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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第八章 暴走少年
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きれいなだけ

 夢は常にリリーが独占していたので余計に記憶に残ったのかもしれないし、草間に強請られるまま話して聞かせたのが地盤になっていたのかもしれない。

 無事に帰宅した草間からのメールに安堵するまま眠って見た夢に、懐かしい人が出て来た。初めて肌を合わせた女性。男の身体の使い方を、女性の悦ばせ方を教えてくれた人。過ごした期間のダイジェストのような、とても短い夢だった。

 彼女が教えてくれた知識や技術は、眠れずに徘徊する夜に役立つことばかりだった。選ぶ会話も口調も声色も、表情や振る舞いの全てを習った。教えられた通りに行動し、あとはこの忌々しい媚びる目があれば寝床に困らなかったほどだ。彼女は優れた先生だった。本当の職業は結局、訊けず終い。海外旅行とカメラが趣味の人で、質問嫌いの秘密主義。何かとミステリアスな人だったのだ。

 共に過ごした時間は少なく、期間も短い。ベッドを共にするまでは色々な話を聞かせてくれたが、彼女について知っているのは背中の小さなホクロと、いつも飲んでいたバイオレットフィズ。年齢も、フルネームも知らない。呼んでいた名前すら本名だったのか定かでない。行けば会えたので、当然、連絡先も知らない。そういう間柄だった。

 それなりに良好な関係を築けたと思っていたのは有村だけで、ある日突然、彼女は消えた。有村に残されたのは、ホテルのフロントに預けられていた一通の手紙。

 子供の遊び相手に飽きた。そう書き残した彼女は今、どこにいるのだろう。

 会えたら伝えたいことはある。けれど、彼女はこの顔を二度と見たくないから消えたのだ。

 そんなことを不意に考えるほど見た夢を思い出してしまうのは、彼女の教えが近頃益々、身に染みているから。

 心が気持ち良くなるキスの前では、技術なんてただの飾り。

 どんなキスを交わして行為に及ぼうと性的な興奮を覚えなかった有村には、まるでピンと来なかった話だ。

 しかし、それも今や過去の話。されるがままの拙いキスに溺れているのは有村の方で、草間と唇を合わせる度に心臓が熱い鼓動を打ち、細胞のひとつひとつまでが歓喜しているよう。

 際限なく込み上げる愛しさ。許されている喜びで、爪の先でまでぬくもりに包まれる。そんなキスがあることを、誰も教えてはくれなかった。

 彼女が、いま目の前で額に入った絵画に瞳をキラキラと輝かせている愛しい人が教えてくれた。満たされる幸福と、それを感じる心が確かに、この胸にもあったことを。

 熱がようやく平熱を下回り、迎えることが出来た休日のデート。日曜日の昼下がり、安田の薦めで訪れた美術館には客がいない。

「……やっぱり多いよね、植物とキリスト。そういうイメージ、あった」

「並べちゃうの?」

「あと、女の人が多いね。痩せてる人が少なくて、そこは、ちょっと嬉しい」

「ふふっ。だから言ったでしょ? 美しい女性には肉付きがないと」

「じゃぁ、この人キレイ?」

「裕福な感じがする」

「それはお肉。ただの」

 閑散としているのに加え、ただでさえ良く音の響きそうな床と壁で作られた広いフロアだ。草間の話し声は一層に小さく、足音も気になるのかやけに静かに歩いている。

 ゆっくり、ゆっくり、そろり、そろり、と。今日も今日とて、やることなすこと全てが可愛い。

 隣りで普段通りに歩く有村は可愛い草間を見つめるついでのように、展示された彫刻や絵画を見て過ごす。

 今のところ芸術に明るくない有村でも聞き覚えがある、名前を聞いてすぐに作品のひとつやふたつは思い浮かぶ作者の絵はあるようだが、彼らを巨匠たらしめる有名な絵は見当たらない。そのおかげかキャンバスには絵具が乗っていて、それを生業としていた人たちの筆遣いなどは、思いのほか勉強になった。

 色鉛筆と絵具の違いは、有村が思うにやはり厚みだ。重ねることで勝手に出てしまう色の主張を、どう使いこなすか。目下の課題はその辺り。

 現在の自分の絵と比べると、画家はより多くの色を重ねている。下の色は消えてしまうのに、何故。そう思うくらいに厚みがあったりもする。無駄な筆はないはずだ。頭の中のイメージをキャンバスに落とし込むのに有村は一切迷わないし、不必要な色は乗せない。

 数を眺めて思うのは、自分はまだ色鉛筆の感覚で絵具を使っているということ。比較するまでもなく平面的だ。せっかくの道具を使いこなせていない、その特徴を生かしきれていないというのは、中々悔しい。

 それ以外にも何かが違う。何が違う。探りながら先人たちの筆遣いを見る有村の横では草間がニコニコと絵を眺め、時折、壁にかかる読み物を興味深く読んでいる。有村が次へ行くと、合わせて進む。たまに目が合うと、草間は楽しそうに位置を上げる頬を染めた。

「こういうのって、描いた人がそうだって言ったのかな」

 殺伐とした絵の隣りに掲げられた文章を読み、草間はそっと指をさす。

「インスピレーションなんだろうとは思うから、世界情勢とか宗教観とか、そういうものが影響するのはあるだろうけど、だからこういうメッセージを込めたんだっていうのは、画家の人は言ったりするのかな」

「画家の人? どうだろう」

「私が好きな小説家でね、作品の解説は嫌っていう人がいるの。勿論、込めた想いはあるけど、それはそれで、読んだ人が感じたのが正解っていう。前にあとがきで読んでね、本の虫としては有難いなぁと思って覚えてるの。合っててもそうじゃなくても、これはこういうものを受け取るべき本だ、みたいに書かれたりすると、ちょっと嫌なんだって。気楽に楽しめなくなっちゃうし。ちゃんと受け取らなきゃって、身構えちゃって」

「……そう」

「実は、思ってたりするのかなぁって。いやいやそんな難しい話じゃなくて、こういう絵が描きたかっただけなんだって、有村くんみたいに」

「…………」

「もし、そうだったとして、それでも見た人にこんなに色んな、深いこと? そういうのを考えさせるっていうのは、なんかすごいね。芸術? 廃れないはずだよね、って思った」

 解説では、永らくの争いが終息の兆しを見せ、平和への祈りとして描かれたという目の前の絵を観た瞬間の草間の感想は、「長閑だね」と簡潔だった。戦争や渇望する自由を脇へ置いて、まず長閑な原風景と捉えた草間は素直な目を持っており、背景を知って作者の心情に想いを馳せる。

 一枚の絵で二度楽しめる草間を連れて行くよう安田が言った理由が、わかるような気がした。

 次に待つ絵を横目に見て、有村は草間の肩をつつく。

「ねぇ。次の絵を観て、直感でひと言」

「えぇ……そんな無茶振り……出来るかなぁ」

 脇の解説は見えないように身体を壁にして遮り、ひと言を待つ有村の隣りで、困った形の口が開く。

「すみませーん。お医者さんはいませんかー?」

 そういうネタ的な要求ではなかったので思わず吹き出す有村を睨み、草間は二の腕に弱い一撃を食らわす。言わずもがな、首から上が真っ赤だ。

「言えって言うから」

「ごめん。ちょっと、思ったのと違くて。でも、さすが草間さんだよ? この絵は、亡くなった恋人を抱き、悲しみに暮れる男、だそうで」

「そうなの? もう亡くなってるんだ……血色が良いから、具合が悪いだけかと思った」

「君の方が希望がある。医者がいれば助かるかも」

「バカにして」

「してないよ。君の答えはいつも明るい方を向いてる。素晴らしい」

 他意はない有村を、草間はまたキリリと睨んだ。

 それからじっくりと観賞を始め、ほんの僅かに首を傾げる。

「でも、やっぱりこの人、悲しそうではないよ。慌ててるみたいに見える」

「叫んでそうだし?」

「悲しみに暮れるのは、このあとじゃない? 大変だ、息をしていない、誰か、って感じがする」

「君がタイトルをつけるなら?」

「助けてください」

「やっぱりアテレコ風」

「わからないよ、タイトルなんて。小説だってそうでしょ? 読んだあとでも、なにが? みたいの、いっぱいある」

「ふふっ」

 笑い声を押し殺す有村にも、医者のおかげで一命を取り留める、この絵の続きが見えるような気がした。

 その作品がどういうものであるにしろ、見た人がどう感じるかに不正解はない。十人がまるで同じ感想を持つことなど、絵に限らず滅多にないもの。

 考えたところで、有村は自分に、受け取る豊かさが欠乏しているのを思い知らされてしまった。だもの、同じ本を読んで草間の半分も感想がないわけだ。

 絵のタッチから、荒々しい、繊細というイメージは受けるが、隣りで草間はそれを感情に変換する。

 嬉しそう。楽しそう。悲しそう。寂しそう。

 配色に多少引き摺られている感はあるが、陽気そうな絵を見て首を傾げたり、逆に物悲しそうな絵を見て、頬を膨らませたりする。そういう時に尋ねると、草間は大体、与えたいのであろう感情とは真逆の物を感じ取っていた。

 楽しそうだけど、つまらなそうだね。暗い絵だけど、悲しくはないね。

 時折そう話す草間は自分も明るい気持ちになる明るい絵が好みで、泣きそうな顔になる暗い絵の前では、深呼吸にはならない程度の息を吐く。

 単に、対象物や色の濃淡という視覚情報だけで感情を左右されているようでもないので、有村にはやはり、動かない絵から物語を読み取るように心が揺れる草間が感受性の塊に見えた。見えるものだけ。そこあるものだけしか受け取れない自分とは、雲泥の差。

 ひとつのフロアを抜けた所にベンチがあり、休憩を取る時間で、有村は草間に尋ねた。

「僕の絵って、見るとどんな感じ?」

 静かに歩くのに疲れた足を伸ばしつつ、草間はそう悩まない。

「キレイ。あと、すごい、かな。おー、って思う」

「おー?」

「圧倒されるのかな。上手いなぁ、キレイだなぁって。藤堂くんもね、そんなこと言ってたよ。有村くんの絵は、本当にキレイ」

「キレイ……そっか」

 美しいものを描いているのだから、それを見てふたりもそう受け取ってくれたのを喜ぶべき、なのだろうか。悩んでから、有村はなぜ悩むのかを迷う。

 美しいものを描いて、キレイと言われる。矛盾がないのに何故か、何かが引っかかる。

「ちがった?」

「うん?」

「難しい顔してるから」

「そんなことないよ。どういう風に見てほしいとかないし、僕は描きたくて描いてるだけだから」

「そうだったね」

 描きたくて描いているだけ。他人に見せることを前提としていないからの違和感、なのだろうか。釈然としない。

 無論、草間と藤堂が持ってくれた感想に異議を唱えたいとか、そういうものでもないのだ。そこには一切の矛盾を感じていない。なのに、釈然としない。この感覚は一体、なんだろう。

「……なんで描くんだろう」

「え?」

「最初って覚えてないんだ。気が付いたら毎日描いてて、ずっと描いてて。昔は他にやることもなかったし、だからかなって気がしてたんだけど、描かないでいた間に色んなことをやってみて、楽しいことも好きなことも出来たのに、結局また絵を描いてて。一番楽しいってわけじゃないのに、僕はどうして、絵ばっかり描いてるんだろう」

 時間が許す限り、時には許されないはずの授業中にも絵を描いて、描きたいから描くのだけれど、今も描いて楽しいという感覚はない。

 楽しくはない。なのに、自分はどうしてこうも、絵を描きたがるのだろう。

 ただの手癖。そんな気もする。ずっと描いてきたから、着古した部屋着のような馴染みがあるのかも。描くこと自体が落ち着くというか。思い至りはするけれど、それもまたカチッと嵌る正解ではない気がする。

 出口の遠そうな迷宮へと迷い込んだ有村を見つめ、草間は不思議そうに小さな口をキュッと結んだ。

「好きだからじゃないの? 描くのが好きだから、描いてる」

「うん……」

「私、有村くんはすごく絵が好きなんだと思うよ? 幾ら描いても飽きないわけでしょ? 飽き性なのに。それに、描き上げた時は嬉しそうに見える。描いてる時は集中してる所為か、わぁ楽しいって風ではないけど。でも、たまにちょっと笑う時ある」

「そうなの? え。知らない。なにそれ」

「ニヤ、って笑う。見ると、私と藤堂くんは、思ったように描けたんだな、よかったなって思って、見てる」

「やだぁ。恥ずかし過ぎるんだけど」

「たまにだよ? キャンバスに向かってだし……うふふ」

 草間がして見せるモノマネが似ているのなら、あまり気持ちの良い笑顔ではないらしい。

 企み笑いのような、悪そうなイメージだ。無意識のそんなものを見られていたと思うと、有村だって居た堪れない。

「私は好きだよ? 有村くんの、キレイな絵」

「キレイなだけの絵?」

「うん?」

「うん? なんだ、今の。ごめん。勝手に出た」

「……うん。そっか」

 踵を軸に浮かせた爪先をクルクルと回す草間は然して気にしなかったようで、気持ちはもう次のコーナーへと向かっている。

 ウキウキ。ワクワク。そんな草間を見つめ、有村は胸の内で勝手に出て来た言葉を復唱した。

 綺麗なだけの絵――それが良いとも悪いとも思わないのに、繰り返す胸が妙に重たい。

 美術館での残りの時間は、主に草間の率直な感想を聞いて過ごした。

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