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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第八章 暴走少年
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なかったはずのもの

 教室移動で廊下を進む七人の話題は、ついに昨日行われた久保の初仕事についてだった。

 興味津々で問いかけた後方を歩く有村にではなく、隣りにいる草間や、前で振り向き後ろ歩きをする落合に答えるようにして、久保の面持ちは照れ臭そうで、誇らしそう。

「簡単な撮影よ。雑誌に載るの」

「すごい! 発売日いつ? 絶対に買うね!」

「やめてよ、仁恵。別にいい。買わなくて」

「なんでさー。あたしも買うよ? つか、絵里奈が出るヤツ全部集めようって言ってんだもんねー、仁恵ー?」

「うん! 私、集める!」

「いいわよ。けど、発売日、あとで確かめて、教える」

「ありがとう!」

 嬉しいくせに見栄っ張りめ、とは、藤堂もさすがに今日は言わない。

 レッスンだけでなく、家では習ったトレーニングに勤しみ、久保は歩み始めた道を懸命に進もうと努力している。突然履くことした黒いタイツも、防寒より怪我の防止が目的だった。

 身体に傷を付けないのはモデルの基本なのよ。そう語る久保の年相応の笑顔は幼馴染である藤堂の目に懐かしく、今でも多少は可愛いものだ。

「僕も買うね」

「アンタは買うな。見るな。笑うな、ウザい」

「ひどい」

 相変わらずの悪態も、目が睨み切れないようでは台無しだ。有村の腹へ繰り出す右ストレートにもキレがない久保は、多少と言わず可愛かった。

 モデル事務所に所属してからの久保は、久々に本当の意味で幼馴染みの『絵里奈』という感じだ。口は可愛くないが、ありがとうだけはきちんと言う。本当は怖がりで、上がり症。撮影の時はどうだか知らないが、現場には有村から強奪した例のサングラスを持って行ったはず。

 小さく呟く「ありがとう」はその礼だろうと、藤堂は口元で笑った。

「次は、二十五日に撮影があるの。今回使ってくれた人が声をかけてくれて」

「すごいね。絵里ちゃん、売れっ子!」

「まだよ。声が大きいわ、仁恵。恥ずかしい」

「ごめん」

「あっ、でもクリスマスじゃん。ほぉー? 撮影からのデートっスか、姉さん」

「落合。顔がゲスだ」

「ニシシッ」

 先頭を行く鈴木が差し掛かる階段を前に、後ろ歩きの落合に前を向かせる。あぶねぇぞ、のひと言に、せやな、で前を向く落合を見ると、藤堂も多少は現実味が湧いた。鈴木の隣りを歩く山本の言う進展とやらも、あながちないわけではないのかもしれない。他人の恋路など、藤堂にはどうでもよいが。

 それよりも今は、表情が曇った久保の反応が気になる。あの男、久保の恋人である大学生はまた、どうやら久保を悩ませているらしい。

 まったく、聞けば聞くほど、器の小さい男だ。

「あ、鳥だ。可愛い」

「そんなもん、腐るほどいるだろうが。行くぞ、ほら」

「はーい」

 窓の外に興味を引かれた有村が最後尾になり、もう一度「来い」と呼び付けた藤堂は溜め息を吐く。鳥ではしゃぐ有村にではなく、就職の決まらない大学生へ対してだ。

 追い付いた久保の後ろ姿を見ると、思ってしまう。幼馴染は存外、イイ女だ。気の強いところはあるが性根は優しく、相手を思い遣る。しょうもないことで悩ませる男など捨ててしまえばいいのに、と。久保に合う相手ならごまんといると、藤堂は思うのだ。

 可愛くない口振りでも話を聞いてやり、強がりや見栄っ張りはそうと気付いてやれる男など、その辺にゴロゴロと転がっていそうだ。俺でもわかるくらいに、わかりやすいのだから、とも思う。まったく、年上甲斐のまるでない男のどこがそんなにいいのだか。

「相性かもね」

「心を読むな」

「人を好きになるのに、たったひとつ、明確な理由はない」

「お前が言うとまんま詐欺師だな」

「ひどい」

 ほんの数ヶ月前まで、寝るとネルの違いも理解しなかった口で何を言う。そんな想いですまし顔の有村を見遣る藤堂の視界を、駆け抜けて行く人影が過った。有村の後ろを、一直線に。

 当然、有村も通り過ぎた男子生徒に気が付き、視線を投げる。

 そこからは一瞬の出来事だった。

 ――タン。

 駆け込んだ男が、階段へ差し掛かる草間の背中を押した。長い黒髪が浮き上がるのが、駆け出した有村が名前を叫びながら伸ばした手で、草間の腕を掴むのが、藤堂の目にスローモーションで映った。

「――逃がすな!」

 叫んだ有村は階段を背にし、翻る胸と両腕でしっかりと草間を抱え込む。久保や落合の悲鳴、鈴木と山本の声も聞こえる。落下して行く時間は瞬く間で、同時にひどく長く感じた。

 前傾になり足が浮いた状態でも、掴んだ腕で草間を引き上げられないではなかった。けれど、それでは草間の腕に痕が付く。咄嗟に考えた有村は階段を蹴った。草間の身体に傷ひとつ、つけてなるものか。

 自分が盾になればいい。全ての衝撃を、自分ひとりだけに。必死に抱きしめ、背中を丸める。受け身を取らずに踊り場の壁へ叩き付けられた背骨は一瞬、有村の息を止め、左肩に鋭い痛みが走った。

 途端に力が入らなくなり、だらりと解けて落ちる左腕。出来の悪い骨格が、筋肉で補っているだけの入りの浅い肩が外れたのだ。痛みは二の次。有村は動く右手で草間の頬へ触れた。

「怪我は! どこか痛めて……痛む場所は!」

「……あり、むらくん……」

「教えて。君は無事か!」

「うん……でも……有村くん、その腕……っ」

 腕など、どうでもいい。草間が無事なら、それだけで。

 もう一度きつく抱きしめる有村の呼吸が荒れる。心臓が暴れる。安堵に息を吐けど、胸へ深く抱え込む草間の頭へ寄せる顔を上げられそうにない。

 衝撃が大き過ぎたのか、草間は泣いていなかった。けれど、そっと膝を引き寄せて丸まる身体が、ガタガタと震えていた。

「仁恵!」

「有村! 大丈夫か!」

 階段を駆け下りて、鈴木たち四人が、踊り場の床で足を伸ばしたままの有村と草間の近くで膝を着く。散らばった二名分の教科書やノート、ペンケース。周囲は騒々しく、当事者でも友人でも顔見知りですらもない生徒たちが慌てふためき叫ぶ中、階段の上から藤堂の声がした。

「無事か!」

 声のする方へゆっくりと顔を上げ、有村は「ああ」と短く答えた。

 火を噴きそうに熱いのに、凍えるほどに冷えている。草間を抱える胸の中も、階段を見上げる頭の中も、凍り付くように張り詰めている。

「問題ない。藤堂、そこを動くな」

 告げる声が音階を下げる。有村の目は座っており、見られた久保の肩が小さく跳ねた。

「久保さん、少し、草間さんを頼める?」

「……ええ」

「ありがとう」

 震える肩を抱いていた手で頭を撫で、頬を撫で、有村は草間を久保へ預けると、音もなく静かに立ち上がる。足をかけた階段を一段、また一段と上る途中、右手で外れた関節を入れ直した。生々しい音がする。動くようになった左腕を肩から回し、有村は階段を上り切った。

 待っていた藤堂の前。藤堂が拘束している、ジタバタと暴れる男の前へ立つ有村は、突き刺す視線で見下ろす。すみませんだの、許してだのと喧しい。その口を、向かい合う男の顔の下半分を、骨と血管を浮かせた右手が掴み込んだ。

「喚くな。耳障りだ」

 顔に見覚えはない。ただ、校章カラーを見るに同学年。

 力を込める有村の手の中で、男が呻いた。

「貴様は誰だ。名乗れ」

「えぐ……えぐ、ち……」

「江口。江口か。答えろ、江口。何故、草間仁恵を狙った」

「う……っ、ううっ」

「答えぬ口なら捨てるか。砕ける前に決めろ」

「――有村」

 既に手を離し拘束を解いていた藤堂が、掴む顎を今にも砕かんと力を込める有村を遮る。

 やりかねない顔をしていた。ただの脅しでない気迫や剣幕を纏っていた。有村には一切の表情がなく、痛みに喘ぐ男から一瞬たりとも目を離さない。

 対峙する者を、周囲を飲み込まんと放つ気配は殺気のそれで、藤堂の身体を意のままに動かす以上の圧力だ。

 藤堂は有村の腕を掴み、再び、名前を呼んだ。

「草間の前だ。それ以上、痛めつけるな」

「…………」

「ただでさえ怖がってる。お前が怯えさせてどうする」

「…………」

 ギロリと向けられた有村の目は明確な怒りを宿しており、藤堂は視線を逸らさず見つめ返す。

 階段の下では久保に抱えられ、草間が怯えた顔をしていた。見たことのない姿のはずだ。聞いたことのない声のはずだ。藤堂が江口と名乗った男の胸倉を掴むと、有村は指の跡がつく顔面から手を離した。

「橋本の差し金か」

 何度も頷く江口は泣き出し、また、許してと助けてを言い始めた。

「黙れ。貴様の声は耳障りだ。二度、言わせるな」

「よせ、有村。堪えろ」

「堪えろだと。ふざけるな。コイツは、草間仁恵に手を出した!」

 しまったと藤堂が思った時には制服を掴んでいた手が離れ、江口は襟首をネクタイごと掴んだ有村に思い切り、壁へと強く押し付けられる。背中をぶつける鈍い音と、呻き声。付近の廊下では悲鳴が上がった。

「草間仁恵に手を出すな! 掠り傷ひとつ、心に傷ひとつ、つけてみろ。手先だろうと、女だろうと容赦はしない!」

 響く怒声は地鳴りのようで、首の締まる江口の震える足の間を見た藤堂は有村の肩へと掴みかかり、力づくで引き剥がす。

 渾身の力を込め、体重をかける身体を起こさせるのがやっとだ。尚も睨みつける有村は、今にも喉笛へ噛み付きそうな狂犬そのもの。垂れ流す物でズボンを濡らす江口へ向かおうとする腕を、身体を、藤堂は後ろから羽交い絞めにした。

「もういい! 抑えろ、有村! お前の気持ちはわかる。だが、ここまでだ! 引け、有村!」

「…………っ」

「お前が相手するまでもないザコだ! 失せろ、てめぇ! 二度とツラ見せんな!」

 泣きじゃくる江口を逃がし、藤堂は未だ荒ぶる有村を抱え続ける。

 顔と痩せた身体に似合わぬ馬鹿力め。僅かでも気を緩めれば振り解かれそうで、抑え込む藤堂は奥歯を縛る。

 どうする。必死で考えた。こうも頭に血が上り切っている有村は初めてだ。力を使う以外が、思い付かない。

「……有村くん」

 その時、階段の下からか細い声がした。

 抵抗する有村の動きが止まり、その顔が横を向く。

「……もういい。もういいから、こっち来て、有村くん」

「…………」

 泣いてはいないが、今にも泣き出しそうな心許ない面持ちで、草間がそっと腕を伸ばす。

 抱きしめてくれと強請るように、そう強く願うように、両腕を開いて有村を見上げている。その姿を見た有村は身体の向きを変え、階段へと向かった。藤堂も離れた腕を下ろし、一段ずつ草間へ近付く有村を、辿り着く正面で膝を着き、抱きしめる姿を見つめていた。

「……ごめん。怖がらせて。心配だから、保健室、行こう?」

「肩は? 痛くない?」

「痛くない。君に大事なくて、よかった」

 放つ有村の声が、普段の音階へ戻っている。大切に抱きしめる有村の背中を、草間の小さな手が擦った。

 右手で抱える草間の頭へ頬を寄せる顔を見ずとも、わかる。声だけでなく、有村は纏うものから全てを、日頃の有村洸太らしい持ち物へ変えていた。

 漂わせていた圧も殺気も跡形もなく消え、藤堂の視界ではただ、頭を撫でられる草間がやっと浮かべた微笑みで頬を緩めるだけ。

「みんなは先に行っててくれる? すぐに行くから」

「わかった。教科書とかは持ってくし、先生にも言っとく」

 応える鈴木が有村の背中に触れ、「大丈夫か」と問いかけた。頷きを返す有村の横顔はすっかりと、寧ろ、気の弱そうな優男のそれだ。立ち上がった久保が散らかったままの荷物を拾い集め、階段の上にいる藤堂を呼ぶ。

「ついてこうか? 姫様も腕、全然平気ってことないでしょ?」

「平気だよ。たまにあるから慣れてるし。ありがとう」

 藤堂が下り始めたのを見て、久保は次に、案じる落合へ笑って見せた有村を正面へ据えた。

「少しは見直したわ。まぁ、やり過ぎた感はあるけど」

「……ごめん」

「私なら殺してた。当然よ、仁恵に酷いことをしたんだから。だからアンタ、戻るまでにその辛気臭い顔もどうにかしなさい。ムカつく」

「……うん」

 階段を下りながら、藤堂は考える。コイツらは有村だから、その反応なのか。踊り場で待つ久保たち四人に、有村を怖がる素振りはない。

 骨が軋む鈍い音は、階段の下までは届かなかったのだろうか。有村はあの時、掴んだ場所を握り潰そうとしていた。人間の顎を、砕こうとしていた。腕を掴んで感じた力は確かに、そういう迷いのないものだったのだ。

「草間さん、立てる?」

「うん。大丈夫。ありがとう」

 その手が今はそっと草間へ差し出され、かかる指先を優しく包む。立ち上がった草間のスカートや制服は久保が汚れを払ってやっており、落合は頭を撫でて微笑みかけていた。

「有村」

 呼びかけて重なる目が、後悔などを滲ませているように見えた。自分のしたことを覚えているのならそれでいい。藤堂は外れなかった右の肩を軽く叩き、久保が持っていた有村の分の荷物を引き受けた。

「先に行く。肩、冷やしてもらえ」

「そうする」

「ん」

 あと半分の階段を下るまではひと塊の七人が進む先で、立ち止まっていた生徒たちが道を開けるか、散って行く。辺りは妙に静かだった。後方へつけた山本の前を草間と歩く有村に多くの視線が注がれていたのは、明らかだった。

 久保が相変わらず過激だとしても、恋人を突き落とされた有村が怒るのは無理もない。

 その気持ちは誰しもが理解出来たとして、有村が激高した一件は瞬く間に校内へと知れ渡り、有村洸太を怒らせてはいけない、草間仁恵を傷付けてはいけないという二ヶ条が学年を跨ぐ共通認識として広まるまで、そう時間はかからなかった。

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