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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第九章 主人公たる少年少女
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もう、泣かない

 帰りたくないと言った。この部屋にもう有村がいなくても、残された絵から離れたくないと。

 落合や久保に説得され、仕方なく帰りはした。けれど、翌日は学校を休んだ。

 普段より早い時間に家を出て、落合が迎えに来る時間より早く駅へと向かう。昨夜は一睡も出来ないまま、一晩中泣いていた。今も、引っ切り無しに涙が出る。制服を着て通学鞄を提げているけれど、逆方向へ向かう電車の中、携帯電話の電源は切ってしまった。

 どこへ行こう。学校へ行きたくない。みんなに会いたくない。

 何も聞きたくない。見たくない。知りたくない――ただ、彼がいない。

 ズル休みなど一回きりの草間には、逃げ込む場所など思い付かなかった。図書館はまだ開いていないし、お店へ入るのは気が引ける。どこにも行けない。行く場所がない。そう思っていたら、気が付いたら、通い慣れた店の前に立っていた。

 小夜啼画材店。

 看板を見上げて、草間はただただ泣いていた。

「お嬢ちゃんか? どうした。どうした。そんなに泣いて。ホラ、中に入んなさい」

 店主のおじいさんがドアを開けてくれて、草間は暗い店内へと入って行った。どこか漂う、油彩絵具の臭い。そんなもので新しい涙が溢れてくる草間の身体を支え、腕を擦り、店主は店の奥へと誘った。

 カーテンを開けたのは、今日の天気を見る為だったという。朝は必ず、一度は店の外を覗くそうだ。

 そんな話をしながら、店主は茶を淹れる。いつもの緑茶だ。渡されても受け取る気持ちになれなかったが、飲めば少しは落ち着くだろうと言った店主の優しい顔を見て、草間はひと口、温かい茶を飲んだ。

 ここへ来たのも間違いだった。たくさんの筆が並ぶ棚の前に、興味深く毛の質感を確かめる有村がいない。油彩絵具が並ぶ棚の前で、迷わず同じ色を何本も抜き取る有村がいない。

 絵具を溶く油を見つめる彼がいない。キャンバスに貼られた布をタンバリンのように叩きながら店内を歩く、彼がいない。

 彼はもういないのに、この店のにおいはどうしようもなく、彼を感じさせる。

「なにがあったんだい?」

 腰かけたいつもの椅子で二つ折りになるほど深く、顔を覆って泣く草間の背中を店主が擦る。

 何を言えばいいのだろう。何も言ってはいけない気がする。言いたくない気もしたけれど、草間はポツリポツリと、涙声で打ち明けた。

 今頃、迎えに来た落合は慌てているだろう。多分、母親も。

 久保も藤堂も、知らせを受けたら、鈴木も山本も探してくれる気がする。見つかりたくなくて草間はここへやって来て、纏まらない言葉を店主へ向けた。

「そうか。そうか」

 草間の話で、店主は腑に落ちたようだ。根っからの絵描きなのに、描くようになってもまだ、どこか遠慮のあった有村のこと。

「金持ちのボンボンか。生まれから、絵を描いて生きて行けなかったわけだな」

 皮肉なものだ。そうも言った。絵に人生を賭けようと、秀作以上を生み出せない画家がいる。描ける有村がそこで生きられないのは不幸だと言ったが、それも運命だと諭しかけた。

「画家の女房ってのは苦労をする。まず、食えないことが殆どだ。良い絵を描くから認められるわけじゃない。芽が出ない才能を信じて、支えてやらんとならん。これを、いい機会だとは思えんか?」

「…………」

「今はまだ学生だ。だが、数年すりゃ社会へ出る。それでもアレと連れ合うってのは、そういうことだ。いつか来る別れなら、今がそうだと、そう思うことは出来ないか? お嬢さん」

 将来など、まだ先だ。草間はいま、悲しいのだ。

 そばにいたい。いてほしい。離れたくない。会いたい。声が聴きたい。笑いかけてほしい。笑い合いたい。抱きしめてほしい。抱きしめられる距離にいたい。

 吐き出すだけ吐き出して、草間はまた蹲る。

「有村くんと出会って、好きになって、私の世界はこんなにも変わったのに。有村くんがいなくて、どうやって過ごせばいいの……どうやって……」

 出会う前の自分には戻れない。戻りたいとも思わない。けれど、変えてくれてた彼がいなくて、どこへ向かえばいいのかもう、わからない。

 店主の手はまだ、草間の背中を撫でている。祖母がしてくれたみたいに、優しく、優しく。

「とんでもないのに出会っちまったのは、お互い様か」

「…………」

「おれは、洸太の方だと思ってた。女神を見つけた絵描きの目ってのは、これで何度も見て来たんでな。どれ、その写真ってのを見せてごらん。おれは、画材屋のジジイだ。絵を見るのは得意だからな」

 あまりに離れ難くて、草間は残された絵を写真に撮っていた。何度も見た写真を携帯電話のディスプレイに表示し、店主の前へと差し出す。

「こりゃぁ小さいな。待っててくれ。虫眼鏡を持ってくる」

 店主は一段上がる部屋の中へと入って行き、持って来た虫眼鏡を添えて写真を見る。

 元々、目は良くないのだ。分厚いレンズの眼鏡と、虫眼鏡で絵を覗く。角度を変え、距離を変えて眺めたけれど、やはり「よくわからんな」と溜め息を吐いた。

「だが、これは飾ってあったんだろう? 誰でも見れるように」

「はい」

「だったら、最後まで描きあげたんだろう。アレは、途中を見られるのは嫌だと言っていたしな。サインはあったか」

「サイン、ですか?」

「ああ。満足のいく絵が描けたら必ず入れろと前に教えた。お嬢ちゃんを描いて、納得のいかんモンを、アレが人目に晒すはずがない。あったか? 絵の端か、ひねくれたのは側面や裏に入れたりするが、どうだ」

 記憶を探り、草間は俯く。表面にはなかったと思う。前にサインを入れた場所には、なにも。

 店主は虫眼鏡を下ろし、サインがないのはおかしいと言った。絵描きというのは難儀なもので、放り出すことは出来ないというのだ。特に、潔癖症の有村は。

「言っちまうと傲慢なのさ。これが自分だと誇らずにいられない。それが手前の最高傑作なら尚更に、自分が描いた証拠を残さないで手放せやしないさ。確かめてごらん。アレは次に、手前の全てを注ぎ込むと息巻いてた。間違いない。これが今の、アレの最高傑作だ」

 キャンバスの側面や、裏面は見なかった。前にサインを入れた辺りにはなかったというだけ。

 気が付けば、草間の涙は止まっていた。今は真っ直ぐな目が、真っ直ぐに店主を捉えている。

「もし、サインがなかったら?」

「書きに戻って来るかもな」

 湯呑を置き、草間は通学鞄を手に立ち上がる。確か、今朝は佐和がいるはずだ。もしいなかったとしても、何度か会った大家さんがいる。事情を話して、鍵を開けてもらえばいい。

 お礼もそこそこに駆け出した。立て付けの悪い引き戸を全身を使って開け、外へ出る。

 その草間を呼び止めて、杖をついた店主は店の入り口までやって来た。

「絵描きってのは往々にして孤独だ。真昼間のお天道様の下で、蛍の輝きが見えるか? 真っ暗な場所から、必死に目を凝らして覗くんだ。だからこそ、ささやかな灯の眩さに気付く。素晴らしい景色が見える。愛は、そこへ差す一筋の光だ」

「…………」

「いいか。光のない場所でどんなに目を凝らしても意味はない。なにが見えるはずもない。アンタが照らしてやれ。輝かせてやれ。洸太の世界に、息をさせてやれ。持っていたって見えないんじゃ、描きようがないからな」

 次は、ふたりで来いと店主が言う。有村にいい油と筆を用意してある。新しい配合も、幾つも考えてある。そう言って、初めて見るくらいに明確な笑顔を見せた。

「プリンはいらない。絵を持って来い。アレにそう伝えてくれ」

「……はい。わかりました」

 会釈を最後に、草間は走った。有村と何度も歩いた道を、駅を越え、息を切らせて、胸が痛くなっても走り、マンションまで駆け抜けた。

 エレベーターを待つ間は、上がり過ぎた呼吸で気持ちが悪くなった。吸い込む酸素の味が不味くて、鼓動がおかしな脈を打つ。汗が吹き出し、頬は燃えそうに熱いのに、皮膚の下は妙に寒い。

 辿り着いた七階でも、ドアが開いた瞬間から走った。チャイムを押し、待ちきれずに扉を叩く。

「佐和さん! 草間です! 佐和さん! いますか!」

 ドアを開けてくれた佐和は、みんなが心配しているなどと話しかけるが、慌てて靴を脱ぐ草間は返事もせず、有村の部屋へと駆け込む。

 イーゼルからキャンバスを外し、側面を一周見た。手につく絵具も構わずに裏面も見て、大きく開く口が口角を上げる。

「……ない……サイン……」

 サインがない。どこにもない。

 だから、草間は佐和へ告げた。

「信じます、私。有村くんは、サインを入れに戻って来る。信じます。いつまででも!」

 電源を入れた携帯電話は、ポケットの中で震え続ける。時刻は登校時間のギリギリで、メールも着信も、藤堂たち五人と母親から大量に、引っ切り無しに届いている。

 草間は笑った。上がる息に肩を激しく上下させながら、佐和へ向けて、大きく笑った。

「帰って来ます。有村くんは。だって、こんなに私が、会いたいから!」

 また、目から涙が零れて来た。

 根拠はない。叶わない夢かもしれない。それでも信じて待つと決めたから、草間はこの涙を最後に、有村に会えるまでは絶対に泣かないと、強く、心に誓った。

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― 新着の感想 ―
[一言] どうなるんでしょうどうなるんでしょう! 草間さんがんばれ! 有村くんも負けるな! 見てます!
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