思えば、個人経営の飲食店も真っ青の品揃えに具材だって選び放題である。

「それじゃぁ急いで作るから、みんなは休憩しててね」

 ひとりキッチンへ向かう道すがら、有村は付け合わせのサラダには、などと思い巡らせていた。平気だとは言え七皿同時はこの家では初めてのこと。有村とて多少は腕が鳴る。

「出た! エプロン眼鏡! 写メ撮っていい?」

「やめて」

 言った傍から落合の手の中で携帯電話がピロリンと軽快な音を立てるが、それももう何度目だろうという話だったので、有村は顔を上げずに「手が空いてるならテーブルを片付けてね」と促した。

「はーい」

 ピロリン。

 返事だけは、とてもいい。

 そうこうしている内に、有村の手許では早くもバターの芳ばしい香りが立ち始めた。

 言われなくても大盛りをご所望の山本と鈴木がいれば、それだけで同時にふたつのフライパンがフル稼働である。丸みを帯びたステンレスのその中で手早く炒められた厚切りベーコンや玉ねぎがコンソメを吸い込んだ米と混ざり合えば、徐に立ち上がった藤堂が冷蔵庫から冷えた麦茶を出して持って行くし、形ばかり参考書を片付けた山本の腹はまた鳴き声を上げた。

 あれは人を急かせる天才だ。時限爆弾のカウントダウン宜しくだんだんと周期を狭めて、早く早くと机を叩く。だからキッチンの中の有村もまたフル稼働で、見もせず閉めた冷蔵庫の扉は少しだけ大きな音を立てた。

 そんな折、パタパタと忙しい足音を響かせてやって来たのは、落合と彼女に文字通り背中を押された草間のふたり。

「姫様! あたしたち、なんか手伝うよ!」

「えー? いいよ、もう出来るし。ずっと問題解いてて疲れたでしょう? ゆっくりしてて」

「だからだよー。もう座ってばっかじゃ怠いんだもん。なんかやらせてよ」

 まだ少し緊張しているのか表情の硬い草間の肩に顎を乗せ、落合は駄々っ子のように身体を揺する。

「そう? じゃぁ、そこの布巾でテーブル拭いてくれる? あと、スプーンとかグラスを出して。藤堂に言えばわかるから」

「イエス! サー!」

 あと適当な皿を七枚と伝えると、落合は再び敬礼の真似事をして『キシシ』と音がしそうな笑みを零した。

「こっちはあたしに任せてさ。仁恵は姫様のお手伝いね」

「えっ! きみちゃんっ?」

 なるほど。

 置き去りにされて露骨に狼狽える草間を横目に、有村は落合と似たような笑みを向けてくる鈴木を一瞥した。だからどうしてそう誇らしげなのか。背後の山本が立てる親指の意味を考えるのも面倒で、有村は気晴らしに一層大きく鍋を振る。

 ジュゥ。高く上がった分、余計に広がる匂いがかくも芳しい。

「――それじゃぁ、サラダの盛り付けとか、お願いしてもいい?」

 その手の気遣いは全く無用だったけれど、隣りで佇む草間の眉が可愛そうなほど垂れ下がっているのが見えてしまえば無碍にするにも気が引ける。

 有村はそう持ち掛けて、今日は朝からいつにも増して余所余所しい草間の顔色を窺った。

「うん!」

 それで彼女が笑ってくれるのなら、踊らされるのも悪くはない。



 気を遣う子だ。

 草間仁恵という子は一緒にいればいるほど、それがよくわかる。

 例えばサラダの盛り付けひとつにしてもそうだ。食べやすいようにとレタスは小さめに裂いて、プチトマトは半分に切って皿に置く。それを随分と狭い所でやるのだ。もっと広く使っていいと言っても大丈夫だと答えて、合間には少し溜めてしまった洗い物を片付けてもくれた。何も言わず有村が離れた隙をつくようにして、こっそりと。

 比べるものではないが、クロスを敷きました、グラスを用意しました、と逐一報告して来る落合とはまるで違う申し訳なさそうな控えめがそのまま草間の気遣いなのだろうと思うと、有村は手早く留めたひとつ結びの黒髪がとりわけいじらしく見えた。

 大勢で押し掛けて申し訳ないと彼女が持参した飲み物はまだ冷蔵庫にたくさんある。

 さして広くもない玄関の空きスペースに全員分の靴が整然と並んでいるのは最後に上がった草間のしわざだ。

 そんなに気を遣う必要はないのに。落合は草間のそれを癖だと言ったが、だとしたらさぞ窮屈なことだろう。そう零したら鈴木にお前が言うなとも言われて、だからこそ有村は思うのだ。四六時中他人に気を配るのは骨が折れる。それこそ、絶えず糖分を補給しないともたないくらいには。

 卵は巻かないでフワフワでなと投げられたリクエストに応えるべく並ぶ皿にホカホカのバターライスを取り分けながら、それともこれはさすがにポイント稼ぎがあったりするのかな、と有村はその視界の外で草間の気配に耳を澄ました。

 付き合いだして、ちょうど一週間。

 しかし草間との距離は依然『通路ひとつ分』のままだ。

 校内でも放課後も七人一緒というのがよくないのでは、と特に鈴木が気に病んでいたりする。大勢でいるのは賑やかでいいが、付き合っているように見えないと言うのだ。おかしな話だろうが、有村自身もそう思う。

 けれどそれが嫌だとは感じていなかった。学校があり、アルバイトがあり、存外学生は忙しい。毎日放っておいても会えるものを無理に時間を割く必要もないし、みんなでいた方が緊張しなくていいと草間が言えば尚のこと、別にこのままでもと思えてしまったからだ。友達の延長のような関係でも、それはそれで大いに結構じゃないか。なにせ有村は草間が笑っているのを近くで見れさえすれば満足なのだ。

 しかし、当の草間がそうとは限らない。彼が試しているのはそのラインだった。

 どこまでを求めているのか、なにを望んでいるのか。要は探りを入れている真っ只中と言うところ。有村は僅かに位置のずれた眼鏡のブリッジを押し上げた。草間はこの眼鏡が痛く気に入ったらしい。似合うと言われたのは初めてで存分に照れ臭く、それも計算だったら落ち込んでしまうかもしれないと思った。実のところ、コンタクトは少々目が疲れるのだ。有村の瞳は光量の調節が下手で、補正度数も高めだったから。

 そのままでと言われて従う気になったのは、それを言ったのが草間だからだ。家の中なんだから楽な方がいいよ。顔も見ずにそう言った彼女は随分と照れ臭そうだった。

 ――カシャカシャ。

 ボウルに落とした卵を溶いて牛乳を混ぜ込みながら、有村はふと考える。草間をどこまで信じていいものか。あの日の直感は正しかったのだろうか、と。

「――なに? どうしたの?」

 たったいま気付いたふりをして送る視線に慌てて俯くその真っ赤な耳も首筋も、なんでもないですと返して来るか細い声も、何もかもが本当だと思ったあの夕暮れのこと。

 草間ならと思えたあの気持ちが今も整然としなくて、ただぽっかりと浮かんでいる。

「どうして敬語?」

「いやっ、あの……びっくりして」

「ずっと隣りにいるのに」

「そうなんだけどっ」

 見てたから、見てたのに気付かれたのが恥ずかしくて。

 草間はそう言って、渡しておいたドレッシングを入れっぱなしだった泡立て器で力強くかき混ぜた。それだけでなんとなく彼女のクッキーが固い理由がわかった気がした。やり過ぎなのだ。何事も。 

 そんな思案の締め括りに有村はふと短い息を吐いて、徐に顔を上げた。向かう先は前方で昼食を今や遅しと待つ食いしん坊たちだ。

「ソースはデミグラスでい――」

「ケチャップ」

「デミ……」

「ケチャップで!」

「……りょーかい」

 解凍してしまったソースと入れ替えで取り出したケチャップを振りながら、有村は草間の後ろを通り過ぎる。念の為に貸したエプロンは大きくて、今にも肩ひもが落ちてしまいそうだ。自分のではなく家人用の女性物なのだけれど、やはり草間の小柄は群を抜いているらしい。

 まだ泡だて器でボウルをカシャカシャ言わせている闇雲な後ろ姿に、あのクッキーを作っている時もそうなのだろうかと、ふと考えたのがいけなかった。

 あとは、慣れだ。馴染み始めた習慣ほど、恐ろしい物はない。

「…………あ。」

 自宅のキッチンでオムライス、そしてケチャップ。その組み合わせがここのところよくあったのを、有村は忘れていたのだ。

「しまった」

 ついうっかりと手を止めて呟いた瞬間、皿を運ぼうとカウンターの向こうにつけていた落合と、隣りで一心不乱にドレッシングと格闘していたはずの草間がほぼ同時に身を乗り出して「かわいいー!」と悲鳴のような声を張り上げた。

「なにコレ! 姫様めっちゃファンシー!」

「すごいっ! 上手! 表情まであるよっ」

「……失敗」

 フワフワのほかほか卵に仕上がったうっすら笑顔のケチャップうさぎを消してしまおうとスプーンを伸ばせば、意外なことに草間がその腕を掴んで止めた。

 存外、強めの力で。

「私、これがいい」

「え」

「これ、もらっていい?」

「いい、けど……」

「やったー! 写真も撮っていい? 可愛いねっ」

「そう……? うん、まぁ、好きにして」

「ありがとう!」

 さっきまでの赤面や緊張はどこへやら。草間はケチャップうさぎが鎮座するオムライスの皿を持つと、軽やかにテーブルへと向かって行った。

 それを眺める有村は、スクエアフレームの奥の瞳を訝し気に細める。ウサギだぞ、高校生にもなって。藤堂の妹に強請られてここ最近よく描いていた癖が出たにしたって、自分でやっておきながらそれはないと思う子供っぽさをあそこまで喜べるものだろうか。

 そしてまた考える。それはどこまで本当なんだ、と。

 ピクリ。小さく跳ねた眉根を落合に見られ、有村は居心地悪くらしくもない咳払いをした。

「仁恵は可愛いものに目がないからさぁ」

「そう」

「ぶりっことか思ったでしょ」

「思ってないよ」

「でも、うっそだーって顔してた」

「してないよ」

 落合の、こういうところが少し苦手だ。十気付いて十言ってくる久保の方がまだ可愛い。

 彼女は更に身を乗り出して、あたしネコがいいな、と意地悪な白い歯を覗かせた。

「俺、クマな!」

「オレ、ぞーさん!」

「じゃぁ、俺は……」

「藤堂!」

 嫌々ながら仕方なしに七つ全部に動物を描けば、草間ははち切れんばかりの笑顔でそれらを写真に収め、食べるのが勿体ないと本当に悲しそうな顔をした。

 例えケチャップでも、みさきの前以外で絵を描いたのは久々のことだった。

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