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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第二章 発条少年
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とあるふたりの朝のこと

「よし、こんなもんかな」

 固く絞った雑巾をベランダのサッシに干して、有村は満足気に部屋の中を見渡した。

 大通りに面した、とあるマンションの一室。有村がお目付け役を兼ねた『保護者』と住まうこの部屋は、ここ数年でこの辺りにも数を増した高層マンションのひとつ、その七階にある。

 だから今日のような気持ちのいい風が吹く朝は窓を全開にして、空気の入れ替えをしながら部屋の隅々まで磨き上げる。そういう時間が、有村は存外好きだ。清々しさが二倍になる、そんな気がして作業もずっと捗るように思う。

 とはいえ彼は片付けるのが癖のようなものだったので、そう早朝から気合を入れて磨かなくともこの部屋はいつだってモデルルームのように綺麗だった。

 家には寝に帰るばかりの主人が知り合いにシンプルなものをとだけ言って揃えさせたモノトーンの家具が、それをまた一層際立たせているのかもしれない。革張りのソファや、その足元に広がる毛足の長いファーマット、家人の不規則な生活をひっそり支えるテーブルの上のキャンディーポットまで、初めて来た時の山本の言葉を借りるなら、この部屋は至って「おしゃれ」だった。

 そんなインテリア雑誌のワンショットのような部屋に温かで空腹を促す朝食の匂いが満ちる頃、カチッと鳴いた炊き上がりのブザーに呼ばれた有村は、カウンターの上の置時計を見やった。

「八時か」

 クリスタルにコースターほどの文字盤が埋め込まれたそれが指し示すは、まま予定通りの時間である。

 掃除を済ませ、洗濯を済ませ、それがそろそろ乾燥機の中で仕上がる頃で、あとはあの意地っ張りを叩き起こせば今度こそ完璧だ。

 有村は沸騰間際の鍋の火を止め、やってやるぞとキッチンをあとにした。



 リビングから向かうなら、そこから玄関へ続く廊下の中間に有村の自室はある。

 彼はペタペタと裸足の足裏を鳴らしてその部屋へと向かい、中に入るなり正面の窓を覆うカーテンを勢いよく開いた。

「……うっ」

 家主がわざわざ角部屋にした最大の理由であるこの大きな窓から差し込む朝日は、どんな目覚ましにも勝る。当の有村はそれを拝む前には起き出すから見舞われたことはないが、たった今そのベッドを占領している毛布の膨らみは苦し気な声を上げて、大きな寝返りを打った。

「朝だよー」

「うー……」

 声をかけて肩と思しき辺りを揺するも、返って来るのはそんな呻き声ばかり。

「起きろって」

「うぅ」

 一回目も、二回目も、お望み通り優しく起こしてやったというのに。

 仕方がない。有村は腕捲りのシャツにエプロンという格好のままベッドサイドに膝をついて乗り上がり、その毛布の怪物の上へと跨った。

「起きろ、藤堂! これが三度目、タイムリミットだ! 四回目は起こしてなんてやらないからな!」

 言いながら鷲掴んだ毛布を剥がしていけば、覗く黒髪がシーツを恋しがり、頬擦りなどしてみせる。

「藤堂! とーどー! 圭一郎! 早く起きないとこのまま飛び跳ねてやるぞ!」

 小さくて軽いさっちゃんならまだしも、と息巻く有村を渋々見上げた三白眼は、だらしなくもまだ半分くらいは夢の中だ。のっそりと持ち上げた手で有村の頬を撫でるのはその証拠で、それが両手になると少々厄介になる。

 ワシャワシャ、ワシャワシャ。

「とぉどぉ?」

 ワシャワシャ、ワシャワシャ。

「僕は犬猫じゃないと何回言えば?」

 脚の間で寝返りを打ち仰向けになってもなお覚醒前の藤堂の長い腕は伸ばされたまま、洗い晒しの有村の髪を好き勝手に撫で回す。

「……美人がいる」

「そうか」

「重てぇ」

「男だからね」

「残念だ」

「そうかい」

「…………おやすみ」

「藤堂!」

 ズンッ。

 宣言通りに腹の上で思い切り跳ねた有村に一際悲惨な呻き声を上げて、大きな寝坊助はようやく絞り出すように「おはよう」と零した。

 それから間もなくして、ふぁ、とも、ふが、ともつかない欠伸を漏らす藤堂はやっと起き出し、再びキッチンへ戻る有村に続いてのそのそと廊下を歩きながら、だらしなくTシャツの下の脇腹を擦ってみたりする。

「痛ぇ……」

「さっさと起きないからだ。朝から僕に大声を出させるなんて」

「…………」

「もう。藤堂、しっかりしてって。あと一時間もしたらみんな来るんだよ? それまでに色々済ませないと」

 寝癖のひどい頭を掻いて、もう済んでるじゃねぇか、と呟く藤堂がまた大きな欠伸をするから、有村は溜め息を吐いて味噌を片手に冷蔵庫の扉を閉めた。

「だから僕に合わせて起きてなくていいって言ったのに」

「だってお前、ⅠとⅡがあるって言って、Ⅰが面白かったらⅡだって観るだろ」

「途中で寝てしまったくせに」

「つまらなくて」

「だったらちゃんとベッドへ行けば良かったんだよ。うたた寝じゃ寝た気がしないって、君いつもそう言うくせに」

「お前は寝たのか?」

「僕のことはいいの」

「よくないだ……ふぁっ……で、佐和さんは?」

「帰って来たよ? 三時過ぎだったかな。またご飯行こうねって」

「肉か」

「佐和さんは魚嫌いだからねぇ」

 言いながら、有村が開くグリルからは魚の焼けるいい香りがした。

 それを眺めて対面式のカウンターを過ぎれば、すぐ向かいに置かれたテーブルに並びつつある古き良き日本の朝食という好みのラインナップに、藤堂の目もやや冴える。

 やっぱり、日本人なら朝は炊き立ての白米がマストだ。味噌汁の豆腐は欠かせないし、こんがり焼けた魚と、箸休めの漬物が数切れあれば。

 と、その前に。

「あ、出汁巻き」

「つまみ食いは……って、食べるなら座ってからにしてよ」

「……うまい」

「どうも」

 寝不足の朝はどうもしゃんとしない藤堂の前に淹れたての茶を出すと、彼はそれを無言でひと口。

「……でも、なんかいつもと違うな」

 そう言って箸を並べる有村を目で追う。

「あ、わかった? 実はね、この間、靖枝さんに教えて貰って。今日はその通りに作ってみたんだ」

「なんで?」

「藤堂、出汁巻き好きでしょ? いつも作れって言うし、だったら好みの味の方がいいだろうと思って」

「……で、おふくろに訊いたのか、お前」

「うん、丁寧に教えてくれたよ。いつも悪いわね、って。ちょっと出汁が多めなんだね。少しなんだけど、味は結構変わるもの……どうかしたの? 微妙な顔して」

「いや。いいや」

「なに? もしかして再現出来てなかった? しょっぱい?」

「いや。再現は出来てる。完璧に」

「じゃぁ、なに? あ。そういうのは余計だった?」

「いや…………いいよ、うん。お前のそれ、天然だし」

「なんだよ。ねぇ、なに? 言いたいことがあるなら、ちゃんと――」

「――それ、嫁さんがやるやつだと思う」

「…………ん?」

「新婚の嫁さんが、こう、姑に家庭の味を訊く的な……って、オイ。照れるな」

「……照れてない」

「赤くなるな。言わせといて。気まずいだろうが」

「なってない。そっちこそ、目、泳いでるけど?」

「泳いでねぇよ。ふざけんな」

「見るなって……」

「……見てねぇよ」

「見るなって!」

「だってお前、首、真っ赤」

「肌が白いんだからしょうがないだろ! 僕はそんなつもりなかったのに、藤堂が変なこと言うから! もういい。もうヤダ。君はまずシャワーを浴びといで!」

「いやだってこれからメシ……」

「いいから! 丁度良くするから! 黙ってバスルームへ!」

 来た道を戻るように藤堂の背中を押して、浴室へと向かわせる。こんな朝が、週に一度くらいある。

 かかなくていい恥をかいたじゃないかと顔をしかめる有村は、腹いせに少しばかり力強く棚から出したバスタオルを藤堂目掛けて投げつけた。

「――でも」

「なに!」

「どっちかって言ったら、元のお前の味のが好きだな。出汁巻き」

「……ッ!」

 真っ直ぐ飛んで行ったタイルを軽々受け取った上に、そんな返しだ。

 有村は置いておこうと思った藤堂用の歯ブラシもまた、渾身の力で投げつけた。

「いてっ」

「さっさと諸々流してクールな男前を取り戻して来い!」

「了解」

 ドアを閉めて指摘されるまでもなく自覚している熱い顔を手で扇ぐ有村は、その頬をプイと膨らませた。こういうことも、たまにはある。

 数分後、有村の肌の色も落ち着いた頃にタオル一枚で出て来た藤堂がいつもの仏頂面を携えて、着替えを忘れた、と悪びれもせず宣うのも、ままあることだ。

「勝手に出していいから、とりあえず何か着て」

 鈴木たちがやって来るまで、あと四十分を切っていた。



 朝食は殆ど入っていかない有村の三倍は食べただろうかという藤堂とふたり並んで洗い物をしていると、不意にカウンターに置いていた携帯電話が震えた。

「鈴木、駅前に着いたってよ」

「はーい」

 勿論メールが届いたのは有村の携帯電話だが彼の手はいま泡だらけなので、布巾担当の藤堂が代わりに『わかった』と返信をする。

 今日も暑くなりそうだな、と呟けば、窓を閉めてクーラーにしようか、と冷房嫌いの有村が言った。ピッ。せめてこの男が扇風機だけでも好きになってくれればいいのだが。そう思う藤堂は、本格的な夏を前にピコピコピコと温度を下げる。

「藤堂、寒い」

「バカ言え。まだ二十五度だ」

「ミセスでんこは二十八度をオススメしてたよ」

「それでなんでキューティー洸太くんはその上を行くんだよ。二十九度じゃ動かねぇって」

「だって、寒い」

「お前、夏って知ってるか?」

 そのまま二十三度まで下げたところで本当に有村がくしゃみをしたので、藤堂は仕方なく二十五度で許してやることにした。ブォーッ。まだ乾ききっていない髪に、冷たい風が心地良い。

「藤堂、拭いて」

「はいよ」

 そうして再びシンクの前に並ぶと、藤堂は引き続き皿を拭き始めた。

 有村の部屋には、物がない。唐突なように感じるだろうが、こうしてやけに立派なアイランド式のキッチンに立って見渡してみると、余計にそう思う。

 家具としては一通り揃っているのだ。本棚の間に埋め込まれた大画面のテレビなんて昨日観たつまらないゾンビ映画もそれなりにしてしまうくらいの迫力があるし、その上にぶら下がるスクリーンを降ろしてホームシアターにすればそれ以上、近くのオーディオもツマミだらけの本格派で、リクライニングにすれば夢心地の革張りチェアーだって藤堂の寝落ちを応援する大した存在感だ。

 それらを有村が一切必要としていないのは、彼の自室を見ればよくわかる。ものの見事に、本しかない部屋。セミダブルのベッドとアンティーク調のデスクもあるにはあるのに、使っている形跡は殆どない。

 藤堂は最後の一枚を拭いて食器棚にしまう間、もう食後の珈琲を淹れようとゴリゴリ豆を挽きだしている有村を見て、その顔に残る長い夜のあとに口のへの字を深くした。

「で、お前は寝たのか?」

「寝たってば」

 それが本当ならこの部屋には掃除が趣味の妖精でも出るのかとは言わず、藤堂はパタンと食器棚の扉を閉める。

 塵ひとつない部屋。磨き上げられたガラス。三時に帰って来て、すぐ出て行った家人を送り出したであろう明け方のこと。そんなものを指紋の欠片さえ拭き取られた取っ手の潔癖に思い、藤堂は寝落ちた昨晩の自分を恨んだ。

 たった二本の映画くらい、付き合ってやれないでどうする。

 その為に藤堂は足繁く、ここへ通っているというのに。

「今日はカフェオレにしてくれ」

「わかった」

 有村は酷い不眠症を患っていた。寝たと言っても精々二時間が良いところ。常に抱える慢性的な睡眠不足、その所為で有村には過敏過ぎる感覚と、極端に鈍い感覚がある。動き続けていなければ、つい余計な考え事に囚われてしまう癖も。

 それらが積もりに積もって気絶したように眠るのを二度見たが、今の横顔は三度目が近いと言っているようだった。

「お前もそうしろな?」

「うん?」

 なにより、有村は自分の不調に気付けない。

 二十九度設定の部屋で倒れでもしなければ、藤堂の夏と足並みが揃う日は来ないのかもしれない。

「冷たい牛乳でな?」

「うん」

 猫舌のくせに熱いまま飲んで口の中を火傷する。それを何度も繰り返す。

 熱いと痛いが繋がるまでに時間がかかる所為だ。だから硬いと不味いもわからない。有村の作る料理はどれも美味かったが、レストランか有名シェフ監修のレトルトのような味がした。

「なに」

「ん?」

「じっと見てるから。そんなに好き? この顔」

「そうだな。女なら、まぁ、悪くねぇ」

「そう言って一ヶ月で飽きるクセに」

「お前と瓜二つで、お前くらい料理が上手くて邪魔にならないなら、長続きする気がする」

「どうかなぁ。最短記録更新して傷心中なの?」

「言うなよ、ソレ」

「週末挟んで三日はないよ。メールも返さなかった君が悪い」

「言うなって」

 長続きしないのはお互い様だと鼻で笑って、藤堂は有村の耳の上辺りに鎮座するヘアクリップを外してやった。

 料理中は長い前髪が邪魔になると留めているのだが、今日はこのあと人が来る。跡が付いたままは嫌だろうからと散らしてやったが、それでもまだ、何か足りない気がした。

 ピンポーン。

 壁に備え付けのインターホンが鳴ったのは、有村がシンクに、藤堂が冷蔵庫の横の作業台に寄り掛かってぬるい珈琲に口をつけた頃だった。

 エプロンを外して「どうぞ」とボタンを押しながら、有村が言う。

「早いね」

 それを受け取り定位置のフックにひっかけながら、藤堂が言った。

「気合入ってんだろ」

 ペタン、ペタン。

 ダン、ダン。

 ふたつの足音が廊下を抜ける間、藤堂は先を行く背中に「洸太」と呼びかけた。

「スイッチ、入れろな」

「言われなくても。を誰だと思ってるの」

 長過ぎる夜の憂鬱を押し込んで振り返る有村は、今日も絵に描いたような王子様の顔をする。

 それが、やっぱり少しいつもと違う気がしたのだ。

 その理由がわかったのは、ガチャリとドアを開いた有村が「いらっしゃい」とやって来た五人を出迎えた時。

「……っ、眼鏡だ!」

「メガネ……っ」

 今度は随分なジト目で振り返った有村は、地を這うような声で「とぉどぉ?」と、細いシルバーフレームの向こうのヘーゼルグリーンを座らせる。

 それでもそこにはキラキラ目映い有村洸太がいるものだから、藤堂は口の端を片方だけつり上げて「わるい」と嘯いた。

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