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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第八章 暴走少年
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それが普通なのだとしても

 元より外れやすい左肩に不具合はなく、表情にも出さずにいたはずが、「何かあったの?」と問われた有村は心許なく、しゃがむ膝へと視線を落とした。

 時折、肯定されるより、叱られた方がマシな場面がある。今がそうだ。階段で突き飛ばすなど、打ち所が悪ければ大事にもなり得る。悪ふざけでしたでは済まされないと腹を立てる顔を見て、有村に気持ち良く返せる言葉はない。

 まだ、怒ることに慣れない。一瞬で振り切れてしまうあの感情を、上手くコントロール出来ずにいる。藤堂が止めてくれてよかった。止めてもらえなければ何をしていたか、考えるだけで恐ろしい。

「怒るってそういうことよ。ブチギレて、つい手が、なんてこと、アタシにだってある。やり過ぎたなって反省するのは仕方ないけど、相手に怪我させたわけじゃないなら忘れること。いつまでも引き摺ってたら、彼女が申し訳なくなっちゃうよ」

「ですね」

 それは久保にもこっぴどく言われた。怒らせてしまったなどと草間に言わせたら、有村は久保に絞め殺されるらしい。久保は過激で、友人想いの女の子だ。

 仰ぐ角度で笑って見せた有村は久々に制服の黒いシャツとサロンエプロンを身に着け、ノクターンのステージに置かれたクリスマスツリーの飾り付けを手伝っている。全長は二メール弱。箱の中身を渡す有村と、脚立を上るフロアスタッフ一名との共同作業だ。

「次は、プレゼントがいいな。取って」

「赤とピンク、どっちにしますか?」

「全部赤じゃないの?」

「濃いピンクが幾つか」

「じゃぁ、赤で」

「はい」

 ペアというわけではないのだけれど、去年も一緒に飾り付けをした人だ。名前はミナミ。有名な漫画のヒロインから頂いたらしい。この赤とピンクの会話も去年と同じで懐かしい。

 もう一年経ったのかと考えていたら、「一年経ったんだねぇ」とミナミが言った。

「そういえばしたね、赤とピンクの会話」

「ですね。そろそろ雪に入りますか?」

「任せて」

「心強い」

 例年、ツリーの飾り付けは人気がないのだ。他のスタッフは賑やかに店内を飾り付けており、ミナミが得意な綿をほぐす作業をして、有村が適当に枝葉の上に乗せていくのが、まるで去年をそのまま繰り返しているようで笑えてしまう。

 その間には学校へ通い始め、色々なことがあったのに。今日の一件に然り、変化を自覚する中で変わらないものがあると、なにやら妙に面白い。とにかく派手にしたいモモと上品さを失くしたくないレイナが揉めていたり、カケルの頬がまだ少しだけ腫れている感じが、とても。

「去年って言うとアレだけど、三年目って思うと感慨深い。ねぇ、また身長伸びたでしょ。今、どのくらい?」

「百七十五です」

「えー、もっとない? それじゃカケルと同じくらいじゃん。絶対、洸太のが高いよ。しかし、伸びたねー。一年目はまだ小さくて、キイっちゃんに抱き上げられて飾りつけしてたのに」

「そうでした。さすがにもう無理でしょうね」

「わかんないよー? キイっちゃんの怪力は侮れない」

「ははっ」

 開店前のノクターンはどこか、休み時間の教室に似ている。お喋り同士が集まり、騒がしくて華やか。店内の照明も営業時間中より明るい。ツリーを置く為に位置をずらしたグランドピアノは、今日もピカピカだ。

 先程まで開店準備に忙しくしていたキイチが近付いて来て、「どれ」とひと言。背後から軽々と有村を持ち上げては、更に後ろから「俺もー」とカケルが駆け寄って来る。嫌がる末っ子を持ち上げるのは、キイチとカケルの中でたまに流行る遊び。

「やっぱ軽いなー。食ってねーだろ、また」

「若いんだから、ちゃんと食わなきゃダメだぞ?」

「食べてます。放してください、カケルさん。邪魔しないで」

「生意気」

「痛いですって!」

 摘まめるほどの肉がない脇腹を強引に抓るのも、カケルのお気に入りだ。

 文化祭で会い損ねたあとに一回会ったきりのカケルとは、随分と久々な気がした。なので、抓られるだろうと予測していたのに、有村はやはり脇腹にしばらく残る痛みを抱えることになった。これはきっとまた痣になる。

 暇ならとふたりにも手伝ってもらい、ツリーの飾り付けが終わった。空き箱になったダンボールを事務所の定位置へ片付けて戻る頃、いつものようにドアの近くに立つキャリーが二回、手を打ち鳴らした。

「さぁ、今夜も店を開けるわよ。みんな、笑顔の準備はいいわね?」

 キャストであるモモやレイナたちが片付けついでに裏へ消え、照明が二段階ほど暗くなると間もなく、微かな音楽が流れ始める。

 薄暗い店内と、心地良いジャズの調べ。今宵もノクターンの幕が上がる。自然と浮かぶ笑みを湛えた有村はキイチとカケル、ミナミと共にステージの下から他のスタッフと同じく、キャリーとドアを正面へ据え、「はい!」と元気に返事をした。

「なんだか、今日は少し緊張します。通常営業は久々で」

「俺もー」

「カケルはサボりでしょ。一緒にしないで」

「へーへー、すんませーん」

「忘れないでね。アタシ、腕力は男よ」

「うげ」

「最近はイベントや貸切の時だけだったか」

「すみません。あまり来なくて」

「いいさ。学校に残って絵を描いてるんだろう? レイナに聞いた」

「レイナさん?」

「草間さんとメールしてる。いい子だよな、可愛いし」

「洸太の彼女? 悔しい! アタシ、まだ会ってない!」

「俺、会ったぁ」

「どんな子? だれ似?」

「十歳の深田恭子って感じ? つまり、巨乳」

「カケルさん? それ、次言ったら頭握るって言いましたよ」

「スマーイル! 洸太クン、営業中は笑顔を忘れずに!」

「ホント、こういう時だけ、あなたって人は」

「ほらほら、ケンカするな。洸太もカケルも持ち場につけ」

「だってよ。はよ厨房帰れ」

「決めた。賄い、作らない」

「いーよ別に、勝手に食うしー」

「大人げないにもほどがある」

「洸太。カケルもいい加減にしろ。行け、ふたり共」

「…………」

「拗ねんな、拗ねんな。睨んでも、どうせ美人」

「カケル!」

「いってぇ!」

 有村がカケルに構われるのがいつもなら、それをやめさせるのにキイチがカケルの頭にゲンコツを落とすのもいつものこと。べー、と舌を出すカケルはバーカウンターの奥へ、その顔を凝視しながら有村は厨房へ。フロアに残るキイチと三名、男性スタッフが揃うのは、実に数ヶ月ぶりだった。

 有難いことに、ノクターンに暇な夜はない。長居をする客はいるが、目当てのキャストを待っている客、出番が終わり帰って行く客で回転数もそれなりだ。

 忙しく動き回る厨房にも、オーダーと共に『やっと入れた』という客からの嘆きが聞こえて来る。ショーをメインに据えるノクターンで、貸切営業やイベント事は少なくない。特に近頃はメジャーレーベルからのデビューが数名続き、運悪く、来たのに入れなかった客もいたようだ。

 シフトを減らすようキャリーに言われた夏から、有村はそうした特別な日に駆り出される準レギュラーのような扱いになっている。厨房の人員は、キイチ曰く、有村ひとりで三名分。次々に仕上がる料理を運ぶフロアスタッフが忙しくなることで、客の中には「洸太がいる」と気付いた人もチラホラ。顔見知りの常連客もいるので、料理の合間に少しだけ顔を出した。

「辞めたのかと思った」

「辞めてないです。たまにちょこっと来たりしてたんですけど、ずっと厨房にいて」

「あー、そういえば洸太って、本当は調理スタッフなんだよね。忘れてた」

「私たちのこと忘れてたでしょー」

「忘れるわけないじゃないですか。ユキさんは意地悪ですね。ミカさんとおふたり、会えて嬉しいです。相変わらずですか? お仕事の方は」

「そー、忙しくて死にそう。洸太ぁ、癒して?」

「では」

 椅子に座ったまま伸ばした両手を向けて来る客の方へと身体を倒し、入り込む腕と腕の間で近付く至近距離に、有村はそっと、一枚の手書きメニューを翳す。

 丁度、自分の顔の下半分を隠す位置だ。ハグを待っていた客の顔が、途端に拗ねた。

「新作メニューの一覧です。触れ合うより、今夜はユキさんとミカさんを、おなかの中から満たしたいなぁ」

「……もうひと声」

「食べて? 俺の」

「合格! ホント癒される。このエロ可愛い生き物!」

「お粗末様です。で、どれにします?」

「肉」

「了解です。おふたりの為だけに、とびきりの料理をお出ししますね」

「洸太。私もやって、いつもの」

「頑張り屋さんで偉いね、ミカ。いい子には、ご褒美をあげる」

「来たぁ! ホントもう、顔と声がドストライク!」

「ははっ。嬉しいです。お変わりないようで」

 この店の特性かもしれないが、ショーとアルコールと料理、それ以外にも、客にはそれぞれ欲しいものがある。欲しいままに強請って良いのが、ノクターンのあるべき姿。出来得る限り叶えるのも、スタッフである有村の仕事だ。

 何でもない台詞を思わせぶりに色気のある声で囁かれたいユキや、上から目線で褒められたいミカが特殊なのではなく、年下らしく甘えられたい人、サディスティックに蔑まれたい人など様々。

 それらの要望に応えるのは特に久々で、厨房へ戻ると心なしか疲れていた。

 たらすソースで皿に模様を描きながら、有村は仕方がないと思う。まともに接客をするのは数ヶ月ぶりなうえ、学校でも朝の行事や愛想を振り撒くのをやめてしまった所為だ。求められる自分を演じるより、そのままでいることに慣れてしまったが故の疲労感。だとすれば大歓迎だ。

 今の有村には、したいことがある。藤堂たちとくだらない話で騒ぎ、草間と過ごし、絵を描く。したくないこともある。草間以外の女性に触れたくない。笑うことで自分を誤魔化したくはないし、溢れ出すものを止めたくない。

 もう、誰かに動かされる人形ではない。疲れるのは身体ではなく、心。温かくなったり軋んだりする心を手に入れ、やっと人間になれたのだ。

 欠けているのが悲しかった喜怒哀楽を揃え、やはり怒りだけはないままでよかったような気がするが、いま、生まれて初めて生きているという実感がある。笑って、泣いて、幸せだ。こんな日々が少しでも長く続けばと思う。叶える為に出来ることと言えば、目立った問題を起こさないくらいしかないのだけれど。その為にも、早く怒りをコントロール出来るようにならなくては。

「これじゃ藤堂に、短気がどうのって言えないしなぁ……」

 それはそれで問題である。

 引っ切り無しに厨房内を動き回り、ひたすら料理を作り続け、最後に賄いと簡単な引継ぎを交代のスタッフと交わした十時過ぎ、着替えを済ませた有村は暗い階段を上って帰路へ着く。

 着替えても染み付いている油のにおいが臭いとは、油彩に慣れたいま、言える口でもないだろう。今日はあまりフロアに出なかったので、香水や煙草の移り香が少ない。誰ひとりとして触れ合わなかったのだから当然だ。

 ただ、その所為か余計に疲れた。やめてみて思う。ハグで済むのはラクだった。そこへ帰るつもりなど、草間だけを抱きしめる腕が嬉しい有村には微塵もない。

 草間にだけ触れる手。自分だけが触れるのを許されているのが嬉しい。彼女に触れたい。いつも。今すぐ。出来れば、もっと深い所まで。

 焦るでも、急ぐ気もないのだけれど、キスで蕩ける草間を前にそれ以上を耐えるのは、予想以上につらかった。強請りそうになる。暴走してしまいそうになる。慣れない草間の速度に合わせなければならないのに、全て無視して事に及びたくなる。そんな自分を浅ましいと思う。許されているだけで満足出来ないのは獣の思考だ。

 相変わらず、処理は気が進まない。近頃は、嫌々している内に気分が削がれてそのまま、というのが常だ。その所為か、なんとなく腰の辺りが重い。運動でもしてと考えはするが、夜は草間に電話をして、それ以外の時間は描いていたいので時間がない。まったく、悩ましい限り。

 そこに、つけ入ろうとしている人がいる。同じ場所で待ち伏せて、今夜も暗い路地の片隅から、その女性は現れた。

「懲りませんね。何回来ても同じですよ、お姉さん」

 脱色した明るい色の髪と、派手な化粧。

 似ても似つかぬ風貌をして、けれど、憎らしくも声だけは似たものを備え、草間家の穢れが浮かべる不敵な笑みにイライラする。

「朱音って呼んでよ。いいじゃん。一回くらい」

 思考が冷める。色彩が明度を落とす。

 だから、僕は早くこの感情を、掌握しなければならないというのに。

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