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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第一章 初恋少女
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迷い込んだワンダーランド

 『color』というタイトルのその本は、初めて読んだ小学生の頃から何度も読み返した草間の一番のお気に入り。四月の始業式の日に、教室で読んでいた本だ。

 登場人物は結果的に全員が善人で、生々しい表現もリアリティーもない、お伽噺のような恋愛小説。だからこそ大好きで何度も何度も読み返し、草間はその本に理想を重ねた。

 それをどうして藤堂が知っているのかと疑問に感じる前に、知られてしまったのだと思った。夢物語みたいな恋を主人公の少女と育む優しい紳士に恋い焦がれ、有村を一目見た時にそっくりだと舞い上がったことを。

「アレ、妹も持っててな。気に入ったとかで気が付くと読んでるんだが、有村を初めて見せた時に言って来たんだ。似てるそうだな。見てくれが」

「…………っ」

「宝石みたいな目に、柔らかい髪、だったか? 肌も白くて色素の薄い、背もそこそこの優男。口振りも似てるらしいな。お前も、だから有村が気に入ったのか」

「ちが……っ」

 それだけじゃない。けれど伝え方がわからずに、草間は藤堂を仰ぎ、苦しい胸の辺りを掴んだ。

「きっかけは……でも、有村くんは私にも優しくしてくれて……毎日、話しかけてくれて……っ」

「話しかける? ただの挨拶だろ。アイツは顔を見れば誰にでもする」

「そう、だけど……っ」

 嬉しかったから。呟いた声は草間自身にも聞こえて来なかった。

 しかし藤堂は受け取ったみたいに息を吐き、確認じみて「なら、お前は多少アレの中身も見て決めたんだな」と喉を震わす。

 それに頷いて返すくらいなら、草間にも出来た。

「それならいい。完全に見てくれだけなら困ると思っただけだ」

「こま、る……?」

「ああ。外見の良さってのは大抵得をするもんだが、アイツは逆に損をする。そばに置くと決めたお前からも王子様を見る顔をされたんじゃ、有村も居心地が悪いだろう」

「そ、か」

 屋上へ上がる途中で聞いた保健室まで押し掛けられるとか、今日は朝から幾つも王子様の苦労を知った草間は素直に有村を労わる気持ちだけを持っていて、藤堂に念を押されなくてもしつこく付き纏おうなどというつもりはない。

 近くに居られれば満足だ。身に余る環境においてもらったのもわかっていて、有村を困らせるようなことはしないように頑張ると答えた。

 簡単な言いつけも守らなかった口で、とは思ったけれど、そうしたいのは心からの願いだ。それ以上、草間は何も望んでいない。ただ、有村のそばにいたかっただけ。あとは全部、欲張っただけだ。

 叶うなんて、いつまでも続くなんて、思ってもいない。

「とっ、藤堂くん……あの、本のことは……」

「わかってる。みさきも言うなってしつこかったからな。言われたくないもんなんだろ、女には。黙ってるさ。別に教えてやる義理もない」

「あ、ありが、と――」

「でも、お前に対してはあるんだよな。義理って言うより、薦めちまった責任が」

「責任?」

「ああ。有村にお前を嫌ってやるなと言った。口が利けないのは昔からで、それ以外は悪いヤツじゃないと。それがどの程度影響したか知らんが、あそこで俺が止めてれば有村はお前を気に掛けなかっただろうとは思う」

 見上げた藤堂はやはり表情と呼べそうなものをひとつも貼り付けておらず、それが良い意味で放たれたのか、そうでないのかも読み取れない。

 ただ草間には喜ぶべきことだった。藤堂にもずっと失礼なことをし続けていたはずなのに、有村に口添えしてくれたのなら感謝すべきだ。そのひと言があって二ヶ月も猶予を貰えたのなら、尚更に。

 しかし礼を告げようと開きかけた口を遮り、また藤堂が先に切り出した。今度は見るからに目付きを鋭い物に変えて。

「飲まれるなよ、草間」

「……え?」

「お前はアイツの中身も見たと言ったが、アレは一日かそこら隣りにいただけで理解出来るほど単純でもなければ、そんな短い時間で他人に自分を見せるようなヤツでもない」

「…………」

 声も、少し低くなった気がした。

「お前は、人には表と裏があるとか思うか?」

「す、少し、は」

「有村には裏がない。代わりにアイツの中身は層になっててな。それこそ、多分十も二十も下がある。入って行くかどうかは、お前が決めろよ」

「それ、どういう……」

 その時一際強い風が吹き、藤堂の視線が逸れた。

 ほんの瞬きほどの間だけ外されて、すぐに戻って来る藤堂の涼し気な眼差し。それがまた少しだけ気配を変える。

 乱れた髪を避けて藤堂より長く目を瞑っていた草間には、見ていたとして気付けないほど細やかに。

「朝、言ったこと。覚えてるな」

「ええと……」

「何かあったら俺に言え。そうしたら――」

 藤堂は一歩二歩と前へ出て草間の肩に手を置くと、背中を丸めて耳の近くで囁いた。

「――いつでも逃がしてやる。俺が必ず、有村から」

 校内にいるより大きく聞こえるような予鈴が鳴り出して、戸惑う草間は先に戻れと言われるまま藤堂に背を向けた。そうなるように掴んだ肩で身体の向きを変えられてしまったからだ。この話はもう終わりだと言われた気もして、施錠を外しドアを開ける藤堂を振り返りもせず、ひとりで階段を降りた。

 逃がしてやる。そんな物騒な台詞が、ぐるぐると駆け回る。

 二年のフロアまで戻って来た草間のことは正面で久保と落合が待ち構えていて、ひとりになっちゃダメじゃんとかけられる声にも弱々しく頷くだけ。何を信じればいいのかなんて、ぽっかりと開いた穴に落ちたばかりのアリスにわかるはずがなかった。

 迷い込んだのは夢の世界か、それとも。

 草間が落ちたのはまだ、ワンダーランドの入口にも差し掛かっていなかったのだから。



 送り出した草間の足音が聞こえなくなるのを待って、藤堂はまた視線を横へずらした。

「で、お前はいつから盗み聞きなんてする、趣味の悪いヤツになったんだ?」

 開いたままのドアの後ろからクスクスと笑う声がして、その持ち主はついたわけでもない誇りを払う仕草をしつつ、物陰から顔を出す。

「嫌だなぁ。鍵がなくなってたから、様子を見に来ただけなのに」

 踏み出して来る一歩で光が差し込むほど、黄色や緑を混じらせる柔らかな髪。同じ色合いを湛える瞳に藤堂を映した有村はニッコリと微笑み、瞼を閉じた。

「不必要に草間さんを怖がらせないで欲しいなぁ」

「アイツは目の前に出されても、ここだと教えてやらないとわからないからな。首が絞まりきってからじゃ遅い」

「あー……まぁ、普通はすぐその辺を思い付くよねぇ。草間さんだけじゃない。落合さんや久保さんも、君の周りには素直な子しかいないの?」

「お前がその妙な目付きで、相手の警戒心をそぎ落とすからだろ。あいつらだって普段なら気が付く。校舎ん中であれだけ話してりゃ、俺のガードなんざ無意味だ。近場で半日もお前を連れ歩いたら、誰にも見つからねぇ方がラッキー過ぎる、ってな」

「だよね」

「その上、お前は金曜に種を撒いた」

「うん?」

「……楽しそうにしてんじゃねぇぞ、有村」

 名を吐き捨てるなり胸倉を掴み、力任せに引き寄せてようやく、有村の目がうっすらと開く。それでも口許には笑みを残していて、藤堂は苛立ちのまま目前まで迫った。

 何色ともつかない幾つかの色が混ざり合う大きな瞳が、瞬きを一、二回。

 閉じて開く度、それはコロコロと模様を変える万華鏡のよう。正解の形など、きっと最初からどこにもない。

「なにが好都合だ。今回の話の出所は三年の女共、思い当たる節ならあり過ぎるよなぁ?」

「んー、多少は?」

「しらばっくれるな。忘れたとは言わせねぇぞ。金曜の帰りの話だ」

「確かに」

「おかしいと思ったんだ。いくら朝から付き纏わられて嫌気が差したって言っても、お前が場所を移してまで女の相手をするとか。草間相手にどれだけ小細工すりゃ気が済む」

 あの時なにを言ったと凄む藤堂の手が、もう少しの力を込める。なのに苦しそうにするでもなくヘラリと零す微笑を聞けば、縛った奥歯がキシリと鳴いた。

「小細工なんてしたつもりはないよ。あの人、どうしても引いてくれなくてさぁ。正直に話すしかないかなと思って、デートって答えただけ」

「お前!」

「間違いじゃないだろう? 女の子と出掛けたんだし。帰りたかったんだよ。君も待たせてたしさ」

 襟首を掴むのから首を絞めているのに変わるくらいの力を込めて引き上げようとも、有村は例え気道を塞がれたとて笑みを消しはしなかっただろう。そういう男だと知っているから、藤堂の目には明らかな険しさが宿る。

「そいつは、認めたってことでいいな?」

「なにを?」

「草間を、端から逃がす気なんざなかったんだろうが」

「まさか。彼女ならって思ったのは土曜日に出掛けてからだよ? 今朝だって草間さんが隠したいって言えば、そうした。どうとでも出来たもの。知ってるでしょう? 好きじゃないけど、やろうと思えば人を動かすのは得意な方だよ、()は」

 フェンスの上にはカラスが二羽止まっていた。鳴きも羽搏きもせず、誰かがそこに置いていった忘れ物みたいに。

 視界の隅に映るそれは、覗き込んだ藤堂の瞳の中にもいた。

「あの子は面白いね。上がったり下がったり、とてもわかりやすいのに、急に妙なスイッチが入る。夢見がちのくせに卑屈でさ、その両方に偽りや陶酔を感じないんだ。普通、どっちかは隠すでしょ。それか、どっぷり浸かって盲目になる。でも、彼女はそうも出来ないくらいに不器用だ。正直者の鑑だね――そこがいい。中々いないよ。少なくとも、僕は初めて出会った。彼女がもし計算高いだけなら、喜んで騙されたいところだね」

 どこにも行けないんだ。自由に飛び回れる羽根があると思うのは他人ばかりで、動けずにいる理由など自分にしかわからない。

 或いは自分自身ですら実態を掴めない鎖が、ジャラジャラと音を立てていたりする。そんな息苦しさを知らない藤堂を、有村はただ見つめて呟いた。

「僕はもう疲れてしまったよ。口先だけの駆け引きも、手順通りのセックスも。どちらも彼女には必要なさそうだし、通用しなさそうでしょ? そう思ったら嬉しくて、期待してみたくなったんだ。彼女と、僕自身に」

 ネクタイと襟を握ってキリキリと首を絞める藤堂の指先に触れ、有村はそれをさも愛おしげに撫でる。

「虚しくて堪らなくてさ。寒いんだよ、藤堂。今にも凍えてしまいそうなくらい」

 指の一本一本を。そして、平らな手の甲を。

 先に這わせていた右手と併せて左手もその温かさに添え、有村の両手は手負いの鳥でも抱きしめるかのように柔らかく藤堂の拳を包んだ。

「それとも、君がこのまま絞め殺してくれるかい?」

 泣いているみたいな顔で微笑んだ有村の瞳を覗いても、藤堂はそこにカラスも自分も映っていないと思った。

 ガラス玉のような目。陶器で出来たみたいな、整い過ぎた美しい顔。

 有村はその内側の奥深くに、ひどく凪いだ夜を飼っている。

「僕はそれでも構わないよ。そうしたら君の一生の思い出になれる」

「……お前は少し、草間を見習え。捨て犬みたいな顔しやがって」

 藤堂は拘束を解き、同時に生暖かい手も振り払う。

 解放した有村の首には歪な赤色が差していた。

「どうせいつか奪うなら、さっさと取り上げてしまえばいいのに」

「バーカ。本当にお前の足しになるんなら、顔見知りのひとりやふたり、泣かせるくらい構うかよ」

「はは……うそつき。」

 一歩でも踏み込んだら溺れてしまいそうな暗い海。

 藤堂ですら必死に流されまいとする有村のその入口は灰色の影として瞳の中に、また王子様の仮面のすぐに近くにも、薄い皮の一枚下で常に燃え盛るの待つ火種のように燻っている。

 いつか真に癒される日を、若しくは投げ込まれる石の大きな波紋を、痛々しいほど切実に待ち焦がれながら。

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