負けなかった人が、頑張った証拠
視力を取り戻した有村の胸の中で、草間が告げる。
昔、姉の痴態を見てしまったことがあるのだと。その時、素直な心が気持ち悪いと思ったこと。幼い頃には似ていると言われた姉の顔を思い出し、見られたくないと思ったのだ、と。
「音がして、ぶたれたのかと思って。お姉ちゃんがいじめられてるんだと思って部屋に行ったら、ドアが少し、開いてて」
あの女のことだ。どうせ、隣の部屋にいる妹を知っていて、そのドアは開けられていたのだろう。
草間はいま泣いていない。詫びてもいない。打ち明け話の悲しい声を、有村は黙って聞いていた。
「私、やっぱり顔、似てるから」
「似てないよ。どこも似てない。君は可愛い。向こうは、意地悪な顔だ」
「でも、姉妹だから」
「藤堂とみさきちゃんも兄妹だけど似てないよ? 同性じゃないって言う? ならね、山本くんの所も、弟くんは似てないよ。スラッとしててね。どっちかって言うと、のんちゃんの方が近いかな。不思議だね?」
「そうなの?」
「そうだよ? 手足が長いから、身長は山本くんを抜くかも。兄弟だからって似てるとは限らないさ」
少し明るくなった声が、「トウリくんだっけ」と尋ねて来る。会ったことはないが、話にはたまに出る名前だ。年齢を訊かれたので、みさきと同じ十歳だと教えた。みさきより身長が高いことも。
「正直に言うね。顔はちゃんと見えなかったけど、声、すっごく可愛かった」
「うそ」
「嘘吐いてどうする? 機嫌取りなら顔も可愛かったって言うよ」
「そうじゃない」
「うん?」
「有村くんは、顔を見て何か言ったりしないって、わかってる。そうじゃなくて、私が、嫌だっただけ。ああいう顔してるの、いや、だっただけ」
有村くんに見られるのは、その次に、恥ずかしかっただけ。そう言って、草間はギュッと抱き着いた。
抱き返し、髪を撫でながら思う。どう見えるか、誰に見られるかじゃなく、自分が嫌だったから。その類は、他人が気にするなと言って容易く披露出来るものじゃない。そうであることが嫌なのだ。他人の意見に乗じて否定も肯定も出来ないから、根深いのだ。
さて、どうしよう。似ていない。可愛いと、本心をあと何度繰り返したとて、草間は納得したフリをするか、晴れない心にどうにか折り合いをつけるしかない。それは有村が嫌だった。かといって、可愛かったはずの草間の顔を見られないのは、もっと嫌だ。
それを見て、何も言わないとわかっている。草間はそう言った。たぶん、似ていないと言ったのも、可愛いと言ったのも信じてくれている。その信頼が、有村にひとつの決心をさせた。
「慣れていこうか、これも」
「え?」
顔を上げる草間を見つめ、浮かべた笑顔の出来栄えは、そこそこ。
「僕にも、見せたくないものがある。傷がある。背中に」
藤堂も佐和も、殆ど見えないと言う。あると知っていて見なければ、気付かないとも。
けれど、消えてはいないということだ。当時の痛みを覚えている自分の幻覚ではなく、背中にはまだ幼い頃の躾の跡が残っている。
それを見つけた人に、気に病まれるのが苦手だ。同情されるのが嫌だ。草間が何を想うかを気にしていた自分の信頼は、彼女からのそれに足りていないと思った。
「思えば、どうせいつかは見つかるものだ。君とはちゃんと、ありのままの姿で抱き合いたいし。その時に、気付いたかな、見つかっちゃったかなって心配してるのも嫌だし、何か思って、君がそれをしまい込むのも、嫌だ」
見てくれるかい、と尋ねた。問いかけた草間の顔が、困っている。
「ごめんなさい。私、背中のこと、知ってる」
「え?」
困る、というより、申し訳ないと思っている顔だ。草間がそれを知ったのは文化祭の終盤。着替えの手伝いを断った話を、様子を尋ねて来た藤堂にして、その返答で草間は知った。
消えかけの古い傷であること。目立たないのに、有村が隠したがっていること。
誰にも見せないから気にするな、と言って、気にせずいられる人がはて、どのくらいいるだろう。
「……あー……」
「ごめんね?」
「いや。今のは藤堂に。話したんなら言えよなぁ。ま、言わないか。藤堂だし」
「ごめんなさい」
「ううん。そんな風に言われて、余計に気になったんじゃない? なのに、言わないでいてくれたんだ。ありがとう。気を遣わせちゃったね」
「ううん。そうじゃない」
首を横へ振る草間は、藤堂をも擁護する。きっと、自分たちのことを考えて教えてくれたのだ、と。
受け取り方の優しい草間は微笑みを浮かべ、その頬がほのかに色付いた。
「私は、待ってただけ。有村くんは、話してもいいって思ったらちゃんと、教えてくれる。わかってるから、先に少し知ってて、その時にビックリし過ぎないでいられるのは、よかったかもって、思った」
私はすぐにいっぱいいっぱいになっちゃうから、などと、照れ臭そうに笑われては、抱きしめないではいられなかった。こんなにも純粋に、素直でいられる草間が眩しい反面、自分がひどく情けない。
「性格悪いな、僕」
「そんなことないよ。優しいよ、有村くんは」
「君に見る目がないんだよ」
「違うもん」
胸の中、草間はクスクス笑っている。少しの間それを聞き、有村はそっと草間の肩を押した。
「じゃぁ、いいですか?」
「はい」
一応、服を脱ぐ断りを入れ、草間は勇んだ顔をする。戦場へ向かうわけではないが、そのくらい真剣に向き合ってくれる草間が好きだ。
ボタンを外してシャツを脱ぎ、中のTシャツも脱ぐ。襟から顔を引き抜き、少々乱れた髪の隙間に見えた草間の視線が揺れたのは、単に、目の前に男の裸体が現れたからだ。その目はすぐに正面へと、髪を掻き上げ視界を晴らした有村の顔の方へ向けられる。
「オーケー?」
「はい」
その問いかけが必要なのは、有村の方だ。背中を向けるのに、まだ随分と戸惑っている。
情けなくも、見せた瞬間の草間を見る勇気がなく、完全に後ろを向いて背中を向けた。
「酷いとか汚いとか可哀想とか、大体、言われ尽くしてるから。いいよ、思ったこと、言って」
黙っていればいいものを、気まずさに動かした口が止まってからも続く、沈黙の時間。せめて背中を丸めないようにするだけで、有村は精一杯だった。
自分から見せたのは初めてだ。大丈夫。彼女はそれを見ても、自分の見方を変えたりしない。信じていても、怖かった。
――ぴと。
耐える有村の背中、肩甲骨から腰の間、最も多く革のベルトが振り下ろされ、ハイヒールの踵が突き刺さった辺りに、温かな指先が触れた。
「いっぱいある小さな傷は、負けなかった人が、頑張った証拠」
草間はそう告げ、触れた指先で皮膚を辿る。
「……それも、前に本で読んだの?」
「うん。そんなとこ」
体温の感触が大きくなり、草間は手の全体で、両方の手で、醜いはずの背中に触れる。
数年かけても消えなかった傷跡。その倍以上の時間をかけて刻まれた、痛みの跡。
「有村くんは、背中もカッコイイね。あっ、ホクロ!」
「ホクロ?」
「ここ! 後ろ、腰の方にホクロがある! 初めてかも。へぇ、有村くんでも、ホクロあるんだ」
「でも、って」
「だって、顔にも腕にも一個もないし。へぇ、あるんだね、ホクロ。なんだか、貴重」
「なにそれ」
カラカラと、草間が笑う。ここにあるよと押して来るから、場所は、よくわかった。
気を遣わせた。けれど、申し訳なさより嬉しさが込み上げる。丸まっていく背中へ、草間はギュッと抱き着いた。
「あ、大丈夫だ。もっと恥ずかしいかと思ったけど、ショック療法?」
「ああ、君の男の子恥ずかしい病の治療ってことね?」
「そんな言い方しなくても。 ……まぁ、そうだけど」
「ふふっ」
痛みの記憶が残る場所に、草間が頬を当てている。
醜いだろうに、見て気持ちの良いものではないだろうに、草間が頬を摺り寄せる。
「ありがとう、見せてくれて。本当にね、ちょっとだよ。触るとスベスベ。でも、白いから色が少し目立っちゃうのかな。藤堂くんくらいの肌色だったら、たぶん全然見えないよ」
「彼は地黒だからね。健康的で羨ましい」
「野球してた頃は日に焼けて、もっと黒かったよ。でね、ボウズだったから、もっと怖かった」
「ははっ」
「なんで野球する人って坊主頭にするんだろうね? みんなするから、野球の人だけすぐわかる。キミちゃんは、サッカー部もわかるって言うけど。ああ、でも、バレー部はわかるよね。みんな手足が長いイメージ」
「そうでもない人もいるよ? 村瀬くん」
「そうなの? じゃぁ、今のは内緒ね? かんじわるい」
「ははっ」
もう服を着ていいか尋ねると、草間はまた風邪をひくから着てと言う。
ちゃんと着てと念を押され、有村はまたTシャツと制服のワイシャツを羽織る。ネクタイは外したまま。ボタンは上からふたつ目まで、きちんと留めた。
「今日はもう、ちょっと、いっぱいいっぱいなので、帰る時間までお喋りでもいい?」
「もちろん。あ、でも、こっち来て寄り掛かって?」
「恥ずかしい、それ」
「慣れてください」
「……頑張ります」
草間が泊まった日、風呂上がりにしていたようにソファを横に使い、伸ばす有村の足の間に草間が背を向け、抱きしめるまま胸へ寄りかかる。
この、すっぽりと収まってしまうサイズ感がたまらない。抱えると、草間の頭は丁度、有村の顎の下だ。丸く形の良い頭に鼻を摺り寄せ、なぜかこちらが包まれているよう。草間は恥ずかしそうに少し唸るが、続けていれば笑い出す。
「明日、大丈夫?」
「もちろん。やっと、君の友達に会える。楽しみだよ」
既に二度、先方の体調で流れていた予定だ。発熱は治まったらしく、草間が昨日会って来た感じでは、安定しているように見えた、とのこと。
草間の友達に見舞いは少ない。前の花に元気がなくなる前に、と通う草間は未だ、自分が贈る花以外を見ていない。病室にいる、誰かも。
「学校帰りでいいのかい? 休日の方が」
「いいの。長くいると無理させちゃうし、制服なら、ちょっといて帰っても変じゃないでしょ?」
明日は土曜で、午前授業。昼食は外でみんなでとるとして、その後、草間はこの部屋で珈琲と紅茶を淹れ、水筒に移して持って行く。
寒い季節ではあるが、予報では明日は晴れる。病院には中庭があり、そこのベンチでするピクニックを、友達も楽しみにしているそうだ。
自分で買う珈琲は看護師に叱られるが、友達が持って来るなら一杯くらい、という話だとか。草間の気合は充分だ。練習も何度かして、彼女の淹れる珈琲は今や、お世辞抜きに美味しい。
「喜んでくれるかなぁ、カコさん」
嬉しそうに爪先を動かしながら、草間が言う。
「カコさんっていうの? 名前」
「あっ、そうだ。ちゃんと言ってなかったね。木下蘭子さんっていうの。キレイでカッコよくて、可愛い人だよ」
「そう」
カコさん。木下蘭子。苗字は知らない。ノクターンで呼ばれていた、名前だけ。
「有村くんと行くって言ったら、やっと会えるって。楽しみだって、言ってた。私も、楽しみ!」
別人だろう。そうに違いない。あの人はきっと、この街には帰って来ない。
名前で呼び起こされた記憶が、顔が間違いなら、同一を草間に伝えるのは水を差す。楽しそうで、楽しみなのを堪え切れないでいる草間を、勘違いで悩ませてはダメだ。
「聞いてる? 有村くん」
「聞いてるよ。もう、紅茶は決めたの?」
「明日はね、ピーチティー。そんな気分なの」
「明日になったら変わるかも?」
「やめてよー。決めたのに」
「ははっ」
草間の友達は年上。病に侵され、通院は一年半。
一年半前、当時の有村は十六歳になった頃。夜を徘徊するようになった頃。置手紙ひとつで、あの人が消えた頃。
世の中にはたくさんの人がいる。同じ名前を持つ人も。そんな偶然があってたまるかと有村は草間を抱きしめ、楽しみな明日の話を聞いていた。




