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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第八章 暴走少年
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ひずみ

 紅茶一杯分の時間を過ごした草間は、帰り道に考え事がしたいと、有村の見送りを断った。

 夜にはまた電話をくれるという。今日に限っては、待っているとは答えなかった。草間にも、納得出来るまで悩む時間は必要だ。

 ティーカップやポットを片付け、つけっぱなしにしていたテレビを切ろうとリモコンを持ち上げる。流れ出した華やかな音楽はエンタメ情報の始まる合図で、ポップアップの目次にレジャースポットがあったから、リモコンを手にしたまましばらく眺めることにした。

 人気のコツメカワウソ。どこで会えるのか気になるではないか。

 ピックアップされるのを待ちながら、有村はようやく着替えに取り掛かろうとネクタイを緩め、椅子に掛けていたコートへ手を伸ばした。

『年末年始へ向けて、新作映画が続々公開! 今日は大人のあなたにオススメの二作品をご紹介します!』

 視線を移した画面の中、薄暗いベッドで乱れる息遣いが聞こえる。

 乱れる髪。白い肌。食い込む長い爪。

 うっとりと細める目元。裂けるように笑う、赤い口。

 ――カチッ。聴覚が捉えない音を鳴らして、有村の時間が止まった。



 自宅のと借りている鍵のふたつ、そして預かったキャンバスを持ち、藤堂は十時過ぎに家を出た。

 みさきにも母親にもまた行くのかと言われたが、居心地が良いと答えると、仕方がないという風な顔をされた。無地でも本物のキャンバスを初めて見たみさきは、有村に描いた絵を見せてもらえるよう頼んでくれと強請り、藤堂はわかったと答えて玄関扉を閉める。

 短い距離を歩きながら思うのは、これでみさきまで油絵を描き始めたら、家でもあの臭いを嗅ぐことになるのだろうかという憂鬱。慣れはしたが鼻に残る臭いだ。到底、好きにはなれない。

 夕方より風が止んでいたのは有難かった。抱えるのに苦心する大きさのキャンバスは、風を受けるとどうしようもない。せめてエレベーターに乗らない大きさでないのを良かったと思いながら、藤堂は珍しく、乗らなければ階段で上がる羽目になった七階を見上げた。

「……え」

 エントランスの外から見上げた七階の角部屋に、目にした途端、一瞬で血の気が引く。

 藤堂は駆け出した。エレベーターを待つのはもどかしく、キャンバスの不自由さも忘れて階段を駆け上がった。

 見間違いではない。七階の角部屋、そのベランダの手摺りで、長い足が揺れていた。

「……有村!」

 使った鍵はポケットへ、キャンバスは玄関脇の廊下へ放り出し、藤堂はリビングまでの廊下を走る。

 部屋に電気は点いていた。珍しくテレビもついたままだった。ベランダのガラス戸は開いていて、レースのカーテンが大きくそよぎ、揺れていた。

「有村!」

 ガラス戸を越えてベランダへ出た藤堂を、手摺りに腰かけた有村がゆっくりと見遣る。

「ああ、藤堂、いらっしゃい」

「……お前、そんなトコでなにしてる」

「星を見てた。あんまりないけど」

「…………」

 騒ぎ、焦る鼓動で肩が揺れる。すぐに下りろと言いたい藤堂の口が、その言葉を迷っていた。

 こちらを向く有村の様子は普段通り、特におかしいこともない。けれど、いくら時に奇行に走る有村でも、ベランダの手摺りに腰かけていたのは初めてだ。

 下りろと言って、有村はどちらへ下りる。手前のベランダ、奥に広がる地上七階の空。藤堂の本能が言っている。いま、コイツに『おりろ』と言ってはいけない。

「君もおいでよ。気持ちがいいよ」

「寒いだろ。また風邪ひくぞ?」

「おいでよ、藤堂」

「中に入ろう、有村。そうだ。珈琲を淹れてくれよ、なぁ――」

「――来いよ。圭一郎」

 楽し気に微笑んでいた顔から一切の表情が消え、ただ、やけに大きな有村の目が藤堂を見ていた。

 緑と黄色が混じる虹彩が、すっかりと露わになっている。それを正面から見てしまった藤堂の耳に、放たれる有村の声がやけに深く入り込んで来る。

「来い、圭一郎。隣りに座れ」

「…………」

 耳から入り、届いた鼓膜を越えて、頭の中まで入って来る。

 閉じた奥歯が開けなくなり、小さな音を立てている。瞬きをしない有村の瞳から逸らせない藤堂の眼球は乾き、表面には痛みがあった。前へ出る足は強張り、進むほど鉛のようだ。

「…………」

 行ってはいけない。従ってはいけない。そう訴える心に身体が、脳が、本能が逆らっている。

 従わなくてはいけない。従いたくない。葛藤が宿る拳の中で、短い爪が食い込む。

「…………」

 潤み出す視界の中心で、有村の口が横へ裂けた。笑っている。暗く沈んだ目で、悪魔のように笑っている。冷たい風が吹いていた。地上七階を吹き抜ける、冬の夜風だ。

 持ち上がっていく手が、手摺りを掴もうとしている。それを越え、招かれる場所へ進みたがっている。

 従いたくない。従ってはいけない――誰が、負けてやるものか。

「…………っ!」

 噛みしめた口内に痛みと、血の味が広がる。藤堂は両腕を有村へと伸ばし、腹を抱えて、ベランダの内側へと引き摺り下ろした。

 ただそれだけの動作で狂ったように、脈拍と呼吸が乱れていた。痛む眼球は数回の瞬きでも潤みたがり、藤堂は全てを振り払い、抱えた有村を部屋の中まで引き摺り込む。

「……ふざけるな。そんな目をするんじゃねぇ! そんな顔で笑うんじゃねぇ! 俺の前で、てめぇの好きにさせてたまるか!」

「…………」

 床を後ろへ這う藤堂の背中が、ソファにぶつかって止まる。抱えられるまま二つ折りになっている有村の手が、巻き付けた藤堂の腕へ触れた。

 指が食い込むほどに握られれば、服の、上着の上からでも伝わって来る。氷のような冷たさ。見下ろした丸い背中から、クツクツと笑う声がする。

「……いいな、おまえ……それでいい。その牙で、きちんと噛み殺せよ、圭一郎」

「……下の名前は好きじゃねぇと言っただろうが」

 クツクツ。不気味な笑い声は不意に止み、握られる腕の痛みが引いた。

 手を離した有村が唐突に顔を上げ、不思議そうに周囲を見渡したあとで、背後にいる藤堂を振り返る。

「……うん? どうしたの、藤堂。これ、どういう状況?」

「……は?」

 困り眉の有村が落とす瞬きは忙しく、口はへの字で、その表情に『不思議』以外は何もない。

 腕を解いてやると有村は小さく震えて「寒いね」と床を這い、ベランダへ続くガラス戸を閉めた。

「寒い。ダメだ、凍えそう。珈琲、淹れるよ。君も飲むでしょ?」

「……有村」

「うん? あーもー寒い。指が悴んじゃってるよー」

「有村!」

「はぁい。なに、藤堂。何回も呼ばなくても聞こえてるって」

 何度も両手の十本の指を閉じたり開いたりしながらキッチンカウンターの奥へ移動する有村を目で追い、藤堂はまた、そこから目を逸らせなくなる。

 どっちだ。たまに出る黒い有村がまた、俺を試しただけか。あの目に飲まれないのを、逆らうのを試しただけか。そう考える頭で否定が浮かぶ。ふたつ持ち上げたコーヒーキャニスターを見比べ、どちらを淹れようか悩んでいる有村は、これまでのそれらと違う。

 健やかで、あまりにも淀みなくて――まるで、何も覚えていないみたいだ。

「……お前、どうしてベランダにいた」

「んー? ああ、雲が厚いなと思ってさ。明日は雨かもね。キャンバス、今日運んで正解だったかも」

 まだ藤堂の心が否定している。有村はあったことを忘れる。それは脳が心を守る手段で、消しても辻褄が合うように、眠っている内に書き換えるもの。

 有村は今、一瞬たりとも眠っていない。

 藤堂の胸が大きく上下していた。荒くなる呼吸を抑え、藤堂は口を開いた。

「……なんで、手摺りに座ってた」

「手摺り?」

 尋ねた藤堂の目が、みるみる大きく見開いていく。

 復唱した有村の右目が引き攣るように数回震え、数秒間、顔の右側全体が歪んだ。

「……明日、雨が降るかも。よかったね。運ぶの、今日にして」

「……そうだな」

 そうと答える以外、何が言えただろう。

 記憶の辻褄を合わせる時、瞳孔が左右に揺れる。あれが上書きの合図なら、藤堂は今、記憶が巻き戻される瞬間を見たのだ。

 たったの数秒間、有村の美しい顔の半分が醜く歪んだ。

 今はもうすっかりと元通りで、左右正対称の整った顔立ちが、お気に入りの豆を慣れた手つきで挽いている。

「……ん? 藤堂。なんで床に座ってるの。冷えるよ。下がいいならラグにしなよ」

「……そうする」

 いつからだ。どこからだ。

 ソファに腰かけ、藤堂は湯が沸いたガスを止める、湯気の奥の有村を見る。

 いつから、起きたまま頭の中を弄るようになった。

 当然、問い質せるはずもない。

「珍しいな。お前がひとりでテレビ見るなんて」

「んー? ああ、消さなかっただけだよ。今日は草間さん、いつもより話すのつらいみたいで、静かなよりはいいでしょ」

「だな」

 どうせついているならと、藤堂はリモコンを手にチャンネルを弄る。

 草間は有村の弱点だ。それは草間が特別だからで、特別な草間に有村は時折、深く同調する。完治しそうにない友達の話にリリーでも重ねたか。寂しくなって、星を見ていた。今は、そう思うことにした。

 まだリリーに囚われていることを、有村自身が否定したいのかもしれない。リリーを想い、寂しくなっての奇行だから、忘れてしまいたいのかも。

 運が悪かった。組み合わせが最悪だった。今回だけ。たまたま。

 なので、何かあったら連絡をと言われている和斗にも佐和にも、電話もメールもしなかった。

 何をどう言ったとて、あのふたりも、有村を連れ戻したい家と、医者と、繋がっているのだから。

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