考えろ
昨晩の電話で告げられた待ち合わせ場所へ着いたのが、夜の十時過ぎ。
それから少し遅れて、黒い乗用車が藤堂の前で停車した。
「久しぶりだな。乗れ。中で話そう」
前に会ったのは夏。相変わらず、客商売のくせに堅気に見えない男だ。藤堂が助手席へ乗り込むのを待ち、アクセルを踏む。スーツ姿にオールバック。運転席で、瓏が煙草に火をつけた。
和斗と連絡が取れない今、有村の現状を知る手立ては少ない。何か出来ないかを考えた時、藤堂は以前、瓏に渡されていた名刺の存在を思い出した。
電話をかけて放たれた第一声は、『遅ぇよ、ノロマか』。瓏は有村が怪我をした件も、その後、本家へ移されたことも知っていた。知らなかったのは藤堂たちの連絡先。こうも素早く和斗まで音信不通になるとは予想していなかったらしい。
「お前らはどこまで知ってる。なんのことかわからねぇ言い方しか出来なくて悪いな。洸太が戻る可能性ってのは、どう思ってる」
「何か条件があるのは知ってる。有村が自分で気付く必要がある。ヒントは出せない」
「なるほどな」
真っ直ぐに続く夜の道路を走りつつ、瓏はそれをテストと呼んだ。
出題者は本家の大旦那様。有村の祖父。リリーが死んだ後に入院した有村の状況から回復は見込めないと踏んだ祖父に、藤尾医師は回復の見込みは充分にあると訴えた。任せてもらえれば、必ず持ち直させてみせる。例えばそうした啖呵を切り、ならば三年で成果を上げろいうやり取りがあったという。
「今の洸太しか知らないお前にゃバカ言うなって話だろうが、十四歳の洸太ってのは、そうじゃないと知ってる俺が見てもイカレてた。反射ってあるだろ。光を当てりゃ目を閉じるってヤツ。アレすら鈍くてな。いよいよブッ壊れちまったんだと思ったほどだ。間に合わなかったと」
「行ったんスか、見舞い」
「聞いてすぐと、目が覚めてすぐ、あと数回な。洸太は俺に気付きもしねぇし、まるで何の反応もしなかった。リリーに何かありゃマズいとは、俺も和斗も思ってた。健康だっていうから、気を抜いてたのは事実だ。突然死なんて考えてなかったんでな」
「それが理由で、有村はテメェの頭をカチ割らせた」
「……そういうことか。あのアマ。ようやく、合点がいった」
今夜の瓏は最初から話を聞かせるつもりで藤堂を呼び出していたので、前に話した時の印象とはだいぶ違う。回りくどい言い方は避け、急いでいる感じだ。
伝手のある瓏は携帯電話が通じなくなった後に和斗と連絡を取っていたが、合言葉を使い、会話が管理されているのを瓏へ伝えて来たという。有村の祖父母自体はそう意地の悪い人間ではないが、腹に何か持っている人間は分家にも本家にもいる。思惑はひとつに限らず、和斗は今、有村を守るだけで精一杯だろう、とも。
「毒でも盛りやがったか。さすがにそこまでしねぇだろうと思ってたが、甘かったな」
「思い当たる節でも?」
「洸太はよ、死んだリリーを食ったんだ。言葉の綾じゃない。死体に噛み付いて、食い千切った肉を飲んだ。相手は犬だ。感染症とか、そういう処置もすぐされた。その時、洸太を気に掛けるはずがないあの女がやけに、目を覚まさないのを気にしてた。毒を盛って殺したリリーの肉を食って、洸太が昏睡状態にでもなったと思ったんだな」
「違うんスよね」
「ああ。洸太はただ、起きなかっただけだ。なんでも食うのは洸太の癖。大切なもんは、取り上げられないように腹の中に隠さないとな」
先に伝えていた用件としては、藤堂はそのテストについて知りたがった。
詳しくは話せないと言われている。しかし、自分はまだ話してやれる方だと瓏は言った。和斗や佐和よりは多少、という話だが。
「つまりよ、先生は真正面からケンカを売ったわけだ。イカレてるとしか思えない洸太の頭が本当にイカレてるのか、環境の異常さが影響して道が逸れてるだけなのか。先生は後者と踏んだ。洸太はイカレてるんじゃない。多少のケチがついてるが、それこそ周りのヤツらの所為だ。洸太は外の世界を知らない。与えも、試させもしないで廃人の烙印を押すにゃ十四は若いし、無体ってもんだ。俺も、多少だが口添えをした。洸太はイカレてないってな」
瓏としては願望であり、その目で見る先生の主張は賭けに見えたそう。正常だと自信を持って言えるのは、リリーが生きていた頃の話。それでさえ全くの、とは言い難かった。正常であっても、正気ではない。正直なところではそう感じてもいたけれど、瓏はやはり、守れなかった有村を信じたかったのだ。
その場所に生れたというだけで、有村に落ち度はない。環境が異常過ぎたのだ。そこから出してやれば、やり直せる。立て直せる。多少は、自分に言い聞かせていた面もあったという瓏は、夏に七人でやって来た時の有村を見て、賭けの勝ちを確信していた。
「大旦那様の性格を知ってる。いっぺん口に出したモンを曲げられない頑固さも、落ち度を認める誠実さも。洸太がもし完璧なイカレなら、無駄な治療で苦しませるのは酷だ。引き取って死ぬまで面倒を見るくらいの責任の取り方なんてのは、真っ先に考えたろ」
「だから、三年?」
「とりあえずな。洸太が乗り越えなくちゃねんねぇ問題は多かった。人に慣れ、世の中に慣れ、普通は育ってく中で何気なく身に付けるモンを一から学ばないと。どっかで躓くにしても、そのくらいがいいところだ。切り上げるにしても、啖呵切った先生の尻に火をつける意味でもな」
「ダラダラやってんなってことか」
「あの先生は慎重派でな。まぁあの手の分野はそういうモンなんだろうが、患者の意思っての尊重、尊重だ。拘束は心の傷を深くするとか言って、洸太の手足を縛らせたのは一回きり。人員裂いて見張らせてたが、患者の多い大病院じゃ限界はある。そもそも、当時の洸太には、その尊重すべき意思がない。それに、急を要したんだ。目を離すとすぐ、死のうとしたんでな」
「リリーに会いたいっていう意思はあった」
「テメェのネジが飛んでる自覚と、自尊心ってものがまるでなかったんだ」
自尊心は、人間として扱われて初めて育つもの。人形のように存在することを求められ、強制されて育った有村にそれがないのは当然で、先生はそこから治療を施さなくてはならなかった。
人形ではない。無論、道具でもない。自分がひとりの人間であること。感情を失くしていた有村が最初に見せたのは反抗心の片鱗で、先生はそれを足掛かりにすべく、佐和という飴を用意して悪役に徹した。
時間がなかったからだろうと、瓏は一定の理解を示す。期限付きでなければ、その方面で権威である先生はもっといいプランを練ったはず。完璧な治療を考えるなら、信用を買って二人三脚が尤もだ。ただ、舌を噛み切らぬよう猿轡をされて医者や看護師を睨みつける有村の目に宿る抗おうとする意思は、テスト合格への足掛かりでもあった。
「アイツは何に抗えばいい」
「今日は頭を使うんだな」
「家か、親父か、じいさんか。アイツは何と戦えばいい」
鋭い視線を向け、藤堂が問い詰める。その目が言う。有村が戦うべき敵を教えろ、と。
誰に楯突けばいい。噛み付けばいい。目で問い続ける藤堂へ目を遣り、瓏はプカリと煙草をふかした。
「洸太は何を継ぐと思う」
「家だろ。親父の跡を継いで、家を守る」
「親父の仕事は知ってるか?」
「人形作家だ。有村がモデルだった」
「ソイツは家業か? 考えてみろ。一度は縁を切られかけ、大奥様の好意で首の皮一枚繋がった分家は、一族を名乗るに足らん」
「…………」
「考えろ。洸太は一体、何を継ぐ」
車内へ広がる薄煙の奥で、瓏はまっすぐに藤堂を見ていた。
その口で瓏は以前、藤堂に、分家には有村を担いで保身を考える人間がいると話して聞かせた。本家の方にも、出来の悪い跡取り息子に不安を募らせ、優秀な直系がいるなら担ぎたい人間はいる、と。
有村を利用したい者はいる。しかし、それに無条件で従ってやる謂れは本来、有村にはない。
「ないのか。なにも」
あとを継いだら、有村は全てを本家へ返すつもりだと話していた。元々、持たされるものでは、持って良いものではなかったから。育った分家にその実はなく、財産も何も分不相応なものだから、と。
藤堂が出した結論が事実なら、有村はとうに理解している。そこで、藤堂は佐和の言葉を思い出した。
考えないようにしている。無意識に、考えることを放棄している。山本が言ったではないか。閉塞された環境で育つ中でそれがすっかり染み付くと、どこかで諦め、受け入れてしまうのだ、と。
「俺が思うに、このテストは中々イイ所を突いてる。面と向かって話したこともないのに、大旦那様は洸太の性格を理解してた。痛い所とも言えるな。お袋は言ったんだ、大旦那様に。洸太は根っから優しいからよ、別のトコで躓くこともあるってな」
短くなった煙草を消し、瓏はすぐ次のに火をつける。
ふと見た灰皿は満タンだった。決してそうは見せないが、瓏も自分と同じで苛立っているのに、藤堂はようやく気付いた。
「……和斗さんか」
「俺は、今のままでも充分だと思うがな。あの頃は、誰の言葉も命令になった。従順なだけの人形が人間のフリして生きて行けるほど、世間てのは甘くない」
自分が話せるのはここまでだと瓏は告げ、車は未だ煌々と明るい大きな駅前で停車した。
最終電車は間もなくだ。藤堂にその気があるのなら、明日はこの駅へ来いと瓏が言った。
「洸太は甘い。ああいう性分のヤツは、他人の上に立つモンじゃねぇ」
「無心で飾りになれるほど、器用でもない」
「そうだ。明日お前がここに来たら、連れてってやるよ、本家に」
ただ、中に入れてやることは出来ないがな。そう告げて片方の口角を吊り上げる瓏は可愛げなく、自分も本家に目をつけられたくはない、などと嘯く。
そのあとは藤堂次第。瓏はふと、煙草の箱を差し出した。
「いるか?」
「やめた」
「そつはいい」
藤堂は車を降り、瓏はすぐに去って行く。
自分次第。上等だ。藤堂は冷える夜風を蹴散らすように歩き出し、笑みを浮かべて駅へと急いだ。




