夜を終わらせて
わかった気になっていた。
彼の心に大きな傷があること。それがまだ癒えていないこと。
藤堂が患者と呼ぶから、佐和もそうだと言うから、有村自身もそう認めているから、病院へ通い薬を貰う、その必要がある人なのだと草間はわかっている気になって、その実、何もわかっていなかった。
暴れる呼吸に唾を飲み、飛び出した屋上で藤堂とふたり、足を止める。
「…………」
藤堂は、小さな声で有村を呼んだ。
草間は声が出なかった。
夜の更けた屋上。地上九階の、更に一段上。数十センチ高くなった屋上の縁で、真っ白なシャツを着た有村が風に吹かれて立っている。
「……あり、むら……くん?」
呼びかけると、有村がそっと振り向いた。
楽しそうに笑っている。口角は上がっている。けれど、細めた目が少しも、笑っているようには見えない。
「ホラ。言ったでしょ? 友達の藤堂圭一郎くんと、僕が大好きな草間仁恵さんだよ」
トン。トン。
下へだらりと垂らした有村の右手が指を立て、足の側面を叩く。
「ご挨拶、偉いね。良い子」
前に、和斗が言っていた癖だ。寂しい時にすると聞いた。思い出し、草間は気付く。そして、胸の内で和斗へ毒吐いた。うそつき。寂しい時、じゃない。
前へ半歩出た藤堂が、「誰に話してる」と問う。わかってしまったから、草間は思ったのだ。嘘吐き、と。
寂しい時にする癖ではない。呼んでいるのだ。
トン。トン。
足を叩いて、有村が笑う。
「リリー。今日なんだって。やっと、迎えに来てくれた」
トン。トン。トン。トン。
笑う有村の口が横へ裂け、歯列が、あの尖った牙が、すっかりと露わになった。
「見て、リリー。僕が見つけた、綺麗な色。うん。そうだね。綺麗だね。これね、幸せっていうんだよ。草間さんがね、教えてくれたの。嬉しいね、リリー。初めてだね。痛くないし、苦しくない。リリーもわかってくれたんだね――だから、今日だね」
カクン、と傾き、顔だけがこちらを向く頭の角度が、妙に深い。そうして伸びる首でクツクツ笑い、喋る声が、知っている有村の物とは違う。
もっと、幼い子供が喋っているみたい。楽しそうに笑うのに、喋るのに、その声が切なくて、草間は強く唇を噛んだ。
「……リリーが、いるのか。そうか。悪いな。俺には、よく見えん。こっちに来て、ちゃんと会わせてくれないか」
ジリジリと爪先を進めながら、藤堂が話しかける。
聞こえない距離ではないはずだ。屋外でも、風が強くても。そのくらいの声を藤堂は出したのに、屋上の縁で腕を広げ、踊るようにクルリと回った有村はまだ、リリーに語り掛けている。
楽しいね、リリー。
痛くない。苦しくない。怖くない。
嬉しいね、リリー。
あの夜を、やり直そうね。
聞こえる声を聞きながら、瞬きを忘れた草間の目から、涙がひと粒、落ちて行った。
「きらい! みんなキライ! ぜんぶキライ! くさい! きたない! いじわる! みんな、だいきらい!」
空へ向かって叫ぶ有村が、黒と白の紙を千切り、夜へバラ撒く。
「いたいのヤダ! こわいのヤダ! キライ! きえちゃえ! ぜんぶ、たべちゃえ! リリー!」
キライとヤダを吐き出して、次の紙を丸め、有村は食べた。
「……まっくろ。だけどまだ、くさまさんがすき、それだけ、きれい。だから、いこう、リリー。ぼくがぜんぶ、くさるまえに、まっくろに、なるまえに」
両腕を開いた有村の名を呼び、藤堂が駆け出す。
「――――嬉しかった。もう、充分だ」
駆け出した藤堂を追い抜き、草間は両腕でしっかりと、有村の腹を抱え込んだ。
飛びつくように抱き着いて、前へ体重をかけ始めた有村を止めた。けれど、引き摺られそうになるから必死で、藤堂を呼んだ。
「助けて! 藤堂くん!」
「…………っ」
ふたりがかりで、十数センチ高い縁から、有村を引き摺り下ろした。
嫌がる有村はまだ表か裏かが真っ黒な紙を数枚持っていて、草間の足元へそれが散らばる。真っ黒だ。屋上の内側へと必死で動かす草間の足と藤堂の足はそれを踏み、有村は右手を前へ伸ばした。
「嫌だ! もう、痛いのは嫌だ! 怖いのは嫌だ! ひとりは嫌だ! 連れてって、リリー! もう嫌だ!」
戻ろうとする力は強いが、縁は徐々に遠くなる。
腹を抱える藤堂が草間に抱き着けと言い、草間が有村の首元へ腕を回してしがみ付くと、下がる速度が上がって行く。
「生まれてなんか来なけりゃよかった! あのまま病院にいればよかった! みんなと会わなければよかった! 知らなければ、こんなに苦しくなかったのに……出来損ないだから、頭がおかしいから、僕は普通が遠いのに……!」
藤堂が有村の名を呼ぶ。草間も呼んだ。何回も。
「連れてって! 早く! 藤堂を、草間さんを……連れて行きたくなるから、早く! リリー!」
抵抗し、暴れ、泣き喚く有村が言った。
「好きなんて、ならなきゃよかった……」
呟き声だったその言葉が聞こえた瞬間、草間の手が有村の濡れた頬を打っていた。
――パチン。
夜の屋上に、乾いた音が響いて消える。
思えばいつも、こうして頬を打つのは夜だ。
「それでも、私は、有村くんが好き」
今回の草間は泣いていなかった。涙は出たので赤みは差すが、霞んでいない視界で、目で、真っ直ぐに有村を見た。
「会えてよかった。生まれてくれて、よかった。好きだよ、有村くん」
吹き抜ける風がサラサラと、夜の中では暗い色に見える有村の髪を揺らす。
草間は膝をつき、しっかりと抱きしめて、その髪へ頬を寄せた。
「有村くん。一緒に、病院に行こう」
「…………」
「佐和さんから聞いたの。有村くんはまだ不安定で、ちゃんとした治療が出来てない、って。だから、一緒に行こう。つらいかもしれないけど、私、ずっとそばにいるから。手を、繋いでるから」
「…………」
「信じてる。有村くんは、ちゃんと向き合って、乗り越えられる。また泣いたっていい。泣いて、叫んでいい。私はずっと、そばにいる。今度は私に分けて? ちゃんと、有村くんと一緒に、受け止めるから」
もっと。もっと。
隙間もないくらいに回した腕を引き寄せて、草間はそっと、目を閉じる。
冷たい風が吹いていた。冬の夜風が有村の心まで凍えさせないように、草間は全身で抱きしめた。
トク。トク。トク。彼の鼓動が聞こえる。
行かないで。連れて行かないで。強く願って、顔を埋めた。
「だから、もう、長い夜を終わりにしよう?」
リリーを呼び続けていた有村の右手が、冷たいコンクリートの上へ落ちた。




