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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第八章 暴走少年
319/379

この名前に相応しい

 人生初のケンカの名残り。腫れた頬の痛々しさが、ようやく目立たなくなった。

 あのあと戻った学校で、藤堂は散々に大泣きの久保に責められ、真に反省したようだ。因みに、有村も草間に大層、涙ながらに叱られた。藤堂を助けたのはいいが、もっと大怪我をしていたらどうするのだ。草間がいの一番に無事を確かめたのは右手で、それが少し面白かったのは内緒だ。

 久保の保護に安田の手を借りてしまった手前、有村と藤堂は事情を訊かれる羽目になった。以前にケンカをした相手が徒党を組んで仕返しに来た。藤堂は久保を盾にされ無理矢理に連れて行かれたことにして、居場所を探しに行った有村は通報する前に巻き込まれてしまったことにした。

 今回は不問にするが、次はないからな。

 そういうわけで、有村の気掛かりだった『問題』にはならずに済んだ。

 とはいえ、藤堂の素早い手当により痣だらけの藤堂よりは無残でなかったとして、顔に傷を作った有村というのは忽ち、校内の話題を掻っ攫った。広まる噂の筆頭は、藤堂のケンカを止めようとして巻き込まれた、というもの。間違いではないが、有村は後日、両手で持ちきれないほどの防犯ブサーを貰う羽目になり、今も持ち帰ったその処理に悩んでいる。

「……すっごく弱く見えるんだろうなぁ……まぁ、別にいいけど」

 大声で『助けて』を言う練習もさせられた。防犯ブザーの使い方も、嫌というほど見せられた。

 クラスメイトがくれる気遣いへの感謝だけで受け取ったけれど、そうも軟弱に見えるのだろうかと、ひとり歩く帰り道、有村は自らの腕を見て、確かに藤堂よりは細いかもと思ったりする。

「それなりには鍛えてるのに、なんで太くならないかなぁ」

 引き締まるばかりで、どこもかしこも厚みが付かない。筋肉を育てるに適した食材が好みでないのを含め、体質だから仕方がない。

 暴漢くらいは撃退出来る。和斗仕込みの護身術と、元ボクサーであるキイチ仕込みの身のこなしにも自信がある。どちらも自慢する気はないとして、有村がどこか不満に思うのは、草間にも脆弱だと思われていることだ。可愛い恋人にまで何かあったらとにかく逃げろと言われるのは、どうにもに切ない。

 でも、やらないだけで、やればそれなりだよ、と口に出すのも、くだらない『オレ強い』アピールみたいで恥ずかしい。どうしたものか。出口のない思案で溜め息を吐きながら歩いていると、最後の角を曲がれば見えて来るマンションの前に停車している見慣れた車を視界が捉え、咄嗟に一歩戻った有村を、目敏い声が呼び止めた。

「顔のことなら知ってるから、出ておいで」

「…………」

「おいで、洸太。出て来なさい。事情は聞いてる。怒らないから」

「…………」

 怒られるというより、面倒なことになりそうで隠れたのだが、ブロック塀の角から顔を出して覗く先ですぐに目が合う和斗は、そこで何時間でも待つ男。

 仕方なく、渋々出て行き近付くと、和斗は怒らず、来るものと覚悟した滾々と続く説教をしない代わりに、掘るほど深い溜め息を吐いた。

 誰から聞いたのかと思えば、即日、草間からメールが来たそう。どうせ報告しないであろう有村にそうと知らず会うよりは、先に話しておいた方がいいと判断したようだ。

「正解だよ。何かあったら言うように言ったよね、俺」

「うん」

「痛みは?」

「ない」

「次は通報して、手を出さないこと。いいね」

「はい」

 次に会ったら草間を待ち伏せた件で釘を刺すつもりでいたが、今はただの藪蛇なので、有村は大人しく口を噤んだ。

 学校では問題にされなかったとはいえ、こちらではどうなのだろう。恐る恐る尋ねると、知っているのは和斗と佐和だけで、特に大事にはしないそう。

 巻き込まれたケンカの一回、別に取り上げることでもないと告げた和斗の訪問は意外にも、その件に関してはおまけだった。苦言はこれだけ。ただ話はあると言って、ドアを開けた助手席を勧めて来た。

「佐和さんと話したら、九州からすぐ、次は大阪へ出張だってね。あんまり話も出来てないって聞いて、俺もだなって思って、様子を見に。この間、また薬が変わったろ? その辺も気になってさ。もっと早くに来たかったんだけど、俺も大学がちょっと忙しくて。どう? 副作用、出てない?」

 飲んでいない、とは言わない。

 ただ、飲むのをやめて多少改善されたように思うから、思い当たる節を打ち明けた。

「ぼんやりする。ちょっと前のことを、何してたっけって、たまに」

「……そうか。それは、少し困るな」

 シートへ座ると、和斗が助手席のドアを閉め、有村は思いがけない夜のドライブへと繰り出した。

 


 知らなかった。夜に車を走らせるのは、和斗の気分転換らしい。

 運転するのが好きだとは聞いていたが、ただ一時間ほど適当な道を走ると、多少の悩みは解消するのだという。似たことを佐和も前に話していて、車好きの定番なのかもと考えたりした。

「山本くんのお母さん、補助金申請のみで被害届は見送ったようだけど、よかったのかな。話を聞く限り、ほとぼりが冷めたらまた来そうだ。暴行で訴えられたのに」

「色々と知らなかったことがあったから、それだけでも助かったと仰っていたよ。いい人を紹介してくれて、本当にありがとう。これまでは相談出来る人もいなかったようで、和斗にも礼を、と」

「一応、引き続き出来る限りのサポートをお願いしておいた。ない方がいい。あっちゃ困るが、もしもの時はシェルターも用意出来る。折を見て、そう伝えて」

「うん。ありがとう」

 久々に会ったということで、最初は和斗に協力を仰いだ山本の両親の件から入った。酒が入ると暴れてしまう父親は有村が撃退して以来、今も姿を見せてはいない。

 和斗が山本の母親に紹介した弁護士はその手のプロで、法的処置を勧めたそうだ。離婚しても数年間、金銭をせびられていた。家で待つふたり息子を盾に脅され、仕方なく。

 そうした件は強い手段に出ないと終わりがないこともあるらしいが、有村は山本の母親から直接、元とはいえ夫であり息子たちの父親であるその人を犯罪者にはしたくないと聞いた。勿論、山本一家が平和に過ごせるのが大前提ではあるが、情がある母親が尊い人に思えた。

「そうだ。洸太。二回目じゃないか。ケンカ、乱闘は今回が初でも、武力行使は山本くんのお父さんにも」

「うん」

「覚えた護身術なんかが実用に耐えると知って、気軽になっていやしないだろうね。山本くんの時は暴れるのを制圧しただけだからまだしも、ケンカは言い訳が出来ない。警察沙汰になって、連行されるのだけは勘弁してよ。隠しきれる自信がない」

「ごめん」

「それにね。いくらなんでも人の頭を蹴るんじゃない。洸太の蹴りは強いんだ。威力を知ってるから、ゾッとしたよ」

「そんなことまでメールを?」

「藤堂くんから聞いたそうだよ。あのね。蹴るにしても頭って。躊躇わなかったのがダメだって言ってるんだ。 ……けど、ごめん。怒らないって言ったからね。ここまでにするけど。本当に、無力化の最短で致命傷を負わせるのはやめなさい」

「はい。すみません」

 眼球も見たし、脈が安定しているのも確かめた。狙った通りに脳震盪だったよ、も、今は言わない方がいい。寄って集って暴行されている藤堂を見た瞬間、何かのスイッチが入ったのは確かだった。

 気持ちが萎縮するだけ膝がピタリと揃う有村を見て、和斗は伸ばした手で髪をグシャグシャと掻き回した。久しくされていなかったが、和斗が有村を褒める時の癖だ。

「山本くんやお母さんを、今回は藤堂くんを助けようと必死になった結果なのはわかってるよ。大切な人を守ろうとした。個人的には、褒めたい。よくやったね」

「悪いことをしたのはわかってる」

「知ってる。だから反省はしてほしいし、次は回避を優先してほしいけど、弟が友達の危機にも足が竦んで動けない弱虫じゃなくて、お兄ちゃんとしては嬉しいよ」

 照れ臭くて、有村は和斗の手を今更避けた。

 両手がハンドルで揃った和斗に言わせれば、有村は昔からそうだったという。普段は静かに、大人しくしているが、リリーが犬として手荒に扱われると迷わず飛んで行って覆い被さり、怒鳴られようと、叩かれようと退かなかった。

 聞かされたとして、有村にその記憶はなかった。小さい頃のことだからと和斗は言う。屋敷にいた頃の生活は単調で、目的も目標もなくただ過ごすだけだった所為か、どれもぼんやりとしか思い出せないのだ。

 そういえば。そのような風体で、有村は和斗に尋ねる。

「あのさ、和斗。藤堂とそんな話をしてね、ふと、思ったんだけど。リリーの死因ってなに?」

 病院へ運ばれて長い眠りに就いていた間に火葬され、骨壺は和斗が持っている、というのは知っている。住まわせてもらう家に遺骨は、と苦い顔をされ、代わりに形見の首輪を貰った時に、有村は和斗からそれだけ聞かされていた。

「年齢的に寿命だったのかな。だとしても、なにか病気を抱えていた? 動物病院へ連れて行ってくれるのは明子さんだったし、僕が知らされていなかったのかと思って」

「いいや。俺も病気だったとは聞いてない。健康だったよ、リリーは」

「なら、なぜ急に? 今まで気にならなかったのが不思議だ。理由があったはず。知ってるなら、教えてくれない?」

 一緒にベッドへ入り、朝、目が覚めた時には息を引き取っていたリリー。ずっとそこで止まっていて、何故というところにまで考えが及んだことがなかった。

 藤堂と話していて、有村はそれがとても不思議だったのだ。わけもなく死んでしまうはずがないのに、そのわけを一度も考えなかった、など。

 見つめる有村を見つめ返し、和斗は表情を曇らせた。

「ごめん。本当のことを言うと、詳細はわからないんだ。検診は受けていたし、目立った異常はなかった。ただ、確かに年齢で見れば、そろそろという歳ではあった。一応、獣医さんに話は聞いたけど、突発性の病気が急変して、という可能性が高いそうで」

「たとえば?」

「内臓疾患では、ということしか。病名を調べるには、解剖するしかないと言われた。お前なら、死んでしまったあとでもリリーの腹を切るなんて嫌がるだろうと。ごめん。勝手に判断して、調べずに火葬した」

 ごめん。最後の一回の謝罪で、和斗は僅かに頭を下げた。

 その必要はないというつもりで、有村はまた笑みを浮かべる。和斗は自分を思い遣ってくれたのだ。眠っている間だったというのに、きちんと願いを叶えてくれた。言うべきである、お礼を告げた。

「謝らないでよ。ありがとう、和斗。リリーの身体を傷付けない選択をしてくれて」

 治療の為ならまだしも、なぜ死んだのかを知る為だけにメスを入れるなど、有村には考えらない。リリーは死んでしまったのだ。自分が納得したいというだけで、その尊厳を穢したくはない。

 笑う有村を見て和斗も笑うが、まだ、眉や目元が頼りない。心配げに有村を見つめ、和斗は一度だけ頭を撫でた。

「強くなったな。こんな話が出来るとは、洸太が笑ってくれるとは思わなかった。リリーが死んでしまったこと、ちゃんと受け入れられたんだね」

 三年も訊いて来ないから、火葬するまでのことは墓まで持って行くんだと思っていたと、和斗が笑う。その込み上げるような優しい笑顔が和斗らしくて、有村の頬も緩んだ。

 訊かないから、話さないでいてくれたのだ。和斗はいつもそう。有村が知りたがる時だけ教えてくれて、傷付く前には心構えが出来るように準備をさせてくれる。こういう所は、お兄ちゃんというより保護者みたい。

 気まで緩んだのか、有村の肩が下がった。

「草間さんのおかげでね、なんとか。 ……あぁ」

「どうした?」

「あの時も僕、藤堂を相手に暴れたみたいで。よく覚えてないんだけど、藤堂に怪力って怒られた」

「洸太ぁ」

「ちょっとよくわからなくなってて」

「洸太」

「気を付ける」

「くれぐれもだよ」

 指をさされて注意され、有村は再び、しょぼんりと背中を丸めた。

 楽園に住む獣医、佐々木の話では、動物には急死も珍しくないという。発症した病が数日の内に急激に悪化し、死に至る。その急変を異変として人間が気付けない場合も少なくない。ピッタリと寄り添っていた有村が気付かなかったのなら、リリーはそうした症状が表に出なかったのだろうと和斗に話して聞かせたそうで、誰の所為でもないと締め括ったのだという。

 気になるのは、リリーが苦しんだかどうかということ。こうして穏やかに、訊き出されるのではなく有村が自主的に最後の日の話を和斗とするのは、初めてだった。

「目が覚めて、布団を持ち上げて見た時は、本当にただ寝ているみたいだったな」

「顔もキレイだったしね。苦しくても、長くはなかったよ、きっと」

「うん。綺麗だった。白いシーツに横たわって――」

 ――今、一瞬、頭の中を何かが過った。

 写真のような短い映像が、一瞬だけ。急に言葉を切った有村を呼ぶ声で意識を戻せば、過ったことすら曖昧な、ほんの一瞬の出来事。

 布団を捲ると、足があった辺りでリリーが横たわっていた。白いシーツに、黒い毛並みのコントラスト。白と黒。それから――。

「どうした?」

「ううん。その時のこと、思い出して」

「そっか」

 それから。そこから先が思い出せず、有村はふと俯いた。

 リリーが寝ていた。それだけのはずだ。それだけ。なのに何かが引っかかる。

「……ねぇ、和斗。解剖をしなかったから、リリーは綺麗な身体のまま、天国へ行けたんだよね?」

 死後の世界、天国など信じていないが、有村は尋ね、和斗を見遣る。

「そうだよ。綺麗なまま」

 運転する和斗を見て、和斗が纏う色を見ていた。

 夜の暗い車内で、瞬きを止めた有村の瞳孔が開く。

「……うそだ。どうして嘘を吐く」

「嘘なんか」

「嘘だ。噓の色だ。嘘を吐くな。何故、嘘を吐く」

 捲し立てると、和斗は戸惑うように視線を迷わせ、黒色を濃くした。

 嘘を吐いた。和斗が嘘を吐いた。僕が大嫌いな、嘘を吐いた。

 開き切った大きな目を見て、和斗は一度の長い瞬きをした。

「そんな目で見るなよ。嘘っていうか、言いたくなくて」

「…………」

「言うよ。言うから、そんなに睨まないでくれ。小さな傷はあった」

「なぜ」

「洸太が引き摺って庭を歩き回ったからだ。石か何かで擦ったんだろう。そういう傷が少しあった」

 言えば洸太が気にすると思って。和斗はそう告げ、溜め息を吐く。

 すると、見える和斗の色が変化した。嫌な黒でなく、思い遣りの色に。そうして有村は久々の瞬きをし、疑ってしまったことを和斗に詫びた。

「ごめん。最近、ちょっと過敏になっているみたいで」

「見える色に? 今の俺は真っ黒だった?」

「うん。ごめん」

「いいよ。季節柄のものだろう。洸太は昔から、寒くなるとナーバスになりやすかった。素直に話さなくて、ごめん」

 今は、少し明度の低い悔むような色が見えている。和斗の言葉と相違がないので、有村はもう一度だけ謝った。

 この、見えている色も厄介なものだ。無視出来る色ならいいが、いま和斗に見えた色は我慢ならない色だった。そういう時に目を逸らせないのでは、集団生活は難しい。

 幸い、学校でここまでの濃い色を見ることは少ない。多数が混じって雑多になるのは、塗り潰されるのとは違う。理解してくれる友人がそばにいてくれるのは幸運だ。

 見られた和斗は今、気にしていないかのように笑っている。彼からすれば今更のこと。有村は物心がついた頃から、自分にだけ見えているこの色と共に生きている。寄り添う和斗にしても、似たようなものだ。

「けどさ。その色のことにしても、藤堂くんたちは理解してくれて、有難いよね。嘘はナシなんでしょう?」

「うん。たまにちょっと見える時はあるけど、必要なものだとわかるから」

「それも、いい変化だと思うなぁ。前は嘘の色が少しでも見えたら嫌がった。正直、まるで嘘のない正直者だけの世界じゃ、戦争になるからね。必要な時はあるし、悪いものばかりじゃない。そういう余裕が持てたのも、いい友達を持ったおかげだね」

「うん」

 和斗にそう言われる度、有村は少し誇らしくなる。藤堂たちは得難い友人。多分、一生モノ、というやつだ。

 本で読んだ時にはまるでわからなかった。ずっとそこにあるものなど知らない。そんな話をつい先日、落合としたばかりだ。そこにいてくれると言ってくれた。あの言葉はとても、嬉しかった。

「彼らを、今を、大事にね。学校を出て家へ戻ったら、今のようには過ごせなくなるんだから」

「うん」

 答えた胸が、胸の奥の方が、チクチクと痛んだ。

 その痛みに、有村はそっと胸の真ん中へ手を当てる。なんだろう。酷く、胸が痛い。息が詰まる感じがする。いずれ家へ戻るのは、最初から決まっていたことなのに。

 なんだろう。どうしてだろう。考えるほど痛みが増していく。なのに、思考は上辺で空回るよう、同じ場所で立ち止まっている。

 わかっていること。決まっていること。

 佐和との同居を解消し、生家へ戻ったあとのこと。

 微かな音で始まった耳鳴りが、徐々に近付く気配がした。

「和斗。訊いたことなかったと思うんだけど、僕は、戻ったあと何になるの?」

「なにって?」

「家を継ぐといっても家業じゃない。財産だって、元を糺せばお祖父さまからお借りしているものだ。僕は、家へ戻って、何になる?」

 胸が痛い。痛くて、運転席の和斗を見ても、色が見えない。

 薄暗がりの中で和斗が言う。子供の頃から言われ続けてきた言葉。和斗から聞くのは初めてだったが、「お前は有村の家の為に生きるんだよ」、と。

「当然だろう? お前は有村の血を引く、直系の男子なのだから」

「和斗……」

 今は胸が痛くて仕方がないから、待って。それが言えず、言い出す前に、和斗が淡々と話し始める。

「お前に相応しい環境。相応しい立場がある。これまでが不当だ。家へ戻ってそれからは、お前は有村の者として相応に扱われるし、扱わせる。それが世話役であり、洸太が代を引き継げば執事となる俺の役目。責務だ」

 責務。たったそれだけの言葉で、有村は初めて、和斗との間にある線引きや列記とした壁、距離を思い知らされるようで湧き上がる別の痛みで、胸が強く締め付けられた。

 わかっている。和斗は命じられて、幼い頃から世話役をしてくれていること。

 それでも有村はどこかで、仕方なくではないと思っていたかったのだ。役目だからだと、和斗にだけは言われたくなかった。そう思っていたことに、言われて初めて気が付いた。

「……僕に相応しいって、なに?」

 問いかける声が震えている。何故か急に、不安で堪らなくなった。

「全てだよ。有村の者が手にすべきもの、持つべきものを持ち、将来的には本家の嫡男と遜色なく、幾つかの企業や財界、政界への影響力を持ち、手腕を発揮することになる。寧ろ、お前の方があらゆる面で優れているからね。洸太の代で幅を利かせるのは暎彦でも、実権を握るのはお前だろうな。安心していい。洸太は控えめだから不安を覚えるだろうが、大丈夫。洸太は充分に、その器だよ」

「……ぼく……」

「若い内は吸収もラクだからね。もっと色々なことに興味を持ち、学ぶといい。数字に強く、語学も堪能。策略向きで、人心掌握術も身に付けているから、必要なのは、あと――」

「和斗!」

 怖くて怖くて仕方がなくて、有村は和斗の腕を掴み、機関銃のような言葉を雨を止めさせた。

 要らない。そんなもの、権力など要らない。欲しくない。持ちたくない。なのに、有村の家に生まれた男だから受け入れるしかない現実が襲い掛かって来て、気付けば呼吸が乱れている。

 名前だけでいいと思っていた。また人形に戻ればいいのだと。

 和斗はそうじゃないと言ったのだ。人形として育てられたのに、戻ったら急に有村の家の者として正しくあれと。正解など、見たこともないのに。

「……僕は、高校を出るまでは、このままでいられるんだよね?」

「問題を起こさなければ。俺の気持ちとしては、成人するまでそう出来るよう尽くすつもりでいるよ。洸太の心の問題が解決、癒されることが第一だ。心の健康を取り戻してくれるまでは、それを先決に動くとも。今の環境は好ましいと思うし、洸太に合ってる。いずれにせよ、旦那様はまだ当主気取りはしたいらしいからね。代替わりが出来なくちゃ、始まらないし」

「父さんが生きている間は、こうしていられる?」

「それは無理だ。洸太には戻ったあと、こちらで学んでもらわなくちゃいけないこともたくさんある」

「……僕は」

「――洸太」

 ネオンを抜ける夜の車道。和斗はふと、道路端に車を停めた。

 そうして、シートへかけたまま身体を向きを有村の方へと寄せ、伸びてきた迷いのない手が、腫れの引いて来た頬を気にせず掴んだ。

「心配だな。利口なお前は当然に理解していると思っていたけど、一度、きちんと確認した方がいいかい?」

「……なに、を……」

 こちらを向く和斗を見つめると、停車した運転席の窓の向こうを次々に、眩しいヘッドライドが追い抜いていく。

「今の生活や環境は、今だけのものだ。治療が終わり、佐和さんとの同居が解消になって家へ戻れば、お前は有村の者として相応しい場所へ身を置き、見合う人間だけをそばに置く。今ここで得られる経験以外のものは全て、ここを去る時には捨てていくんだ。友人も、恋人も」

 後ろを通り過ぎる明かりの所為で、逆光になる和斗の表情が見えない。助手席の有村には、暗闇から和斗の声だけが聞こえている。

 痛みを伴うほどに響く、耳鳴りの合間に。

「不自由を強いられ、洸太はあまりにも世間から乖離し過ぎてしまった。友人を作り、恋人を作り、自身で人間関係を構築する練習が出来たことは、一定の成果だ。人の数だけ個性があり、それぞれ適した使い道、扱い方があるからね。たくさん出会い、学びなさい。あと数ヶ月か、数年か、戻って来るまでは好きにするといい」

 鳴り響く甲高い音が煩くて、和斗は声まで途切れ始めた。

 何とか聞き取ろうとするけれど、刺すような痛みで、言葉が頭の中まで入って来難い。

「勘違いをしないでね。藤堂くんたちを否定するわけじゃない。いい子だし、俺も好きだよ。ただ、有村の人間と肩を並べるにはそれ相応の能力と、一定以上のステータスがないとね。心地が良いだけじゃ、有用とは言えない。キャリーさんたちもそう。個人的には素晴らしい方々だと思うけど、有村の人間が関わるに適した人たちじゃない。特に婚姻は慎重にならないと。最大限、洸太に有益な人を用意する。草間さんも素晴らしいと思うけどね。あの子に、有村の家へ入り、妻としての役目を全うするだけの器量はないと思うな」

 上手く聞き取れない。聞き取っているとすれば、理解が出来ていない。

 耳から始まった痛みが頭を締め付け、一回、全く耳鳴りだけの音が支配した。

「だからね。草間仁恵といられるのも、ここにいる間だけ。知り合いの方はまぁいいとしても、彼女だけは清算しなさい。いいな、洸太。戻る時、必ずだ」

 限界まで激しくなった音と痛みが途切れていたので、薄暗い車の中、和斗を見つめる有村はさもおかし気に笑い出した。

「やめてよ、和斗。ちゃんと聞いてる。口パクで聞いてるか試すなんて、僕らでもしないよ」

「……口パク?」

「わかったよ。僕だって暴力は嫌い。もう、ケンカなんか二度としないから」

「洸太、お前……」

 薄暗い中でも、有村が顔を顰めていたのは見えていた。痛がるように、何かを避けるように。和斗は有村の肩を両手で掴み、引き寄せたヘーゼルグリーンの瞳を覗いた。

「聞こえなかったのか、俺が言ったこと」

「聞いてたよ。え? リリーの話? 首輪は今、机の引き出しに入れてて」

「そのあとの会話は。お前が戻ることになったら、周囲を清算するって話は!」

 清算。その単語に合わせるように、助手席の有村がまたどこかを痛がるかのよう、右目の周辺を中心に顔の右半分を歪ませた。

「……佐和さんは今、大阪だよ」

「…………」

 向き合ったまま呼吸が荒くなっていく和斗は掴んだ肩を揺らし、「俺を見ろ」と強く求める。

「洸太。俺の目を見ろ」

「見てるよ。暗くて、わからない? 変だよ、和斗」

「変になってるのはお前だ。洸太、目を合わせろ!」

「だから、合ってるって。しつこいなぁ。そういうところだよ、和斗」

「…………」

 瞬きをしない大きな瞳は確かにこちらを向いている。

 しかし、瞳孔の開き切ったヘーゼルグリーンと和斗は、全く目が合っていなかった。

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