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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第二章 発条少年
34/379

そのままでいい

 ボスッと身体の沈む音と共に、分厚いマットに背中をぶつける感覚と、その視界の隅で外れて落ちたバーを見て有村の眉がピクリと動いた。

「どうした、有村。高跳びは苦手かぁ?」

 さして苦も無くここまで記録を伸ばして来たのだが、胸の高さを越えてからがどうも上手くいかない。思ったよりも高さが出ないのだ。感覚としては、あともう十センチくらいは優に飛べるはずなのに。

 どうしたものか、そう小首を傾げる有村の肩に手を置き、次も落としたらそこまでな、と言った体育教師は何やら嬉々としたしたり顔である。

「怖がらないで、もっとこう、思い切って飛んでみろ」

「はぁ……」

 助言など滅多に必要のない有村に、この辺りで踏み込んで、と指導する姿は妙に熱が籠っていたが、その指摘は全くの見当違い。

 有村は何も恐怖心があって跳べないでいるわけではなかったし、どこで踏み込めばいいのかもわかっている。けれど、どうにもタイミングが合わないのだ。ここへ来て、突然に。

 変わったことと言えば、この辺りでようやく脚力らしい脚力を使っていることくらいだろうか。有村は軸足にしていた右足一本で軽くジャンプしてみた。

 箸もペンも両手で扱える有村には利き手という感覚があまりなく、同じように利き足というのもよくわからない。逆なのかな。そうは思ってもラストの一回でそれを試すのは気が引ける。

 そんな様子を、既に二度失敗してあとは授業が終わるのを待つばかりの鈴木と山本と、バーが上がるのを待っている藤堂の三人は少し離れた木陰から眺めていた。

「もっと跳べるべ、アレ」

「靴滑るんじゃねー?」

「初めてだからな。感覚が掴めんのかもしれん」

「ホントお初に弱いよなーって、あれだけ飛べりゃ上出来だけど。これじゃまた運動部からのお誘いが激しくなるな」

「そろそろどっかに名前だけでも入れるか」

「幽霊部員大歓迎なんて、キラッキラの王子様には風当たりのきっついオタクの巣窟しかねーぞ?」

「家庭科部」

「却下」

「あっ! 俺の貸してやっかなー」

「バーカ。テメー、女子みたいな小足で何言ってんだ」

「有村だってちーせーだろ?」

「いくつだっけ」

「二十六半」

「小さくはなくね?」

「俺よりは小さいな」

「大きい靴のコーナー直行の藤堂くんには聞いてませーん」

「僻むな、僻むな」

「忍が藤堂くらいあったら足だけデカくてドナルドみた……ッ、ブハッ!」

「てめッ、きったねーな! デブ! こっち向いて吹き出すなよっ、唾飛んだだろうが!」

「……くっ」

「笑ったな? 藤堂、お前いま笑ったな? よし来いや。泣かす」

「しの……っ、ちょ、藤堂の靴履いて……っ」

「水ひれ……ふっ」

「笑い過ぎだっつーの!」

 調子に乗ってガゴガゴグアグア喉を鳴らし始めた山本を羽交い絞めにする鈴木を眺めてもうしばらく笑ったあと、藤堂はふと、そうか脚か、と思いついた。

「有村! スタートの位置、もうちょっと下げてみろ! 助走の距離が合ってねぇんだ!」 

 口許に手を当て声を張り上げてみれば、まだ斜め上を見上げて思案中だったらしい有村はその大きな瞳を藤堂たちのいる木陰の方へと向ける。

 太陽もすっかり高くなった四時限目だ。日差しの白むグラウンドからは、その木陰がやけに涼しげに見えた。プロレスごっこに忙しい、藤堂の後ろのふたりはともかくとして。

「でも」

 そう躊躇いがちに指差すのは、有村の前で今まさにスタートを切らんとする会田だ。

「距離って勝手に変えていいもんなの?」

「……………チッ」

 出席番号一番、会田悟。

 その所為でいつもこうだと彼は有村に背を向け、片足を一歩引いた状態のまま苦々しく顔を歪める。

「いいんだ! お前と会田じゃそもそもリーチがまるで違うんだから、無理に合わせなくていい!」

「そっか! わかった、そうしてみる!」

 有村洸太、出席番号二番。この悪夢はまだまだ続く。

 ホイッスルを聞いて走り出してはみたけれど、会田はこれっぽちも飛べる気なんてしなかった。記録、かかってたのにな。近付くポールが滲んで霞んだ。

「……オイ。お前また露骨に脚が短いとか言ってやるなよ。会田、走りながら泣いてたじゃねーか」

「ん? そんなことは言ってないが」

「もうさー。お前さー。ホント、有村しか見えないの、ヤメテ?」

 ボスッ。

 うんざりと口角を下げる鈴木を尻目に、跳びもせずに退場した会田のあとに駆け出した有村の身体はそれはそれは見事な弧を描き、分厚いマットに着地した。

「飛べたよー! とーどー!」

「よくやった! 次もその調子でな!」

「うん! 頑張るー!」

 太陽が燦々と降り注ぐ校庭の真ん中と、端の木陰。

 直線距離にして二十メートルはあろうかという場所から嬉しそうに手を振る有村に応えるよう藤堂もその目を細め、俺もか、と体重を預けていた木から背中を離す。

「行って来る」

「いってらー」

「…………」

 ジャージのポケットに手を突っ込んだまま悠々と列へ向かって行く藤堂を、嘆かわしやと目を覆う鈴木は見てもいなかった。

 美形なんか死滅しろと蹲る会田じゃないが、いつもこうだ。

「諦めろってぇ、シノブダックよぉ。無邪気は有村の初期装備だし、可愛いは正義だって藤堂の通常運転だべー?」

「けどよぉ、それにしたって藤堂は有村に甘過ぎねぇ? アイツ、俺よりそーゆーの嫌うのに、なんで有村にその嫌悪感作動しねーの? なして? 有村が人形みてーな顔してっから? そこは認めるぜ? 確かに有村は女ならマジで最強の美人だわ。けど男なんだわぁ……それをお前、仮にも去年のミスター譲葉が、仏頂面を極めた仏頂キングがあんなニヘラ顔……不甲斐ねぇにも程があるだろうがよぉ!」

 つぎ百八十な、という教師の掛け声に測定を終えた有志がバーを上げる中、人数が減ってきたからと列の体を成さなくなった集団の中央で藤堂は徐にしゃがみ込み、前に立つ有村のふくらはぎなど掴んでいる。

「ツったんかなー?」

「知らネェよッ!」

 と、言いつつも。

 俺は絶対慣れたりしねぇからな、なんて嘯く鈴木だって、有村がほんの少し恥ずかしそうに、けれど嬉しそうにはにかむと、ついうっかり絆されてしまったりするのだ。既に慣れてしまった山本も、他のクラスメイトたちも、また然り。

 それも含めて、通常運転。

 今日も二年C組は平和である。



 今週に入ってずっとそうであるように、週末を迎えた今日も彼ら七人は教室の窓際後方の一角を占めて昼食をとっていた。

 菓子パンに埋もれる山本と、椅子にもたれて珈琲を飲む藤堂といういつも通りのふたりの中間で、草間を中心に顔を寄せる女子三人は落合が持って来た雑誌を机に広げ、『この夏のイチオシ水着特集』など眺めていて、なんとなくそのやりとりを聞いてしまうのが心苦しい鈴木がいつもより多めに食って掛かる、そんな昼休みの後半。

「やっぱり体育のあとはお腹空くね」

 そう言ってふたつ目のプリンの蓋を開ける有村に、鈴木の照準は向けられた。

「だったらちゃんと腹に溜まる飯を食えよ。なんでプリンなんだよ、お前の昼メシ。女子か」

「美味しそうだったから?」

「それ美味いよなー。生クリーム乗ってる方? ひと口くれー」

「混ざってる方だけどいい?」

「全然いい!」

「じゃぁ、はい。山本くん、口開けて? あーん」

「あー……」

「ヤメロ! ホモが増える!」

「のんちゃん、うるさい。耳がキーンてする……」

「誰の所為だッ! だれのッ!」

「混ざってる方もうめー!」

 などというやり取りもいつものこと。

 ただでさえ丸い顔を更に丸めてえびす顔を浮かべる山本に、「実はもう一個ある」とまた違う種類のプリンを有村が取り出したところで、いよいよ心配になったらしい草間が少しだけ身を乗り出して来る。

「有村くん、今日はプリンだけ?」

「うん。なんか、そんな気分で」

「そう……」

 昨日はひと口サイズのミニシュークリームで一昨日は細くて長いロールケーキなんていう有村の昼食に、彼女はすっかり戸惑い気味だ。そこですかさず後ろから、有村にはあとでまともな物を食わせるからと言って来る藤堂にも、きっと草間はまだ戸惑っている。

 けれど、やっぱりもうひと口くれと大口を開けて待っている山本に再びスプーンを差し出す有村を横目でチラチラと伺いながらうっすらと頬を染めているのを見れば、大凡食事と呼べる物を殆どとらないことも、授業中にぼんやり窓の外の随分遠くを眺めていたり、帰り道にふらりといなくなったと思ったら『木の上で猫が困ってたから』なんて頭に葉っぱをつけて戻って来たりするのが草間にとってマイナスでないようで、藤堂と鈴木は内心、この上なくホッとしていた。

 有村は真面目な高校生であったし、冷静で客観的に物は見れるし、どちらかといえばしっかり者で八割方常識人だったが、残りの二割で天然だったり不思議だったり宇宙人だったりしたから、ふたりが付き合うと知って、彼らは放課後に主に現れるその二割で草間が愛想を尽かすのではと危惧していたのだ。

「…………っ」

 しかしそれらは全て杞憂だったようで、草間は熱を冷ますどころか、そんな有村を目にする度にはにかんで見せた。

 もしお腹が空いてたらと午後の授業の合間に好きそうな菓子を差し出して来たり、窓の外に何かあるのかと一緒になって首を伸ばしてみたり、葉っぱを払う手を取って『引っ掻かれちゃったの?』などと滲む血に気を遠くしながらも絆創膏を貼ってやったりする。

 心配はするが、呆れたりはしないらしい。寧ろそれが可愛くていいのだという。鈴木が落合から聞いた話だ。カッコイイばかりじゃない方がいいらしい。それを聞いて鈴木は心底、女はわからんと思った。

 けれど現に草間の口数自体は目覚ましく増えていて、相手は主に有村だったが、トータルすれば今までの倍は喋るようになった。それに少しずつ聞き取れるボリュームにもなってきたので、まま上々というところだろう。

「プリンは焼いたのが好き?」

 なんて、草間から話しかける場面も、ここ数日はよく目にした。

「どっちもかな。草間さんは?」

「私も、両方好き」

「俺、抹茶のとかも好きだよ。パンプキンとか」

「あ、バス停の……?」

「そうそう」

「そしたら、あの、イチゴのは?」

「えっ、知らない。そんなのあるの?」

「夏の前くらい、だから、今頃のかな。おいしいよ。好き、だよね? イチゴ」

「うん。好き。へぇ、食べてみたいなぁ。放課後行ってみない?」

「えっ!」

「あ、ごめん。今日は都合悪い?」

「ううん……あの、きゅ、急だったからびっくりした、だけ」

「じゃぁ、付き合ってくれる?」

「う、うん。あっ、あのっ! じゃ、じゃぁ――」

 そして、五日目の今日である。

 草間は怖々ながらも久保や落合だけでなく、藤堂や鈴木や山本の方へも「あの……よ、よかった、ら……みんな、も、一緒に」と、ついに目線を投げて来た。

 相変わらず顔はもげてしまいそうに赤いのだけれど。声も小刻みに震えているのだけれど。

 それでもあの人の顔を全く見なかった草間がと思えば、藤堂は感慨深げにそっと目頭を押さえたし、鈴木は未だに会話の六割ほどを気遣いと努力と半ば超人的な推理で成り立たせている有村を褒め称えてやりたくなった。

 鈴木たちに対しては不足を補い、通訳のようにアシストまでして。

 人見知りを克服しようと奮闘している草間も偉いが、健気と言えばこの五日間の有村だって、充分に健気だった。

「強くなったな、草間……ああ、行こう。行こうな」

「おっ、おう! もちろんよ! なっ、芳雄っ!」

「叩く人、間違ってるよー」

「おっ? あ、わりぃ」

「行こーぜー! プリン食いにー!」

 そんな健気と特例を見せられて、「ひとえっ!」と叫んでその身体を思い切り抱き締めた久保も、ありがたやと有村に手を合わせる落合も、認めざるを得なかったと言うのが正しい。落合はともかく、久保に至ってはまだ有村に対して毒を吐くばかりだったが、頭ごなしに、というのはだいぶ少なくなっていた。

 まぁ、お似合いだったんじゃないの、とか。

 久保にしてはの大きな譲歩に、有村は概ね満足していた。まだ日に十回は、バカだの、軽薄だの、中身がないだのと罵られるが、それより『アンタ』から半分くらいがこっそり『有村』に変わっているのが可愛らしかったので、藤堂に言われるまでもなくあまり気にはしていない。

 大体、予想通り。それがこの五日間の有村の感想だった。予想外だったのは、存外橋本が静かだったことくらいだろうか。あれだけしつこかったのだ、嫌がらせのひとつもして来るに違いないと思ったが、すぐに動くほど浅はかでもなかったらしい。

 なにか企んではいるようだけれど、先手を打つほどの相手でもない。するかしないかは匙加減次第というところで、いざとなれば取れる手段は幾らでもある。

 他人を意のままに動かすのは容易い。餌をチラつかせて、或いは些細な隙に入り込んで、そういう駆け引きは得意な方だ。出来てしまう自分にも、流されてしまう人たちにも、ほとほと辟易していたけれど。

「嬉しそうだね」

 と、草間に向ける笑顔の下で有村は今日も教室を見渡し、小さな綻びに細やかな牽制を放つ。

 この子は、特別。それを絶え間なく見せつけて、知ってもらう必要がある。邪魔をされては困るのだ。この少女の見せる純真が、たったこれだけの問いかけで頬を染める素直さが、真実であると確かめるまでは。

「みんなでいるの、楽しい?」

「うん……すごく」

 有村くんのおかげ、だなんて。草間が言うのでなければ、信じてみようとも思わなかったはずだ。

 彼女からは嘘のにおいが殆どしない。感じ取れたとしても些細なものばかり。それくらいは構わない。吐いたそばから一々痛める胸まで、有村には透けて見えていたから。

 あとはただ確信を持つだけだった。

 昼休みの終わりを告げるチャイムの音に紛れて有村はそっと草間に近付き、まだ赤みの残るその耳元へと囁きかける。多少の色を滲ませて、揺れる草間を観察する為に。

「ねぇ、草間さん。また昨日のクッキー作ってくれる? 今度はさ、ちょっと上手くいかなかったのまで、全部ちょうだい?」

 とびきり甘く強請って、それで弾かれる瞳に困惑や恥じらいしかないのを確かめて、ああ今日も大丈夫だと胸を撫で下ろす自分がいる。我儘なのもわかっていた。求めては欲しい。けれど、その種類を間違えて欲しくないなんて、欲張りにもほどがある。

 でも、叶うなら理想を塗り重ねて欲しいのだ。本物だと信じさせて欲しい。

 せっかく、こんなにも綺麗なのだから。

「上手くいかなかったのは、ちょっと……あっ、でもっ、いつもクッキーじゃ飽きちゃう、よね?」

「飽きないよ。毎日だって嬉しい」

「毎日っ? いや、でも、代わり映えしないし……あの、今度は違うの、とか、も、試してみるっ、みようかなって思って。そうしたら、あの……」

 草間は真っ白だ。

 真っ新で、透明だ。だからもっと近くで見ていたくなる。

「……もらって、くれる……?」

 見ていたらきっと、触れて汚してしまうのだけど。

 汚れてしまったら、きっと飽きてしまうのだけど。

「もちろん! 楽しみにしてるね」

 彼女が、探し求めていた『たったひとり』になってくれたらいいな、なんて。

 有村は灰色の瞳で、期待せずにはいられなかったのだ。

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