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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第九章 主人公たる少年少女
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夜を終わらせて

 わかった気になっていた。

 彼の心に大きな傷があること。それがまだ癒えていないこと。

 藤堂が患者と呼ぶから、佐和もそうだと言うから、有村自身もそう認めているから、病院へ通い薬を貰う、その必要がある人なのだと草間はわかっている気になって、その実、何もわかっていなかった。

 暴れる呼吸に唾を飲み、飛び出した屋上で藤堂とふたり、足を止める。

「…………」

 藤堂は、小さな声で有村を呼んだ。

 草間は声が出なかった。

 夜の更けた屋上。地上九階の、更に一段上。数十センチ高くなった屋上の縁で、真っ白なシャツを着た有村が風に吹かれて立っている。

「……あり、むら……くん?」

 呼びかけると、有村がそっと振り向いた。

 楽しそうに笑っている。口角は上がっている。けれど、細めた目が少しも、笑っているようには見えない。

「ホラ。言ったでしょ? 友達の藤堂圭一郎くんと、僕が大好きな草間仁恵さんだよ」

 トン。トン。

 下へだらりと垂らした有村の右手が指を立て、足の側面を叩く。

「ご挨拶、偉いね。良い子」

 前に、和斗が言っていた癖だ。寂しい時にすると聞いた。思い出し、草間は気付く。そして、胸の内で和斗へ毒吐いた。うそつき。寂しい時、じゃない。

 前へ半歩出た藤堂が、「誰に話してる」と問う。わかってしまったから、草間は思ったのだ。嘘吐き、と。

 寂しい時にする癖ではない。呼んでいるのだ。

 トン。トン。

 足を叩いて、有村が笑う。

「リリー。今日なんだって。やっと、迎えに来てくれた」

 トン。トン。トン。トン。

 笑う有村の口が横へ裂け、歯列が、あの尖った牙が、すっかりと露わになった。

「見て、リリー。僕が見つけた、綺麗な色。うん。そうだね。綺麗だね。これね、幸せっていうんだよ。草間さんがね、教えてくれたの。嬉しいね、リリー。初めてだね。痛くないし、苦しくない。リリーもわかってくれたんだね――だから、今日だね」

 カクン、と傾き、顔だけがこちらを向く頭の角度が、妙に深い。そうして伸びる首でクツクツ笑い、喋る声が、知っている有村の物とは違う。

 もっと、幼い子供が喋っているみたい。楽しそうに笑うのに、喋るのに、その声が切なくて、草間は強く唇を噛んだ。

「……リリーが、いるのか。そうか。悪いな。俺には、よく見えん。こっちに来て、ちゃんと会わせてくれないか」

 ジリジリと爪先を進めながら、藤堂が話しかける。

 聞こえない距離ではないはずだ。屋外でも、風が強くても。そのくらいの声を藤堂は出したのに、屋上の縁で腕を広げ、踊るようにクルリと回った有村はまだ、リリーに語り掛けている。

 楽しいね、リリー。

 痛くない。苦しくない。怖くない。

 嬉しいね、リリー。

 あの夜を、やり直そうね。

 聞こえる声を聞きながら、瞬きを忘れた草間の目から、涙がひと粒、落ちて行った。

「きらい! みんなキライ! ぜんぶキライ! くさい! きたない! いじわる! みんな、だいきらい!」

 空へ向かって叫ぶ有村が、黒と白の紙を千切り、夜へバラ撒く。

「いたいのヤダ! こわいのヤダ! キライ! きえちゃえ! ぜんぶ、たべちゃえ! リリー!」

 キライとヤダを吐き出して、次の紙を丸め、有村は食べた。

「……まっくろ。だけどまだ、くさまさんがすき、それだけ、きれい。だから、いこう、リリー。ぼくがぜんぶ、くさるまえに、まっくろに、なるまえに」

 両腕を開いた有村の名を呼び、藤堂が駆け出す。

「――――嬉しかった。もう、充分だ」

 駆け出した藤堂を追い抜き、草間は両腕でしっかりと、有村の腹を抱え込んだ。

 飛びつくように抱き着いて、前へ体重をかけ始めた有村を止めた。けれど、引き摺られそうになるから必死で、藤堂を呼んだ。

「助けて! 藤堂くん!」

「…………っ」

 ふたりがかりで、十数センチ高い縁から、有村を引き摺り下ろした。

 嫌がる有村はまだ表か裏かが真っ黒な紙を数枚持っていて、草間の足元へそれが散らばる。真っ黒だ。屋上の内側へと必死で動かす草間の足と藤堂の足はそれを踏み、有村は右手を前へ伸ばした。

「嫌だ! もう、痛いのは嫌だ! 怖いのは嫌だ! ひとりは嫌だ! 連れてって、リリー! もう嫌だ!」

 戻ろうとする力は強いが、縁は徐々に遠くなる。

 腹を抱える藤堂が草間に抱き着けと言い、草間が有村の首元へ腕を回してしがみ付くと、下がる速度が上がって行く。

「生まれてなんか来なけりゃよかった! あのまま病院にいればよかった! みんなと会わなければよかった! 知らなければ、こんなに苦しくなかったのに……出来損ないだから、頭がおかしいから、僕は普通が遠いのに……!」

 藤堂が有村の名を呼ぶ。草間も呼んだ。何回も。

「連れてって! 早く! 藤堂を、草間さんを……連れて行きたくなるから、早く! リリー!」

 抵抗し、暴れ、泣き喚く有村が言った。

「好きなんて、ならなきゃよかった……」

 呟き声だったその言葉が聞こえた瞬間、草間の手が有村の濡れた頬を打っていた。

――パチン。

 夜の屋上に、乾いた音が響いて消える。

 思えばいつも、こうして頬を打つのは夜だ。

「それでも、私は、有村くんが好き」

 今回の草間は泣いていなかった。涙は出たので赤みは差すが、霞んでいない視界で、目で、真っ直ぐに有村を見た。

「会えてよかった。生まれてくれて、よかった。好きだよ、有村くん」

 吹き抜ける風がサラサラと、夜の中では暗い色に見える有村の髪を揺らす。

 草間は膝をつき、しっかりと抱きしめて、その髪へ頬を寄せた。

「有村くん。一緒に、病院に行こう」

「…………」

「佐和さんから聞いたの。有村くんはまだ不安定で、ちゃんとした治療が出来てない、って。だから、一緒に行こう。つらいかもしれないけど、私、ずっとそばにいるから。手を、繋いでるから」

「…………」

「信じてる。有村くんは、ちゃんと向き合って、乗り越えられる。また泣いたっていい。泣いて、叫んでいい。私はずっと、そばにいる。今度は私に分けて? ちゃんと、有村くんと一緒に、受け止めるから」

 もっと。もっと。

 隙間もないくらいに回した腕を引き寄せて、草間はそっと、目を閉じる。

 冷たい風が吹いていた。冬の夜風が有村の心まで凍えさせないように、草間は全身で抱きしめた。

 トク。トク。トク。彼の鼓動が聞こえる。

 行かないで。連れて行かないで。強く願って、顔を埋めた。

「だから、もう、長い夜を終わりにしよう?」

 リリーを呼び続けていた有村の右手が、冷たいコンクリートの上へ落ちた。

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