記憶
実家にいた十四年間はぼんやりとしていて、ありったけ搔き集めても、想い出と呼べそうな鮮やかな記憶は草間さんや藤堂たちと出会い過ごしたこの数ヶ月分にも満たない。
家でも楽園でもどこででも日常的に、僕にはベッドで落ちる眠りとは別に、目を開けたまま不意に目覚める感覚があった。その間、物が移動していたり、自分が移動していることもある。目が覚めるとそばには必ずリリーがいて、僕をジッと見ていた。
「リリーのお水を替えないと。リリーにご飯をあげないと。外に出してあげなくちゃ。お皿も手もちゃんと見ないといけないの。少しでも汚れてたら、たぶん、僕はちゃんとしたんだと思う。覚えてないけど、僕はそういうことがいっぱいあるの。頭の悪い子だからね、わからないことがいっぱいあるの」
食事も着替えも入浴も、知らないうちに終わっている。ぼんやりしないのは絵を描いている時だけ。全部覚えているのは描いたことと、描いた絵だけ。いつからかは知らない。たぶん、ずっとそうだった。困らない。悪いことをしてたら叩かれたところが痛いはずだから、そうじゃないなら困らない。
夜、急に大きな音がして怒るお母さんの声が聞こえたらベッドを抜け出し、僕は急いで部屋を出る。
「好き……たぶん。帰って来ると嬉しい。今日は見れるかも。見たことがないから見てみたい。お母さんが笑う顔。お仕事の時のは見た。そうじゃなくてね、僕が見たいの。隠れて見てる。僕にくれたのじゃなくてもいいの」
お母さんはたまに帰って来る。肌が真っ白で、フワフワの髪の毛がキレイ。いつも華やかな服を着てる。目が大きくて、口は少し小さくて、すごくキレイ。
お母さんは僕を見ると怖い顔をするから、遠くの階段を上がって二階から会いに行く。手摺りの下の隙間から、一階にいるお母さんに会いに行く。
「……あれ? 声はお母さんなのに、顔が違う。お母さんの鼻はあんなに尖ってないし、顎も。目だってあんな形じゃない。誰だろう。声はお母さん。でも、なんだか変な顔」
木の棒と木の棒の隙間から見ている僕に気が付いて、下りて来なさいと言う声は、お母さん。
変な顔。気持ち悪い。なんだろう。怖い顔。誰だろう。知らない人。でも、声はお母さん。
「お母さん? お顔、どうしたの?」
初めて、顔を叩かれた。
ぶたれた頬が痛くて、痺れるくらい痛くて泣いた。泣いたら、お母さんはもっと、何度も叩いた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。お母さん、ごめんなさい」
吐き気がするから、お母さんって呼ぶなって。
和斗が助けに来てくれた。明子さんも来てくれた。でも、お母さん、渚さんは僕の服を掴んで、反対の手で何度も叩いた。
「私と悠介さんで作ったのに、どうしてお前の髪は茶色い。気味の悪い色の目で私を見るな。気持ち悪い。私とも悠介さんとも違う色のお前の目が気持ち悪い。お前の声が気持ち悪い。喋るな。見るな。気持ち悪い。お前なんか産むんじゃなかった。私と悠介さんで作ったのに」
何度も謝った。謝る時はそうするんだと教えてくれたから、床におでこをつけた。渚さんは頭を踏んだ。これは躾。僕みたいな頭の悪い子は痛い想いをしないと覚えないから渚さんはぶつし、蹴るし、踏む。これは躾。僕が悪い。僕が、気持ち悪い子だから。
その日から、ぼんやりする時間は増えていった。
あとになると、少し思い出すこともある。床にお皿が置いてあるのは、今日はリリーみたいに食べろと言われたから。スープに入ってる虫は、持って来てくれた人が入れた。頭が痛い。そうだ。部屋に来た人に、髪を引っ張って引き摺られた。
「僕が悪い。僕はバカで、気持ち悪い。だから、いいの。リリーをぶたれるより、いいの」
リリーが痛いより、いいの。
リリーを抱きしめるとぼんやりして、痛いのと怖いのは消えてくの。
「お父さんは優しい。撫でてくれるし、褒めてくれる。顔。僕のキレイな顔が好き。キレイだから僕が好き。でも、今が一番で今は永遠じゃないから、僕が醜くなる前に次の僕を用意するって、お父さんが」
突然だとビックリしてしまうから、お父さんが先に教えてくれた。もう少し大きくなって年頃になると、初潮って言って血が出るらしい。そうしたら僕をお嫁さんにして、次の僕を作るんだって。
お父さんは待ってた。僕はなんだか怖かった。おばあさまは、僕はいつか王子様になると言っていたけど、お父さんのお嫁さんになるなら王子様にはなれない。本で読んだ。僕は男の子で、月経は女の子にしか来ない。なら、たぶん僕には来ない。お父さんはずっと待ってた。僕はずっと怖かった。
「脱ぎなさいって言われて服を脱いだら、お父さんが大きな声で叫び出した。どうしてお前にこんな余計なものが付いている。ずっと叫んでいたけど、穴があればいいんだと、先が尖った棒を刺そうとした。刺した。次の僕が作れないって」
机の上に寝かされて、胸に膝がつくくらい、お父さんの力は強くて、顔がすごく怖かった。
「痛い! やめて、お父さん! 痛い! 助けて! 助けて、リリー! 助けて! 助けて!」
学校の制服を着た和斗が部屋に来て、助けてくれた。
裸の僕に制服を着せ、抱きしめてくれた。和斗は泣いてた。僕も泣いてた。お父さんが一番泣いてた。
「お前は誰だ」
優しかったお父さんが僕に出て行けと、和斗に連れて出て行けと怒鳴った。
美しい私の洸太に懸想して忍び込んだな。つまみ出せ。可愛い洸太は私のもの。お前のようなどこぞのガキには指一本も触れさせない。お父さんが怒鳴るのを初めて聞いた。
「僕が洸太だよ? 洸太は僕だよ? お父さん、僕もわからなくなっちゃった。僕が、洸太なのに……」
お父さんは子供が嫌い。だから、僕の部屋ははなれになった。小さな足音すら聞こえなくなったけど、部屋は広くなったからリリーには良かった。
部屋には和斗と明子さんと榊さんしか来なくなった。榊さんは毎日来る。言う通りにしないと、リリーを蹴る。
「言った通りに繰り返す。僕は出来損ない。顔がキレイなことだけが取り柄。頭の悪い出来損ない。いい子にしないと、榊さんの言うことをきかないと、リリーを処分するって言った。お父さんは動物も嫌いだから。僕は出来損ない。ダメな子。バカだから何も考えなくていい。毎日。朝と夜」
部屋がはなれに移ってから、一日の殆どがぼんやりするようになった。絵を描いていたはずの時間さえも。
気が付くと、手が真っ黒に汚れている。汚れているのを見た気がするのだけれど、いつ間にかキレイになっていて忘れてしまう。何も覚えていられない。なにもわからない。忘れたり、思い出したり。どれが夢で本当かわからない。少しずつ、僕が透明になっていく。
「いい子になるのは難しい。怒られるけど、何がいけないのかわからない。いい子になりたいから教えて欲しくて訊くけど、教えてくれない。わからないのは、僕の頭が悪いから。頭の悪い子はいるだけで迷惑だから、邪魔だから、いるのを許してもらうのに痛いのは仕方ないんだって、榊さんが」
毎日ぶたれた。ある日、急に痛くなくなった。わからなくなった。怒っている榊さんの声が遠くに行って聞こえなくなる。顔が真っ黒に見えて、目も鼻も口も見えなくなった。
何も感じなくなった。僕は全部がぼんやりしてた。
「おなか空いた。ずっと鳴ってる。おなか空いた。寒くて怖い。わからないけど、なんだか怖い」
わからないけれど、すごく怖い。息をすると変な音がする。背中が痛い。よく聞こえない。よく見えない。お腹が空いた。寒い。苦しい。怖い。こわい。
「リリーのお水を替えなくちゃ。リリーにご飯をあげなくちゃ。リリーを外に……鍵、開けてほしいなぁ……」
たくさん食べると大きくなってしまうから、ご飯は少し。噛むと顔が崩れるからスープだけ。量は小さい頃から変わらない。僕は少しずつ大きくなっていくけれど。
起き上がれなくなって打たれる注射が怖い。身体が壊れていくのがわかるのが怖い。
声が出ない。涙も出ない。何もない。僕にはリリーだけ。悲しくない。痛くない。つらくない。苦しくない。リリーがいるから。リリーが全部、食べてくれるから。
「全部。全部、夢でリリーが食べてくれる。だから、大丈夫。僕の色だけはキレイなまま。描かなくちゃ。もっといっぱい描かなくちゃ。描くと色が強くなる。この色が、きっと教えてくれる。僕の頭が悪くても、出来損ないでも、色がきっと教えてくれる。だから、僕の色だけはキレイでいたいの。キレイでいるのに、僕はキライを持っちゃダメ。色が濁ってしまうから。全部、好きでいなくちゃ」
僕は頭が悪いから、頭ではわからないかもしれない。でも、僕の色は本当を教えてくれる。だから、僕は僕の色を大事にする。大切にする。色が嫌がるものを全部、リリーに食べてもらいながら。
「悲しいの方かも。お父さんのお嫁さんにならないで済んだけど、僕はたぶん大人になれない。この家の中でサヨウナラだと思う。会いたかった。おばあさまが、僕にも必ず世界のどこかに運命の人がいるって言った。その人を思い浮かべるだけで、優しくも強くもなれるって。おばあさまは思った。おじいさまに出会った時、おじいさまに出会う為に生れて来たんだ、って。僕も、そうだと嬉しい」
小説でも、そういう出会いをする人の話を読んだ。主人公の女の子は動物も植物も大好きで、素直で素敵な子だった。
ああいう人だったらいいな。きっと、一緒にいたら楽しい。毎日が嬉しい。まだ顔は知らないけれど、わかる。世界のどこかにいる僕の運命の人はきっと、見たこともないくらいにキレイな色をしている。
「だって、お父さんも渚さんも僕なんかいらなかった。僕じゃなかった。僕がいるとみんな怒る。邪魔で迷惑。そうじゃない和斗も明子さんも、僕がいなければもっと楽しい家で暮らせたはず。僕が生まれたのは神様の間違いだと思う。だけど、僕は生まれて来たから、ここにいるから、その人に会えたら生まれて来てよかったって思えるかもしれない。笑ってくれるといいな。なりたいな。たったひとり、その人だけの王子様に」
痩せた身体が軽くなり過ぎて、浮いて飛んで行ってしまいそうだから、もっとたくさん本を読んだ。
詰めなくちゃ。知識は軽くて、いくら詰めても僕は浮く。
描かなくちゃ。もしも大人になれたら、この色だけが道標。
汚さない。減らさない。色だけは守らなくちゃ。だから――。
「嫌いは食べて、リリー。僕の中から追い出して。遠く、遠くに持ってって」
嫌い。違う、好き。憎い。憎くない。つらい。つらくない。痛い。痛くない。
持って行って、リリー。僕から消して。そうしたらまた、描くから。
窓の外を見ても、僕にはもう外の景色は見えなかった。近くで鳥が鳴いていても、その囀りは聞こえない。身体中が軋んでる。皮がべったり貼り付いた骨が砕けていくみたいに。
「……お腹が空いた。寒いよ。怖いよ。リリー、僕が消えてしまいそう。もう頑張れないよ……寂しい。寂しい。寂しいよ、ずっと」
僕を思い出して、お父さん。一回でいい。僕の名前を呼んで、お母さん。
みんなが僕を邪魔にするのに、痛いこと、嫌なことをするのに、想うのも、考えるのもいけないことなの? 僕は想ってしまうのに。考えてしまうのに。それも僕が変だからなの?
誰にも愛してもらえないのも、頭が悪くて出来損ないで気持ちの悪い僕の所為、なのかな。
「リリーのお水を替えなくちゃ。リリーにご飯をあげなくちゃ。リリーがいるから大丈夫。あれ? なんで? どうして? リリーが起きない。動かない。なんで。目を開けてリリー。そばにいて。ひとりにしないで。怖いよ。どこかへ行くなら連れて行って。ここにいたくない。色が汚れていくよ。濁っていくよ。真っ黒になる。世界が、リリーが黒くなる。嫌だよ。助けて。僕の世界が汚れていくよ。助けて。僕から色が消えていく」
嫌い。大嫌い。みんな嫌い。ぜんぶ嫌い。
つらい。苦しい。憎い。痛い。寂しい。憎い。憎い。憎い。
「……バカはお前らだろうが。クズめ。外道め。死ね。みんな死ね。消えろ。全部消えろ。そうだ、リリーになって食ってやろう。夢から出して、僕の身体をあげる。憎い。憎い。出て来いリリー。入って来いリリー。 ……ああ、痛くない。苦しくない。気持ちいい。真っ黒で、真っ暗な世界。 ……ダメ。そっちに行っちゃダメ。そっちはお父さんの世界。行っちゃダメ。リリーを見つけたら、僕はまたキレイになれる。リリーを探さなくちゃ。リリーを見つけなくちゃ。逃げなくちゃ。黒が追い駆けてくる。黒が、僕を食べようとしてる。助けてリリー。助けて、和斗」
黒から逃げて、リリーを探して、温室のプールに落ちた月がリリーの目と同じ色をしていたから、リリーに会えると思った。
でも、ずっと和斗を呼んでいた。ちがう。リリーはいない。ここにあるのはリリーじゃない。助けて和斗。黒い水が入って来て、息が出来ない。怖いよ。苦しいよ。寂しいよ。助けて、誰か。
「誰か、ここにいる僕を、みつけて」
遠くで誰かが指を鳴らした。
ゆっくりと目を開ければ、長い夢から覚めていく。
僕の頬は濡れていた。右手を強く握ってくれる人がいた。
「……すごくキレイ。本当だ。すぐわかった。会えた。僕の、お姫様」
ニコリと笑って見せた口角が引き攣る。起きているような、眠っているような夢現。また、ぼんやりとした僕の目は愛しい人を映したはずなのに、その姿が歪み、ぼやけていく。
「――――カッ」
脳裏に、目の前に、大量のフラッシュバック。
息が出来なくなって開いた口から短い声が漏れたのを最後に、僕はあの夏の夜、温室のプールに満ちた真っ黒な水に溺れた。
狂っている。我が子の全てを否定する母親も、逃げ場のない子供を捌け口にする大人たちも、無論、息子に子供を産ませようなどと考えた父親も、みんな悪魔だ。
気を失った有村は深い眠りに就いたような面持ちでいて、先生は佐和と和斗の提案に乗り、催眠を施した。静かに優しく語り掛け、心の奥へと入って行く。時間を巻き戻し、記憶を辿り、最初は五歳、最後は十四歳。リリーが死んでしまった夏の夜まで。
「……有村くん……」
序盤から、耐えても涙は禁じ得なかった。握り返さない手を握り、草間はずっと泣いていた。
叶うなら、リリーの為に生きていた、リリーがいたから生きていられた幼い彼を抱きしめたい。抱きしめて伝えたい。あなたにダメなところなどひとつもない。出来損ないなんかじゃない。言葉の限りに伝えたい。あなたがどれほどに素晴らしい人で、優しく温かい人であるのかを。直向きで前向きなあなたに救われた私の大切で特別な、大好きな人であることを。
話の中盤で、目を赤くした藤堂が呟いた。
「正気でいることが、こんなに惨いのか」
狂えたらラクだった。壊れてしまえれば、こんなにも傷付かずに済んだ。
そうかもしれない。けれど草間は、リリーを支えに、絵を、色を支えに自分を保った有村の手を握り、握り返してくれる瞬間を待ち侘びた。
「洸太くん。洸太くん。私の声を聞くんだ。ここは水の中じゃない。君は助かった。沈んで行くんじゃない。上がって来るんだ。明るい方へ」
呼びかける先生が「呼んで」と指示を出すので、草間も藤堂も有村を呼んだ。
戻って来い。上がって来い。帰って来て、お願い。
痛いと苦しい。そして、怖い。三つの単語を繰り返し、悲痛な声がひたすら叫ぶ。先生は頬に触れ、草間の声を、藤堂の声を、佐和の声を、和斗の声を聞けと言う。
「催眠が解けてない?」
「違う。深く入り過ぎた。隠していた記憶が戻り、溢れている。寺島くん、藤堂くん、彼の動きを封じてくれ。鎮静剤で落ち着かせる。このままでは心が壊れてしまう」
大きく開いた口も目も閉じない。零れ落ちてしまいそうなほど見開かれた瞳は涙を流し、悲鳴を上げ、暴れて身じろぐ。
背中から抱きかかえ、藤堂が必死に名前を呼ぶ。
「行くな! 飲まれるな! 負けるな、有村!」
佐和が草間の肩を抱き、離れるように言ったのだ。暴れる有村の力は大人の男性でも、三人がかりでもやっとかもしれない。
「危ないから離れて、仁恵ちゃん」
「嫌です! イヤ!」
ずっと手を握っていると約束した。そばに、隣にいると約束した。
間に和斗が入り、先生が下がれと腕を出す。草間の腕が伸び、手が離れてしまう。
「ダメ! いま、この手を離しちゃダメ――!」
藤堂が上体と腕を、和斗が足を押さえつけ、先生が袖を捲り上げて白い肌に血管が浮き上がる有村の右腕を露出させた。
腕を掴む逆の手を横へ伸ばすと、受付にいた女性が注射器を渡す。先生は狙いを定め、草間の手が、指が、有村から離れた。
その瞬間、有村はこれまでで一番大きな悲鳴を上げた。他の全員が思わず顔を顰めるほどの、耳を劈く絶叫だ。
「――ヤダァ!」
壊れたみたいな声だった。
声というより、それは天まで届くような、空気を劈く轟音だった。




