僕には向かない
有村はずっと、考えている。
藤堂と話してから、藤堂が気付かせてくれた、教えてくれたものを胸に、自分というひとりの人間がどう在るべきか。どう、在りたいのかを。
外の世界へ出て、自分は存外、身勝手であると知った。嫌なものは嫌だし、興味を持てないものは覚える気になったつもりでまるで頭へ入って来ない。そのくせ、夢中になれるものに対しては、被害を被る人に構わず没頭する。ひどく気ままで、自分勝手。それが本当の姿だとして、曲り形にも有村家という大きな家の血族であり嫡男であるという場所で俯瞰した時、そこには事実が並ぶだけで自分自身はいなかった。
そういう場所で生を受けたから。そう考えるのは間違いでない。生まれながらに背負うべき荷物がひとつ、決まっていた。守らなければならないものが、人がいる。守りたいと思いもするから、まるで言いなり、流されているとも、意思のない人形をやめた今、有村は思わない。
ただ、藤堂が言う通りに、今なのだろうか、とは考える。
いずれはそうなる。それが変わらないとして、変わらないのなら、訪れるタイミングまで不意に見舞われて致し方ないものなのだろうか。自分の、僕の、人生なのに。
今の有村には願いがある。望みがある。希望がある。
それらは全てが外の世界にあるもので、こちらへ身を置くのなら手放さなければならない。せっかく、得たのに。見つけたのに。出会えたのに。仕方がない、で、諦める。そういう人生だから仕方がないと考えるその中で、その選択は果たして正解と呼ぶに相応しいのだろうか。
悶々とひとり悩む末尾には、今でないなら何時か、そんなものが鎮座していた。
いつになったら満足する。どの地点でならピリオドを打てる。心の底からもう充分に謳歌したと胸を張れて、次のステージとしての人生を歩み出そうと思える。
意思を優先させるなら、次にもまた同じ逡巡を繰り返すだけなのでは。どこでなら本当の意味で諦めがつく。淀みなく受け入れられる。自分はひどく身勝手なのだ。永遠に逃げ回るのだけは、あってはならない。
ベッドへ腰かける手の中で、古びたボールを遊ばせる。草間のクッキーは少し砕いてしまったが、欠片も残さず平らげた。
「そっか。キャッチボールって、ひとりじゃ出来ないんだな」
投げて、受け取ってくれる人がいなくては。受け取るのを疑わず、投げてくれる人がいなくては。
本当に大切なものとは、なんだろう。
「君がいいよ。藤堂」
今日は午後から祖母が外出をしており、ティータイムの誘いがなかった。代わりに昼を過ぎた三時頃、部屋のドアがノックされた。
サツキが深々とお辞儀をして、ワゴンを押して入って来る。ポット付きのティーセットはわかるが、テーブルの真ん中には銀色の蓋を被せた皿が置かれた。
「大奥様より仰せつかりまして。洸太様に紅茶をお出しするよう。三時はお茶の時間ですから」
だとしたら、あの皿は今日のお菓子なのだろう。今の自分には、甘い物が必要かもしれない。答えはもう出ているような、けれど、解答欄に記入するには不足のような曖昧さを、どうにかする為には。
促されるまま椅子に掛け、ポットからカップへ紅茶が注がれるのを眺めていた。サツキはソーサーでティーカップを置き、次に、皿に被せらた銀色のてっぺんについている出っ張りを摘まみ、持ち上げて行く。
パティシエの経験があるだけあって、サツキが作るスイーツは見た目にも華やかだ。スコーンのようなシンプルで素朴なものも、盛り付けには拘っていたと思う。今になって、思い返せばであるが。
有村はただ見ていたのだ。頭は考え事に忙しかった。
「本日のお菓子は、わたくしが人生の中でお出しした中で最も忘れられない、特別で大切な一品でございます」
銀色の蓋を持ち上げて出てきた皿に乗っていたのは、一粒の小さなチョコレート。
「今もチョコレートがお好きと伺い、嬉しかったです」
皿の上を見つめていた視線が上がって行き、有村の視界が無理に笑おうとしているサツキの顔を捉えた。
ひと粒のチョコレートと、自分を見つめる泣き出しそうな笑顔。
ふたつが頭の中へ、心の中へ入って来た瞬間、遠い記憶が繋がった。
「……あなたは、楽園でマリーさんといた。昔、僕の家にいた。おなかを空かせた僕に、お菓子を食べさせてくれた人……」
志津の電話番号が書かれたメモを受け取った時、そばにいた人。あの時の記憶は発作の所為で正確でないが、メモを受け取ったことはメモを見て思い出していたから、その人、サツキの顔をすぐに思い出せた。
そうだ。この女性は昔、ウチのメイドだった。随分と若くて、メイドらしくない人だった。
他のメイドは有村の顔も禄に見ないのに、サツキは初対面で、可愛い、と言った。絞める帯がきつくないか訊いてくれた。男の子なのにと言ってくれた、数少ない人のひとり。
夜に隠れるように部屋へやって来て、チョコレートをくれた。抱きしめてくれて、助けてあげると言ってくれた人。
「どうして、あなたがここに? 僕に優しくした所為で、解雇されたのでは」
サツキは答えず、ニコリと笑う。
「大奥様からのご伝言です。洸太、あなたが本当に欲しいものはなに?」
「…………」
「それでは、失礼いたします」
恭しく、深くお辞儀をして離れ、サツキは部屋を出て行った。
どういうことだ。有村は戸惑い、床や足元、テーブルの上などへ視線を彷徨わせる。サツキは確かに、昔、家にいた。追い出され、荷物を提げて出て行くのを見た。
解雇されたはずなのに何故、ここにいる。何故、夏に楽園にいた。
額へ手を添え、思考を巡らす。
「……思い込み……前提が違うのか……?」
僕が、本当に欲しいもの。声に出して呟くと、有村はドアを開けて和斗を呼んだ。
和斗はすぐにやって来て、閉めたドアの前で一礼をし、入って来る。使用人らしく表情を引き締めている和斗へ、机へ置いたスケッチブックの表紙に触れた有村は顔を向けると、問いかけた。
「教えてほしい」
「はい。なんなりと」
「ウチに仕えてくれているメイドや、料理人たちの雇い主は誰だ」
問うた瞬間、ほんの一瞬、閉じている和斗の口が横へ広がった。
「お仕えしておりますのは、旦那様、奥様、そして洸太様ですが、雇い主ということですと、こちらの大旦那様ということになります」
「君は? 君と、明子さんは?」
「例外なく」
微かに笑った気がした一瞬。その時から、有村はようやく和斗とまともに目が合っている気がした。
和斗の目はこんなにも真っ直ぐで、潔いものだったのだろうか。背筋を伸ばして凛と立つ。本来の正しい関係、在るべき形で初めて和斗と向き合い、有村は身体ごと和斗へ正面を向けた。
「ただ、わたくしがお仕えするのは、洸太様おひとりです。有村家にお生まれになった男子には必ずひとり、世話役が任命されます。世話役はいずれ執事となり、生涯、おそばで仕えさせて頂く。わたくしの主はただひとり、十七年前にお生まれになったその時から、あなただけです」
無意識に、下げた手が足の脇で拳を作っていた。紡ごうとする言葉は喉で一度立ち止まるが、和斗と目を合わせ、有村は口を開いた。
「主を失くした執事はどうなる」
「そのままお家にお仕えするか、別の人生を歩むかの選択を与えられます」
「君に、君個人の願い、望みはあるか」
「はい。幼い頃より、ただひとつ」
見つめ合う和斗の顔が次第に、共に同じ家で、同じ女性に育てられた兄のものへと変わっていく。吐く息に小さな音が付き始めた有村の顔もまた、主と呼ばれるのに見合うものから、その手に何度も頭を撫でてもらったひとりの子供へと戻って行く。
和斗は笑った。とても大きな笑顔を見せた。
そうして、言った。細めた目に溢れんばかりの涙を溜めて。
「わたくしは、ただひたすらに、可愛い弟の幸せを願っております」
有村は、長く息を吐き出した。
込み上げても零さんと耐える和斗のように、有村も視界を潤ませるものをそこだけに抑える。
「僕に、何かして欲しいことはあるか」
してもらうばかりだった。甘えるばかりだった。
投げかけた質問に和斗は微笑み、僅かに悩む素振りを見せる。
「おそばにいられるだけで十二分に幸せでしたが、叶いましたら、ただ一度、あなたの執事として、ご命令を賜りたい」
十七年だ。生まれてからずっと、そばにいた。
それらしく見えるよう、有村は背中を伸ばして胸を張る。軽く顎を引き、揺れも濁りもない目で和斗へ命じた。
「お祖父さまの帰国は明日だな。話がある。到着し次第、早急に、お時間を頂けるよう掛け合ってくれ」
「…………」
「すまない。これでも命令のつもりだ。そう長い時間はいらない。必ず、明日中にもぎ取れ。いいな」
「はい。かしこまりました」
お辞儀をした和斗は部屋を出て行き、残された有村は口元を歪める。
少々締まらない感じになってしまったが、命令などしたことがないし、やろうとして性に合わないのに気付いた。頼む、お願いすることはあるが、誰かに何かをやらせるのは気分が良くない。
「こんなんじゃ、僕に旦那様は務まらないか」
瞼を閉じ、鼻から息を吸い込んで口から吐く深呼吸を、一回。
明日は、クリスマスだ。




