惨状
降り立つホームから駆け出した草間が改札を通り抜けた時、急ブレーキの音を立て、藤堂が自転車で駆け付けた。
「乗れ」
メールは電車の中からした。読んだ時には駅へ向かう道に入っており、それから自転車を飛ばしたのと同じ立ち漕ぎで急ぐ藤堂の腹に、草間は必死でしがみ付く。
口を閉じると、自分が震えているのに気付く。重なる唇は離れようとして、奥歯がガチガチと鳴っている。本当は、泣いてしまいそう。目の奥は既に熱く、草間は息を吐くことで、なんとか涙を堪えていた。
マンションへ乗りつけた自転車を、藤堂は生垣へと放り投げた。そのままエントランスを進み、藤堂は階段を目指したけれど、草間が腕を掴んで引き止める。
「藤堂くん。エレベーター、来てる」
一階で停まっていたエレベーターへ乗り込んですぐ、藤堂が腕で鼻を抑えた。
「臭ぇ。甘ったるい、何の臭いだ。香水か」
七階のボタンを押して、草間もまた手で鼻を覆い隠した。
「たぶん。強い臭い。頭痛くなりそう。熟れ過ぎた桃みたい」
エレベーターが停止して開くドアから七階へ降り立つと、ふたりは角部屋へと急いだ。
ドアの前で顔を見合わせ、藤堂が一度だけチャイムを鳴らす。草間の胸騒ぎは家を出た時よりも加速しており、和斗に聞いた話を聞かせた藤堂にも焦りは見えたが、有村が電話に出ない理由なら幾つかある。
返事はなく、藤堂が鍵を取り出した。
しかし、差し込む前に掴んだドアノブが動き、顔を跳ね上げた藤堂が一気にドアを全開にした。
「有村!」
脱ぎ去る靴を蹴散らして駆け込む藤堂に続く草間の鼻が、また、あの臭いを嗅ぐ。
噎せ返るほどの、甘い、いっそ腐りかけのような纏わりつく臭い。藤堂とふたり、腕や手で鼻を抑えて廊下を走った。
辿り着くリビング。開いたままのドアから入り、草間は悲鳴を上げる。名前を呼ぶ前の一瞬、藤堂でも躊躇う光景が、目の前に広がっていた。
「有村くん!」
「有村!」
いつもキレイに、清潔に、整然と整えられている部屋は荒れ、テーブルもソファも物が散らばる床で位置を歪に乱している。
けれど、藤堂に息を詰めさせ、草間の涙を押し出したのは、床に広がる大きなシミ。赤黒い血溜まりと、そこにうつ伏せで倒れて動かない有村の姿。
着いた膝に染みる血に構わず、仰向けになるよう、藤堂が有村を抱き上げる。
「有村! オイ! 目ぇ開けろ、有村!」
草間も近くで膝を折り、着いた場所が僅かに滑った。
どうすればいい。しっかりしなくてはと思っていたのに、頭の中が真っ白だ。
脱力した手が揺らされるまま、床の上に、血の中に落ちる。藤堂は薄く開く有村の口元へ耳を寄せ、何度か頬を叩いた。
「息がない。草間! 救急車!」
「…………」
「草間!」
血が付いた手で頬を弾かれ、草間はようやく、藤堂を見る。
「救急車を呼べ」
「でも……普通の、病院は……」
「バカ野郎! 死んだら元も子もねぇだろうが!」
溢れる涙が止まらずに、震えてボタンが押せない草間の手から携帯電話を取り上げた藤堂が、電話を鳴らす。
「頭から血を流して倒れてるんだ。息をしてない。早く来てくれ!」
住所を告げ、幾つかの状況を説明する藤堂の声が、血まみれで動かない有村を見つめる草間の耳には言葉として入って来ない。
「出血は多いと思う。血溜まりだ。ああ、そうだ。身体はまだ温かい。だけど、息をしないんだ! 急いでくれ! 頼む!」
なにがあったの。どうして、こんなことに。
両手で掬い上げる手を握るけれど、温かいのに、ピクリとも動かない。肩に触れて身体を揺すっても、頬に触れても、閉じた瞼は開かなかった。
「オイ」
もう一度、藤堂の手が草間の頬を弾く。痛くはない。そちらを向けと言われている延長の軽いもので、目が合う藤堂が普段以上の静かな声で、「落ち着け」と言う。
「過呼吸のなりかけだ。息を吸え。しっかり吐け」
「…………」
「しっかりしろ、草間。まだだ。諦めるな。すぐに助けが来る」
「…………」
名前を呼ばれ、次は、頬に手を添えられた。顔の左半分を覆い隠してしまうくらいの大きな手だ。
藤堂は逆の腕で、未だ有村を抱き続けている。肩を掴む手を見た。藤堂は目も赤い。怖いのは草間だけではない。堪えている藤堂を見て、草間は一度、飲み込むもので喉を大きく上下させた。
「泣くのはいい。だが、諦めるな。佐和さんと和斗さんに電話する。お前は必死で、コイツを呼べ」
「…………」
「連れ戻すんだ。いかせるな。草間。お前の声に応える有村を信じろ」
「……うん」
有村くん。有村くん。絞り出した最初の一回は掠れていて、繰り返すうち、草間の声は悲鳴になる。
返事をして。目を開けて。何度も、何度も名前を呼んだ。有村くん。有村くん。両腕を回して抱き着き、何度も、何度も。
「有村くん!」
泣き叫ぶ草間の脇で、藤堂が電話を掛けている。まず、既にこちらへ向かっている和斗へ。次に、佐和へ。どちらも病院が決まったらまたかけると告げて、電話を切る。
「有村くん!」
間もなく、救急隊が駆け込んで来て、連れ出される有村と共に草間と藤堂も部屋を出て、救急車へと乗り込んだ。
移動中も処置は続き、見ているのがつらい草間の手を、隣から藤堂が掴む。
「信じろ。有村を」
その手は有村の手よりも大きく、厚みがある。より包まれるのに、草間の震えは止まらなかった。
止まるはずがない。怖くて仕方ない。けれど、草間は一度目を閉じて呼吸を整え、藤堂の手を握り返した。
間に交わす言葉ない。目と目を合わせ、握り返した草間の手を、藤堂が強く握った。




