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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第九章 主人公たる少年少女
354/379

ごめん

 なぜ。どうして身体が動かない。

 長い夜は明けたのに。悪夢の日々は終わったのに。

 動けない。言葉が出ない。頭の中に溢れかえる大量の、どうして、なんで、が邪魔をして、思考が上手く回らない。考えなくてはいけないのに。何故、この人がここにいるのか。追い出さなくてはいけないのに。ここは、自分と佐和が暮らす家だから。

 フローリングの床を鳴らす、ピンヒールの足音がする。

 打たれた頬が痛い。いや、痛くない。藤堂のゲンコツの方が百倍痛い。草間の平手打ちの方が千倍堪える。

 そうだ。今の僕には大切な人が、かけがえのない人たちがいる。ひとりじゃない。この部屋の中だけが全てじゃない。この人は絶対じゃない。わかっている。言えばいい。ここはあなたが来る所じゃない。出て行け。帰れ。言え。言えばいい。そうして追い出せばいい。身長が伸び、身体が大きくなかった今の僕なら、藤堂に背中を預けて気分が良いと言ってもらえた今の僕なら、そんなことは容易いはずだ。

 なのに、出来ない。言えない。

 床へ額を押し付けるよう跪かせた後頭部を踏みつける足ひとつ、退かせない。

「ねぇ。どうして、まだ死なないの」

 踏みつける場所でグリグリと動くパンプスが、髪を頭でジャリジャリと鳴らす。

「生きてていいわけないでしょう。あれだけ教えてやったのに、まだわからないなんて、どこまでバカなのかしら。恥ずかしい生き物なの。存在からが間違いなのよ。能無し。出来損ない。どこかで息をしてると思うだけで吐き気がする。さっさと死ね、この化け物」

 踏まれる場所が焼けるように痛い。押し付けられる額が、割れてしまいそうに痛い。

 開けない口なら、せめて、強く奥歯を食い縛る。

 考えろ。動け。負けて堪るか。僕はもう、膝を抱えて耐えるだけの子供じゃない。

――ガンッ。ガンッ。ガンッ。

 踏みつける足が繰り返し落とされ、足蹴にされる頭蓋骨が妙な音を立てた。

「別に、嫌いじゃないのよ。どうでもいいの。ただ、気分が悪い。その顔が、目が、どこかでのうのうと生きていると思うだけで」

「…………」

「産んでやったのよ、私。痛かった。嫌だった。産みたくなんかなかったし、産まなきゃよかったって、ずっと後悔してる。ひとつくらい役に立ちなさいよ。簡単でしょ。そこのベランダから飛びなさい。死んでくれさえすれば、私は今日から夢見がいいわ」

 甘ったるい臭いがする。熟れ過ぎた果実のような、腐りかけのような、噎せ返る臭い。

 閉め切られた密室では、すぐにこの臭いが充満する。鼻につく、嫌な臭い。これが酸素に成り代わると、息が出来なくなる。作り物の大嫌いな臭い。大嫌いで、怖い臭い。

「そうやって何も言わず、何もせず、待ってる。時間が過ぎるのを。終わるのを。その被害者気取りに腹が立つ。害悪はお前。全部、お前が悪い。生まれて来たお前が悪い。その顔。その目。どうして私を苦しませるの!」

 踏まれる場所が変わり、背中に、ヒールの踵が刺さるよう。

 蹴りつけられる度に身体が弾む。背骨に食らい、息が詰まる。

「死ね! 死ね!」

 軋むほど食い縛り、有村は耐えていた。

 この程度の痛み、大したことはない。この人は病気だ。嵐は過ぎるし、永遠には続かない。

「死ね!」

 蹴り出された踵が肩に、首筋、鎖骨の近くへ食い込み、久々に皮膚が裂けた。

 でも、まだ平気。大丈夫。耐えられる。この人はどうせ、いつものようにすぐ飽きる。

 短い声を出したのは、踵が突き刺さった時の、ほんの一瞬。それ以外は意地でも出さない。有村は膝を折り曲げ、床に手を着き、四つん這いの姿勢で、ただ耐える。

 終わる。いつかは、必ず終わる。耐えきってみせる。どうせ、あと少しで疲れて蹴るのをやめるから、担いで部屋から出してしまえばいい。鍵をかけて、チェーンをかけて。和斗と佐和に電話をしよう。大丈夫。今の僕には助けてくれる人がたくさんいる。震えが止まらなかったら、藤堂に来てもらう。電話をして、草間さんの声を聞く。そうすれば、過ぎた今はもう、跡形も残らない。

「…………ッ!」

 どうだっていい。僕だって。

 こんな人のことなど、どうでもいい。やりたいことがある。ここにいたい理由がある。大丈夫。心はまだ折れていない。それほどのダメージもない。幼い頃には感じた恐怖も、冷静になれば然してない。

 邪魔をされて堪るか。草間や、藤堂たちと過ごすこの生活を、一日でも長く続けるんだ。

 いつの間にか、『動けない』は『動かないように』へ変わっていた。

「どうして! どうして死んでくれないの! 死ね! 死ね! お前の所為で、私はずっと不幸!」

 足蹴にされる痛みが、落ち着きを取り戻す手助けをしたかもしれない。与えられ、感じる苦痛は現実だ。しょうもない、バカげた現実。思考が冷めると、代わるように身体が中から熱くなる。

 これも、もう知っている。怒りだ。腹が立っている。でも、怒ってはダメだ。あの感情はまだ制御しきれる自信がない。暴走しても、今は止めてくれる藤堂がいない。

 抑えなくては。ここで暴れて、通報でもされたら。それを理由にしたがる顔が思い当たる。

 そうか。榊か。アレが居場所を教え、鍵までくれてやったのか。利害が一致するものな。この人はこうして傷めつけたくて、そうしてまた僕が壊れれば、榊がするであろう満足気な顔が目に浮かぶ。

 冗談じゃない。誰が思惑通りになってやるものか。誰に、こんな女に、ようやく手に入れた幸福な今を奪わせてなるものか。

 耐えろ。耐えろ。怒りを抑えろ。

 耐えきりさえすれば、この人を追い出しさえすれば、明日はまた、みんなといられる。

「どうして早く死なないの! さっさと死ね! 死になさいよ!」

 叫ぶ声から意識を逸らせた。聞くな。どうせ、この人は碌なことを言わない。

 抑えろ。耐えろ。耐え凌げ。

 約束をした。彼女と、イルミネーションを見に行く。クリスマスはふたりで過ごす。みんなとパーティをする。絶対に楽しい。絶対に幸せだ。絶対、大切な想い出がまた増える。

 いつか終わりが来るとして、致し方ないその日まで、この幸せな日々を一日でも、長く。

「……あの時、絶対に死ぬと思ったのに」

 衝撃が止み、蹴り続けて呼吸を荒くしたその人が呟く。

 下ろした足で、フラフラと。ピンヒールの足音が小さく、幾つか鳴った。

「アンタにはあの犬しかいなかった。あの犬が全てだった。吠えてばかりのバカ犬が死ねば、あとを追うと思ったのに」

「…………」

 カチ。カチ。カチ。

 秒針を刻む規則正しい音が、頭に響く。

「……なにか、したのか」

 冷める。冷める。思考が、心が冷えていく。

 凍り付くほど、冷たく、寒く。

「リリーに、なにかしたのか」

 手足を床へつけたまま、有村が顔を上げる。下から見上げる、作り物の醜い顔。動く眼球がこちらを向き、黄色味の差すそれと、緑の深まる有村の瞳が視線をぶつけた。

「おやつをあげたの。除草剤入りの」

「…………」

「害獣駆除にいいって言うから。仕方がないから作ってあげたのに。躾も禄に出来ないのね。飼い主に与えられる物を嫌がるなんて、ホント、頭の悪い犬」

 カチッ。

 時を刻む秒針が止まった。

「飼い主は僕だ。あなたじゃない」

「お前の飼い主。所有者かしら。モノだもの。お前は、生まれつきの、道具」

 時間が止まる。ここは、酸素のない密閉空間。

 瞬きを落として尚、有村の目は、立ったまま腰から上体を折り曲げて近付く作り物の顔を見ていた。

「リリーは僕が出した物だけを口にする。無理に食わせたな」

「連れて行った男がね。大変だったのよ? 腕を噛まれて、彼、怪我をしたの。可哀想だった」

「毒だとわかったから抵抗したんだ。どれだけ無理に捻じ込んだ」

 機械仕掛けのように動かない顔で、女が笑う。前に見た時とも違う。その前とも。最初の顔など思い出せもしないくらいに手を加え過ぎた顔で笑い、女が言った。

「たくさん」

 見上げ続ける有村の口の中、閉じる奥歯が重く軋んだ。

 思い出した。目が覚めて布団を捲ると、横たわるリリーと共に何度もしたのであろう嘔吐の跡があった。嗅いだことのない臭い。微かに、血液が混ざるような。

 残っていた固形物を指で確かめ、消化しきれなかった夕食でないのがわかった。怖くなって、洗濯後の清潔なシーツにリリーを移動させたあと、汚れたシーツは丸めて、ベッドの下へ隠した。

 そうか。そうだったのか。コイツが、この女が、リリーを殺した。

 床を握る指先が籠る力で白んでゆき、やがて震える拳になる。

「僕が死ぬのを期待して、リリーに毒を盛ったのか」

「そうよ。お膳立てしてあげたのに、どうして死なないの」

「それほどまでに望むなら、僕に毒を盛ればいい。非のないリリーでなく」

「え? イヤよ」

 手だけでなく全身が、肥大化する怒りで震える。

 揺れる頭で、見上げる視界も揺れていた。目を逸らさずに見ていた。女は笑った。嘲るように。

「どんな出来損ないの失敗作でも、殺したら罪になるじゃない」

「…………」

「だから、死んで。アンタの所為でこれ以上、私の人生を狂わせないで」

 夜が更け行く。静かな部屋に、静寂が立ち込める。

 ああ、もうダメだ。

 有村は項垂れ、冷たい床に額を着けた。

「……ごめん。草間さん。藤堂。約束、守れない……」

 呟く頭上では、真っ赤な口を裂いて笑う女が訊き返す。

「なに? 聞こえない」

 さも楽し気に、ケラケラと。

「いいんだ。貴様に言ったわけじゃない」

 咄嗟に放たれる不満気な声には顔を上げず、有村の右手は細い足首を掴み、力任せに引き寄せた。

 割れるような音が立ち、床へ尻を打ち付けた女は倒れ、喚き出す。痛いじゃない。なにをする。どうでもいいから、返事はしない。

 有村は立ち上がり、キッチンカウンターに置かれたクリスタルの置時計を掴むと、振り返る勢いのまま倒れる女の顔を目掛けて振り下ろした。

――ガンッ!

 時計の底は床に当たり、転げて逃げた女を、有村の冷めた目が追い駆けた。

「なにするの!」

 タイトなミニスカートから出る足がだらしのない膝を開き、倒れたままで床を蹴る。

「殺す。貴様がリリーを殺したように」

 喚く声が耳障りだ。癇に障る。片膝を着いた姿勢から再びに立ち上がり、近付く有村の暗い瞳の中で、瞳孔が大きく開いている。

 まず、声を出せなくしてやろう。加減はしてやったのに、腹を踏まれた女は汚らしくも唾液を吐き、腹を抱えて丸まった。

「そうか。こういう気分だったのか。弱者を一方的に弄ぶのは」

「やめ……」

「貴様も楽しかったか。リリーで脅し、抗う術もない僕を痛めつけ。そうだろうな。覚えているよ。貴様の愉悦に満ちた顔を」

 やめて。たすけて。呟きながら床を這い、女が逃げる。

 先回りをして、有村はその頭の近くにしゃがむと、先程、廊下からここへ連れて来られるのにされたのと同じ仕草で髪を掴み、持ち上げた。

「バカは貴様か? この軽い頭は覚えていないか。やめて。助けて。僕がそう願った時、貴様は何をした」

「……ごめ……」

「喋るな。黙れ。泣くな。息をするな。さぁ、手本を見せろ。止めて見せろよ、鼓動を」

 性懲りもなく謝罪になりそうな声を出すので、一度、髪を掴む手のまま床へ頭を打ち付けた。

 鈍い音がした。どうせなら、ラグのない場所で叩き付けてやればよかった。

「……うっ、……うぅっ」

 女は呻き、痛いと言う。

「なにを。皮膚が裂けるよりはマシだろう。肉に穴が開くよりは痛くない」

 真っ直ぐに立つ場所から見るに堪えない泣き顔を見下ろして、仰向けの額に足裏を着けた。

「毒に内臓を侵されて死んだリリーは、もっと痛く、苦しかったさ」

 踏みつけるべく浮き上がらせた隙に、女は素早く有村の足の下から逃げる。床の上を転げるようにして。

「……化け物」

 まだ立ち上がるのはつらいのだろう。身体を起こし、片方の膝を立ててこちらを睨むが、両腕は未だ腹を抱えている。

 先の尖った、赤い爪が見えていた。隠そうとする腹で。

「そうだ。貴様がその腹で作った、貴様が産んだ化け物だ」

 振り下ろす置時計が数回、空を切る。逃げ回り、廊下の方へ向かおうとする背中を蹴ると、女は前のめりに転び、倒れる。投げ出された足を掴み、リビングの中程へと連れ戻した。そうしてまた、顔を目掛けて振り下ろす。性懲りもなく、ちょこまかと。今回も、透明なクリスタルが捉えたのは、ただの床。

「逃げるなよ」

「…………っ」

「間違いを正せ。僕の生が誤りであると言うのなら、落とした貴様が罪人だろう」

「…………っ」

 起き上がらせる有村の身体が、ゆらりと揺れる。口元には、微かな笑み。

 傷が付き、端々が割れ、欠けた置時計を、対峙する女との間、自分の正面で持ち上げ、有村は何気なく床へと落とす。

「物を使うのはよそう。貴様と同じにはなりたくない」

「…………」

「目を潰すか。そのあと、耳を削いでやる。鼻も。手も足も、爪を剥いだあとで指を一本ずつ折ってやろうな。意識が飛んだら、起こしてやる。そちら側も楽しむといい。最後は舌を切り落とす。それを詰めて窒息死はどうだ。悪くないと思うが」

 一歩ずつ、壁際へと追い詰めていく。

 化け物。キチガイ。なんとでも言え。

 微笑みを浮かべ、一歩ずつ、有村は目を据わらせて女へと迫る。

「それを作ったのは、その血肉だ。化け物の種は、貴様の中にあったんだ」

 ひと思いに襲い掛かる手から逃れ、泣き、呼吸音を引き攣らせる女が、壁を正面に見る有村の背後へと回り込んだ。

 振り向く途中、まずは揺れて内側を向く膝が見えた。いつの間にか、あのピンヒールは脱げてしまい、無造作に転がっている。

「……来るな」

「…………」

「来るな!」

 向きを変えた身体の正面がすっかりと向き合ってから、有村は床を蹴る。飛び出すように、襲い掛かるように。

 伸ばした手は首の位置。女は足元に落ちていた置時計を拾い上げ、大きく、高く、振り翳した。

「死ね!」

「…………」

 振り下ろされる瞬間に笑いかけ、側頭部に打撃を受けた有村の身体が、受け身も取らずにバタリと倒れた。

 静まり返る部屋の中。残ったものは、荒々しい、たったひとりの息遣い。

「……うそ……こう、た……?」

 女は手にした置時計に血を見つけ、慌てて捨てる。倒れた身体のそばで膝を着き、触れた背中を揺らしてみるが、返事の代わりに、赤黒いシミが大きくフローリングの床に広がっていく。

「……うそ……ちがう……私じゃない……」

 乱雑に荒れた部屋からバッグを拾い、パンプスを拾い、女は廊下を駆け抜けて玄関を出る。

 再びに包まれた本物の静寂の中で、遠く、ドアが閉まる音を聞いた。

 うつ伏せに倒れたまま、引き上げる口角が震える。

「……バーカ。ラクになんかしてやるか。苦しめ。全部失くして、苦しめ……」

 視界がぼやけ、意識が遠退く。

 閉じた瞼に押し出され、涙が数滴、流れて出来る血溜まりへと溶けて行った。

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