彼女が決めたことだから
下塗りがようやく乾いたキャンバスではなく、机に広げたスケッチブックへ向かう有村へ、窓際から缶コーヒー片手の藤堂が話しかける。
「草間は今日も、例の友達の所か」
奥の部屋には安田がいるが、美術室には藤堂と有村のふたりきり。
特にこれといって集中して描こうとしない有村は、手にする鉛筆を指先で遊ばせた。
「うん。会いに行ってる」
描いたものは消さない主義だ。目付きが気に入らなかった黒猫は八割ほどの完成度でページを捲られ、放り出された。
前のページにも、その前のページにも、完成しなかった猫がいる。今日は猫を描きたい気分だった。ひとつ前の黒猫は、眉間の毛並みが気に入らなかった。
「止めないのか」
「止めないよ。止めたって、草間さんは行くもの。だったら、気持ち良く送り出したい」
「良くなるといいな」
「そうだね。見込みは薄そうだけど」
年上の友達と会った日の夜は、電話越しに聞く草間の声が暗い。
病状は芳しくなく、友達は疲れやすくなったという。草間は今頃、学校でのこと、アルバイト先でのこと、楽しい話を搔き集めて、話して聞かせているはずだ。
いずれ別れがやって来る。草間はそうと知っていて、関わり続けることを選んだ。その選択に異議を唱える権利は、有村が思うに草間以外、誰にもない。
「いいのか。それで」
「いいもなにも、草間さんが決めたことだ。それを貫く彼女が好き。精々見守るさ。胸を貸すくらいなら何度でも、喜んで」
次の黒猫は初っ端から、目の形が気に入らなかった。こういう日は稀だが、描けない日には慣れている。有村は鉛筆を置き、スケッチブックを閉じた。
「泣かせないんじゃないのか」
「どの口が言うのさ。まぁ、回避出来るものはしたいけど、僕は魔法使いじゃないからね」
窓の外は明るいが、「今日はもう帰ろうかな」と藤堂を振り向いた。ここで来るかもしれない草間を待ちたい気もするが、次に駆け込んで来る草間はきっと、ドアを開ける前から泣いている。
泣き顔を見たくない藤堂を巻き込んでしまうなら、帰宅を知らせるメールを一通、草間へ送る。今日描きたかった猫は、草間が二番目に好きな動物だ。
「出したのに描かないのか? まぁ、着替えてもねぇけど」
実を言えば、今日は着替えすら持って来ていない。挨拶をしに奥の部屋へ入ったついでにキャンバスを持ち出したのは、塗りつけた白が乾き切っているのを確かめたかったからだ。
しっかりと乾いていたから、有村はしばらく美術室へは来ない。
「それは、持って帰ろうと思って」
「あ?」
「ひとりで描きたいんだ。ただ描くんじゃなくて、僕の絵を。向き合いたい。きちんと。だから、自分の部屋で描こうかと」
「お前」
「ごめん。チャンスって思った。君が泊まるから、夜に描いても、朝が来たら教えてくれるだろ?」
「臭くなんぞ、部屋」
「悪いんだけど、ソファで寝て?」
「まったく、仕方ねぇなぁ」
なんたる茶番。心苦しそうな有村と呆れた風の藤堂は顔を見合わせ、同時に吹き出す。昨日も泊まった藤堂は壁に立てかけられた真新しいイーゼルを見たし、小夜啼で買った時にも一緒にいた。
何を描くのか訊いた時、有村は、僕の綺麗を全部、と答えた。対象物が何であれ、傑作を生み出そうとしているのだ。極上の楽しみを前にして、藤堂に止める気はない。
「俺の予想じゃ景色だ。そうだろ?」
「内緒」
「お前が描く空が好きだ。昼でも夜でもキレイでよ」
「てれるー」
「絵は見ないから、描いてるお前は見ていいか」
「楽しいかい、それ」
「ああ。つまんねぇテレビよりいい」
「テレビよりかぁ。まぁ、ありがとう。でも却下」
「勘弁しろよ。ただ臭ぇだけじゃねぇか」
「あははっ!」
散らかす前だった机の片付けはすぐに済み、ペンケースとスケッチブックを通学鞄へ詰め込んだ有村はふと、藤堂が背にする窓から空を見上げた。
冬晴れの空だ。肌に触れる空気が温かければ夏と変わりないようで、そこまでの光量を持たない空。切れ切れの雲は静止画のように動かずにいて、目を遣る藤堂も同じように見上げていたから、空へ向き直りながら有村は小さく唇を噛んだ。
「ねぇ、藤堂。空を褒めてくれて、嬉しい」
「おう」
仰ぐ視界の中央へ来るように、有村は翳した両手で四角を作る。立てた親指と人差し指が作る四角から見る空は、当たり障りのない、記憶にも残らない、有り触れたポストカードのよう。
「この四角から見る空がね、十四歳までの僕の空。カーテンを開けてもらえる季節が来ると、窓に貼り付いて覗いてた」
漂う雲を、通り過ぎる鳥を、気が付くといつも見ていた十四歳までの自分が、今はだいぶ遠くに思える。まるで伸びた身長の分だけ、本当に空が近くなったみたいだ。
「お祖母様が連れ出してくれて何が嬉しかったって、勿論、お祖母様や志津さんたち、瓏さんたちに会えるのも、リリーがめいっぱい走れるのも嬉しかったけど、僕は四角に邪魔されない空を見上げるのが格別、好きだった。幾ら見ていても飽きなかった。ずっとあるのに、全く同じ形になんて一度もならない。朝も昼も夜も、目に焼き付くくらいに見たんだ。帰っても描けるように。空は、僕の自由の象徴だった」
特にダメだと言われるものが魅力的に見えるのは幼い頃の有村も同じで、楽園で真夏の空を初めて見た時は、あまりの明るさに驚愕した。あんなにも空が白むのを知らなかったのだ。帰宅したあとはリリーと並び、何度も描いた。照らされた草花も動物たちも全部、キラキラと輝いて美しかった。
両手で作る四角を解き、有村は耽ってしまった感傷に照れて、また唇を噛む。定まらない視線は窓の手前を何ヵ所も移動した。
「ごめん。楽しくないね、こんな話。やめよ」
居心地悪い有村の隣りで、藤堂の口角が僅かに上がる。
「憧れか。悪くねぇな。ソイツのおかげでお前が描く空がキレイだってんなら、不自由もたまには役に立つじゃねぇか」
「藤堂」
先程までの有村を真似て、藤堂も翳す両手の四角から空を見上げる。
なんとも味気ないものだ。藤堂には見る価値もないように思えるが、それは当たり前に広い空を知っていたから。親指と人差し指の四角を解いても、藤堂は空の青を眺め続ける。
「お前は無駄にしなかった。そっから得るモンを、ちゃんと身に付けたんだ。お前のそういう、ただで起きねぇトコ、気に入ってる」
椅子へ掛けたまま視線を移す藤堂とその一連を見下ろしていた有村は、視線を重ねるとまた一拍置き、らしくない互いを、同時に吹き出す短い声で笑った。
ニヤニヤと歪ませた口元のまま安田へ帰りの声をかけ、用意して来たシーツで包み、紐掛けしたキャンバスを抱えて美術室を出る。大物がしっくり来る抱え方が見つからない有村の通学鞄は、藤堂が自分のと併せて肩に掛けていた。
徐々に薄くなっていった有村の鞄はもはや、藤堂のと厚みをそう大きく変えない。教科書の類はロッカーに入れていて、有村が持ち歩いているのは絵を描く道具と、糖分補給の飴玉くらいなものだ。
「すっごい持ちづらい」
「背負うか。残ってる紐、バツにして」
「やめて。きつい向かい風、想像しちゃった」
「……ダセェ」
「自分で言って笑うなよなー」
口調は軽く、足音も軽快に旧校舎の階段を下るものの、如何せん持ち難い荷物だ。様々試すも一階へ辿り着いても手が定まらず、有村は少々の後悔をした。
そう何度も使わないと踏んで断ってしまったが、小夜啼の店主の助言通り、専用のバッグを用意すべきだったかもしれない。その話を藤堂にすると、安田が持っているのでは、という返答。昇降口で靴を履き替えたあとに気付いたふたりは数秒悩み、苦行を選択した。
「なんか、アイツに借りを作るのは癪だ」
「裏がなさそうで、安田先生はどうにも、おなかの中がねぇ」
信用していないでも、信頼出来ないでもないのだが、安田はどこか魂胆の二文字が過る。
意見の一致したふたりは交代で持ち帰ることにし、校門を出たところで一回目のバトンタッチをする。力自慢の藤堂でも、枝葉の桜並木を抜ける向かい風には苦労した。
駅へ着いてからも改札機にぶつけそうになり、電車内でも邪魔で目立って仕方ない。苦心の果てに、藤堂は持ち帰るつもりだったのなら先に教えろと文句を垂らす。小夜啼で購入したあとは、藤堂が自転車で運んだのだ。ひと言あれば自転車で登校したのに。もうひとつかふたつは言ってやりたいところだったが、電車内の青白い有村は責められない。改札を出るまでは藤堂が持ち、駅の外で飴玉を口内へ放り込んでから、有村が代わった。
一応は悪いと思っているらしいから渡したけれど、まだフラつくのですぐに藤堂が手を出す。弱々しい声で詫びる有村の顔はまだ異様に白く、次の飴玉を出そうとして、携帯電話の点滅に気付いた。
「メールだ。草間さん」
「なんだ」
「これから行ってもいいかって、二十分前。ダメだ。まだ時間の計算が出来ない」
いずれにせよ、既に帰路には就いている。エントランスの中なら寒いこともないし、草間の名前を見て有村の歩く速度が回復したので、藤堂とふたり、帰宅を急いだ。
空いた手が怠い藤堂が横から飴玉を口の中へ入れてやると、有村はそれをすぐさま噛み砕く。
「それ、一旦預かる。草間が帰ったら連絡しろ。持ってく」
「いいよ。持ち難いし」
「いいから。話があって来るんだろ。手は空けとけ。草間の為に」
「ありがとう。じゃぁ、お願い」
「おう」
八時の門限に間に合うように送って帰って、遅くても九時半には部屋にいるだろうか。伝えると、藤堂は十時に行くから連絡はいいと言って寄越した。メール無精はお互い様。しなくていいなら、互いに面倒が減っていい。
キャンバスを預けた藤堂を自宅前で見送り、そこからはマンションまで走る。とはいえ、本気を出そうにも助走程度しかない距離だ。
急ぎたかった自分への気休めはエントランスの手前でやめ、ガラスの自動ドアを覗く時には笑顔。到着していた草間は中で本を読んでおり、気付いて小さく手を振る。
「ごめんね、待たせて」
「ううん。急に来て、大丈夫だった?」
「もちろん。どれ」
先程まで苦労していた手で、草間の頬に触れた。赤みが差していたからもしやと思ったが、やはり、随分と冷えている。
「早く部屋で温まろう。手を貸して?」
「うん」
「ほら、こんなに冷たい。僕より冷たいなんてよっぽどだよ。行こう?」
「うん」
年上の友達に会った日、草間は出だしが無口になる。有村は気にしていないフリで話しかけ、すぐに来たエレベーターへ乗り込むと、向かい合う草間の冷えた手を自分のコートのポケットへ差し込んだ。
ポケットの中で両方の手を握ろうと、草間は握り返してこない。ただ、視線を下げたままで小さく微笑む。
「有村くんのコート、あったかいね」
「でしょ。ポケットが一番、温かいんだよ」
「嘘ばっかり」
少し、寂しくなってしまうのだ。会う度に弱っていく友達と過ごした日の草間はたぶん人恋しくなって、有村に会いに来る。電話なら、いつもより早い十時頃にかけて来る。会えば触れ合い、電話が来たら草間の口が軽くなるまで何十分でもひとりで喋る。それくらいしか出来ないのは歯痒い。
七階の角部屋へ辿り着き、開けたドアから「お邪魔します」を言って玄関を上がり、定位置になりつつあるリビングのソファ脇に通学鞄を下ろしても、草間の視線は下がり気味。
もっと甘えてくれればとも思うが、こうして元気が出ない時に相手として選んでもらえるのは嬉しいものだ。今日の紅茶は何にしよう。考えながら有村はコートを脱ぎ、草間が脱いだコートを受け取る。
自分のコートは椅子の背にかけ、草間のコートはハンガーにかけて、佐和の部屋のドア枠へ吊るした。草間定番のダージリンか、あまり飲んだことがないと話していたフレーバーティー、どちらにしよう。悩みつつ向けた背中に、草間がコツンと額をつけた。
「美味しい紅茶と、僕。どっちがいい?」
「……有村くん」
「あら、嬉しい」
向かい合う小柄な身体を抱きしめ、髪に、頬に、降らせるようにキスをする。
つけたばかりの空調で部屋が温まるにはまだ時間がかかるから、分け合うように寄り添った。
「僕ね、この身長差、気に入ってる」
「なんで?」
「草間さんがしていいよって上を向いてくれた時に、口にキス出来るから」
「良さが、わからない」
「したいのが僕だけじゃなくて、よかったって思うんだよ」
「……そう」
草間は少しだけ顔を上げた。まだ唇を重ねるには遠いから、有村は額にキスして、目尻の近くにもキスをする。
「……もっと、上向かないとダメ?」
「君が向きたくなったらね。可愛い耳。あ、冷たい」
小さな耳の縁へ触れるだけのキスを落とすと、草間の肩が微かに跳ねる。耳はくすぐったいのだそうだ。今ではなく、前に言われた。
制服の背中を掴む力が強くなり、草間がコテリと胸へ寄りかかって来る。
そろそろかな。そんな気がしたから、有村は好きだと言ってもらった右手で可愛い頭を撫でた。
「今日はあんまり話せなかった?」
「会ってないの。病院の前までは行くんだけど、入るの、こわくて」
「うん」
「もう……一緒にお茶、出来ないのかな……」
聞いた話で、草間は祖母の入院中、毎日のように見舞っていたという。
元気の良い日、良くない日。徐々に後者が増えて行き、幼くても理解出来るほどに病魔が蝕んでも、草間は祖母が好きな花を届け続けた。
病室へ入る前、彼女はどんな想いで顔を上げたのだろうと想像する。どんな想いで、大好きだった、弱っていく祖母に話しかけ続けたのかを想う。
同じことをいま繰り返そうとしている草間に、会わなければいいと言うのが優しさか、否か。有村には判断がつかない。
会い続ければ悲しみが待つが、会うのをやめれば、彼女はきっと後悔する。
どちらがいいか。それを、他人が決めるのは傲慢だ。
「お友達は、珈琲党と言ったっけね。なら、美味しい珈琲と君が好きな紅茶を淹れて、持って行ってあげるのはどう? ほら、運動会のお昼みたいに、水筒に淹れてさ。ピクニックみたいに」
「そんなの、嬉しくないよ」
「そうかな。入院したから出来る楽しみが、ひとつくらいあってもいいと思ったんだけど」
花壇を愛でられない祖母に花を。カフェで寛げない友達に珈琲を。
窺う有村を、草間は胸の中からゆっくり見上げた。
「持ってくって言ったら、美味しい珈琲の淹れ方、教えてくれる?」
「もちろん。豆の挽き方から、厳しくレクチャーしてあげる」
「厳しく?」
「目指せバリスタ」
「無理だよ。そこまでは」
返す草間の眉と口はまだ元気がないが、食べ物を差し入れていいか訊いてみると続いた声は、少し明るい。
これは久々の大役だ。草間の友達の為に、とびきり美味しい珈琲を淹れなくては。教える準備万端の有村を草間はまだ見上げていたので、やっと、その唇にキスをした。
「……あのね、有村くん」
「うん」
ブレザーの背中を強く掴み、付いて来てほしいと草間が言う。
断る理由などなくて、有村は、内緒の友達に会わせてくれる日を待ち遠しく想うと、心からの笑顔で答えた。




