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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第二章 発条少年
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また、夏が来る

 竣工間もない雑居ビルの五階。

 そのワンフロアを占めるクリニックに、彼――有村洸太は月に二度ほどのペースで通っている。

 自身の診察にかかる時間は大凡二十分ほどであるが、入れ替わりで現在の保護者がそれより少々長く、このクリニックに通う患者の全てを担当する医院長と話し込む。トータルの滞在時間は一時間弱といったところで、有村は毎回その半分以上の時間を待ち惚けに充てなければならなかった。

 何もすることがない時間というのが、有村は殊更不得手だ。彼は静かに過ごすのを好むが、三分と経たず手持無沙汰になる。

 退屈という名の拷問。そんな苦痛を癒してくれるのもまた、甘いチョコレートやひと口で頬張れる菓子だった。サクサクと小気味のいい音を立てながら、今夜のお供は歯応えばかり凄まじい、炭の味がするクッキーだ。

 脇に置いた鞄の中にある袋はリボン柄。言わずもがな、これを持たせたのは交際開始数日の草間である。

 未だもって毎回緊張に身体を揺らしながら差し出して来る彼女には到底言えないが、お世辞にも美味いとは言い難いクッキーだ。焼き過ぎだし、砂糖も足りていない。けれど有村が思うにこのクッキーの価値は草間がかけた手間と時間で、味などは二の次。なので鞄には他にも市販の菓子が幾つか入っていたのだけれど、有村は選んでこのクッキーを食べている。

 なにをどうすればここまで硬いクッキーに仕上がるのか。岩盤クッキーとは、藤堂も上手いことを言ったものだ。

「それ、誰かからのプレゼント?」

 そうしてサクサクに至る前に数回、ガリッだの、バリッだのと奥歯で粉砕する必要のあるクッキーがあと僅かになった頃、受付カウンターの奥にいる看護師のひとりが声をかけて来た。

「珍しいねぇ。洸太くんが手作りのお菓子を受け取るなんて」

 手を止めて頬杖など着きながらニヤニヤと眺めているのは彼女の業務が一段落しているからで、今日の診療時間が終わっているからだ。

 完全予約制のこのクリニックで毎回一番最後の枠を宛がわれる有村と、すかさず「もしかして、彼女?」と重ねてくるもうひとりと、付き合いはそれぞれ二年以上になる。

「えっ! 洸太くん、彼女出来たの?」

「違いますよ。ただの友達です」

「えー、ホントー? 嘘くさいなー」

「先生には内緒にするからさぁ」

 彼女たちの気分は宛ら、可愛い弟を構いたくて仕方のない姉のそれだ。

 初めて制服で来た時は「一周回って」と強烈に強請ったし、アルバイトを始めたと言ったら客として様子を見に来たほど。空いた時間にこうして雑談を交わすのは毎度のことだった。

「だから違いますって。そういうのに興味ないの、知ってるじゃないですか」

「そうだけど、いつもだったら一枚どうですか? とか言ってくれるじゃない」

「一枚どうですか? ……苦いですけど」

「苦いの?」

「苦いのに食べてるの?」

「まぁ……貰ったので」

「彼女じゃん!」

 もう一度違うと言ったところで彼女たちが引かないのは知っているので、くれたのは実家が洋菓子店を営んでいる鈴木ということにして、有村はこの場を切り抜けようと決めた。苦しい言い訳でも、それはそれ。これはただの雑談だから、正直に答える必要もない。

 それに草間が作ったクッキーだから食べているのは事実だったけれど、有村は恋人がくれたものだから食べているわけではなかった。この違いはきっと彼女たちには理解してもらえないだろう。藤堂たちでも小首を傾げるのだから。

 有村は最後の一枚を頬張り、空袋を鞄の奥の方へ捻じ込んだ。味が良いわけじゃない。でも、美味しいと思う。草間が込めてくれたであろう真心を思えばそれだけで、このクッキーは有村にとってウエストやステラおばさんを優に凌ぐクッキーだった。言葉にするのは難しいけれど。

「作ればいいのに。いいよー? 恋人って。休みの日に予定立てて出掛けたりさ。ちょっと寂しいなぁって夜に、メールしたり電話したり」

「いいですよ。そういうのは」

「まぁまぁ、そう言わずにさ? 疲れたなーって時には甘い物より断然、好きな人の声だったり、一緒にいると充電出来たりするよ?」

 洸太くんなら可愛い子も綺麗な子も周りにたくさんいるでしょ、なんて、見た来たようなことを言うふたりの声を聞きながら、有村はひたすら口の中に広がって貼り付いたクッキーの欠片を追い出すのに忙しかった。

 せめて飲み物を用意してからにすればよかった。彼はこの手の後悔をよくする。

「って、いうのが足りないっていう切ない話ですか? これ」

 頬の片側を膨らませて言ってみれば、「可愛くない」とふたり続けて罵られ、有村は目線を逸らしたまま小さく微笑む。揃って機嫌を損ねた振りをしながら、最初に話しかけてきた方が冷たい紅茶を持って来てくれたからだ。

 ありがとうございます。そう言って顔を上げると、彼女は口直しに飴玉をくれた。真っ赤なストロベリー味。包みに何も書かれていない、彼女の昔からのお気に入りだ。

「不味いわけじゃないんですよ」

「じゃぁ嬉しかったのかな。洸太くんは」

 言った頭を撫でられて、有村は少しだけ不思議な気持ちになった。

 そうか、嬉しかったから全部食べ切りたかったのか。そうやって彼はひとつずつ学習していく。なるほど、それなら藤堂と意見が分かれるはずだ。

 どうやら『嬉しい』と『美味しい』は同じ天秤に乗らないのだと知って、有村は飴玉を口へ放り込んだ。甘い。だけど草間のクッキーより、もっと食べたくはならなかった。美味しいと感じる、というのは、やはり二年くらいでは難しいらしい。

「まぁ無理して作るものでもないからね。まずは学校に慣れて、大勢でいるのが大丈夫になってからね」

「お友達とは相変わらず仲良し? なんて言ったっけ。あの、背の高い」

「藤堂ですか」

「そうそう、藤堂くん。いい子よね、彼」

「カッコイイしね!」

「そうですね」

「大切にしなくちゃね」

「はい」

 藤堂は一度だけこのクリニックに来たことがある。時間外に急患ということで、有村を担ぎ込んだのだ。ふたりはその時もカウンターの中にいた。まだ有村が藤堂を『藤堂くん』と呼び、藤堂が有村の下の名前を覚えていなかった頃の話だ。道路には桜の花弁が散っていた。

「あー、やっぱり今日、真夏日だったって。暑かったもんねぇ」

 一日中音を消していたテレビのボリュームを上げて、カウンターの中のひとりが言った。

「大丈夫? 洸太くん」

 そう言ってまた、近くにいる方の看護師が有村の頭を撫でる。

「大丈夫ですよ。僕はもう、ひとりじゃないので」

 告げた言葉に嘘はなかったが、有村は『ひとりじゃない』というのも中々難しいものだと思っていた。

 誰かといても触れていなければ、今しがた熱中症には気を付けてと月並みなことを言ったテレビの中のアナウンサーと変わりない。そう思えば有村はいつだってひとりではなかったし、いつだってひとりだった。

 半身を失った十四の夏。

 あれから、三年が経つ。

 身長は十五センチほど伸び、体重は三十キロ近く重たくなった。あの頃、枯れた小枝のようだった腕は今やしっかりとした筋肉を纏う男のそれだというのに、蒸し暑さの残る風もない静かな夜には、ゆらゆら揺れる月明かりと肺に満ちる水の息苦しさを思い出し、何も出来ない脆弱を突き付けられる。

 ただ、そうして込み上げる憂鬱を隠すのは格段に上手くなった。特に二週間に一度、たった一時間にも満たない間しか触れ合わない人たちに読まれるような浅い所に、置いておくようなマネはしない。

 有村はふとソファの上の鞄を見やり、失敗作でも、もっとたくさんくれたらいいのにと思った。

 あの硬いクッキーは紛れもなく草間が作った物で、それを噛み砕いている間は息が出来る。自分の中に、誰かがいる。その事実に、たまらなく安堵する。

 冷たい紅茶を飲み干して、有村は空いた紙コップをクズ籠に捨てた。

「お待たせ。帰るわよ、洸太」

「うん」

 診察室から出て来た待ち人と、それによく似た目許を持つ医師を見やり、有村はにっこりと微笑んで見せた。



 最後の患者を見送ったあと、ポケットから真っ赤な飴を取り出した方がテレビを消して窓の外を眺めていると、もう片方が中断していた書き物を再開しながら「なにを考えてるの?」と問いかけた。

「んー。洸太くん、また少し感じ変わったなーって」

「二週間で?」

「二週間で。いやぁ、子供の成長は凄まじいですなぁ」

 初めて会った頃はこのくらいだったのに、と手を翳して見せるのは、彼女の顎の下辺り。ふと物憂げな視線をペン先に落とした方の印象では、もう少し小さかったように思う。

 実際の身長よりずっと小さく見える子供だったのだ。いつも下を向いていて、呼吸をしているのかもわからないくらいに動かない子供だった。

 出会ってから最初の二ヶ月ほどは、言葉が話せないのかと思ったくらいだ。痩せ細ったあの少年は、まるで植物みたいにそこにいた。何を求めるでもなく、抜け殻のような顔をして。

「先生は渋ったけどさ。佐和ちゃんの言う通り、洸太くんは学校へ行って良かったよね」

「そうね」

「友達も出来たし、なんか楽しそうだし……笑ってくれるようになったし」

 両方の口角に指を当て、クイっと上へ持ち上げる。

 そんな仕草をして見せた同僚に、カウンターの向こうの女性は「懐かしい」と頬を緩めた。痩せこけて持ち上げる肉もない頃から、ふたりはそうやって有村の口の端を上げては、笑ったら可愛いのにと瞬きひとつしない無表情に話しかけ続けてきたのだ。あの頃の自分たちが今の彼を知ったなら、きっと半分くらいは嘘だと思うはず。

 或いは、夢だと思うのかもしれない。

「確かに、洸太くんは見違えたわ。元々良い子だったし、抑えていただけで好奇心も旺盛だったしね。あの子はこれからもどんどん変わっていくんだと思う。でも、まだ恋愛は難しいんじゃないかしら」

「そうかなぁ。洸太くんって聞き上手だし、とっても気が付く子だから、恋愛させたら本物の王子様みたいになる気がするよ?」

「そうね。あの子は頭が良いから、どんな相手にもピタッと合わせることが出来る。しかも、彼にとっては一切の偽りなく、ね。あの子といれば誰だって恋愛上手になれた気がするでしょうし、話術に長けている気もするんじゃないかしら。口下手な子なら、きっと不思議に思うくらいのはずよ。どうして彼には何でも話せてしまうんだろう、って。洸太くんは()()()()()()だもの」

 カウンターの奥で机に向かう彼女が持つペンは、つい一時間ほど前に有村が受付票に名前を記入するのに使った物だった。出会った頃、まだ有村が目だけ動かす子供だった頃には、このペンのひとつでも命取りになった。文字通り、あの不幸な子供から命を奪いかねない物だったのだ。

 他の誰にでもない。有村自身が、その手で。絶望に暮れたからでもなく、ただほんの少し外出するような素っ気なさで、そうすることが当然であるかのように。

「洸太くんは強い子よ。あんな環境で十四年間も正気を保ったまま、ひたすらに耐えてみせた。()()()()()()。でもその結果、彼は他人に尽くすことでしか自分を認められなくなってしまった。あの子の本質は、きっと曲げようと思って歪められるものではないのでしょうにね」

 俯いてカウンターに隠れた顔から目を逸らし、窓の外に落とした視界の隅に、下の駐車場から出て行く赤い車が過った。

 例えば運転席に座る彼女のように彼の不足を理解して、受け止めてくれる人がいればいいと思う。夜を怖がる彼を抱き締め、朝になっても側にいると笑いかけてくれる人がいれば。時折、どうしようもなく溢れてしまう彼の心を、ほんの少しでも引き受けてくれる人がいれば。

 そんな人が彼に寄り添ってくれたら、と、願って止まない。

「色んなこと、我慢し過ぎちゃったんだよね……誰にも助けてって言えないまま、助けて欲しいって思うことも忘れちゃうくらい」

「感じない方が幸せだったのよ。そうでなければ耐えられなかった。それほどの孤独を抱えたあの子を愛せる人は、そう簡単には現れないでしょう」

「作ってあげることで頭がいっぱいで、苦いクッキーくれるような普通の高校生には無理?」

「無理よ。いずれ逃げ出すくらいなら、下手に根を張る前に消えてもらいたいものだわ」

 悪態めいて返したカウンターの向こうの彼女とて、胸の奥ではそう願っているのに違いないのだ。

 けれど、彼女の方が一ヶ月ほど有村との付き合いが長い。その一ヶ月が、彼女にまたボールペンを眺めさせる。誰かが心から彼を愛してくれたなら、そうは思うけれど、人間は実に気紛れな生き物だ。

 クルクルと回るペンの先を見つめながら、彼女は瞳の奥を暗くした。

 永遠なんて、十七歳の子供たちが語るには、あまりにも重過ぎる。

「あの子はたったひとりを愛したがるけど、彼の為には替えが利かないとダメなのよ。いつも相手にしてる擦れた大人ならまだしも、恋に恋してるような年頃の子に、洸太くんは背負いきれない」

 外の世界を知ってから、まだ二年と少し。

 その二年でいくら見違えたとは言っても、あの少年の心にはまだ根深い孤独が住み着いている。

「寂しい夜に抱いて寝るだけ。休みの日に遊びに行くだけ。そういう相手ならいいだろうけど、もし洸太くんが()()()()()を見つけてしまったとして、万が一また置いていかれるようなことがあれば――」

 クルクル回るペンの先。ケーキに添えたフォーク。裂いたシーツ。

 例えば小さく丸めて鞄にしまったあのリボン柄のビニール袋でさえ、当時なら彼の中で違う意味を持ったのだ。凶器に成り得なくなっただけマシにはなったのだろうけれど、彼は今も懸命に努力し続けている。

 愛しいリリーの元へ、行ってしまわないように。

「――あの子はきっと今度こそ壊れてしまうわ」

 そう言って、カウンターの中のポーカーフェイスは書類の残りを書き上げると、静かにファイルを閉じた。

「だから、今はまだ仲の良い友達でいいんじゃない? 藤堂くんを受け入れたのだって奇跡に近いと思うけど、強引に入って行くだけじゃ洸太くんは深い場所には踏み込ませない。あの苦いクッキーの子がもっと丁度良い感じでスルッと入って行ってくれたら、まぁ怖いの半分、楽しみではあるけどね」

 業務の終了と共に看護師としてではなく柔らかい微笑みを湛えた先輩へ向け、少し若い方の彼女は「そうだね」と、悲しく見えないようにそれより大きな笑みを返した。

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