閉じていく
落ち着きを取り戻したリビングで、「戻った方がいいよね」と有村が呟いた。
「いま戻れば、遅くてもお昼休みには間に合うし、午後だけでも」
戻った方が、ということは、本心では戻りたくないということだ。そう思うのは当然という顔で、藤堂はどっかりとソファの背に身体を預ける。藤堂とて、有村の心中は察して余りあるものだ。
「いいだろ、もう。午後っつっても一限だけだ。面倒臭ぇ。サボろうぜ。どうせ誰も、お前が戻って来るなんざ思ってねぇだろ」
「慣れているね。さすがは不良」
「ふん」
その点、藤堂の隣に座る草間は違う。真面目な良い子はズル休みが初めてのようで、一点を見つめて固まる顔がまた、地蔵のようになっている。その胸では煩いほどに、鼓動が慌てているのだろう。
「お前は戻るか。アレの言う通り、上手くすりゃ四時限目にも間に合う」
「ううん」
揃えた足へ下ろす草間の手には、携帯電話が握られている。普段は通学鞄の脇に差しているのだけれど、たまたま写真を見せ合っていてそのまま、ブレザーのポケットに入れていたらしい。
そこへ、少し前に落合からメールが届いた。有村の様子を窺うものだったが、返信したあとも草間は携帯電話を持ったままでいる。
「私も、今日はサボる。キミちゃんがあとで鞄を持って来てくれるっていうし、ひとりで戻っても、どんな顔してればいいか、わからないし」
有村が詫び、草間は有村の所為ではないと答えた。自分がそうしたいから、ここにいたいからだと答える声には迷いがないが、二年連続でクラス委員長を務める草間にとって『サボり』とは大罪のようだ。
「無理すんな、委員長。しれっと行って、しれっと授業を受けりゃぁいい。なに言われても流してよ」
「大丈夫。一日くらい、いい。私だって、それくらい」
「不良になった気分か?」
「ワルなの、私」
「ぬかせ」
たったの一日サボったくらいで、飛び出した有村を追い駆けたくらいで何を言う。藤堂は笑い、「煙草でも吸うか」と言ってみた。当然、草間は「吸わないよ!」とこちらを向き、地蔵顔でなくなった。あの顔がブスだから、やめた方がいい。
「それね、本当に、よくないと思う。身体に悪いし、いま、先生たちもピリピリしてるんだよ。吸い殻が見つかったみたいで。荷物検査とか、あるかも」
「大丈夫だよ」
そう告げて会話へ入って来た有村はキッチンにいる。沸かした湯で、珈琲と紅茶を淹れているのだ。
回復が早いのは真っ赤だった目元も同じで、今ではもう泣いたこともなかった頃の顔をしている。キッチンカウンターの向こうにいると、接客しながらラテアートでもするカフェ店員のようだ。
「藤堂は持ち歩かないよ。夜に外へ出て、どこかで一服するんだろう。今朝は少し油断したね。僕がシャワーを浴びている間に、ベランダで吸った?」
「見てたのかよ、風呂場から」
「見えるようではあったかな。君のそれは反抗じゃない。とっておきの気分転換なら、あとで一本ちょうだい」
「……クソが」
トレイにカップを三つ並べて運ぶ有村に、草間はまた「ダメだよ」と言う。笑う有村の顔を見れば、わかるだろうに。コイツが一番、言っている。そんなものはやめてしまえ、と。
居心地悪く顔を逸らした藤堂の前に、香りのいい珈琲が置かれた。
「実を言うと、学校へ行きたくない。今日だけじゃなくて、しばらく」
「…………」
「行った方がいいのは、行かなくちゃいけないのは理解している。でも今は、叱られても慰められても、つらい」
「そうか」
珈琲を口へ含み、藤堂は「いいんじゃないか」と返した。素っ気なく告げ、また珈琲をひと口。隣の草間は物言いたげで、藤堂を見る目は今朝の有村に苦言を求めた時のものと似ている。
「しばらくって言っても、来週になりゃ期末が始まる。それには出るだろ、どうせ」
「うん。そのつもりでいる」
「騒ぎになるのは仕方ない。そこでお前が数日休めば、禁句扱いで黙るヤツはいるかもな。今のお前が、それを狙ってるようには見えんが」
「…………」
「好きにすりゃいい。絵でも描いてろ」
「……うん」
今朝、有村はこういう気分だったのだろうかと、藤堂は少し思った。
落合からのメールで、学校はやはり、かなりの騒ぎなっているらしい。二時限目からは普通に授業があったというが、C組はその最初で事情聴取の真似事をされたようだ。
何があったか、何を見たか。橋本たちは連れて行かれたまま戻って来ず、今回ばかりは穏便にというのも難しいだろう。なにせ、これまでの散々を穏便に済ませて来た張本人が、ここにいるのだから。
何度目かになる溜め息を吐き、藤堂は項を掻く。あれこれと考えるのは苦手だ。何事も、なるようになる。
「じゃ、俺はコレ飲んで帰る」
「えっ」
返した有村の目は丸く、視線を投げる藤堂は相変わらずの涼し気な三白眼だ。驚かれた方が驚きだ、という顔をしているのだが如何せん、藤堂は表情が薄い。
「落ち着いたみたいだし、あとは草間だけでいいだろ」
「えっ、いや……」
物言いたげな有村に構わず、藤堂は草間へ「いいよな」と短く確認。草間が頷いたので、これで終いだ。
「で、でもさ、藤堂だってこの時間、フラフラしてるとアレじゃない?」
「慣れてる。不良なんでな」
「藤堂……っ」
有村の気持ち、若しくは願いは察したつもりだ。これで付き合いは長くないながらも浅くない。親友の面倒な性格を理解しているからこそ、藤堂は残りの珈琲を何食わぬ顔で飲み干した。
「ごちそうさん。じゃぁな」
「藤堂!」
ソファに草間を残し、有村は玄関までついて来た。引き留めたいのはわかっている。わかっていて、藤堂は一秒でも早くこの部屋を出たいのだ。
袖を引かれても知らぬフリ。藤堂は靴を履き、食い下がる有村へと目線を投げる。
「乗馬の時にお前が言ったろ。落馬したら早いトコ、リベンジしろと」
「なんで今その話を?」
「同じだ。安心しろ。お前のバカ力は、ブチギレてる時しか出ない。怖いんだろうが、まだ。草間にリベンジさせてもらえ」
「藤堂」
「あのな。俺だって馬には蹴られたくない」
「藤堂!」
乗馬で始まり、馬で終わる。上手く纏めた顔で頷きを残し去って行く藤堂に置き去られ、閉まったドアに有村は思う。いつもは気なんか遣ってくれないくせに。確かにまだ、異性に触れるのは怖かった。
出そうとすれば出てしまう力が怖い。藤堂ですら制止するのに苦労する、自らの力が怖い。
ひとりきりの玄関で狂暴を働いた手を見つめていたら、背後から草間の声が有村を呼んだ。
さて、どうしよう。リビングへ戻っても、有村はキッチンへ立ち寄ったフリで、草間がいるソファへは近付けない。何が、リベンジをさせてもらえ、だ。草間にだけは、もしもがあってはならないのに。
「有村くん。こっち、おいでよ」
「うん」
返事はするが、足は重い。ただ、部屋を漂う沈黙に負け、有村はキッチンという名の城を出ざるを得なかった。
ソファで草間が、こちらを見つめて待っている。実に草間らしい、曇りなき眼だ。
物言いたげでもなければ、ただただこちらを見ているというような目が居た堪れず、気まずさの限界で有村はテレビのリモコンを手にした。頭の中は速度を上げて回転しており、どうにか草間と距離を取ったまま過ごせる時間潰しを探している。
「テレビでもつけようか、ね。この時間ってどんなのやってるんだろう」
「有村くん」
「ああ、見て? すごい、美味しそうな海鮮――」
「――有村くん」
どうやら今日は運にも見放されているらしい。生魚が全く食べられない有村は二度目に呼び掛けに、「はい」と、苦悶の表情をテレビ画面へ向けたままで答えた。
どうしたって、傷付けたくないのだ。万が一にも、もしもがあっては困るのだ。
俯くしかなくなった有村の背中へ草間が飛び込み、身体の前へと細い腕が巻き付いた。
「邪魔だって、ひとりになりたいって言われたら、私も帰る」
しっかりと抱き着かれ、抱きしめてくれる草間へ有村が、心にもないことを口に出来るはずもない。
負けだ。完敗だ。有村は諦めた。そもそも、草間を相手に勝てた試しもないけれど。
「……ずるいよ、それは」
「うん。知ってる」
指先から、掌全体へ。恐る恐る触れ、重なり合った小さな手は、温かかった。
とりあえずつけたテレビではタレントたちが賑やかに、何か食べたり、何かのクイズを答えたりしている。話題のスイーツや、観光スポット。流行りのファッション。誰かが勧める名店でのグルメレポート。次から次に情報が垂れ流され、ソファへ座り、画面へ横顔を向けている有村には耳の上辺を撫でるよう、何ひとつとして入っては来ない。
有村の指先が頬へ触れると、草間はそっと目を閉じ、嬉しそうに微笑んだ。
「君が怖がりだなんて嘘だ。僕が怖い僕のこと、どうして、怖がってくれないの?」
頬へ乗る有村の手に自らの手を添え、草間は柔く、頬擦りなどして見せる。
「だって、怖くないんだもん」
ちっとも怖くない。そう告げる草間が目線を上げ、見つめていた有村は囚われたような感覚を覚えた。目を逸らせない。引き込まれる。いつから、草間の瞳はこんなにも強い引力を纏うようになったのだろう。
近頃。少し前。最初から。どれも正解のようで、正しくはない気がする。
澄んだ草間の瞳に映る自分の姿は、有村にはひどく情けない男に見えた。
「……しないの? キス」
頭を傾け、草間が言う。
見える、ではない。途方もなく、自分が情けない。
「……したら、君の口を食い千切ってしまうかも」
言いたくないのに、真剣に答えたのに、草間は軽く、大きく笑った。
今だけは、きちんとそのまま受け取ってほしい。冗談じゃない。本心だから、きちんと。
「有村くんは、ホラー映画を観過ぎなんだよ。しません。そんなこと」
また、まともに受け取ってもらえなかったのだと思った。いつも通り。また、届かなかったのだ、と。
けれど、苦しくなって投げた視線の先、笑うのをやめていた草間の目は、真剣だった。
「しないよ、有村くんは」
そう告げて、草間は有村の手を持ち上げる。
小さな両手で包むように、浚われて引き寄せられて行く右手を、目で追った。
顔のそばまで引き寄せて、草間はその指先にキスをした。
「……ごめんね。私には、これが限界」
「…………」
「だから……して? 有村くんから、キス」
促されるまま吸い寄せられ、引き寄せられるまま唇を重ねた。
触れるだけ。一回。二回。
また泣いてしまいそうになり、躊躇う三回目の前で、草間の細い指が頬を撫でた。
「…………」
見つめ合う至近距離で、草間は、何も言わない。
何も言わずに、真っ直ぐ目を見つめている。ジッ、と。そうして、少し笑った。
「……すき」
たったの二文字が、やっと想いで声になる。
これまで何度も言って来た。ついさっきも、藤堂へ向けて、浴びせるほど持ち出した。
なのに、草間へ捧ぐこの一度、それは胸を抉るほど、重くて深い言葉だった。
「好き……好きだ、草間さん……すき……好き……」
「…………」
「ごめん。好きだ……草間さん……くさま、さ――」
苦しい。好きで、愛しくて、苦しい。
怖かった。こんな慰めを求めては、貰っては、受け取ってはいけないと、わかっている。
「――ちがうよ」
「……え?」
「私いま、慰めてない」
なんで、わかった?
口に出していない。言ってない。
驚きに大きさを増す有村の目を、草間はまだ見つめている。
「わかるよ。言わなくても。有村くんの目が、そう言ってる」
「…………」
「……もう、しない?」
「……する」
三回目、触れる直前で躊躇った。
重ねてしまえば、触れるだけでは終われなかった。
何度も、何度も、キスをした。吐息を乱し、抱き合い、貪るように、何度も。
「……はぁ……っ」
すぐに、何も考えられなくなった。
けれど、有村は思っていた。草間とのキスに溺れながら、この瞬間、この部屋の外が全て、滅びてしまえばいいのに、と。
僕と、彼女。
世界が、僕と君だけの物になればいいのに。




